JR徳山駅から徒歩で攻城しました。途中,徳山小学校は桜馬場跡で,藩校があった石碑も見つけました。それから,「徳山七士碑」を発見。禁門の変後の派閥争いの犠牲となった志士をたたえていました。徳山城にだいぶ近づいたところに鐘楼跡がありました。現在は,新堀自治会館となっています。
徳山城そのものについては,トクさんの投稿の直後なので割愛させていただきます。興味のある方はそちらをご覧ください。
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2024/08/24 22:20
城下に見どころもありました👀 (2024/06/21 訪問)
JR徳山駅から徒歩で攻城しました。途中,徳山小学校は桜馬場跡で,藩校があった石碑も見つけました。それから,「徳山七士碑」を発見。禁門の変後の派閥争いの犠牲となった志士をたたえていました。徳山城にだいぶ近づいたところに鐘楼跡がありました。現在は,新堀自治会館となっています。
徳山城そのものについては,トクさんの投稿の直後なので割愛させていただきます。興味のある方はそちらをご覧ください。
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2024/08/14 10:00
平和について考える旅(岩国徳山4/4)―大津島 (2024/08/04 訪問)
終戦記念日を前に平和について考える旅(4/4最終回)です。徳山城からバスに乗って再び徳山駅へ戻り、今度は駅前の桟橋から船に乗って30分、毛利家の石切場でもあった「大津島」へ渡りました。ここからまた平和について考えてみたいと思います(写真①②)。
皆さんは、太平洋戦争末期に「回天」という特攻兵器があった事を御存知でしょうか? 回天は魚雷を大きくしたような1人乗りの潜水艦で、まあ人間が操る魚雷と考えた方がいいかもしれません。母艦である伊号潜水艦で敵艦近くまで近づき、そして発射されると、魚雷の中にいる人間が敵艦めがけ操縦します。当然生きて帰る事はできません。私も詳しく知ったのは、18年前に市川海老蔵(現:団十郎)さん主演の「出口のない海」という映画を見てからでした。
船を下りて5分程歩くと「回天記念館」がありました(写真③)。入口には実物大の回天が展示されていました(写真④)。また中に入ると、出撃して行った特攻隊員たちの遺書や遺影、また回天の中の様子が再現されていました。
記念館を出て島の南の方に向かってさらに5分程歩くと、回天搭乗員たちが訓練していたという基地が保存されていました。ここでよく回りを見渡すと、石垣に適した石がたくさんあります。毛利家が石を採取するには、この島が最適な場所だったという事が、訪れてよくわかりました(写真⑤⑥⑦)。
この場所は映画の撮影でも使用された場所で、市川海老蔵さんが必死になってここで訓練していた映画のシーンを思い出してしまいした。当時の搭乗員たちは、死の恐怖と戦いながらも、ひたすら日本の勝利を信じて、ここで訓練していたんでしょうね。もう二度とそんな時代が来ない事を祈りたいものです。
また、その基地から見えるこの海(写真⑧の場所)は、戦艦大和が最後に停泊していた場所だそうです。昭和20年4月6日、大津島に停泊していた大和はここから沖縄に向け出港し、豊後水道を南下、翌7日に鹿児島県徳之島沖で米軍機に攻撃され沈没、帰らぬ艦となりました。これも何か悲しい運命です。
神妙な気分になって帰途についていた私ですが思わぬ出来事が! 徳山駅から乗った新幹線が、またまた「ハローキティ号」でした。偶然にも思わぬサプライズに、博多駅まで最後は何だか少しほっとした気分で帰途に着く事ができました😌(写真⑨⑩)。
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2024/08/08 11:28
平和について考える旅(岩国徳山3/4)―徳山城 (2024/08/04 訪問)
平和について考える旅(3/4)です。徳山城を訪れてきました。徳山駅北口から下松行のバスに乗り5分、「動物園文化会館入口」で下車すると、目の前の現在は文化会館になっている場所が徳山城跡です(写真①②)。駅から徒歩でも20分くらいと思います。
築城者は、長州藩から3万石で徳山藩として分離独立した毛利輝元の二男、「毛利就隆」です。駅からなだらかに坂を登った先の一段高くなっている場所にあるので、ここに城(天守はなく御館その後は陣屋)であった事がわかります。しんちゃんの彼女も、相変わらず風呂上りの姿で立っていましたよ(笑)(写真③)。
大坂城の普請のため、近くの大津島から採取したという石もありました(写真④⑤)。また横には就隆を祀る祐綏神社もありました。萩城でもそうでしたが、何故か私は? 毛利の家紋(一文字三ツ星)を見ると自然と武者震いをしてしまいます(笑)(写真⑥⑦)。
徳山駅のホームからは、その石切場であった大津島がよく見えました(写真⑧)。そして写真中央の桟橋からは、大津島行きの船が出ています。
では次は、その駅前の桟橋から船に乗り、毛利家の石切場でもあった大津島へ渡ってきます。そしてその大津島で、平和についてまた前回の続きを考えてみたいと思います。
【余談】毛利就隆(輝元二男)
毛利輝元に二男がいたとはビックリです😲!
私は以前、豊後岡城主の「志賀親次」の晩年と墓を探して宇部の山中を歩き回った時、偶然そこで「毛利秀就生誕の地」の看板と碑を見つけビックリした事をお伝えしました(その時の写真⑨⑩)。輝元には正室との間になかなか子ができず、おじいちゃん元就の子「秀元」を養子にもらい、その秀元が関ケ原では大坂城にいた輝元に代わって、毛利の総大将として出陣し、南宮山に陣を敷きました。しかし関ケ原後、輝元に落とし種(=秀就)があった事が発覚。輝元は殺すよう命じましたが、宇部の山中でその秀就が実は匿われていた事を知った秀元は、家督争いで毛利家が割れる事を避けるため、実子である秀就に家督を譲って自らは身を引き、その秀就が完成したばかりの萩城に入り、初代長州藩主となりました。しかし実は輝元には、さらにもう一人落とし種があったという事ですね🤔。それを知った秀就は、弟である就隆に、長州藩の領地から下松徳山3万石を分地し、就隆は徳山藩を立藩したそうです。そして秀元の娘を正室に迎えましたが、結局は仲が悪く最後は離婚騒動になったとか? その後、その孫(三代藩主)が松の木を巡る本家との領地の境界問題でまたもや騒動を起こし、それで徳山藩は廃藩となり、館は陣屋になったそうです。
(ここで平和への教訓)
身近な家族や親戚とは、できるだけもめ事をしないように、気をつけましょうね😊!
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2024/03/22 23:19
カムバック大賞 (2024/01/02 訪問)
元和3年(1617)に毛利輝元の次男・就隆が3万石を分知され慶安元年(1648)に当地に館を移したことが徳山城の始まりとされています。
初め陣屋でしたが藩の改易(宗家との境界線争い)からの復興を経て、天保7年(1836)に幕府より「城主格」を賜り、晴れて徳山城となりました。今は文化会館の敷地になっています。正面に風呂上りみたいな女性の銅像があります。威風堂々とした表情ですが、そんなプーさんみたいな格好でドヤられても目のやり場に困りますな。(そんなに困っていない)
近くにある祐すい神社は徳山藩主毛利家の霊社とされ初代藩主就隆公と九代藩主元蕃(もとみつ)公を祀っています。城址と全く関係ありませんが正面道路の対岸にある地下道への入り口が面白いので掲載しました。キモカワイイってやつですね。
そういえば近くに動物園が有りますな。
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分類・構造 | 平城 |
---|---|
天守構造 | なし |
築城主 | 毛利就隆 |
築城年 | 慶安2年(1649) |
主な城主 | 毛利氏 |
廃城年 | 明治4年(1871) |
遺構 | 庭園 |
再建造物 | 説明板 |
住所 | 山口県周南市徳山 |