みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

しんちゃん

金沢城 おまけ② 五十間長屋・菱櫓 色紙短冊積石垣 (2021/11/20 訪問)

金沢城の新たなシンボル・五十間長屋は平成13年に菱櫓・橋爪門・橋爪門続櫓とともに
再建され、金沢城址公園から金沢城公園に改称されました。内部は来訪者が訪問しやすいよう
配慮がなされており、バリアフリー化も完備しております。それゆえに、完全な木造復元
とはいえず、若干の違和感も伴うものではありますが、城郭建造物の復元の一つのかたちであり
自治体の判断を尊重したいと思います。再建建築物以外にも重要文化財に指定されている数多くの
建築物が残っており、三十間長屋には再建された建物にはない重厚な存在感があります。
玉泉院丸庭園は明治には廃されていましたが、平成20年から5年をかけて調査がなされ、
平成27年3月に復元が完了しました。色紙短冊積石垣はTVでも紹介され、金沢城の新しい
名所として注目が集まっています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

高石垣は復旧作業中。 (2023/09/09 訪問)

前の会社でお世話になった香川と岡山在住飲み方と丸亀で飲み会。
早めにでかけて丸亀城をリアしました。
やはり市のシンボル、高石垣の上の小ぶりな天守を市内から望むことができます。
丸亀駅からは徒歩で10分くらい。
まずは大手一の門、二の門から見返り坂へ。
これが結構な急勾配。
車社会でヘタれた体に堪えます。
しかし三の丸北側の高石垣、扇の勾配で力ヲもらい、さらに登ります。
二の丸を経ず腰曲輪へ。
天守を見上げながらもやっぱり石垣に圧倒されます。
現存天守は小ぶりですが遠くに瀬戸大橋も望め、眺望は抜群でした。
100名城スタンプは天守内に設置、入城料は200円でした。
一旦降りて堀に沿って歩き、南側の修復中の石垣を見上げます。
まだ時間はかかりそうですね。
石垣復旧PR館にも立ち寄り今度は搦手から登ってみました。
こちらの石垣も素敵!、芸術的な感じでした。
搦手の下には野面積みの石垣もあります。これも見どころ。
そうこうしている間に飲み会の時間が近づいたので退却。
次回はじっくり見学してレポートしますね。
飲み会では骨付き鶏もオーダー、やっぱり美味しかったです!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

神社 (2023/09/08 訪問)

神社になっています。裏の公園に城址碑があります。曳山が有名なのでしょうか。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

秋田城 (2023/09/08 訪問)

古代水洗トイレありました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

市役所 (2023/09/08 訪問)

公園になっており堀土塁が残っていました。三の丸には秋田犬博物館がありました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

国道で分断 (2023/09/08 訪問)

駐車場完備。石谷戸家住宅も移築されており中にお城の説明ががります。堀土塁も復元されておりよきお城でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

POYO58

二の丸

二の丸も遺構はたくさんありました。障子堀はどうやら二の丸にもあり、小規模ではありましたが結構いい状態で残ってました。すごかったのは物見台の存在ですね。ちょうど西の丸へ向かう兵を見ることができ、本丸ねの連絡がとても早いです。また物見台の土塁が虎口を形作っているので堅固です。世界最強の城13位の山中城の存在を深く理解できました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

現存12天守&三重櫓達成 (2023/09/08 訪問)

やっと現存12天守めぐりを達成できました。ついでに三重櫓も達成です。
天守に三重櫓3基、櫓門5基現存とはかなり豪華です。見ごたえたっぷりでなお城です。
途中で一眼レフが壊れました・・・

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

太閤秀吉の湯 (2023/08/12 訪問)

【湯山館】
<駐車場他>専用駐車場はなし。池之坊有料駐車場に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>石垣・岩風呂跡
<感想>太閤秀吉の湯として知られた湯殿館は阪神・淡路大震災の際に、極楽寺の庫裏が損壊してしまった時に発見されました。現在は入館料200円の資料館になっていて、関西のTVの旅番組では有馬温泉の旅を紹介するときにはよく太閤の湯殿館の資料館は結構一緒に紹介されていますよ。外湯の金の湯または銀の湯に入館すると湯殿館は無料で入館できるので、朝9時前に行って先に太閤橋・秀吉やおねの銅像⇒銀の湯に行きました。関西在住なので勿論有馬温泉には行ったことがありましたが、金の湯の泉質があまり好きではないので有馬には25年以上ぶりの来訪です。銀の湯の方は無臭無色透明なので好み。
 資料館は館前に庭園跡、館内に岩風呂跡とその向い側に蒸し風呂の建屋跡、発掘品等が展示されています。資料館の山側の法面に現存石垣が残っています。資料館には誰もいませんでしたが、温泉街の方は混雑を避けるために真夏に行ったにもかかわらず外国人観光客もいて結構な人出でした。

<満足度>◆◆◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

chiroru

緑のなかで (2023/09/15 訪問)

山の豆腐さんで100名城のスタンプ押印→金剛山登山→裏参道石段→四の丸址→三の丸址→二の丸址(千早神社)。

急激に登りがきつく感じだいぶ足にくるな(´;ω;`)ウッ…と思いながら、看板の先の石段もかなりしんどい。日ごろの運動不足の痛感。

とても簡素な城址なのですが、物理的にも心理的にもやっとという嬉しさ、

緑のなかでいろいろ思いを馳せる。これがいいなあと自己満足。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

金沢城おまけ1 石川門・鶴丸倉庫 (2021/11/20 訪問)

金沢城はみだしの1です。この日は石川門と鶴丸倉庫が公開されていました。
共に重要文化財で、石川門は宝暦9年の大火で焼失しましたが、11代治脩の時代に
再建され、その後も修理を重ねて今の形になったそうです。
鶴丸倉庫は東の丸付段に建てられていて、城郭内に存在する土蔵としては国内でも
最大級のものだそうです。天守や櫓にはよく入りますが、こういった大きな
土蔵に入る機会はあまりないので貴重な経験です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

天守は無いが見所は非常に多い。 (2021/11/20 訪問)

金沢城は加賀一向一揆のこの地方の拠点「尾山御坊」の上に築かれています。織田方にとって
最も厄介な相手であった寺院の上に築かれている点では大阪城と同じです。
私は大阪城の石垣の規模と迫力は日本一だと考えていますが、この金沢城と熊本城も石垣の
技巧的な意味合いでは日本有数だと思います。熊本城は無骨さ、金沢城は優美さが特徴でしょう。
石垣の優美さを物語る点では玉泉院丸庭園の色紙短冊積石垣は、その最たるものではないでしょうか。
天守はなくとも十分に見ごたえがあるのですが、御三階櫓は見てみたいですね。予算以外にも
いろいろと問題があり難しいところですが、いずれ見てみたいものです。
兼六園と合わせて、ひとしきり見てまわると半日以上かかります。じっくり見て回ると一日近く
かかるのではないでしょうか。いろいろ城を見て回りたいところですが、一度入ってしまったら
あきらめて心ゆくまで堪能するしか無いですね。加賀百万石の名に恥じぬ日本でも有数の
名城だと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

想像以上に広く、手が込んでいる。 (2021/11/20 訪問)

舟岡山城は丘陵地一帯に築かれた平山城(山城)で主要部は南側から南東側にまとまり
北側一帯には広大な外郭が広がり、折れ曲がった進入路がついています。
南東側に続いている道が大手のようで、なかなか立派な石垣が出迎えてくれます。
東側の郭は南北二郭に分かれ、土塁を設け、その間を石垣で補強された立派な土橋で
渡ります。その先に白山比咩神社創祀の地の石碑があります。向かってその西側の郭が
主郭のようで、周囲を石垣で補強された土塁で囲みます。主郭の北側にも折れ曲がった虎口を
持つ郭(四郭)があるようで、主郭の西側にもいくつか郭が続きます。(二~三郭らしい)
入って見ると想像以上に手の込んだ造りになっていて(しかも広い)驚かされます。
舟岡山城は源平の争乱の時代には林六郎光明の居城であったとされ、戦国期には一向一揆の
城として機能していたようです。天正8年(1580)佐久間盛政が謀って守将の若林長門を殺し
城を奪ったとされています。別の資料では柴田勝家が長門と、その子二人を謀殺したと
あるそうなので、信憑性には乏しいのですが、一向一揆の城が織田方に奪われ、改修されたと
解釈してよいのだと思います。この時期には織田方の山城の築城技術(現地改修)もかなり
向上して来ているようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

刑部

本日は花火大会 (2023/08/11 訪問)

1月前から鵜飼の予約が取れないと思ったら
今日は長良川花火大会でした、ここに来て初めてわかった〔怖〕まぁこれは置いときまして岐阜城は久々で発掘調査後は初めてだったので興味深々。
天守からの眺望は言うことなし!
ここから鷺山城跡と遠望。凄い山城ですね!麓からもずっと観てました気温37度の中。城の後は城下町散策食べ歩き川原町で昼食、やはり鮎料理・・・美味かったです! 日本酒も最高!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

北国街道 柳町 (2023/06/28 訪問)

松本から篠ノ井線としなの鉄道を使い、1時間半ほどで到着しました。

いつもどおり上田高校(上田藩主屋敷門跡)→二の丸堀跡→二の丸橋→本丸と進んだあとは深入り (?) せずに観光会館 2 階でマンホールカードをいただき、城下町「北国街道 柳町」へ行ってみました。

天正11年の上田城築城とともに形成されたと考えられる城下町の面影を今に伝える小路で、大きな柳の木がシンボルのこじんまりとした、のんびり過ごしたくなる通りでした。

最後に上田駅前で真田幸村公像の写真を撮って新幹線で帰路につきました。上田では信繁ではなくて一貫して幸村なんですね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

西総堀土塁公園に初めて行きました。 (2023/06/28 訪問)

4度目の松本城は犬甘城から徒歩で向かいました。
これまでは松本駅から高層建物群を縫いながら歩いていたので到着するまで天守は見えなかったと記憶しているのですが、低層の住宅地を歩きながらだと家と家の間や小さな路地から顔を出す天守に何度も遭遇し、そのたびに感動を味わえました。

今回の目的は①西総堀土塁公園②金蔵③城カードです。

【西総堀土塁公園】
町なかに僅かに残された土塁の保存と活用方法は自治体の腕の見せ所でもあるかと思いますが、充分なゆとりを持たせて保存されており、説明図もとても分かりやすかったです。意外と高さがありました。
【金蔵】
二の丸の西北隅に残る金蔵。お色直し直後でしょうか、漆喰が真っ白で美しいです。
御殿跡の奥まったところ、水堀の際に建っているので無防備な印象も持ちましたが、そのおかげで二の丸の火災の際にも延焼を免れたのかもしれません。
【城カード】
現存天守シリーズの城カードのリニューアル版です。金文字で写真もいい感じに変わっていました。旧ver.は12種揃っているので、新しいのも揃えたい(´艸`*)


このあと上田城に向かいました。
これまでは、
・松本城=新宿から中央本線特急あずさ
・上田城=東京(東京駅の混雑を避けたいときは大宮)から北陸新幹線
でしか行ったことがなく、それゆえ松本城と上田城を同日に訪れることもなかったのですが、今回は篠ノ井線としなの鉄道を使って上田へ行ってみました。
篠ノ井線は車窓からの風景がとても素晴らしいところ。あいにくのお天気でしたが雰囲気を感じられただけでも良き時間でした。(特急しなの9号利用)
篠ノ井駅で地元の高校生に混ざっておろおろしながらの乗り換えも旅の醍醐味のひとつ。新しい経験ができるのは楽しいです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

外堀めぐり (2023/07/22 訪問)

(続き)

埋門で中堀は船場川を離れて東に折れ、船場川に沿って南に続く堀は外堀となります。外堀沿いに設けられていた5箇所の門は全て現存せず、外堀も東部に外堀川として痕跡を感じられる程度で土塁や石垣は遺っていませんが、午前中に訪れた外堀跡の発掘調査現地説明会では、地中には石垣がしっかりと存在することを確認できました。

埋門から発掘調査地を横目に船場川を南下すると、船場川西岸から備前門へと架けられていた備前門橋跡に説明板と発掘された橋の礎石や延石のレプリカが展示されていました。また、備前門跡の南側、大蔵前公園の西側には外堀が水をたたえています。発掘調査地の様子と照らし合わせて考えても、往時の様子とそう違わないんじゃないでしょうか。

外堀は大蔵前公園から何度か折れながら南東に続きますが、埋め立てられて市街地になっていて痕跡もわかりません。山陽姫路駅北側のボンマルシェ姫路店の南西隅に飾磨津門跡の説明板があったり、山陽百貨店の東側歩道に姫路城の外濠跡の説明板があることから、この辺なんだろうな、と推測できるくらいです。

JR姫路駅の東側から外堀川がアクリエひめじの前をよぎって北に続いています。外堀はもう少し北側だったようで、兵庫信用金庫本店前の交差点が北条門跡とされますが、説明板も痕跡も何も見当たりません。外堀川はこのあたりでは外堀跡と一致しないものの、おおむね外堀跡を流れているようで、外堀川沿いにある外濠公園での発掘調査では、外堀の遺構が確認されています。

外濠公園から外堀川沿いに北に進んだ先には外京口門があり、川から少し西に入った中学校前に外京口門跡の説明板が2種類立てられています。さらに北に進むと国道372号を過ぎたところで外堀川は西に折れ、このあたりが竹門跡で、説明板などはありませんが、交差点名はそのまんま「竹之門」です。外堀川はしばらく西に続き、姫路城外濠跡の石碑があるあたりでまた北に折れて、野里堀留町の姫路城外濠跡の石碑と説明板から先は暗渠になって続いていますが、外堀としてはここまでです。「堀留」ですもんね。

…ということで、八頭門から野里堀留町まで姫路城の周りをぐるぐると約3周、4時間弱をかけて堀めぐりしましたが、外堀は外堀川を除きほぼ痕跡すら見られないものの、内堀はほとんどが現存し、中堀も南辺の国道2号線部分以外は遺っていて、その国道沿いも中堀の土塁や門はしっかり遺されているなど、見どころ盛りだくさんでした。内曲輪に足を踏み入れなくてもこれほど楽しめるんですから、やっぱり姫路城はすごいなぁ…と改めて。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

69【関ケ原の26人】(23)石田三成 (京都六条河原と大徳寺三玄院) (2023/07/01 訪問)

(23人目)「石田三成」の続きです。
最後に、京都六条河原と大徳寺三玄院を訪れてきました。

1600年11月6日、六条河原の正面橋の下、このあたりで石田三成は、小西行長・安国寺恵瓊とともに斬首の刑に処せられました(写真⑤⑦)。橋のたもとには南無阿弥陀仏と彫られた供養の釣鐘がありました(写真⑥)。また処刑された河原に下りると、鶴や鴨がいました(写真⑧⑨)。鶴は三成の生まれ変わりでしょうか?

刑の直前に警護の兵とこんな会話があったそうです。
(三成)喉が渇いた、水をくれないか
(警護)あいにく水はないが干し柿ならある
(三成)干し柿は痰の毒になるからいらぬ
(警護)もうすぐ死ぬ者が何を言うか、ハハハ(笑)
(三成)そなたには分らぬかも知れぬが、大志を抱く者は最後まで命は粗末にはしないものだ・・・

そして三成の遺体は、大徳寺の三玄院に葬られました。今でも三成はここに眠っています。そして当時から現在までも、この三玄院の中へ立ち入る事はできません(写真①②③④)。

私は六条河原から大徳寺を訪れ、そして三玄院の門の前に立ち考えてみました。三成は、吉継などが止めたにもかかわらず、なぜ兵を上げたのでしょうか? 本当に勝ち目はあると信じていたのでしょうか? 太閤の遺言に従い豊臣秀頼を徳川家康から守るため、理由は本当にそれだけだったのでしょうか? 三成が最後まで抱いていた大志とは一体何だったのでしょうか?・・・

 筑摩江や
 芦間に灯す かがり火と
 ともに消えゆく
 我が身なりけり

石田三成(享年41才)
惜しい男だったと思います・・・


【余談】辞世の句
筑摩江とは琵琶湖の入り江の一つで、ちょうど長浜城や佐和山城からも見える所です。私が長浜城の天守から撮った写真です(写真⑩)。米原の湖岸付近が筑摩江だと思われます。芦の草が生える湖でかがり火をたいて漁ををしている人々の様子をここから見た事をふと思い出したのでしょうか? 夜が明ければこれらのかがり火は消えてしまいます。自分の命も夜明けとともに刑が執行され、はかなく消えてしまうのであろう・・・という気持ちを最後にこの景色を思い出し詠んだのではないかと思われます。

私は、最後まで大志を貫いたこの石田三成に「敢闘賞」をあげたいと思います。

残るはあと3人です。
次は(24人目)に続きます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

鬼玄蕃・佐久間盛政と二曲姫の伝説 (2021/11/20 訪問)

二曲城は白山麓一向一揆の山内衆のリーダー、鈴木氏の居城で国の史跡に指定されています。
麓から尾根沿いに登城道が続いていて、三の郭、二の郭を経て本丸にたどり着きます。各郭に
土塁が残り、本丸と二の郭には掘立柱建物跡の標示があり、本丸には井戸跡や炉の跡が残っています。
南の山頂にも五の郭が残りますが、道が整備されていないので、そこには至らず谷間の四の郭を
経て下山しました。四の郭には石垣が残っています。
二曲城には佐久間盛政と二曲姫の伝説があり、諸説あるようですが、父の死後盛政の求婚を
断り出家していた二曲城はこの城に住んでいたのですが、再び一揆勢の拠点となり、盛政の
攻撃を受け姫は自ら命を絶ったとのことです。城は落ち、残った一揆勢は全員磔になるのですが
かつて想いを寄せた姫の命を奪ったことだけは盛政の悔やむこととなったでしょう。
あくまで伝説ですので本当の所はわかりませんが、こういった話は、城めぐりをする際に
趣を深くします。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

富樫氏、最期の城。 (2021/11/20 訪問)

高尾城跡の本丸は当時は立ち入り禁止で訪問できるのは見晴らし台までになります。
見晴らし台から近場のいしかわ師範塾を見下ろすと、いかにも居館の雰囲気が漂っています。
せっかくなので訪れてみたのですが誰もいないようです。案の定、土塁があるのでここが
富樫氏の居館跡の可能性は有りそうです。人がいないので断りの入れようがなく、
写真だけ取ってそそくさ退散しました。
長享2年、加賀国守護富樫政親と一揆方の緊張は最高に達し、一揆勢が高尾城を取り囲みます。
6月8日、一揆方の了承のもと婦女子を逃がし、9日には総出で打って出て奮闘しますが、
敵わぬと見て城内に引き返し、自刃したとのことです。
このあと加賀国の支配は三山の大坊主・本泉寺蓮悟、松岡寺蓮綱、光教寺蓮誓と一揆勢力によって
行われ、百年にわたる「百姓の持たる国」となり全国でも類を見ない体制となったとのことです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ419