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にのまる

犬甘城(城びと未登録)より。 (2023/06/28 訪問)

いつどこでだったかは覚えていないのですが、松本城を見渡せる展望台のある「城山(じょうやま)公園」のあることを知り、いつかきっと……とチャンスをうかがっていました。

当日は梅雨真っ只中で微妙なお天気でしたが、新宿駅7:00発のあずさ1号で松本へ向かいました。
松本駅から城山公園までは路線バスも出ています。また、ちょっとだけ近くなるお隣のJR北松本駅にも興味をそそられましたが、松本駅から2km強ということなので歩くことにしました。

城山公園の所在地は松本市蟻ケ崎。「蟻」の字の印象が強めですが、途中にあった町名由来碑を読むと「盆地を見渡す突端の村」という意味があったそうで、期待が高まります。

小笠原長時公菩提寺、正麟寺に寄って城山公園入口へ。ここまでは緩い上り坂でしたがここから少し急坂になります。
やがて見えてきた「城山公園案内図」。
そこに描かれていたのは6つの曲輪。
……ちょっと待った!!ここは城なのか!?
“松本城を見下ろしたい”という一途な思いだけでやってきて、「城山公園」という名称に何も思わなかったという愚かさよ……。

ということで、意図せずながら城山公園=犬甘城(いぬかいじょう)に到着しました。
そうとわかれば松本城のことはちょっと置いておいて、犬甘城散策スタートです。
中央広場を横切ると「標高665.7m」の碑。長野県に来たんだなぁという感じがします。スタート地点の松本駅が標高約590mだそうなので自力で登った感はありませんが、スカイツリー・岩殿山・千早城の『武蔵(634m)三兄弟』(たった今命名)より高いところにいます。

三の郭に犬甘城山の説明板がありました。
北側には大きな空堀が下っているのが見えます。
句碑や文学碑、城山公園開放の碑などを読みながら一郭→二郭→四郭と進みます。整備された空堀や起伏が在りし日の城の姿を映し出してくれています。木の葉陰から松本城天守がちらちら見えますが展望台はまだこの先です。

五郭の城山稲荷神社まできました。
松本藩四代藩主の松平直政公が松江に移封になったときに分祀、守護神となったとあります。現在の松江神社と繋がることからこの城山稲荷神社は出世稲荷と言われているとのこと。
4月に行ったばかりの松江城。三の丸跡ににあった松平直政公像や御書院跡の松江神社が思い出されます。遡ればここに行き着くのかと感慨深いものがありました。

六郭の展望台に到着です。
もちろん上ります。
見えました、松本城!
そこそこ距離があるので丸見えということはありませんが、先の、“盆地を見渡す突端の村,蟻ケ崎”を実感します。松本盆地を囲む山々には松本城天守が建築される以前に多くの山城が築かれていたそうで犬甘城もそのひとつ。いつまでも眺めていられる、何度でも来たくなる景観でした。
また、松本城と反対側、奈良井川方面もゆったりとした風の流れを感じるすてきな眺めでした。
夏の照りつける日差しのあとにドバーッと雨が降ったりと晴雨兼用傘が大活躍の中でしたが、一つ願いが叶い、また、サプライズ訪城もありで、とても楽しい時間が過ごせました。

では、松本城へ向かいます!

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能登守利信

呟き (2023/07/16 訪問)

二戸駅下車、二戸市観光協会より自転車をレンタル、約35分。国道4号を南下し、コスモ石油一戸インターssの向かい一戸公園に到着。公園が北館で、公園横坂道を左に分岐すれば八幡館堀底道、館自体は私有地なので、立ち入りませんでした。

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しんちゃん

那谷寺 石川県小松市 (2021/11/21 訪問)

那谷寺は本堂や書院・庫裏・三重塔・護摩堂・鐘楼など多くの建造物が重要文化財に指定され、
奇岩を含む境内や琉美園が国の名勝に指定されていて、紅葉の名所でもあります。
養老元年(717)泰澄法師による創建と伝わり、寛和2年(986)花山法皇が行幸の際に
自主山厳屋寺から那谷寺へと改名されたと有ります。後に荒廃した本寺を再建したのが
加賀藩2代(利家から3代)前田利常で、この周辺を自身の隠居領としています。
元禄2年には松尾芭蕉が訪れ句を詠んでいます。
様々な種類の人々の心を虜にするだけの迫力ある自然の造形美です。

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能登守利信

呟き (2023/09/10 訪問)

静岡駅からバスで大沢公園バス停にて下車、MilkyWay Squareにて自転車をレンタル、約80分。海岸沿い国道150号から県道233号沿いに城址駐車場を目指します。出曲輪から虎口、三郭、二郭から北曲輪、南曲輪を散策して主郭に至りました。東曲輪から先の堀切は草生い茂り、時期をみた方がよかったでした。

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しんちゃん

那谷寺・琉美園   石川県小松市 (2021/11/21 訪問)

那谷寺は奈良時代初期に泰澄法師によって創建されたとされる、高野山真言宗の
別格本山です。山門付近には琉美園があり、江戸初期に作庭されますが、その後荒廃し
昭和55年、昭和の小堀遠州と呼ばれる中根金作氏によって、東側に新たな庭園を加え
復元されたと有ります。中根氏は足立美術館を作庭した人物でもあります。
池泉中央の三つに分かれた巨石が目を引きますが、これは阿弥陀三尊になぞらえ三尊石と
呼ばれ、琉美園のシンボル的存在で、かつてはこの石の間を滝が流れていたとのこと。
かつては松尾芭蕉もこの石を見上げたことでしょう。

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シェル

街に埋もれる巨大城郭の痕跡 (2023/08/19 訪問)

下館駅から関東鉄道常総線に乗車し、下妻駅で下車。
下妻駅舎内に線路の東側に出る跨線橋の入口があります。そこから跨線橋を渡り、下妻駅東口から徒歩約10分ほどで、多賀谷城跡公園(本丸)に到着。
多賀谷城跡公園内に駐車場とトイレがあります。
多賀谷城は、多賀谷氏の居城として知られ、城域は現在の下妻市街のほとんどを占める巨大な城郭だったようです。
しかし、残念ながら現在は遺構のほとんどが失われています。
本丸跡は、多賀谷城跡公園になっており、公園内には、多賀谷氏遺跡碑(明治22年建立)と説明板が設置されています。公園は周辺と比べると若干高い地形になっており、公園の西側には城塁の名残りらしきものがあります。
そのほかの遺構は、城跡公園の南にあるファミリーマートの東側の交差点を東に進むと、観音寺の東側に城塁と思われる遺構が残っていました。
そして個人的に最大の見どころは、下妻駅の反対側の西口から北に5分ほど歩いた所にある城山稲荷神社(多賀谷城稲荷曲輪跡)の境内の土塁です!!
遺構が少ないだけに、この土塁にはめちゃくちゃ興奮しました。

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しんちゃん

なかなか巧妙な縄張りを残す城。 (2021/11/21 訪問)

和田山城は史跡・和田山・末寺山古墳群として整備されています。忠魂碑より南が城域と
されますが、仮にこの忠魂碑周辺と東のエリアを三の丸とします、三の丸から南西に二の丸が
配され、二の丸は北端に櫓台を配し、東側を土塁で囲み、その中央に虎口を設け土橋で三の丸に
つながる細い通路に通じています。二の丸から南に土橋が通じていて、その先に主郭があり
中央に櫓台を配し、周囲に土塁が残ります。この本丸からの眺望はなかなかのものです。
本丸の東側には武者走りがあるようで、二の丸・主郭の東から北側にかけて横堀が巡ります。
周囲には帯廓を配し、大軍での侵入を拒む巧妙な造りになっているのですが、何分小規模で
やはり三の郭周辺に兵を駐屯させ人の壁としていたのでは無いでしょうか。
築城は加賀一向一揆勢の和田坊主とされ、現在の縄張りは天正8年、柴田勝家が家臣の安井家清を
配したころに改修されたものだと見られています。かつての一向一揆の城は一揆方の
虚空蔵城や鳥越城を攻撃する重要拠点として使われることになったようです。

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じゅんじん

夜討ち (2023/09/07 訪問)

本丸以外は入れます。次の日の下見を行いました。

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じゅんじん

陣屋跡だけど (2023/09/07 訪問)

御幸公園に城址碑があります。でもここは陣屋跡なのですよね。

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じゅんじん

公園 (2023/09/07 訪問)

建物の柱が復元?されています。主郭の館も広い。
東北のお城は○○館△△館など曲輪ごとに名前がついているのですね。

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じゅんじん

浪岡城前に (2023/09/07 訪問)

インターから浪岡城へ向かう途中に道路沿いにありました。大型駐車場完備です。平安時代後期の環濠集落だそうです。

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じゅんじん

芝生広場 (2023/09/07 訪問)

ガイダンス施設で展示を見てからお城へ向かいました。広い芝生広場ですね。発掘調査もしておりまだ発見がありそうです。

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しんちゃん

天守台への昇降は鉄の階段で可能になった。 (2021/11/21 訪問)

小松城址は小松市の中枢に所在し、天守台と三の丸跡の芦城公園が残ります。
芦城公園はちょうど紅葉の盛りで、それだけでも楽しめます。天守台のほうは崩落の
危険があるとのことで、以前は立ち入り禁止になっていたようですが、今では鉄の階段で
ガッチリと補強されていつでも登れるようになっています。子供が登っても大丈夫なようにか
天守台の上には手すりが配されていますが、下側から見ても隠れて目立たないように
なっています。石垣の積み方も見事な切り込み接で加賀藩の技術の高さを感じます。
小松城の初見は永禄7年(1564)で永禄9年には朝倉義景が一向一揆の籠ったこの城を攻めた
と「宗滴雑談」に出ているそうです。天正7年、一向一揆の籠った小松城を柴田勝家が落とし
村上次郎右衛門頼勝が入ったとされます。後に、羽柴秀吉の命で丹羽五郎左衛門長重(長秀の長男)
が入ったとあります。もともと若狭国・加賀国123万石から松任4万石にまで減らされていたのですが、
8万石を加増され12万石の領主となります。この際・従三位・参議・加賀守に任官し、小松宰相と
呼ばれるようになります。丹羽長重は関ヶ原の前哨戦で前田利家に敗れ、一度失脚、小松城は
前田家の城として近代化がなされ、寛永16年(1639)加賀藩3代前田利常の隠居城と
なったとのことです。
加賀一国で金沢・小松の二城を保有していたのは異例のことであったとされています。

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シャンシャン

B'z稲葉さんの聖地 (2023/09/09 訪問)

建物は復元された備中櫓しかないけど、石垣が丸亀城に匹敵するくらいよく残っている。
天守台からの眺めもいい。

津山はB'zのボーカル稲葉さんの生まれ故郷。実家の化粧品店をはじめ聖地がたくさん。
ファンは訪問必須!

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ぴーかる

大野城 (2023/07/22 訪問)

【大野城】
<駐車場他>城跡碑横に停車できます。
<交通手段>車

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾16城目。大野城は1584年に織田信雄の家臣佐久間信栄によって蟹江城の支城の1つとして築城されます。同年の小牧長久手の戦いでは佐久間信栄の家臣山口重政が城を守り秀吉軍からの攻撃から城を守り抜きました。城の廃城年は不明ですが1586年の天正大地震で損害を受けてそのまま廃城になったようです。山口重政は主君の佐久間信栄が蟹江城を落城させてしまった為に失脚し織田信雄の直臣になったようで信雄改易後の下野国までつき従います。その後徳川秀忠に仕えて関ヶ原後に牛久1万石⇒嫡男の無届婚姻で改易⇒大坂の陣で15000石復領します。
 現在は遺構は残されておらず田んぼの真ん中にぽつんとある城跡碑、その背後に堀池があります。

<満足度>◆◇◇

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tp.etsu

ナイト登山 (2023/09/10 訪問)

駅に着いたのがすでに日が暮れかけていたので、ほぼナイト登山でした。
次は明るい時に行きたい!

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トク

68【関ケ原の26人】(23)石田三成 (関ケ原 石田三成 陣跡) (2022/11/01 訪問)

(23人目)「石田三成」の続きです。
関ケ原の(石田三成陣跡)を訪れてきました。

いや~😯すごい馬防柵です!(写真③④⑤⑥)。二重三重四重に立てられていて迫力を感じます。この笹尾山の下には島左近の陣があり、山の上に石田三成の陣がありました(写真①②)。

最初は島左近を先頭に互角に渡り合います。この状況を打開すべく、三成は再三に渡り松尾山の小早川秀秋に出陣するよう使者を出します。しかし秀秋は動きません。私はこの三成陣から松尾山を眺めて見ました。三成はどんな思いで、ここから動かぬ松尾山の秀秋の陣を見ていたのでしょうか?(写真⑧)

この膠着状態を破ろうと、黒田長政の鉄砲隊が左側の山を迂回して密かに近づき、左近を狙撃します。それを機に石田軍は劣勢となり、左近が討ち取られると黒田・細川軍が怒涛のように攻め寄せ、ついに石田軍は壊滅しました。

私は石田三成の陣から、今度は決戦地(最大激戦地)を眺めてみました(写真②)。そしてこのすぐ目の前に、黒田長政と細川忠興の軍勢1万2千がこちらに向かって迫ってくる様子を想像してみました。この地に隙間もないくらいの大軍勢が、じわりじわりと迫ってきたと思います。この時三成は、どんな思いでここに立ちこの光景を見ていたのでしょうか? 私は想像しただけでぞっとし、足が震えてしまいました(写真②😱)。

最後にその下の決戦地にも立ってみました。多くの血がここで流され、ここは死体の山になっていたと思います。咲いていたコスモスの花が何かを語りかけているようで、とても物悲しく感じました(写真⑨⑩)。

敗れた三成は、この後ここから背後の伊吹山へと敗走します。いったいどんな思いで敗走して行ったのでしょうか?・・・(大原観音寺や長浜城にその時の思いを想像し投稿しています)。

最後に(京都六条河原と大徳寺)を訪れます。
 

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イオ

外堀跡発掘調査現地説明会 (2023/07/22 訪問)

姫路城の外堀跡発掘調査現地説明会に行ってきました。城びとのツイッターで現地説明会のことを知ったのが開催2日前。急ぎ下調べをして、当日は朝一番で姫路に向かいました。

調査地は外曲輪西部の外堀跡で、備前門跡の北側にあたります。姫路駅から歩いて15分程度なので城下町の説明板をたどりながらぶらぶら歩いて行き、説明会開始の20分ほど前に着きましたが、すでに多くの人が集まっていました。現地説明会資料を受け取り、調査地を覗いてみてびっくり! 現地を見るまでは石垣が発掘されたといっても外堀だからなぁ…とどこか舐めた気持ちもありましたが、まさかこれほど大規模かつ明瞭に遺っていようとは!

調査地のあたりでは外堀は西側を南流する船場川に平行して設けられており、堀幅約10m、深さ約1.7~2.6m、東面石垣は7段、西面石垣は9段の石積みが確認され、石垣上部では積み方に乱れが見られることから、洪水からの復旧で急ぎ積み直されたものと考えられるようです。外堀と船場川の間には堤が築かれ、増水時には船場川と外堀で水位を調整して氾濫を防ぐ治水機能も有していたんだとか。

調査地は埋め戻されてビルが建てられるとのことで、この見事な石垣をもう目にすることができなくなるのは大変残念ですが、ビルの下にこの石垣が眠っていると考えると、そして調査地周辺の外堀跡沿いではどこを掘っても同じような石垣が見つかるんだろうな、と考えると、何ともロマンのある話ですよね。改めて姫路城は素晴らしいなぁ…と実感させられました。

現地説明会資料のPDFデータは奈良文化財研究所からダウンロードできますので、興味のある方はぜひ。
姫路城城下町跡(480次)現地説明会資料( https://sitereports.nabunken.go.jp/131947 )
また、発掘調査の成果は「特別版 お城EXPO in 姫路」の「姫路城世界遺産登録30周年記念展示」でも紹介されるそうなので、お城EXPOに行かれる方は、そちらでもどうぞ。

さて、現地説明会の後は えきそば大手前店で早めの昼食を摂り、この日のもうひとつのお目当て、姫路城の堀めぐりに向かいます(続く)。

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todo94

【城びと未登録】但馬井上城(兵庫県美方郡香美町) (2023/08/19 訪問)

青春18きっぷ3日分での行き先を決めかねていたのですが、「兵庫テロワール旅」というパンフレットを手に入れその中の大乗寺をターゲットに定めました。朝一番の列車で出発しても香住駅への到着は午後6時を回っていました。大乗寺は応挙寺とも呼ばれており見事な襖絵を拝むことができます。NHKのドラマ「ライジング若冲」では2022年の大河ドラマで畠山重忠を演じた中川大志さんが、ちょっぴり情けなく丸山応挙を演じていて今でも記憶に残っています。孔雀の襖絵など、伊藤若冲に通じる精密さで見事でした。その大乗寺の裏手に井上(いがみ)城という山城があったので、山城オフシーズンと定めているにもかかわらず登城してきてしまいました。吉野神社の石段脇に土塁と竪堀らしきものがありましたが、これも城の遺構なのでしょうか。蔵王大権現が鎮座する山頂からの香住港の眺望は素晴らしいものがありました。このあと、小学4年の時、学研の図鑑「地球」に載っていた写真を見ていつか行きたいと思い続けていた玄武洞にも脚を伸ばすことができました。初めて写真を見てから50年もかかってしまいましたが。

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しんちゃん

兼六園 (2021/11/20 訪問)

特別名勝 兼六園です。
日本三名園の一つに数えられています。個人的には栗林公園と兼六園がツートップですね。
始まりは延宝4年(1676)加賀藩5代前田綱紀が御作事務所を城内に移し、跡地に
自らの別荘の蓮池御殿を建て庭園化したことによります。その後歴代の藩主が
改築や移築を繰り返したとのことで、この庭園が特別なものであったことを
うかがわせます。12代前田斉広の時代に霞ケ池を広げたり、栄螺山を築くなどし
今の形に近づいたとのことです。噴水も斉広公によるもので、日本で最も古い
噴水だとされています。
徽軫灯籠「ことじとうろう」は兼六園のシンボル的存在ですが今の燈籠は2代目で、
よく池の中に倒され破損したため、初代の燈籠は公園事務所の中に保管されて
いるとのことです。

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