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詠狸庵

針塚古墳から信濃府中の山城群を望む (2020/11/08 訪問)

松本市里山辺(古くは束間郡山辺郷)は松本市街の東郊、美ヶ原高原の西麓に当たります。弥生〜古墳時代には現在の松本市街中心地域は湿地、沼沢地で居住に適さず、その周囲特に北東から南にかけての地域に人々が多く居住していたようです。この内の東部が里山辺地域で一帯は古代から行政の中心地となることが多く、平安時代以降この近辺に信濃国府が置かれ、また室町時代末期には薄川を挟んで信濃守護小笠原氏の拠点となる林城が造営されました。山麓にはいくつかの温泉が散在し、かつて聖武天皇が行宮の造営を計画した記録もあります。
この辺りからは信濃府中(のちの松本)の南から北東に連なる山並に、府中をぐるりと取り囲むいくつもの山城を望むことができます。

⚪︎針塚古墳
幅約2mの周溝をめぐらした円墳で直径約20m、高さは約2mで、高句麗の墓制に近い積石塚古墳。美ヶ原から流下する薄(すすき)川の右岸段丘上にあり、副葬品などから5世紀後半の築造とされています。このほかにもかつてはいくつかの古墳がありました。
奈良時代に松本地域の二人の高句麗系帰化人が、先祖より長らく住み続けて来たことから日本姓を賜るよう朝廷に願い出て、それぞれ田河、須々岐の姓が下賜されたという記録があります。その内の須々岐氏の祖先の墳墓なのではないかと私は思っています。近くには須々岐水(すすきかわ)神社もあります。積石塚は九州から関東までの範囲に見られ、特に香川県から徳島県の一部、長野県から山梨県にかけて多く、日本海側には少ないのが特徴です。

⚪︎林城(林大城・林子城)
信濃守護小笠原清宗が1459年に築城し、曾孫小笠原長棟が井川城(松本駅の南約1キロ)から同氏の本拠をここに移しました。谷を挟んで大城と小城があり、かなり規模の大きい山城で、それぞれ遺構がよく残っています。年代的には小城の方が後に築かれたようで、より山城としての完成度が高いと思います。井川城と共に国の史跡「小笠原氏城跡」に指定され、域内はよく整備されています。麓には館町が形成され地名に名残を留めています。

⚪︎水番(すいばん)城
林大城から谷を隔てた東にあり、林城の水之手を守るために築かれた支城で、竪堀、土塁、石積が残る。

⚪︎宮原城
諏訪氏系山家氏に対する小笠原氏の砦として築かれたという説があり、要害城とも呼ばれる。主郭と二つの副郭があり、傾斜に沿って四重の竪堀が残る。

⚪︎山家(やまべ)城
鎌倉時代末期に諏訪氏系山家氏によって築かれたとされる。この山家氏は1481年に小笠原長時によって滅ぼされ、その後16世紀初頭に播州姫路より小笠原氏系の折野昌治が移居、山家氏を称し小笠原貞朝に服属した。この時に現在の縄張が整備され、小笠原氏が敗れた後も武田氏によって改修、増補されたとされる。縄張はかなり広く、主郭の土塁、東側石垣や五条の連続堀がよく残る。

⚪︎霜降(しもふり)城
もともと桐原氏の支城として造営されたらしいとのこと。「下振(しもふり)」とも書き、他に上振城もあったという。規模は大きくないが縄張は整っているように見える。

⚪︎桐原城
15世紀に小笠原氏の配下であった桐原氏によって築かれたという。縄張がかなり複雑で竪堀、石積みがよく残っている。

⚪︎犬甘(いぬかい)城
松本北方の丘陵地帯から岬のように突き出した蟻ヶ崎にある。中世以降この地を支配した地頭犬甘氏の城で、南北三百メートルにわたり主郭と三つの副郭が連なる。
一帯は美ヶ原、浅間温泉、松本城下から安曇野、北アルプスをぐるりと見渡せ眺望が素晴らしい。ここに1843年松本藩主戸田光庸(みつつね)が桜や楓を植えさせ、民と共に楽しめるようにと一般に解放した。これが城山公園で、現在も桜の名所となっている。

この他、北東から北にかけて横谷入城、稲倉(しなくら)城、茶臼山城、早落城、伊深城、平瀬城等があります。




⚪︎兎川寺と旧山辺学校
針塚古墳のすぐ近くには飛鳥時代の創建と言われ小笠原氏の祈願寺であった真言宗の兎川(とせん)寺があります。明治維新の激しい廃仏毀釈によって多くが失われましたが、それもまた歴史の流れというものでしょう。
また道を挟んで明治初期の擬洋風建築、旧山辺学校校舎(県宝)があります。国宝旧開智学校の建築にも加わった棟梁佐々木喜十によるもので、意匠は旧開智学校によく似ていますが屋根は寄棟ではなく入母屋、車寄は唐破風ではなく千鳥破風、窓はガラスではなく障子と、異なる所も多くあります。華やかな開智学校に比べると少し地味な印象ですが、教育熱心な土地柄を感じます。内部は資料館として公開されています。

⚪︎信濃国府推定地域
ここと松本市街地の中間南北1kmほどの範囲に信濃国府が所在(平安初期以降)したと推定されます。地名等にその名残が見られるとされています。

この他、近くには多くの民芸品を蔵する松本民藝館、室町時代の本殿を持つ筑摩神社(重文)、大正時代の建築で現存する数少ない旧制高校校舎である旧制松本高校校舎(重文)があります。少し離れていますが東日本最古級とされる前方後方墳、弘法山古墳(国史跡)もあります。

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天守無しがアツい

大事なのは天守閣ではなく、それを支える人 (2016/03/31 訪問)

東京 大手町駅のすぐ近くに皇居、天皇家のお住まいがあります。そして皇居東御苑として存在するのが江戸城跡。江戸時代初期、ここには本丸ならびに多くの屋敷があったそうです。

徳川家康によって造られた江戸城ですが、本丸が存在していたのは1657年まで。明歴の大火という、江戸を襲った大火事で本丸および城内の屋敷の多くが焼けてしまいました。それ以降、本丸は再建されることなく、石垣だけ残して現在に至るわけです…。

本丸が何故再建されなかったのか、不思議に思い私は知恵袋で調べてみました。すると4代将軍家綱の家臣、保科正之の英断だそうで、つまり「日光東照宮の建設などで出費がかさみ、本丸(天守閣)を再建する余裕が無い。」「大事なのは天守閣ではなく、それを支える人。屋敷さえあれば本丸は無くても問題ない!」という理由のようです。

本丸が再建されなかったものの、周辺の屋敷で無事だった場所は、その後も使用され続けたようです。1702年に浅野匠頭が吉良上野介を斬りつけてしまった、刃傷松の廊下事件は、ここで発生しており、現場にはそれを示す立札がありました。

春休みに入場したのですが、入場料は何と無料です。しかし代わりに入口で札をもらうのですが、何故か今回はそれがありませんでした…。完全なるタダ見物と言えるでしょう。

上記のとおり、本丸跡と松の廊下跡を見学した後、芝生で1人キャッチボールをしました。自分で上に投げたボールを自分で捕るというものですw

現在は一部の建物を除き当時の屋敷は無く、だだっ広い芝生の公園となっています。なのでランニングしたり、寝そべったり、キャッチボールするのに最適な環境というわけです(画像1枚目)…。

イベント開催時にしか、ここの御城印販売は無いとネット情報で伺っており、そのイベントがいつあるか全く分からなかったため諦めていたのですが、飛鳥山おみやげ館という場所にて扱ってることを知った私は、とうとうそれを2枚買い(画像2枚目)我がコレクションに収めることができました🪭😄

(画像3枚目)楠木正成像。二重橋駅近くにあります。後醍醐天皇…南朝側として殉じた正成の銅像を皇居付近に建てて、崇めるということは、現在の皇室は南朝を正統と見なしているということでしょうか?

(画像4枚目)日本100名城スタンプ(江戸城の)。公式スタンプ帳付きの本を最近(令和六年三月)買ったので、スタンプ直押し第一号として押印

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T-Shionoya

岩津城と岡崎城の共通点 (2023/08/18 訪問)

「議会だより」で存在を知った愛知県岡崎市の岩津城。
調べると、広くはないものの立派な遺構が残っているとの情報で8月に訪問。

三河山地が岡崎平野に落ちる縁、岩津山に築かれた城。
矢作川に船着場があったとされるポイントで、陸路も南北に足助街道が通っていたでしょうか。

1400年代初めに山間部から進出してきた松平3代目信光の築城で、安祥城に移るまでの松平氏の本拠。
岡崎平野の覇権争いで度々標的となった要衝で、周囲には複数の砦が築かれたとのこと。
また小牧長久手の戦いの際に、家康が大改修したと考えられています。

現在は南端部が住宅地となっているものの主要部は健在。
数年前から竹藪の間伐が始まり、只今整備進行中。

実際に訪ねると、南郭と主郭間の深い堀と土橋は魅力的。
しかし個人的に最も楽しんだのは南郭の南西側。
南郭の土塁の切れ目部は堀幅が狭く、木橋が架かっていたと予想。
すると南郭櫓台、木橋、南郭(馬出)への土橋状通路が、岡崎城清海堀周りの天守、廊下橋、本丸への通路と類似。
素人の勝手な想像ですが、岡崎城との共通性を感じた岩津城が、私の城郭巡りの158城目でした。

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くうくう

三重天守と3基の三重櫓と5棟の櫓門が現存

桜で有名な弘前公園ではあるが、弘前藩津軽氏4万7千石の居城で多くの建造物が残る梯郭式平山城である。現在、石垣の修理で天守は曳屋を行い仮天守台に移動中。これはこれで珍しい光景になっている。また外郭南西には出城の役割を担う、津軽家霊屋のある長勝寺を中心とした長勝寺構があり、堀、土塁、枡形などが残る。

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じゅんじん

日吉神社 (2023/10/28 訪問)

遺構はありません。七五三の時期でした。

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くうくう

井伊家14代の堅城

標高50mほどの金亀山に築かれた平山城。望楼型三重三層で数多くの破風に飾られた現存天守がある。旧国宝法では第1号に指定された。重文の天秤櫓、西の丸三重櫓など見所は多い。また現存例の少ない登り石垣や馬屋も見られる。徳川四天王の井伊直政から始まる彦根井伊家は、多くの大老を輩出し譜代最高の30万石を誇った。

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刑部

ノブくんの城 (2023/10/08 訪問)

北海道では珍しく標高が高い所にある城。
かなり整備されていてとても快適に探索できました!

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じゅんじん

本行寺 (2023/10/28 訪問)

日蓮上人入滅の地になります。

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じゅんじん

かなり大きい (2023/10/28 訪問)

西は馬込公園・湯殿神社、東は萬福寺と結構な広さです。萬福寺は梶原景時公が創建です。

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天守無しがアツい

金箔ドクロはもう無い (2016/10/20 訪問)

掛川城の御殿に、「金箔ドクロ」というのがあるとこの間知った私。正直、掛川城と言うと地味な印象しかなかったので、休日を使ってまで行きたいとは思いませんでした。

しかし、金箔ドクロの存在を知ると、私の中の価値観が変化します。理屈よりも、「ただ見たい」という気分により…。というわけで、私は掛川まで赴きました。

入場券売り場でチケットを買い、ドクロはどこに展示されているかをついでに尋ねました。すると何と知らないという答えが…。

「ここにはそういうのはないです。」と言われ、「バカな!」と思いつつ、まず私は本丸に入り、各階を眺めました。城の古地図や甲冑はあるけれど、ドクロはありません。

4階にいたスタッフに聞いてみると、「聞いたことがない。ここにはそういうのはないと思う。自分は最近入ったばかりだからというのもあるけど…。」と言われました。

それから御殿に行き、本当にドクロは今はもうないのか確かめに行きました。御殿は広く畳十畳くらいの部屋がいくつもありました。

各部屋を調べ、御殿内を2周したのですが、やはりありませんでした。ちなみに先述の金箔ドクロは、大河ドラマ『巧妙が辻』の撮影用に作られたレプリカだったそうです。

2008年頃は普通に展示されていたようですが、それから年月が経過し、現在は行方不明。何せ城内のスタッフでさえ、存在を知らない有り様…。

せっかく見に来たのに、その結果は無情と言えばそうでした。ちなみに室内には俳句短歌の募集もあり、この気分を何かで表現したかった私は…

「神無月 金箔ドクロ 求めるも どこにもないよ オーマイガー」

と詠んで投函しておきました…(笑) 神無月が季語というわけです。

金箔ドクロを見れなかったことは残念でしたが、私なりに音声ガイダンスを日本語と英語それぞれで聞いたり、畳の部屋で少し仰向けになったり、ゴム製手裏剣を土産に買ったりして、せめてもの穴埋めをしました。

入場券は本丸と御殿セットになっていました。ここの本丸は小さめで小田原城のように記念メダル販売もありません。大きめの城だと本丸だけで500円はかかりそうですが、ここは小さめなので、御殿と合わせて410円。

つまり小さい分、維持費も安めになると解釈すればいいと思います。ちなみにこの城はかつて山内和豊が治め、関ヶ原の合戦以降は、徳川家譜代が治めたとスタッフが語っていました。

御殿は実は国内に4つしかなく、二条城・高知城・川越・そしてここ掛川だそうです。本丸に比べると、御殿はそこまで記憶に残ってなかったなと、振り返れば思います。ちなみに自分は、二条城と高知城の御殿なら、過去に訪れたことあります。

御殿訪問後、竹の丸という施設もついでに訪れました。ここはステンドグラスを2階の部屋にはめた家で、私が訪れた時、何かイベントの準備をしているようでした。

中をジロジロ見ていた私にスタッフが気づき、中に招いてくれました。入場券は100円ですが、小腹が空いていたので、ロールケーキセット(700円)を注文しました。

食べ終わった後、中をウロウロした私。トイレはリフォームされたと思える状態でした。ただ、花の展示イベントを近々おこなう予定で、各部屋にビニールシートが敷かれ、モノがあちこちに積まれていて、まるで引っ越しのように見えました。

「この状態で公開するくらいなら、いっそのこと、休業にして準備に専念したほうがよかったのでは?」と思えました。

入場料こそリーズナブルですが、見学中にスタッフが隣の室内で何かを撮影していたり、メジャーで測っていたり、弁当が積まれていたりと、まるで準備と一般公開を同時にやっている、そんな状態…。

客の見学中にスタッフが同じ部屋で作業している…というのは、何か異様な光景でした。

ま、別にいいんだけど。ちなみに画像は竹の丸。

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天守無しがアツい

最上義光歴史館 (2017/06/02 訪問)

秀次事件(豊臣秀次が切腹し、その妻子たちが処刑された出来事)を知ってから私は、そのうち関連場所を見学したいと考えるようになり、その1つ目として山形にある最上義光歴史館に行きました。

最上義光(もがみよしあき)とは戦国の一大名。並外れた腕力の持ち主で、時には謀略を用いて領土を広げてきた山形の武将で、伊達政宗の叔父でもあります。

駒姫は義光の次女として生まれ、東国一と称されたその美貌から大事に育てられてきました。

1591年に秀次が山形を訪れた際、駒姫の噂を聞きつけ「我が側室に」と義光に願い出ます。豊臣家に逆らうとどうなるか分からない世であったため、「15になったら」と義光は返事します。

そして1595年、(数え年)15になった駒姫は京都に上り秀次のいる聚楽第に入ったのですが、会う前に秀次は高野山で切腹。

駒姫は秀次妻子と丹波亀山城に幽閉された後、三条河原にて斬首された…というわけです。

画像1枚目にある像の左が駒姫、右が義光。駒姫が処刑される際、武士の娘として動じず最期を迎える様子を表現していると思われます。

この博物館には義光に関わる品が多く展示されており、駒姫のはこの木彫像と打ち掛けのみ…。

個人的には義光よりも駒姫および秀次事件に興味があるので、「思ったより駒姫に関する展示が少なかった」「ミュージアムショップに駒姫グッズも置いてほしい」と思いました。

ガイドの解説をもとに館内を見学。ガイドは新たな史料が発見される度に勉強し直さなくてはならないそうで、私がスマホで秀次事件および駒姫を(暇な時間に)検索しまくったことを告げると、「便利ですよねすぐに情報が集められるから…」とコメント。

解説付きだと話を聞く分、一人で巡るよりも時間がかかることが分かった今回。展示物はあまり多くなく、いつも通り見学すれば一時間くらいで全て見れたと思いますが、今回は二時間かかりました(笑)

でもただ展示物を見るだけでは分からなかったことが、ガイドの解説で知れるわけだから、そこはメリットにも思えました。

義光の肖像画は明治、つまり後世に描かれた。最上家の家系図もその頃に作られたもの。最上家は義光の二代後に改易(お取り潰し)になっているが、同時期に他の外様大名も結構同じ目にあっている。つまり粛清の嵐だった…という具合に。

入館者アンケートを渡されたので、最後の自由記入欄にこう書いておきました。

最上義光と駒姫を大河ドラマに(^o^)

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いんげん丸虫

釜屋城 岐阜県恵那市 (2023/11/04 訪問)

標高590mの山城です。
櫓台のような三角形の主郭に平場、帯曲輪、土塁などが
あります。起伏のある遺構がよく残っているのですが、
大きな目立つ堀切などは無いので縄張りがわかりにくい
ですね。
登城路は整備されていて看板もあります。

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天守無しがアツい

佐賀八賢人 (2018/06/03 訪問)

まずここには動いて話す女性ロボットがいました。「生まれて4年ですが、年齢は26歳…」という具合に話しており、見た目がほぼ人間!

間近で見ないと分からないくらい、人間の肌や輪郭にそっくりに出来ており、「日本のロボット開発もここまで進んだか」「現代版黒船とでも呼ぶべき存在か?」とも思いました

ここ、佐賀城は江戸時代には天守閣もあったそうですが、焼失後は再建されず、敷地内の建物は廃藩置県後に小学校になったり、軍の施設になったりしたそうです…

この歴史館は明治維新における佐賀藩士の功績を紹介するために平成十七年開館。なのでキレイな内装、新しさを感じる環境でした

寸劇がとある部屋にておこなわれ、私の見た回では、島義勇(しまよしはる)・江藤新平・大隈重信に扮した3人が登場しました

薩長土肥、つまり佐賀藩(肥前)も維新の四大勢力の1つになっており、佐賀八賢人と呼ばれている維新の功労者がいる。上記の3人もその中に入っている(でも私は8人のうち、2人(江藤新平と大隈重信)しか知らなかった(笑))

寸劇を通して分かったのは、島義勇は北海道の開拓に務め、札幌を作った。江藤新平は法の整備(現在の法律のベースを作ったそう)、佐賀の乱で島と共に刑死💀💀

大隈重信は言わずもがな、早稲田大学の創設者、2度の内閣総理大臣を務め、84歳の長寿を全うした…と、寸劇の出演者はオーバーアクションとも思える、力のこもった演技をしていました👨‍🎓

そしてこの3人を含めた有能な人材を登用し、育て上げたのが、佐賀藩第10代目藩主:鍋島直正

彼の進めた質素倹約と「西洋の技術を積極的に取り入れる」政策により、ペリー来航の頃には、佐賀藩は日本で唯一、鉄製大砲を鋳造可能な存在に

戊辰戦争では「我が藩の技術を同胞殺しに使いたくない」という理由から、最初は新政府にも幕府にもつかずでしたが、将軍慶喜が江戸に逃走して新政府有利になると、戦争を早く終わらせるため、そっち側に

上野における彰義隊との戦闘では、ケタ違いの武器の性能を披露し、敵兵だけでなく、味方の新政府軍をも「敵じゃなくてよかった…」と思わせたそうです

館内の展示を見て、直正がすごい藩主であることを知ったので、土産は迷わず、彼の伝記マンガにしました。上記の「スゴいぞ佐賀藩」とでも言うべきエピソードは、その中から知ったことです

日本で最も早く西洋化を取り入れ、戊辰戦争では「陸の黒船」と思わせる存在感を見せ、維新に貢献した佐賀藩

でも(大隈重信は例外として)何故ほとんどの藩士は知名度が低いのか?そして大河ドラマにも(薩摩、長州、土佐は舞台になるのに)選ばれてないのか、不思議に思いましたね…

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天守無しがアツい

坤櫓のみ見学 (2021/03/14 訪問)

ここには東御門·巽櫓、紅葉山庭園、坤櫓という施設があるのですが、東御門·巽櫓は改装中で入場不可…

「庭園よりも櫓のほうが、城という感じがするからそっちにしよう(他用を済ませた後の閉館時間近くの来場だったため、どちらか1つを選ぶ必要に迫られた)」と思い、私は坤櫓に入りました

100円払って入室。建物は3階建てなのですが、建築基準法により非常口が必要だったり急な階段はダメだったり…で2階より上に一般客を入れることができないため、1階のみの展示にしている…とスタッフが語っていました

入口入ってすぐの場所に鎧兜が展示されていたので、迷わず撮影。やっぱりこういうものはインパクトがありますよね🤩

この坤櫓は1854年の大地震により倒壊し、それから2014年まで再建されることがなかった…そうです。本丸に至っては江戸幕府3代将軍家光の時代に焼失し、それからそのまま…再建するお金が無かったのか、それとも必要性低いと思われたのか…定かではありません

2014年にこの櫓は再建されたわけですが、その時の建築のやり方が紹介されていました。私は素人なので細かく説明することはできませんが、土台を造り、壁を塗り固め、瓦を被せていく…しかも江戸時代の建築方法になるべく忠実におこなう…

そうイメージすると、古いものを再建するって、ただ現在のスキルで造ればいいものではなく、当時の技術に忠実に合わせながら取り組んでいく…と思われるので、何か骨が折れそうな作業ですね😅

基本的に櫓は本丸を囲む城壁の片隅に設けられ、外を監視するため程度の施設なので、スペースは小さめ。なおかつ上記のとおりここは1階しかないので、「これでいいのか?」と思えるほど早く見学が終わってしまいました…🏯

閉館5分前になり、「せっかくなのでもう1周見てから帰ろうかな」と思い歩き出したら、出口にて「展示はここで終わりになります!」とスタッフに誘導され、もう1周は諦めました…😅

私が櫓の外に出ると同時に扉が閉まり、どうやら私が最後の客だったようです。最終入場時刻は16時、閉館の30分前で、スタッフも少し余裕を持って営業を終わらせたかったと思われます

ちなみに下記の文に、1階から上の階の様子を見ることができると書かれております。実際私もスタッフの案内でそれを伝えられ、丸見えの上の階を見た時、「これはすごいな。あそこに上がれなくても、建築基準法の壁があっても、様子がありありと見えてくる…」と思えました


(HP 紹介文より)
建物内部は3階になっていますが、各階の床板と天井板をすべて取り外しており、1階から3階の梁まで見通すことができますので、伝統的な工法によって復元された櫓の構造が一目瞭然!!また、床板の一部も取り外して、強化ガラスをはめ込んでいるため、そこに立てば、ほかのお城では絶対に見ることができない櫓の床下の構造をしっかり見ることができます。


駿府城はかつて、徳川家康が幼少期に今川の人質になっていた頃に住まわされていた城。征夷大将軍になり、息子秀忠に将軍の座を譲って隠居した先も駿府城…だったそうです

おそらく家康の存命だった頃は本丸はあったと思われます。しかし、家光の代に焼失。それ以降再建されることはなかったそう

その本丸跡にて、近年発掘調査がおこなわれ、その中に入ることもできるようです。ただし、開園時間が16時までのため、そこを訪れた時はもう遅くゲートは閉まっていました

なので外から見学および撮影。壁の一部が透明になっており、なおかつ関係者用出入口から中の様子が丸見えだったので、そこからスマホを近づけて撮影できたわけです

このあたりに資料館のようなものも建設されるそうです(もしかしたらもう出来てるかもしれない)天守閣ではないけど、発掘の際に見つけたもの、そして駿府城の歴史を人々に紹介する、櫓よりも規模の大きな施設ができるようです

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ぴーかる

高田城 (2023/11/03 訪問)

【続百名城61城目】
<駐車場他>高田城址公園第1駐車場に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>堀・土塁
<感想>1泊2日上越の城攻め旅1城目。上記駐車場に駐車して西側の外堀の内側から南下し散策⇒南側外堀⇒大手道北上して内堀南側から西方向⇒市立博物館見学スタンプ押印⇒内堀北側へ回るも学校になっており立入禁止⇒戻って本丸内三重櫓を見学⇒本丸内部を散策⇒本丸南の極楽橋から出て終了しました。外堀南側の幅広、本丸土塁の高さ、土の城ながら縄張りの広さは見応えがあります。本丸跡の北側半分と北の丸跡が学校になっていて立入禁止が見所を損しているのがもったいない。驚愕する遺構はありませんが、博物館見学も含めて2時間ゆったり散策しました。

<満足度>★★☆

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ぎりょう

宮野城 宮城県栗原市築館下宮野館  (2023/11/11 訪問)

栗原市の二城目は旧築館町の宮野城(2020年11月23日に投稿済です)に。この城の築城年代や築城者は不明のようですが、奥州総奉行(奥州合戦の戦後処理にあたった職制)葛西清重の子重信が宮野氏を名乗りこの地域を拠点とします。宮野氏は天正18年(1590)の大崎・葛西一揆までここを居城としているようですから戦国期の早い時期から活用されていたものと想像できます。主曲輪を中心に3か所の広い曲輪と帯曲輪を空堀と土塁で護る規模の大きな梯郭式中世山城であり、城びと登録が無いことが残念です。
今回の訪問は主曲輪の北に位置する曲輪の先に有る谷からの登り口と帯曲輪の確認。城址西側の妙圓寺側に残る曲輪と帯曲輪、物見台跡?の確認でした。いずれの遺構も旧築館町史には記載が無いのですが、しっかりとした遺構が確認できます。
3年前の訪問時は公園化されている主曲輪はもちろんですが、北側の曲輪もしっかり草刈りされていましたが、長引くコロナ禍のせいでしょうか、現在は草が伸び放題でした。
城址は築館の街中から国道4号線を北に2kmほどの下宮野地区にあり、登城口は旧奥州街道下宮野宿の街並を宮野代官所跡や皇大神社方面へ入ったところとなります。
東北自動車道築館ICから国道4号線を北に5.5km、11分

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小城小次郎

滝川一益に始まり滝川一益に終わる? (2023/04/15 訪問)

服部党と本願寺をだまくらかして築城させて乗っ取ったという噂に始まり小牧長久手の戦いにおける蟹江城攻防戦に至るまでこのお城は滝川一益に始まって滝川一益に終わったと言っても過言ではないだろう。奇跡的に井戸だけが残る。

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天守無しがアツい

会津戦争の舞台 (2018/10/21 訪問)

会津戦争で会津藩の兵士や住民が立て籠り、新政府軍の砲撃を受けてボコボコになった城…

会津戦争の後、建物は1874年に解体。それからしばらくは天守閣が無い状態が続いたものの、戦後になって地域住民の働きにより再建され、現在に至る。建物は5層から成っています

1・2層は撮影禁止。それもあって今回の添付画像は外からの撮影になってます。会津は歴史上数々の大名の支配下におかれた場所で(伊達政宗が治めた時もあったが、秀吉に恭順の際、没収された)幕末では松平氏の統治下にあった

会津戦争に関する展示が多めで、「火中の栗を拾う」京都守護職の任務を買って出た会津藩。鳥羽伏見の戦い後、薩長が掲げた錦の御旗により朝敵と見なされた幕府軍

江戸無血開城により幕府は降伏したものの、会津藩を始めとする諸藩は新政府に抵抗

新政府軍は旧幕府軍勢力を各個撃破していき、1868年9月には会津に進軍。兵力と弾薬量の差により会津軍は徐々に後退。最後は城に立て籠るも、1か月の奮戦の後に降伏…

当時、鍋島直正による近代軍備化により、佐賀藩は日本一の最新兵器を所有していて、それがこの会津戦争にも使用されたそう。アームストロング砲による砲撃により、城がボコボコになり、城内の人間が殺傷された(つまり当時、佐賀藩を敵に回すことは圧倒的不利を意味した)

現在の様子からは想像も出来ませんが、当時はそこに地獄絵図が見られたと思われます。白虎隊が飯盛山にて自決する絵が2枚ありました。どうやら片方(歴史の資料集に使われる)は1869年、もう片方は1930年頃に描かれたもの…とありました

当時、写真は一応存在していたとはいえ、撮影に時間がかかり持ち運びもしにくい。スマホ撮影のように気軽にできるものではなかったため、「ボコボコになった会津城(動かない撮影に時間かけられる被写体)はモノクロ写真」「白虎隊の自決(カメラを持ち合わせるような状況にない)は想像図」となっている

ここはエレベータがなく、移動手段は階段オンリー。しかも城内にトイレなく、記念のメダル販売機もありません。こういう「展示のみに特化した城」は珍しく思えました

城の1層の出口側が土産店になっており、そこで本陣という菓子を買いました。会津と言うと「あかべこクッキー」のほうが有名のようですが、前に訪れた時にそれを買ったのです。なので今回は違う土産を買いたい・クッキーとかありきたりな商品は避けたい…と考え、店内にある品を一通りみて熟孝した結果、本陣に

天守閣に麟閣(城内にある庭園)の入場券付きだったので、ついでという感じでそこにも立ち寄りました。中に入って和風庭園を一通りみたものの、「ここの饅頭付き抹茶は600円」「今は腹減っているが、ここで軽食とは言え、何か食べてしまうと、昼食の邪魔になりかねない」「ここで600円費やすくらいなら、カレー焼きそばに回すべきだ」と考えて、見るだけ。抹茶体験はしませんでした

というか、規模の小さな庭園。都内の庭園を数々巡って「もう十分」な感じもあったので、ここ自体カット・天守閣見物だけでよかった気もしますね…

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天守無しがアツい

徳川に破壊された天守 (2019/04/06 訪問)

公園の入り口をしばらく進み、入場券売場でチケットを買った私は、「ここに天守閣はないですか?」とスタッフに尋ねました。すると「かつてはあったと思われますが、関ヶ原の戦い後に、徳川によって取り壊されたと思われます」と回答されました

日本には数多くの城跡…城址公園はありますが、そこに天守閣まであるとは限りません。上田城にはてっきり天守閣があるものと勝手に予想していた私は、何か肩透かし喰らった気分にもなりました

南櫓・北櫓が一般公開されており、そこは2階建てで、細い木製の階段を上るという造り…つまり、少し不便な内装

その中に展示されていたものの1つが、添付画像の火縄銃。外から櫓を撮影してもよかったのですが、「たまには中にあるモノを添付画像に使いたい」と思い、こうしました

「火縄銃体験」とありますが、ここは「射撃シミュレーション」や「画面に撃つと合戦シーンが流れてくる」というわけではありません。ただ、銃を持つだけです

なので、私はまず銃の重さを確かめ、それから窓の隙間から銃口を通し、城の外にそれを向けました

徳川の侵攻を2回とも防いだ「上田合戦」では、この城にて激しい戦闘がおこなわれたわけです。そして、この櫓から、敵に向かって銃撃もあったことでしょう

なので、火縄銃を持ち、それを外に向けることで、当時の真田軍に気持ちだけなりきってみた私…でした

櫓の造りが小屋のように小さめということもあり、ここにある展示物は決して多くはありませんでした。火縄銃の他に覚えているモノは鯱(しゃちほこ)。城の装飾に使われていたようです

錆びてはいましたが、原型は留めており、「鯱って名古屋城だけじゃないんだな、名古屋城のは大きくて金色だったけど…」と思いました

櫓を見学した私は、(チケットが上田市立博物館との共通券なので)博物館へ

(上田城址公園ガイドマップより)真田氏をはじめ歴代城主の資料や上田地方の歴史・民俗・自然資料を収蔵・展示。国の重要文化財「織田信長所用韋胴服」「国友藤兵衛作反射望遠鏡」等を所蔵

館内は撮影一切NG。なのでここではなく、その近く、城址公園向かいにある観光課に展示されていた鎧(2016年大河ドラマ「真田丸」で使用された)を添付画像の1つに

本館と別館、それぞれ展示品があったが、一番度肝を抜いたのが、別館2階のVRシアター

(上田城址公園ガイドマップより)「400年前の上田城を最新映像技術VRでリアルに再現。上田城の中を空中散歩しているかのよう」

ただ椅子に座って映像を眺めているだけ。決して椅子が動いているわけではない。けれど、その動く映像により、まるで自分が遊園地の乗り物にでも乗ったかのような気分になったのです

上空から飛来する鳥のように、城の門に降り立ち、そこから中に入るごとに解説がなされていき、最後に本丸に入るも、関ヶ原の戦いにおける敗北にて、徳川に徹底的に破壊された…とされる本丸の施設

第二次上田合戦にて真田信繁(通称:幸村)・昌幸は徳川軍に勝利こそするものの(というか徳川秀忠率いる軍勢を食い止め、関ヶ原到着を遅らせた…というほうが正しいかな)、関ヶ原の戦いで西軍(つまり信繁側)が敗北したため、敗北者に…

石田三成を始めとした西軍の大将は死罪になったり流罪に処されたりし、信繁たちもピンチだったが、信繁の兄の信幸(昌幸は、どちらが勝ってもお家断絶しないよう、信幸を東軍・信繁を西軍につかせた)の嘆願により、高野山に流罪…

天守閣が破壊された後、信幸は上田城に入るも、(徳川に遠慮したからか)天守閣は再建せず、武家屋敷で執務をおこなったそう

昌幸は1612年に病死。信繁は1615年に大阪夏の陣で戦死。しかし、信幸はその後も生き続け、名前を「信之(父昌幸との決別を表しているそう)」に改めます。そして1658年、93歳という大長寿を全うした…

それにしても、戦後の上田城徹底破壊には、家康の信繁親子、そして真田軍への恐れが十分に垣間見える気がします。小牧長久手の戦いを代表するように、戦上手で名の知れた家康

その徳川軍のお株を奪うように、数で劣る軍勢で苦しめた…のですからね

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天守無しがアツい

かつてここに球場もあった (2021/04/04 訪問)

日本各地に城跡はありますが、福岡市にもそれがあることを今回初めて知りました。豊臣秀吉の軍師を務めた黒田官兵衛およびその一族がこの辺りを治めた…そうです

城跡の圏内に入ると、早速だだっ広い原っぱがありました。ここはかつて平和台球場という球場が存在していた場所。西鉄ライオンズや福岡ダイエーホークス(現ソフトバンクホークス)などが本拠地として使用していました

1993年に福岡ドーム(現ペイペイドーム)が新設され、それ以降も二軍の試合が開催されてはいたものの1997年に閉鎖。2005年の九州を襲った地震による球場壁の亀裂により、2007-08年にかけて解体。今は完全に何も無くなってる…

城の中にかつて球場があったなんて、そういう時代もあったのか…そしてそれも今は夢の跡…という感じに思えましたね。その近くに「福岡城むかし探訪館」があったので、そこに入りました

館内は無料入場可。黒田官兵衛が使用していたと言われる刀および、福岡城跡のジオラマ(画像)が展示されていました。城跡の歴史を紹介したビデオ上映も

この施設もwi-fiの環境が非常によく、ソシャゲ&ニュースチェックに時間を割いてしまった私…上映されたビデオによると、福岡城跡には現在天守閣は無く、「過去にも無かった説」が有力なのですが、資料によっては「江戸時代あたりにはあった説」を匂わすものもあるそう。つまり100%無かった…とは言えないらしい

探訪館で館内見物よりもソシャゲに勤しんだ後、せっかくなのでその天守に向かうことにしました。城跡はかなり広く、皇居(江戸城跡)よりも広いかもと思わせるくらい🚶‍♀️

少し小高い場所が天守跡。雨で抜かるんだ坂を登り、急な石階段を登り、さらに階段を上がった先にそこはありました

天守閣がここにあったのかは私にも分かりません。けれどここからは福岡市内を手に取るように一望することができます…現代のようにビルも無かった安土桃山および江戸期の頃はここだけしか周りを見渡せる場所は無かったでしょう…⛰️

この城跡には他にも鴻臚館とか和風庭園とかあるのですが、時間の都合でカット…またの機会があればその時に

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