若山城は若山の山頂に築かれていて陶氏の本城とされています。天文19年(1550)に陶晴賢(この当時 隆房)によって修築が行われており翌年この城にて挙兵し、大寧寺の変にて大内義隆を自害に追い込みます。
天文24年(1555)晴賢は行く厳島の戦いで毛利元就に敗れ、若山城を守る晴賢の嫡男・長房は杉重輔の手勢に城を追われ、追撃を受けて自刃に追い込まれます。嫡流の陶氏が滅んで間もなく若山城は廃城になりますが、なぜか西の丸の東側のみ石積みが良く残っています。
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2024/05/17 20:28
陶氏の本城で陶氏(嫡流)の滅亡に伴い廃城 (2024/01/02 訪問)
若山城は若山の山頂に築かれていて陶氏の本城とされています。天文19年(1550)に陶晴賢(この当時 隆房)によって修築が行われており翌年この城にて挙兵し、大寧寺の変にて大内義隆を自害に追い込みます。
天文24年(1555)晴賢は行く厳島の戦いで毛利元就に敗れ、若山城を守る晴賢の嫡男・長房は杉重輔の手勢に城を追われ、追撃を受けて自刃に追い込まれます。嫡流の陶氏が滅んで間もなく若山城は廃城になりますが、なぜか西の丸の東側のみ石積みが良く残っています。
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2024/05/16 18:48
車だと楽して城址に来れる。各曲輪からの眺望は良好 (2024/01/02 訪問)
イオさんの高城の投稿を読ませていただきました。この時期はシーズンオフなのでさすがに地元のハンターさんもいないでしょう。
イオさんが無事に登城できたので、皆さん高城に行きやすくなったと思います。お疲れ様でした。
私も年内には再トライしたいな~。
いまは良い気候ですが、これからじわじわ暑くなってきますね。去年の7月、椿尾上城を意識朦朧としながら畝状竪堀を探していたのが懐かしい(ぴーかるさん、やはり無かったですか)。今年の夏はクーラーかけて家でガンプラ作ろうかな。
若山城の投稿です。ここは二の丸・三の丸が駐車所になっていて展望所にもなっています。ここまで車で来れるのは有り難いですね。まさに私好みの山城です。西側に向かって、本格的に遺構が残り、畝状竪堀を見ながら本丸に至ります。写真では少し見づらいけど確かに竪堀は複数ありました。さらに西に向かって進み西の丸に至ります。西の丸には東側周辺に石積みがありました。
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2024/02/25 08:41
陶晴賢 (2024/02/23 訪問)
大内氏の重臣陶氏の居城です。主郭北東部には畝状竪堀があり、山口県観光サイトには総数26条と記載されていました。実際には何条あるのかよくわかりません。西側の曲輪を散策していくと、西の丸に石積みがありました。さらに西へ行くと曲輪の下には浅くなっていますが堀切があります。陶の道と書かれた標識に従って北側へ歩いて行くと浅い堀切と思われる地形がありました。城郭放浪記さんの縄張りと見ると南側に砦のような遺構があるようですが、今回は散策していません。
眺望はよく瀬戸内海がよく見えます。
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2021/07/29 21:21
大内家家臣、陶弘護により築城 (2021/07/23 訪問)
連郭式の中世山城
二の丸・三の丸まで車で登ることができるので
楽々登城できます
ただ舗装路なごらホントにこのまま車で
上がっていけるのか心配になるような道路です
(手書き看板の方)
また別に若山城跡入口と書かれた看板がある
場所もあるのですが、道標など整備されておらず
墓地に迷い込んで道がわかりませんでした…
(若山城跡入口と書かれた看板の方)
御城印は徳山駅近くの周南市観光案内所
(まちのポート)にて購入可能
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分類・構造 | 連郭式山城 |
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天守構造 | なし |
築城主 | 陶弘護 |
築城年 | 文明2年(1470) |
主な改修者 | 陶隆房 |
主な城主 | 陶氏 |
廃城年 | 弘治3年(1557)頃 |
遺構 | 曲輪、石垣、堀切、竪堀 |
指定文化財 | 県史跡(若山城跡) |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 山口県周南市福川 |
問い合わせ先 | 周南市文化スポーツ課 |
問い合わせ先電話番号 | 0834-22-8624 |