みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

天守無しがアツい

あの頃は激戦地 現在は公園 (2021/06/25 訪問)

茨城県結城市に結城城という城跡があります。鎌倉時代あたりから明治維新の頃までここは城としての役割を果たしていたそうなのですが、この城も天守閣の類いは無く、掘と屋敷が存在する程度の機能だったようです

結城城で印象深い歴史的出来事は、室町時代における結城合戦(1441年)。一言で表すならば「室町幕府将軍 vs (もう1人の将軍的存在)鎌倉公方の争い」ですね

鎌倉公方の足利持氏が幕府に反乱を起こし持氏は敗死。しかし結城氏朝が持氏の遺児2人を担ぎ出し幕府に反旗を翻す

幕府軍は結城城を包囲するものの(将軍側と結城側それぞれに全国の諸将が呼応し戦乱が全国に展開。兵力を分散せざるを得なかったので)攻略に1年もかかった。

最終的に結城城は落ち氏朝は戦死。持氏の遺児は殺され、結城側は敗れたものの、(攻略に手こずったことで)幕府の威信は失墜。さらに将軍の足利義教もこの直後に暗殺され、関東は引き続き戦乱の世…となったそう

室町時代は応仁の乱から戦の止まぬ戦国時代になった…という見方があるかと思いますが、実はそれ以前から「プチ応仁の乱」とでも呼ぶべき内乱は起きており、幕府の統治は不安定だった

当時は西が京都、東か鎌倉が日本の中心地(現在は西が大阪、東が東京かとは思いますが)。関東における睨みを効かせるために初代将軍の足利尊氏は二代将軍の義詮の弟(基氏)を鎌倉公方に任命したわけですが、それが幕府の関東支配をよく思わない勢力によって担ぎ上げられ、幕府の支配力を高めるどころか、「将軍家×鎌倉公方」の東西対決を生み、不安定な政情を招く原因に…

歴史の説明はこの辺にしておきましょう。行く前から天守閣はないだろうなと予想はしてましたが、実際に足を踏み入れたら「えっ、これだけ?」とリアルに思いました…🚵

城跡を示す石碑に案内板、トイレに鉄棒·ベンチなどの公園的設備、神社に(何故か)タイムカプセル…思ったより規模の狭い、ただの公園にしか見えなかったから⛲😅😓

「当時の城の規模はもっと大きかったが、宅地開発もあり保存状態はあまり良くない」と説明書きにありました。画像にあるこのあたりが結城城の中心的エリア。本丸に値する館があったものと思われますが、かつてここで将軍家と鎌倉公方の激しい攻防戦が繰り広げられたとは全くイメージできない、今やただの公園…

訪れてガッカリした観光スポット…の1つに入ってしまうかもしれませんね😅

戦国時代は日本人にとって人気のあるテーマのようですが、その一段階前である結城合戦や鎌倉公方(室町前期とでも呼ぶべきか)の知名度はあまり高くないのではないかと思います

結城城跡は史跡としては(期待より)小規模なただの公園ではありましたが、そのマイナーな時代を知ろうとするきっかけにはなったのかな…とも思うことにしておきましょう😏

+ 続きを読む

初芽

全国山城サミットと竹田城ライトアップ (2023/11/18 訪問)

滞在時間:1時間ほど

第30回全国山城サミット朝来大会に初参加しました。
高橋英樹さんと千田先生の時代劇&お城トークが面白く、
竹田城の魅力についてもたくさんお話いただいて楽しかったです。

私も城跡は妄想するのが好きですが、今回のパネルディスカッションのテーマでもあったVRなどの現代の技術を使って築城時のありのままの状態を見る=バーチャル復元もすごく面白いなと思いました。

夜は竹田城跡ライトアップ「天空のあかり」へ。
夜景と竹灯りと石垣が幻想的で、寒かったですが忘れるほど美しかったです。
2年前の夜桜ライトアップの際も感動しましたが、美しい石垣や遺構を拝見できるのも現地の方による定期的な整備のおかげだと感じました。

+ 続きを読む

天守無しがアツい

芝生のある公園 (2022/05/19 訪問)

小山駅から徒歩15分ほどの場所にあるのが小山城山公園。別名祇園城跡

住宅地の中に位置し、短めの坂を上った所が入口。右側が遊具の設置されている公園、画像上の橋(祇園橋)を渡った左側にはトイレや慰霊碑、胸像のある広場となってます

画像1枚目を見てのとおり、橋の下はまるでお堀のような谷となっており、これはここが城としての機能を果たしていたころの(敵軍の侵入を防ぐための)堀だったのではないでしょうか?

右側には遊具や休憩所(屋根と椅子がある)があり、画像2枚目のような広めの芝生もあります。ここは城跡と紹介されてはいますが、今やその面影はなく、ただの公園…と言えばそうだと思います⛲

結城城跡なんかは完全にただの公園と化しており、城跡の名残と言えるものは石碑しか無かったのですが、ここも(深い堀らしきものがあったりと、山城を思わせる箇所がある以外は)少し敷地が広いだけのただの公園…と言えるでしょう

とりあえず画像2枚目の左に先があり、そこを歩くとタイヤが半分埋まってる…おそらく遊び場もあり、そこから短い橋を渡ると駐車場になっており、その周りを歩くことで入口麓に戻ることができました

櫓のような建物は何も残ってない、この小山城跡。けれど橋が2ヶ所あり、その下には堀のような窪地があることから、防衛機能だけは現在までその面影が残っているなとも思えました🏯

+ 続きを読む

天守無しがアツい

国宝 犬山城 (2022/08/28 訪問)

三光稲荷神社という場所を通ると近道になる、と書かれていたので、そこでお参りをして、坂道を登って城に着きました

入口は石垣の中にあり、そこから急な階段を上がって上の階に行きました。エレベーターもない、その階段でしか上がる手段は無く、しかも手すりを掴まないと上りづらい…小さい子供連れには特に大変そう…に見えました

2階に上がって目に映ったのが、小牧長久手の戦いを描いた屏風絵(画像2枚目)…秀吉と家康が戦った唯一の戦ですね。内容は家康優勢…家康の勝ちとも言えたそうですが、家康が味方に付いていた織田信雄(信長の次男)が勝手に秀吉と和睦してしまい、終戦せざるを得なかった

この戦において、当時16歳(数え年だと17)の秀次が秀吉に先陣を任され、家康の陣地に攻め込んだけど、返り討ちに遭い、秀吉の重臣も失いこっぴどく叱られた…というエピソードがあります。その11年後が秀次事件…💀 というわけでもありますが😅

3階には木造の犬山城ミニチュアがありました…よくできている造りに見えましたが、(画像1枚目の)天守閣を既に撮影しており、城の外観を表すものはもう必要ないかな…と思えたので、撮影はせず、見て目に焼き付ける…だけにしました👀

最上階の階段は幅が狭く、上る客と下りる客をスタッフが誘導して交互に行かせるようにしていました。実はこの犬山城…国宝にも指定されるほどの城なのですが、天守閣の規模はあまり大きいとは言えず、エレベーターは無いし、中に売店も記念メダルの自販機もない…(その代わりに麓に売店)

最上階には歴代城主の肖像が並んでいるのみ…江戸時代のは絵で、幕末明治あたりから写真…少し前までこのお城は個人の管理だったそうですが、今は国に委託され、国の管理…税金でメンテナンスされているものと思われます

木曽川とその沿岸に並ぶ建物…街並み…ここから周囲を見下ろすと、木曽川の大きさが一目で伝わります。悪天候により氾濫すると周辺に大損害…けれど車の無かった時代…きっとこの水運が当時はかなり大きな移動手段…だったのではないでしょうか?舟がトラック代わり…舟で荷物を運ぶ🚣‍♂️

城内には敵の侵入に備えた仕掛け…鉄砲や弓矢を放つための隙間…石を落とす隙間も見かけました。ただこういう仕掛けはいざという時のために造られたもの…実際に使われたことは滅多に無かったのではないかと思うんですけどね…特に戦乱の無い江戸時代においては🏯

+ 続きを読む

天守無しがアツい

NAKED FLOWER (2022/11/04 訪問)

二条城は普段は9-17時の営業なのですが、10/28-12/4まで「NAKED FLOWER」というイベント名で18-22時にも開放しており、他の名所を巡った後に訪れるにはちょうどよかったので当日券を購入して中に入りました

普段の施設観光は展示品を見て解説文を読むことが多いですが、建物の中はすでに閉まっており、このイベントでは庭を歩き回って見物するのみ…なので小難しいことは考えずに参加できた気さえします

QRコードをスキャンしてサインインすると、更に限定のイベントに参加できたようですが、何故か私のiPhoneからでは画面が先に進まずできなかったので、見学エリアの向こうに映るデジタルアートを眺め、撮影してこの雰囲気をたのしむことにしました

11月の夜ということもあり、外は少し肌寒く、昼間には羽織るのが暑かったジャンパーが、この時間帯にはちょうどよくなるくらい…

中の展示品は一切見れない代わりに、昼の見学では見れない夜の顔…夜の二条城を味わうことができた気がします

+ 続きを読む

天守無しがアツい

攻める側も守る側もキツい鳥取城 (2023/03/11 訪問)

遠くから見て、山の麓と上の方に石垣が見えたので、登る前はそれが何を表しているのかさっぱり分かりませんでした…まずは麓から歩き回り、石垣こそ残っていても、どの場所も空き地…となってました

自然災害(落雷など)により倒壊してしまい、それ以降再建されなかった箇所もあれば、明治初期の取り壊しにより解体されたものもあるようです。かつては櫓が残っており、それはここの城の象徴となっていたそうで、当時(明治初期)の画像が案内文の中にあったのですが、現存はしてない

奥側は現在、高校の敷地内となっており、校舎が立っていて関係者以外は基本入れないのでしょう…🏫 他には博物館に洋館も入り口付近にありましたが、(時間に余裕が無さそうなので)スルーしました…城跡に来たからには、本丸見物の方をどうしても優先したかったものでね

やがて進むと、山道のようなものが見えて、「この先に本丸があるようだ…せっかくなので行きますか🚶」と思い、進んだ私…でもその時は知らなかった…ここが旅行者泣かせの険しい山城であることを😂

麓にある全体地図を見た時、本丸は道の途中にあるように見えたため、「五合目あたりまで行けば着くのかな?」と勝手に捉えていました。道は初っ端から階段が急で険しく、少し登っただけでも息を切らすくらい…

階段には一応、石の板を敷き詰めてはあるものの、その道幅はかなり狭くてロープによる柵もないため、少し体がよろけたらコケるどころか、数m下に真っ逆さま…という危なっかしい場所もありました

五合目に着いたあたりに社があり、人が座れるくらいの大きさの石もあったので、そこに腰を下ろして小休憩…社の中には小銭が投げられていたので、私も1円入れときました👛

登山道の途中には社や休憩スペースこそあれど、トイレや自販機の類は一切なく、麓で済ませることが前提のコースとなってました…五合目で小休憩した際、「ここで引き返してもいいかも…そうすればその分時間に余裕ができる🕐」という気持ちも生じましたが、「ここまで来たからにはやはり山頂まで行こう…」

「どうせここに来るチャンスはこれ一回切り濃厚…ならば悔いのない選択で🚶⛰」的な考えで、疲労と身体中から出る汗に耐えながら、ひたすら山道を進み…とうとう山頂到達😄

奥の方で年配の登山グループが何やら談合しており、そして私に写真を撮るよう頼んできたので撮影してあげました。話し方からして、どうやら関西の登山グループと思われます。鳥取県は兵庫県の東隣…つまり関西に近いと言えばそうなので、遭遇率も高くなるのでしょう…

画像1枚目を見てのとおり、山頂からは鳥取市街を一望できる素晴らしい絶景がそこにはありました…奥側には黄色く見える砂地…つまり鳥取砂丘が見えるわけです。ここは市内における最高の展望台とも呼べるでしょう

画像2枚目は本丸跡…かつてここに何かがあったことは一目瞭然かと思います。かつてここには天守に値する櫓があったようです…けれど何らかの理由で消失…以降再建されることはなく今日まで至る…

「ここが本丸で、私は頂上まで辿り着いたよ」という証のために、画像3枚目を私は撮影および添付。ちなみにここの標高は263m…こんなに登るのがキツくても、たったそれだけの高さしかないのです😅

「富士登山に次ぐキツさだった⛰」というのが私の感想なので、おそらくあの急な登り坂が標高以上の険しい印象を私に与えたのでしょうね😓

ちなみにこの城もかつて、豊臣秀吉の侵攻を受けており、その際に取られた方法が兵糧攻め…それを受けたこと自体は何となく聞いたことありましたが、今回の登山でその訳を120%知ることができました…

「これだけ登るのが険しく道幅も狭ければ、攻め込む側は苦戦。かと言って守る側が圧倒的有利かと言えばそうとも言えず、食糧や武器などを山頂まで運ぶのも苦しいだろうから、物資の補給もしづらい」

「その両方の理由で秀吉が選んだ攻略法が兵糧攻め…これにより味方の犠牲を最小限に抑え、尚且つ相手の兵糧が尽きるのを待つ…まさにジワジワと攻めるやり方」

その結果…狙いどおりに降伏させ陥落した鳥取城…そして…その時…城内は悲惨だったそう💀

行きは40分くらいかかった気がしますが、帰りは25-30分くらいで降りれました。ただ重力の関係で段差もある分、帰りの方がスピードが出やすく、それをコントロールするのが大変でしたね…一度足を滑らせてコケてしまいましたし…😅

五合目まで戻った際に、これから頂上まで向かう登山客とすれ違い、「十合目までずっとこの険しい道続くの?」と聞かれ、「はい、登る前は五合目あたりに本丸があるのかなと思っていたけど、十合目までこの道が続きます」と答え、それから麓まで降りました

ちなみに何と山麓⇄山頂までのロープウェイがかつて(1969-76年)存在していたそうです🚟けれど現在は廃線となり、駅舎こそ残ってはいるがロープは既に撤去…

「そう言えば、山頂を少しだけ降りた場所に休憩所があったけど、あれが元山頂駅舎だったのか…」「ああ…今でも運行していたらどんなに楽だったことか😭」とリアルに思いましたね

けれど僅か7年で廃線してしまった…ということは、あまり利用客はおらず赤字だったのでしょう、おそらく

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

チェブ

城びと未登録のお城攻め「浄泉寺城」。 (2023/10/21 訪問)

石碑と説明板の位置関係がおかしかった栃木県の「榎本城」を調べてみたら、北条 氏照さんの家臣 近藤 綱秀さんのお名前に出会いました。
綱秀さんは北条討伐時、「八王子城」で討死します。
近藤 綱秀さんの居城が、八王子市内にもあったので早速、お邪魔してきました。

綱秀さんが暮らした「浄泉寺城」。現在は霊園がある『浄泉寺』。こちらがお城跡です。
八王子市 館町 1234
と、所在地も覚えやすいです(^ー^)

湯殿川にかかる赤い橋を渡ると急な登り坂。
高台に「浄泉寺城」がありました。駐車場に説明板があります。
霊園ですので、お墓参りの方々に配慮しつつ歩きました。土塁がありますが、霊園が綺麗に整備されてるので想像力を働かせます。
『浄泉寺』したに『つつみの池公園』があり、こちらも「浄泉寺城」の雰囲気があります。

「榎本城」と「八王子城」の点が、近藤 綱秀さんのおかげで、線が引けた「浄泉寺城」攻めでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

周辺散歩 (2023/11/18 訪問)

 岐阜城周辺を散策しました。
戦国時代、城下町の周りを取り囲んで総構と呼ばれる土塁が築かれていました。土塁の一部が岐阜公園北側の道沿いに残っています。

総構えの土塁から北に少し歩くと川原町に行くことができます。斎藤道三、織田信長の時代から市場があり長良川の川湊も近く流通の拠点となっていたようです。古い街並みが残っていて風情があります。近くには鵜飼観覧船乗り場あります。さらにその近くには斉藤道三公墳がありました。

常在寺は1450年土岐家守護代として事実上美濃国を支配していた斎藤妙椿が建立した寺です。斎藤道三以後3代の菩提寺で、重要文化財の斎藤道三肖像画と斎藤義龍肖像画が所蔵されています。

 斎藤氏とも織田氏とも関係ありませんが、近くの正法寺には日本三大大仏のひとつとされる江戸時代に作られた岐阜大仏があります。仏像の高さは13.63mで奈良の大仏に近い高さがあります。「籠大仏」と呼ばれています。木材で骨格を作り、竹材で形を作っているとのことです。その後、粘土を塗り、その上にお経が書かれた美濃和紙を貼り、漆を塗り、金箔を貼っている乾漆仏だそうです。
ちなみに日本三大大仏は奈良の大仏、鎌倉の大仏は決定していますが、もうひとつはこの岐阜大仏と富山県の高岡大仏が候補になっているということです。

 この日、岐阜公園では「岐阜公園菊人形菊花展」が開催されていました。この時期、各地の城跡ではよく開催されていますね。

 岐阜の銘菓といえば鮎菓子です。カステラ生地で求肥を包み込んだお菓子です。川原町の玉井屋本舗さんで「登り鮎」を土産に買いました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ヒロケン

京極氏遺跡 (2023/11/18 訪問)

京極氏館は東西約170m、南北250mで、この居館を中心に東西に家臣団の屋敷、南に城下町を配し、伊吹山登山道中腹には京極氏館の詰城として、上平寺城・弥高寺などが築かれています。館があった場所には巨石を用いた庭園もあり、当時、京極家の権力の大きさが伝わってきます。
この、京極氏館と周辺の遺構は、1523年に起きた京極氏家臣団のクーデターで落城するまでの約20年間、北近江の政治や文化の中心地でした。京極氏衰退の後、北近江の実権は京極氏の家臣であった、戦国大名で有名な浅井氏が握ることになります。

この日、館跡、上平寺城跡、弥高寺跡を含めた京極氏遺跡群を見学するため、滋賀県米原市を訪れました。駐車場は館跡前に伊吹山登山客用と遺跡群見学者用の駐車スペースがあります。(トイレはありません。)
遺跡群を見学するため、この地を訪れました、伊吹神社(京極氏館跡)境内を通り、伊吹山、上平寺城、弥高寺に行くことが出来ますが、登山道崩落・熊出没・害獣駆除等の理由により、館以降入山禁止となっていました"(-""-)"
京極氏遺跡は、庭園のある館、家臣団の屋敷、詰城がセットで残る遺跡群であるため、是非セットで行きたかったのですが、残念でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴちょまる

前岡山城 (2023/11/16 訪問)

現天守が建っている岡山の西側にある石山が、前岡山城があった場所らしい。
天守や月見櫓に目を奪われていると、背中側にある石垣を見落としてしまう。
実際、夜歩いていた時は、案内板に気が付かず素通りしてしまった…
幅の狭い西側天守を見ることができる貴重な場所でもある。

+ 続きを読む

ぴちょまる

備中高松城 (2023/11/16 訪問)

秀吉による水攻めで有名な城跡。
元は湿地帯だったようで、発掘して整備を進めてできた沼に、蓮が咲いたとのこと。

遺構というより、清水宗治公に関連する首塚、胴塚、自刃の地、家来衆が心中した場所などに碑が建てられている。
続100名城のスタンプは、二の丸にある資料館に設置されているが、秋冬は15:00に閉館してしまうので要注意。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

天守無しがアツい

開発により失われた堀 (2023/01/08 訪問)

神奈川県藤沢市に、大庭城址公園という施設があります。そこにはかつて、「大庭城」という城が存在。室町時代の話です。

正確な築上時期は分かっていませんが、扇谷上杉氏(藤原北家の一人、藤原重房が上杉氏を名乗ったのが始まり。つまり藤原氏の子孫でしょう)により、1467-73年に築城された?という説があります

東と西に川が流れ、台地の上にある天然の要害として数十年間機能していましたが、1512年に北条早雲により攻め落とされ、その後、廃城になったそうです

もっとも当時の城には(大阪城や名古屋城のような)天守閣はなく、土塁に館があるだけの簡素な造り…だったそうです。大きな天守閣を設けるようになったのは江戸時代近くになってから

当時の城(室町中期)は大名の権威を示すためのものではなく、(まだ群雄割拠の戦の絶えない時代ということが背景)、敵の侵入を防ぐという目的のほうが強かったわけ。この大庭城も、小高い丘の上にあり、山城のうちに入るでしょう🏯

現在、ここは「大庭城址公園」として無料公開されていますが、当時の面影を残すものは、掘立柱建物群に堀、土塁…とそれほど多くなく、しかも地味なものだけ

添付画像は掘立柱建物群(跡) ちなみにこの柱の跡ですが、これは後年石材の柱を埋めたもので、しかもこの位置にあったのではなく、本当は別の位置だったそうです

「何故かと尋ねたら、「ただ何となく…」と返答された」と郷土歴史課の講師が語っていました。「それでいいのか?歴史研究家( ̄□ ̄;)!!」と私は思いましたね…‌

私はこの城跡についての講演会を見学したことがあり、その時は郷土歴史課の職員により大庭城の歴史と、三回の発掘調査が解説されていました

一回目の調査は1968-71年におこなわれ、当時この地域(湘南ライフタウン)は開発前。道路も民家もほとんどない状態だったそうです(現在とは街並みがかなり異なる)

その際、土塁などを発掘したのですが、致命的なミスを関係者は犯していた。それは報告書を提出していなかったこと。それを市役所に提出さえしていれば、道路を造る際、その遺跡を外れたルートで開発してくれた

でも提出しなかったから、遺跡の事は配慮されずに開発された。その結果、昔は堀のあった場所は現在は道路の下。しかも建設の際に削られてしまった…と職員は語っていました

それを聞いた瞬間、「あ~あ(報告書出し忘れた発掘担当者、何やってんだよ)😩」と溜め息混じりに、私は呟きました…。大庭城址は同じ神奈川県の城でも小田原城と比較すると知名度は低い

けど、当時の人間のミスにより、貴重な歴史的遺跡が破壊されたことに変わりはないのです。当時の日本はベビーブーム。人口増加に伴い、宅地開発のための場所確保が必要となり、ここ大庭城址周辺(湘南ライフタウン)もその対象になった

それ自体は仕方のないことと言えばそうです。でも発掘の結果を記した報告書を提出さえしていれば、遺跡からずれたルートで開発をしてくれた。でも担当者の怠慢により、それがなされず部分的にではありますが、失われてしまった…のです

先述した「ただ何となく異なる場所に再現された堀立柱」にせよ、今回の「道路の下に埋もれた遺跡」にせよ、発掘に携わる人間としてあるまじき行動…だと私は思いますね‌

その講演会の終了後、アンケートを提出した際、私はこう書いておきました。「報告書が提出されなかったことで、遺跡が失われたことは残念に思う」「もし、その道路の下に埋もれてしまった遺跡が、現在どの辺にあるのかも知りたいので、それを巡るツアーも開催してほしい」と🚶‍♀️

+ 続きを読む

天守無しがアツい

平成の大改修 (2023/10/21 訪問)

前回訪れた時(2013年)から今日までの間に改築をしたようで、内装がすっかり変わっていました。以前の内装は茶色で地味な造りだったのが、現在は白を基調とした明るみを含むものになり、客に与える印象に違いが感じられました

今存在する天守閣は昭和30年代に、瓦1枚を買うという形で市民の寄付を募って造られた建物であることを今回知りました

安土桃山および江戸時代に存在した天守閣は、明治初期における全国的な城の取り壊しにより、解体されてしまった。それからしばらく天守閣は存在せず、土台だけ造られ、そこに観覧車が設けられた時もあったそうです🎡

天守閣跡に観覧車とはミスマッチな光景にさえ(当時の写真を見て)思えました。その後、現存する資料を元になるべく忠実に復元工事がされ、天守閣が復活

それでもあくまで外観が、当時のものに忠実なだけで、内装は(展示館としての目的ということもあり)全くと言っていいほど違うのでしょうが…何せ当時は電気なんて全く無かったわけだから、電灯を付けている時点で忠実ではない…というか現代の建物になってしまっているわけですから(笑)

私が以前訪れた時は、その昭和中期に造られた状態のもの。その後、「平成の大改装」を成し、今の新しい天守閣に生まれ変わった…そうなのです

城内ではwi-fiも充実しており、HPに記載されていたパスワードを入力すれば、安定した接続が提供されたので、ソシャゲしながら館内を回りました🏯

+ 続きを読む

天守無しがアツい

夜の彦根城 (2023/10/28 訪問)

18時から彦根城の夜間特別公開がスタート。本来なら翌日の午前から…になっていた見学に使用する時間をここに回せる。城の経営からすれば日中だけでなく夜間でも入場料を稼げる…winwinのイベントとも言えるこのひと時

10月夜の彦根は肌寒く、長袖とは言え薄いワイシャツ姿の私は、寒さを我慢しながらの入城となりました。階段は急で天守は三層…犬山城も似たような造りなのですが、小田原城のように一度取り壊され戦後に復元された別物…とは異なり、この城は明治期に取り壊しを免れた天守が改修を経て現在に至る…ようです

つまり建物およびその内部は1622年に完成した時の姿ほぼそのままで現在に至る…この急な階段かつ内部は狭く、鉄砲や弓矢を放つ防御用設備くらいしかない。展示スペースがあまり無い関係で展示品も少ない。あくまで防御用施設であり権威の象徴としての存在…こそが本来の日本の城…ということでしょう

夜の撮影というのは空が暗い関係で、どうしても遠くの景色がはっきりとは見えません

けれどライトアップされた天守…そして街灯輝く彦根の街並み…これはこれで夜間にしか見れない、イイ感じの景色とも言えるでしょう🌃

彦根城は約20年の歳月をかけて完成した…と紹介文にはありますが、天守だけなら3年あれば出来てるそうです。しかし、内堀外堀の整備…城内の施設…門の設置…合わせて20年かかってることをボランティアガイドが話してくれました🏯

天守からサッカー場のような施設が見えるのですが、昔あの辺りは内湖…琵琶湖の一部だった。第二次大戦が終わり食糧難の時代…そこを埋め立てて畑を作ろうということで、陸地となり、畑→サッカー場などの施設に代わり現在に至るそうです

2024年に世界遺産登録を目指して「未来に残そう彦根城」のスローガンのもと、取り組みがおこなわれてます。天守は三層…と名古屋城大阪城などと比較すると、思っていたより小ささを感じざるを得ませんでしたが、建設時の姿からベースは変わらずに今日まで残ってるのが1番のウリ…国内の数少ない天守破壊を免れて今日まで残った場所…犬山城とともに日本の国宝にこそなってはいるが、世界遺産にまで登録されたのは姫路城のみ🏯

もし選ばれたら少し鼻を高くできる…選ばれなくてもあの夜景の天守はプライスレス…と解釈したいと思います👃🌃

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

天守無しがアツい

初めての御城印 (2023/08/18 訪問)

入口はいってすぐの場所に戦の絵があり、よく見るとそこには武田軍と徳川軍の戦いが描かれてました…天正十年(1582年)武田勝頼率いる武田軍は織田徳川連合軍に攻められて、勝頼は自害して果てるわけですが、その際に時間を稼いだのが土屋昌恒

彼の奮戦が敵味方問わず評価され、家康は昌恒の子を側室の養子として迎え入れ、やがて忠直という名前が与えられ、そして大名に取り立てられ、それが土浦藩として成立したそう

茨城…当時は常陸国ですが、水戸藩(桜田門外の変の参加者の多くの出身、徳川慶喜を輩出)は聞いた事あっても、土浦藩は初めて聞いたので少し驚きました

櫓は二階建て…一階と二階にそれぞれ木製パズルがあり、二階の簡単そうなのだけチャレンジ。しかし(おそらく子供向けなのに)途中からどれを当てはめてよいか分からなくなり、隣にある見本を見ないとできませんでした…侮るなかれ…の一例?😅

二階の窓からはかつて霞ヶ浦が見えたそうです。けれど今はもう見えない…周辺の建物の高層化が原因ですね🌆 これも一つの時代の流れでしょうか?

見学は終わり、受付にて御城印(1枚目)というものが販売されていました。「せっかくだから記念に一枚買っておくか」と考えた私は購入。旅のちょっとした記念にはなったことでしょう

(土浦市HPの紹介)https://www.city.tsuchiura.lg.jp/sp/page/page000862.html

人生初の御城印を購入後に日本100名城スタンプも集めるようになったのですが…「土浦城もその対象だったのか…あの時は100名城スタンプの存在さえ知らなかったから貰いそびれてしまった😅」「けれど私用ができたから、そのついでに再訪しよう…土浦😏」と思い至り再び土浦城へ

東櫓(2枚目)受付に100名城スタンプ捺印のみと伝えると、それだけで入場料を払うことなく通してもらえました。スタンプ帳に漏れなく捺印。「続日本100名城 113 土浦城」という文字および東櫓のデザイン入りスタンプ

それから時間が余った事もあり、今回は土浦市民博物館を見学することにしました。手帳を見せればここも無料。しかもWi-Fi登録すれば安定した接続のを利用することができたので、スマホで調べごとをしつつ展示物を見学📱🚶‍♂️

博物館は2階建て…1階の入口付近では江戸時代途中から土浦藩藩主となっていた土屋氏の紹介および刀剣の展示がされてました(3枚目)その奥の部屋では古代における土浦およびその一帯という感じで展示がなされており、奈良時代に日本各地に設置された国分寺は石岡(土浦からまあまあ近い市町村)に(常陸国の中心として)置かれていたそう

藩主就任から明治維新の版籍奉還まで…11人の人間が藩主の座に着いたわけですが、その中で5代目〜8代目までは早死にが連続している…中には数え歳17(現代における高1)で逝った者が2名…死因が気になる&闇を感じます😅💀

2階には階段の側に舟が展示されており(土浦は江戸時代に霞ヶ浦や河川を利用した水運が盛んだった都市…当時使われていたのを復元)、それから中世〜現代の展示が奥の部屋でなされてました

鎌倉時代は仏教が盛んで幾つもの宗派に別れたりしたので、坊さんの肖像画およびその解説文…そして江戸期における土浦城の復元ジオラマもあり、最初はそれを添付画像にしようかな…と思ったのですが、「坤輿万国全図」(4枚目)が展示されてるのを目にして…「城ジオラマの撮影および画像の添付は過去にもやってるしありきたり感出てきてる…今回はこっちにしよう」と考えが変わり、それにしました

(Wikipedia)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%A4%E8%BC%BF%E4%B8%87%E5%9B%BD%E5%85%A8%E5%9B%B3

マテオリッチというイタリア人宣教師が、明の時代に中国で作成した世界地図…世界史の授業…明末清初で習った記憶あり…北アメリカがちょっと違うかな以外は現代の地図とほぼ合致する正確な作り🌏…当時の人々に大きな影響を与えたそうです。これはその写しであり原本では無いと解説文にありました。それにしても館内の展示品の中で一際目立つ存在に見えたのは確かだと思いました

「寿像」という言葉をここの展示で初めて知った私…「生存中に描かれた肖像画」という意味だそうです。日本史に出てくる肖像画の多くは死後に描かれたものが多いそうなので、レアパターンと言えばそうなるのでしょう🖼️

5枚目の画像は土屋氏が土浦藩を治める前に主となっていた小田氏…小田政治(14代目)と氏治(15代目)の寿像…生きてる間に描かれた…という事は、本人を目の前にして描かれた可能性がありますね。となると結構リアルに描かれた…信憑性の高い肖像画?

政治は北条早雲あたり…氏治は織田信長あたりと同時代の人間…氏治の代には小田城という城があったそうなのですが、氏治の代に周辺と攻防戦を繰り広げて小田城を追われ土浦城に入った…と解説文。ジオラマによると本丸には当時、御殿が設けられていたようなので(今は無くただの広場)そこに住んでいたのでしょう🏯

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

天候不順の中 (2023/11/18 訪問)

 昨年に続き今年も登城してきました。子供の頃から何回も来ていることもあり親しみを感じる城址です。この城の見どころのひとつは石垣だと思っています。ここの石垣は1539年頃の斎藤道三からの時代と1567年頃から始まる織田信長以降の時代の2期に分かれるということです。また大型の石材を使用した巨石石垣があるのが特徴のひとつです。石垣を意識しながら散策してみました。天守閣と上台所の間にある石垣は一番気に入っている場所です。石垣・井戸跡の説明板付近から見るのが好きです。他にも所々残っていて楽しませてくれます。裏門付近にも石垣があるとのことで行きましたが、見つけられませんでした。
岐阜市は「史跡岐阜城跡整備基本計画」を策定し、発掘等が進められていると思いますが、これからも多くのことが明らかになることを期待しています。
山麓城主居館跡は、今回はさらりと散策して退散しました。
 この日は天候が最初は曇り空だったのですが、突然雨が降り出したりして不安定でした。風も強くなりロープウェーが止まるかもしれないと思い早めに下山しましたが、降りてきたらしばらくして晴れ間が見えるようになりました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

くうくう

毛利輝元が築き福島正則が受継ぎ江戸期は浅野家12代が城主を務めた

国史跡。日本三大平城の一つ。城の構造は大坂城を参考とし縄張は聚楽第に範を取ったと云う広島城は、往時は3重の堀をもち最大で88の櫓があった(内二重櫓35)。が、原爆投下で灰燼に帰す。五重の大天守は1958年外観復元された。平成に入り二の丸の平櫓・多聞櫓・太鼓櫓および表御門の再建、整備された。

+ 続きを読む

ぎりょう

日良館(ひらだて)宮城県栗原市志波姫沼崎淀  (2023/11/11 訪問)

埼玉県にお住いの城館研究者の方が数年ぶりに当地を訪問されて、栗原市方面にご一緒しました。先ずは旧葛西氏領内において随一の平城といわれる日良館(比良館・平館・古館とも)に。この場所は永承6年(1051)に源頼義が陣を張った場所で、その後に館を築いたという伝承があります。また文治5年(1189)の奥州合戦後に奥州総奉行葛西氏の一族沼田氏がこの館を復興して、天正18年(1590)の奥州仕置で主家葛西氏と共に滅亡するまで館主として居住しました。その後館は廃城となるのですが、沼田氏の家老職を務めた小野寺氏が肝入を勤め、現在も子孫の方が居住しています。城地は国道398号から北に入った、遠目には田んぼの中のこんもりした林がある農家にしか見えない場所なのですが、北西3kmには奈良時代の伊治城跡もあり、早くから開けた地域だったのでしょう。
館の規模は東西120m、南北140m、比高は3mほどの平場の四方に外側は水壕、内側は空堀、土塁で囲み防御する縄張でした。北側の一迫川方向は現在水田となっていますが、往時は湿地で北側の護りとなっていたのでしょう。主曲輪跡は現在畑となっていますが高低があり、南西隅が一番高く、その外側に二段のL字状の曲輪がつながるように見えます。外側の水壕は埋立られているようですが、南側と東側の空堀は現在も土塁とともにかなり残っており驚かされました。
地方の中世城館は昭和時代は畑など耕作に利用されてきましたが、昨今は放置されていることが多く、藪や雑草が生い茂り確認が困難となっていることが多いです。日良館も同様でしたが、早春に再訪し空堀や南西側の虎口跡とおぼしき箇所を確認したいと思いました。
東北自動車道築館ICから国道4号線、398号線経由7.5km、12分
東北新幹線くりこま高原駅から2.5km、車で5分、徒歩30分
参考文献「旧志波姫町史」「史料仙台領内古城・館 紫桃正隆」

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

田沼意次の城 (2023/08/06 訪問)

平安末期に相良氏が築いた相良館、戦国末期に武田勝頼が築いた相良古城を前身とし、徳川家康の鷹狩用の御殿、江戸期の相良藩の陣屋を経て、江戸中期に田沼意次が三重の天守を擁する近世城郭に大改修しました。松平定信が老中になり田沼意次が失脚すると、相良城も廃城となり徹底的に破却されましたが、江戸後期に移封されていた田沼氏が復帰すると相良城跡に陣屋を構え、明治まで続きました。

徹底的に破却されたことにより遺構はほとんど遺っていませんが、本丸跡に相良城趾石碑と田沼意次候銅像、相良城本丸跡の石碑、牧之原市史料館が建ち、二の丸跡には土塁とクロマツが遺り、説明板と相良城図が立てられています。

萩間川に架かる湊橋の南詰には、仙台藩主・伊達重村から贈られた石材によって造られた仙台河岸の石垣が遺っています。また、仙台河岸近くの大和神社の道路沿いには田沼街道の起点石標がありました。近年では再評価が進む田沼意次ですが、意次が架けたとされる湊橋により陸運(田沼街道)が、千石船が横着けできたという仙台河岸により水運が発展し、相良城下の繁栄につながったことから、賄賂政治家と長らく貶められながらも地元では支持され続けてきたんでしょうね。

相良城から北北東に20㎞あまり離れていますが、藤枝宿の大慶寺(藤枝市藤枝)には相良城の御殿が客殿として移築されています。なお、大慶寺は田中城の祈願寺であり、田中藩士の墓所も設けられています。田中城のほうがよほど近いですからね。

さほど見どころのある城ではありませんが、資料館は時間に余裕がなく見送り、能登守利信さんの投稿にある小学校裏手の三重櫓模型も見落としてしまいましたので、いつか再訪したいものです。

…と、これで今回の駿河遠征はおしまい。駿府城の天守台発掘調査現場を前日に行けていれば、あと持船城と小山城にも行くつもりでしたが、やむを得ません。ニッポン城めぐりの静岡イベントも完全制覇しましたし、充分に満足できる遠征でした。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

天守無しがアツい

石田三成の居城 (2023/10/29 訪問)

ボランティアガイドの待機する小屋があり、「この先に天守跡への入り口がある。往復で1時間」と説明を受け、その道を歩きました🚶‍♀️

道は狭く、人1人がやっと通れる山道…反対方向からやって来る客を見かけたら傍に逸れて先に通ってもらうようにしました。ここの標高は230mほど…鳥取城ほど急な坂には感じませんでしたが、ガイドの話していた所要時間どおりの道のりとなりました⛰️

頂上の天守跡にあるのはお地蔵さん…ベンチ…それくらいでした。地蔵に佐和山城到達成功の礼を述べるお祈りをし、時間の許す限りその辺りをウロウロしました

「石垣が2つほど残ってる」とガイドから事前情報として案内されており、その際に受け取った地図を元に行き帰りの道とは反対方向に降りてみると、確かにありました…🪨🪨

彦根城建設の際に、木材石材のほぼ全てがここから持ち去られ、天守跡は原っぱ…かつてここに天守が存在したことを示す唯一の痕跡がこの石垣…

けれどよく考えてみれば、今ほど機械文明の発達してなかった時代…木材石材をどうやって麓まで下ろし彦根城まで運んでいたのでしょうか?アルパカみたいな重い荷物を背負う運び屋がいた?それとも下り坂だから力任せに転がした?(事故になりかねんな😅) 何にせよ今より大変だったのは確かそうです

+ 続きを読む

ページ421