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ぴちょまる

備中高松城 (2023/11/16 訪問)

秀吉による水攻めで有名な城跡。
元は湿地帯だったようで、発掘して整備を進めてできた沼に、蓮が咲いたとのこと。

遺構というより、清水宗治公に関連する首塚、胴塚、自刃の地、家来衆が心中した場所などに碑が建てられている。
続100名城のスタンプは、二の丸にある資料館に設置されているが、秋冬は15:00に閉館してしまうので要注意。

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天守無しがアツい

開発により失われた堀 (2023/01/08 訪問)

神奈川県藤沢市に、大庭城址公園という施設があります。そこにはかつて、「大庭城」という城が存在。室町時代の話です。

正確な築上時期は分かっていませんが、扇谷上杉氏(藤原北家の一人、藤原重房が上杉氏を名乗ったのが始まり。つまり藤原氏の子孫でしょう)により、1467-73年に築城された?という説があります

東と西に川が流れ、台地の上にある天然の要害として数十年間機能していましたが、1512年に北条早雲により攻め落とされ、その後、廃城になったそうです

もっとも当時の城には(大阪城や名古屋城のような)天守閣はなく、土塁に館があるだけの簡素な造り…だったそうです。大きな天守閣を設けるようになったのは江戸時代近くになってから

当時の城(室町中期)は大名の権威を示すためのものではなく、(まだ群雄割拠の戦の絶えない時代ということが背景)、敵の侵入を防ぐという目的のほうが強かったわけ。この大庭城も、小高い丘の上にあり、山城のうちに入るでしょう🏯

現在、ここは「大庭城址公園」として無料公開されていますが、当時の面影を残すものは、掘立柱建物群に堀、土塁…とそれほど多くなく、しかも地味なものだけ

添付画像は掘立柱建物群(跡) ちなみにこの柱の跡ですが、これは後年石材の柱を埋めたもので、しかもこの位置にあったのではなく、本当は別の位置だったそうです

「何故かと尋ねたら、「ただ何となく…」と返答された」と郷土歴史課の講師が語っていました。「それでいいのか?歴史研究家( ̄□ ̄;)!!」と私は思いましたね…‌

私はこの城跡についての講演会を見学したことがあり、その時は郷土歴史課の職員により大庭城の歴史と、三回の発掘調査が解説されていました

一回目の調査は1968-71年におこなわれ、当時この地域(湘南ライフタウン)は開発前。道路も民家もほとんどない状態だったそうです(現在とは街並みがかなり異なる)

その際、土塁などを発掘したのですが、致命的なミスを関係者は犯していた。それは報告書を提出していなかったこと。それを市役所に提出さえしていれば、道路を造る際、その遺跡を外れたルートで開発してくれた

でも提出しなかったから、遺跡の事は配慮されずに開発された。その結果、昔は堀のあった場所は現在は道路の下。しかも建設の際に削られてしまった…と職員は語っていました

それを聞いた瞬間、「あ~あ(報告書出し忘れた発掘担当者、何やってんだよ)😩」と溜め息混じりに、私は呟きました…。大庭城址は同じ神奈川県の城でも小田原城と比較すると知名度は低い

けど、当時の人間のミスにより、貴重な歴史的遺跡が破壊されたことに変わりはないのです。当時の日本はベビーブーム。人口増加に伴い、宅地開発のための場所確保が必要となり、ここ大庭城址周辺(湘南ライフタウン)もその対象になった

それ自体は仕方のないことと言えばそうです。でも発掘の結果を記した報告書を提出さえしていれば、遺跡からずれたルートで開発をしてくれた。でも担当者の怠慢により、それがなされず部分的にではありますが、失われてしまった…のです

先述した「ただ何となく異なる場所に再現された堀立柱」にせよ、今回の「道路の下に埋もれた遺跡」にせよ、発掘に携わる人間としてあるまじき行動…だと私は思いますね‌

その講演会の終了後、アンケートを提出した際、私はこう書いておきました。「報告書が提出されなかったことで、遺跡が失われたことは残念に思う」「もし、その道路の下に埋もれてしまった遺跡が、現在どの辺にあるのかも知りたいので、それを巡るツアーも開催してほしい」と🚶‍♀️

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天守無しがアツい

平成の大改修 (2023/10/21 訪問)

前回訪れた時(2013年)から今日までの間に改築をしたようで、内装がすっかり変わっていました。以前の内装は茶色で地味な造りだったのが、現在は白を基調とした明るみを含むものになり、客に与える印象に違いが感じられました

今存在する天守閣は昭和30年代に、瓦1枚を買うという形で市民の寄付を募って造られた建物であることを今回知りました

安土桃山および江戸時代に存在した天守閣は、明治初期における全国的な城の取り壊しにより、解体されてしまった。それからしばらく天守閣は存在せず、土台だけ造られ、そこに観覧車が設けられた時もあったそうです🎡

天守閣跡に観覧車とはミスマッチな光景にさえ(当時の写真を見て)思えました。その後、現存する資料を元になるべく忠実に復元工事がされ、天守閣が復活

それでもあくまで外観が、当時のものに忠実なだけで、内装は(展示館としての目的ということもあり)全くと言っていいほど違うのでしょうが…何せ当時は電気なんて全く無かったわけだから、電灯を付けている時点で忠実ではない…というか現代の建物になってしまっているわけですから(笑)

私が以前訪れた時は、その昭和中期に造られた状態のもの。その後、「平成の大改装」を成し、今の新しい天守閣に生まれ変わった…そうなのです

城内ではwi-fiも充実しており、HPに記載されていたパスワードを入力すれば、安定した接続が提供されたので、ソシャゲしながら館内を回りました🏯

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天守無しがアツい

夜の彦根城 (2023/10/28 訪問)

18時から彦根城の夜間特別公開がスタート。本来なら翌日の午前から…になっていた見学に使用する時間をここに回せる。城の経営からすれば日中だけでなく夜間でも入場料を稼げる…winwinのイベントとも言えるこのひと時

10月夜の彦根は肌寒く、長袖とは言え薄いワイシャツ姿の私は、寒さを我慢しながらの入城となりました。階段は急で天守は三層…犬山城も似たような造りなのですが、小田原城のように一度取り壊され戦後に復元された別物…とは異なり、この城は明治期に取り壊しを免れた天守が改修を経て現在に至る…ようです

つまり建物およびその内部は1622年に完成した時の姿ほぼそのままで現在に至る…この急な階段かつ内部は狭く、鉄砲や弓矢を放つ防御用設備くらいしかない。展示スペースがあまり無い関係で展示品も少ない。あくまで防御用施設であり権威の象徴としての存在…こそが本来の日本の城…ということでしょう

夜の撮影というのは空が暗い関係で、どうしても遠くの景色がはっきりとは見えません

けれどライトアップされた天守…そして街灯輝く彦根の街並み…これはこれで夜間にしか見れない、イイ感じの景色とも言えるでしょう🌃

彦根城は約20年の歳月をかけて完成した…と紹介文にはありますが、天守だけなら3年あれば出来てるそうです。しかし、内堀外堀の整備…城内の施設…門の設置…合わせて20年かかってることをボランティアガイドが話してくれました🏯

天守からサッカー場のような施設が見えるのですが、昔あの辺りは内湖…琵琶湖の一部だった。第二次大戦が終わり食糧難の時代…そこを埋め立てて畑を作ろうということで、陸地となり、畑→サッカー場などの施設に代わり現在に至るそうです

2024年に世界遺産登録を目指して「未来に残そう彦根城」のスローガンのもと、取り組みがおこなわれてます。天守は三層…と名古屋城大阪城などと比較すると、思っていたより小ささを感じざるを得ませんでしたが、建設時の姿からベースは変わらずに今日まで残ってるのが1番のウリ…国内の数少ない天守破壊を免れて今日まで残った場所…犬山城とともに日本の国宝にこそなってはいるが、世界遺産にまで登録されたのは姫路城のみ🏯

もし選ばれたら少し鼻を高くできる…選ばれなくてもあの夜景の天守はプライスレス…と解釈したいと思います👃🌃

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天守無しがアツい

初めての御城印 (2023/08/18 訪問)

入口はいってすぐの場所に戦の絵があり、よく見るとそこには武田軍と徳川軍の戦いが描かれてました…天正十年(1582年)武田勝頼率いる武田軍は織田徳川連合軍に攻められて、勝頼は自害して果てるわけですが、その際に時間を稼いだのが土屋昌恒

彼の奮戦が敵味方問わず評価され、家康は昌恒の子を側室の養子として迎え入れ、やがて忠直という名前が与えられ、そして大名に取り立てられ、それが土浦藩として成立したそう

茨城…当時は常陸国ですが、水戸藩(桜田門外の変の参加者の多くの出身、徳川慶喜を輩出)は聞いた事あっても、土浦藩は初めて聞いたので少し驚きました

櫓は二階建て…一階と二階にそれぞれ木製パズルがあり、二階の簡単そうなのだけチャレンジ。しかし(おそらく子供向けなのに)途中からどれを当てはめてよいか分からなくなり、隣にある見本を見ないとできませんでした…侮るなかれ…の一例?😅

二階の窓からはかつて霞ヶ浦が見えたそうです。けれど今はもう見えない…周辺の建物の高層化が原因ですね🌆 これも一つの時代の流れでしょうか?

見学は終わり、受付にて御城印(1枚目)というものが販売されていました。「せっかくだから記念に一枚買っておくか」と考えた私は購入。旅のちょっとした記念にはなったことでしょう

(土浦市HPの紹介)https://www.city.tsuchiura.lg.jp/sp/page/page000862.html

人生初の御城印を購入後に日本100名城スタンプも集めるようになったのですが…「土浦城もその対象だったのか…あの時は100名城スタンプの存在さえ知らなかったから貰いそびれてしまった😅」「けれど私用ができたから、そのついでに再訪しよう…土浦😏」と思い至り再び土浦城へ

東櫓(2枚目)受付に100名城スタンプ捺印のみと伝えると、それだけで入場料を払うことなく通してもらえました。スタンプ帳に漏れなく捺印。「続日本100名城 113 土浦城」という文字および東櫓のデザイン入りスタンプ

それから時間が余った事もあり、今回は土浦市民博物館を見学することにしました。手帳を見せればここも無料。しかもWi-Fi登録すれば安定した接続のを利用することができたので、スマホで調べごとをしつつ展示物を見学📱🚶‍♂️

博物館は2階建て…1階の入口付近では江戸時代途中から土浦藩藩主となっていた土屋氏の紹介および刀剣の展示がされてました(3枚目)その奥の部屋では古代における土浦およびその一帯という感じで展示がなされており、奈良時代に日本各地に設置された国分寺は石岡(土浦からまあまあ近い市町村)に(常陸国の中心として)置かれていたそう

藩主就任から明治維新の版籍奉還まで…11人の人間が藩主の座に着いたわけですが、その中で5代目〜8代目までは早死にが連続している…中には数え歳17(現代における高1)で逝った者が2名…死因が気になる&闇を感じます😅💀

2階には階段の側に舟が展示されており(土浦は江戸時代に霞ヶ浦や河川を利用した水運が盛んだった都市…当時使われていたのを復元)、それから中世〜現代の展示が奥の部屋でなされてました

鎌倉時代は仏教が盛んで幾つもの宗派に別れたりしたので、坊さんの肖像画およびその解説文…そして江戸期における土浦城の復元ジオラマもあり、最初はそれを添付画像にしようかな…と思ったのですが、「坤輿万国全図」(4枚目)が展示されてるのを目にして…「城ジオラマの撮影および画像の添付は過去にもやってるしありきたり感出てきてる…今回はこっちにしよう」と考えが変わり、それにしました

(Wikipedia)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%A4%E8%BC%BF%E4%B8%87%E5%9B%BD%E5%85%A8%E5%9B%B3

マテオリッチというイタリア人宣教師が、明の時代に中国で作成した世界地図…世界史の授業…明末清初で習った記憶あり…北アメリカがちょっと違うかな以外は現代の地図とほぼ合致する正確な作り🌏…当時の人々に大きな影響を与えたそうです。これはその写しであり原本では無いと解説文にありました。それにしても館内の展示品の中で一際目立つ存在に見えたのは確かだと思いました

「寿像」という言葉をここの展示で初めて知った私…「生存中に描かれた肖像画」という意味だそうです。日本史に出てくる肖像画の多くは死後に描かれたものが多いそうなので、レアパターンと言えばそうなるのでしょう🖼️

5枚目の画像は土屋氏が土浦藩を治める前に主となっていた小田氏…小田政治(14代目)と氏治(15代目)の寿像…生きてる間に描かれた…という事は、本人を目の前にして描かれた可能性がありますね。となると結構リアルに描かれた…信憑性の高い肖像画?

政治は北条早雲あたり…氏治は織田信長あたりと同時代の人間…氏治の代には小田城という城があったそうなのですが、氏治の代に周辺と攻防戦を繰り広げて小田城を追われ土浦城に入った…と解説文。ジオラマによると本丸には当時、御殿が設けられていたようなので(今は無くただの広場)そこに住んでいたのでしょう🏯

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天候不順の中 (2023/11/18 訪問)

 昨年に続き今年も登城してきました。子供の頃から何回も来ていることもあり親しみを感じる城址です。この城の見どころのひとつは石垣だと思っています。ここの石垣は1539年頃の斎藤道三からの時代と1567年頃から始まる織田信長以降の時代の2期に分かれるということです。また大型の石材を使用した巨石石垣があるのが特徴のひとつです。石垣を意識しながら散策してみました。天守閣と上台所の間にある石垣は一番気に入っている場所です。石垣・井戸跡の説明板付近から見るのが好きです。他にも所々残っていて楽しませてくれます。裏門付近にも石垣があるとのことで行きましたが、見つけられませんでした。
岐阜市は「史跡岐阜城跡整備基本計画」を策定し、発掘等が進められていると思いますが、これからも多くのことが明らかになることを期待しています。
山麓城主居館跡は、今回はさらりと散策して退散しました。
 この日は天候が最初は曇り空だったのですが、突然雨が降り出したりして不安定でした。風も強くなりロープウェーが止まるかもしれないと思い早めに下山しましたが、降りてきたらしばらくして晴れ間が見えるようになりました。

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くうくう

毛利輝元が築き福島正則が受継ぎ江戸期は浅野家12代が城主を務めた

国史跡。日本三大平城の一つ。城の構造は大坂城を参考とし縄張は聚楽第に範を取ったと云う広島城は、往時は3重の堀をもち最大で88の櫓があった(内二重櫓35)。が、原爆投下で灰燼に帰す。五重の大天守は1958年外観復元された。平成に入り二の丸の平櫓・多聞櫓・太鼓櫓および表御門の再建、整備された。

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ぎりょう

日良館(ひらだて)宮城県栗原市志波姫沼崎淀  (2023/11/11 訪問)

埼玉県にお住いの城館研究者の方が数年ぶりに当地を訪問されて、栗原市方面にご一緒しました。先ずは旧葛西氏領内において随一の平城といわれる日良館(比良館・平館・古館とも)に。この場所は永承6年(1051)に源頼義が陣を張った場所で、その後に館を築いたという伝承があります。また文治5年(1189)の奥州合戦後に奥州総奉行葛西氏の一族沼田氏がこの館を復興して、天正18年(1590)の奥州仕置で主家葛西氏と共に滅亡するまで館主として居住しました。その後館は廃城となるのですが、沼田氏の家老職を務めた小野寺氏が肝入を勤め、現在も子孫の方が居住しています。城地は国道398号から北に入った、遠目には田んぼの中のこんもりした林がある農家にしか見えない場所なのですが、北西3kmには奈良時代の伊治城跡もあり、早くから開けた地域だったのでしょう。
館の規模は東西120m、南北140m、比高は3mほどの平場の四方に外側は水壕、内側は空堀、土塁で囲み防御する縄張でした。北側の一迫川方向は現在水田となっていますが、往時は湿地で北側の護りとなっていたのでしょう。主曲輪跡は現在畑となっていますが高低があり、南西隅が一番高く、その外側に二段のL字状の曲輪がつながるように見えます。外側の水壕は埋立られているようですが、南側と東側の空堀は現在も土塁とともにかなり残っており驚かされました。
地方の中世城館は昭和時代は畑など耕作に利用されてきましたが、昨今は放置されていることが多く、藪や雑草が生い茂り確認が困難となっていることが多いです。日良館も同様でしたが、早春に再訪し空堀や南西側の虎口跡とおぼしき箇所を確認したいと思いました。
東北自動車道築館ICから国道4号線、398号線経由7.5km、12分
東北新幹線くりこま高原駅から2.5km、車で5分、徒歩30分
参考文献「旧志波姫町史」「史料仙台領内古城・館 紫桃正隆」

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イオ

田沼意次の城 (2023/08/06 訪問)

平安末期に相良氏が築いた相良館、戦国末期に武田勝頼が築いた相良古城を前身とし、徳川家康の鷹狩用の御殿、江戸期の相良藩の陣屋を経て、江戸中期に田沼意次が三重の天守を擁する近世城郭に大改修しました。松平定信が老中になり田沼意次が失脚すると、相良城も廃城となり徹底的に破却されましたが、江戸後期に移封されていた田沼氏が復帰すると相良城跡に陣屋を構え、明治まで続きました。

徹底的に破却されたことにより遺構はほとんど遺っていませんが、本丸跡に相良城趾石碑と田沼意次候銅像、相良城本丸跡の石碑、牧之原市史料館が建ち、二の丸跡には土塁とクロマツが遺り、説明板と相良城図が立てられています。

萩間川に架かる湊橋の南詰には、仙台藩主・伊達重村から贈られた石材によって造られた仙台河岸の石垣が遺っています。また、仙台河岸近くの大和神社の道路沿いには田沼街道の起点石標がありました。近年では再評価が進む田沼意次ですが、意次が架けたとされる湊橋により陸運(田沼街道)が、千石船が横着けできたという仙台河岸により水運が発展し、相良城下の繁栄につながったことから、賄賂政治家と長らく貶められながらも地元では支持され続けてきたんでしょうね。

相良城から北北東に20㎞あまり離れていますが、藤枝宿の大慶寺(藤枝市藤枝)には相良城の御殿が客殿として移築されています。なお、大慶寺は田中城の祈願寺であり、田中藩士の墓所も設けられています。田中城のほうがよほど近いですからね。

さほど見どころのある城ではありませんが、資料館は時間に余裕がなく見送り、能登守利信さんの投稿にある小学校裏手の三重櫓模型も見落としてしまいましたので、いつか再訪したいものです。

…と、これで今回の駿河遠征はおしまい。駿府城の天守台発掘調査現場を前日に行けていれば、あと持船城と小山城にも行くつもりでしたが、やむを得ません。ニッポン城めぐりの静岡イベントも完全制覇しましたし、充分に満足できる遠征でした。
 

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天守無しがアツい

石田三成の居城 (2023/10/29 訪問)

ボランティアガイドの待機する小屋があり、「この先に天守跡への入り口がある。往復で1時間」と説明を受け、その道を歩きました🚶‍♀️

道は狭く、人1人がやっと通れる山道…反対方向からやって来る客を見かけたら傍に逸れて先に通ってもらうようにしました。ここの標高は230mほど…鳥取城ほど急な坂には感じませんでしたが、ガイドの話していた所要時間どおりの道のりとなりました⛰️

頂上の天守跡にあるのはお地蔵さん…ベンチ…それくらいでした。地蔵に佐和山城到達成功の礼を述べるお祈りをし、時間の許す限りその辺りをウロウロしました

「石垣が2つほど残ってる」とガイドから事前情報として案内されており、その際に受け取った地図を元に行き帰りの道とは反対方向に降りてみると、確かにありました…🪨🪨

彦根城建設の際に、木材石材のほぼ全てがここから持ち去られ、天守跡は原っぱ…かつてここに天守が存在したことを示す唯一の痕跡がこの石垣…

けれどよく考えてみれば、今ほど機械文明の発達してなかった時代…木材石材をどうやって麓まで下ろし彦根城まで運んでいたのでしょうか?アルパカみたいな重い荷物を背負う運び屋がいた?それとも下り坂だから力任せに転がした?(事故になりかねんな😅) 何にせよ今より大変だったのは確かそうです

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きよまさ

三の丸尚蔵館 (2023/11/15 訪問)

皇居内にある三の丸尚蔵館がリニューアルオープンしたので、展示を見てきました👍️
「皇室のみやびー受け継ぐ美ー」という展覧会で、蒙古襲来絵詞などの国宝が並んでいました。

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天守無しがアツい

小田原一帯が見渡せる (2023/11/04 訪問)

石垣の積み重ねによる巨大な壁が来訪者を圧倒します。奥に進むと幾つかの曲輪があり、二の丸…そして本丸が見えてきます。

本丸は少し急な坂を登ったところにあります。ただ…ここには石垣こそ散らばっているけど、天守は残っておらず、賽銭箱を備えた小さな祠があるだけ…

あと本丸の草むらにニョロニョロ動くものを見かけました…どうやら蛇のようです。うっかり踏んでしまって噛まれないように足元には御用心ください

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天守無しがアツい

木々に覆われた城跡 (2023/11/18 訪問)

城跡の内部はロープで覆われており、立入禁止を匂わせたので周囲だけ歩くことに…周りは木々に囲まれており森林浴でもしてる気分になりました…城跡を挟んで案内板の反対側に来ると川(境川)が見え、城跡のある場所は高さ10メートルくらいの崖になりました…案内板の説明にもあったのですが、この崖が天然の要塞の役目を果たしていたそう

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ペドロ

美しき明石城 (2019/07/07 訪問)

 阪神戦の応援のため神戸宿泊したおり、明石城を訪ねました。明石が大洋漁業(現:マルハニチロ)創業者中部氏の故郷とは知りませんでした。父が大洋漁業のOBなので不思議とご縁を感じ、中部氏の銅像に一礼して入城しました。
 明石城の3重の櫓は、正面から見て2基(3重櫓は全国で現存12基)、とても美しく観光資源としても価値があります。また、明石城には石垣が多数残っている点も素晴らしいです。私は、誰からも見られることのない、木や緑に隠れている石垣を見学しました。明石城もまた、それらの石垣やエリアには、石垣の上に大きな木が成長し、その根が石垣を時間をかけて歪ませている状況を確認しました。史跡公園としての緑を維持しつつも、歴史遺産としての石垣の維持から、石垣の上にある木は伐採して欲しいと思います。縄張が確認出来るよう改善されること、景観が開け眺望ポイントとして来場者が増加する等、綺麗であれば史実に基づいた門や櫓の復元機運の増加も期待され、観光資源として付加価値がつく場合もあります。
 私は、明石城から遠く明石大橋を眺め行ってみたいと思いました。それが2023年10月に神戸から明石大橋経由、淡路島、四国、尾道旅行へと繋がりました。明石焼きも食べたいので明石城は何度でも訪ねてみたいお城のひとつです。

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チェブ

『たかね』と『こうげん』 (2023/10/14 訪問)

前回の「金杉城」から「高根城」まで歩きました。私は、迷いに迷って30分位かかりましたが、皆さんなら、もう少し早く到着できます。
「金杉城」から「高根城」まで、距離にして1,5㎞です。

「高根城」は高城氏の居城です。
『お城を探す』の「高根城」を示す場所は民家がありました。
写真③④⑤が、その場所です。
なんとなく、雰囲気があるので写しましたが、遺構かは分かりません。
近くに『高根寺』があるので、そちらに移動しました。お寺の方の読みは『こうげん寺』なんだそうです。
「高根城」の城主、高城氏の奥様の菩提を弔う為に創建されたんだとか。
高城氏のポイントが上がります\(^-^)/
山門を見上げ、振り返れば『秋葉神社』がありました。写真①は『秋葉神社』から『高根寺』を写しました。
こちらも、「高根城」の1部となるそうです。

「高根城」からは、東武アーバンパークラインの『塚田駅』が近いそうです。
携帯のバッテリーが少なくなってきたので退陣、『ここから一番近くの駅』とGoogle検索したら『塚田駅』がヒットしました。
しかし、写真⑦(廃棄物処理場の横)⑧(私有地じゃないかと心配になった階段) のような、通って良いか不安になる道を案内してくれました。

「城ノ台城」→「佐津間城」→「金杉城」→「高根城」と、この日 攻めました。
久しぶりのトレッキングシューズで歩いたのですが、1ヶ月たった今でも、足の両親指は赤黒いまま。

日頃の運動不足を反省した「高根城」攻めでした。

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ぴちょまる

津山城 (2023/11/15 訪問)

大きな石垣群が見事な城で、南側の備中櫓が見える側で、秋は北側に石垣を谷に見立てた紅葉谷がある。
曲線を描く扇形であったり、直線で積まれていたり、色々な石垣を見ることができる。
あまり雨が降らない場所だと思っていたが、石垣のところどころに水を吐き出させるためと思われる穴も
何箇所かあった。

本丸から南側に突き出た場所にある復元の備中櫓、防衛の要かと思って中に入ってびっくり、畳敷き。
しかも茶の間まで存在しており、完全に居住空間となっている櫓だった。
天守台に石垣にハート型の石がある。けども少し欠けているような…

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ぴちょまる

備中松山城 (2023/11/14 訪問)

現存天守のうち、唯一の山城だけあって、一番登城するにもキツい城でした。
車で登れるふいご峠も、すれ違いのできない細い道なので、基本ピオーネ交通か備北タクシーを利用することになります。
乗り合いタクシー利用する場合は前日の17:00までに予約が必要なので、注意を。
これを知らずに高梁に行ったのですが、個人でも心良く送迎してくれます。
下るときも、車の空き状況次第ではあるものの、15分程度で迎えに来てくれるので、時間を気にしないで廻りたい人は
乗り合いを利用しない方が良いかも。
観光案内所では、40分もあれば主要なところは見て回れますよ、と言われたけども、結局200分ぐらいは居たので。

真田丸のOPにも利用された大手門辺りの巨岩を利用した石垣、現存する土塀、10箇所ほどある櫓跡(全て石垣)、現存天守に
猫城主さんじゅーろー、複雑な巨岩の上に建つ現存二重櫓など見どころは多い上に、更に奥地には、鎌倉時代の大松山城跡もある。
今回は現存天守が目的だったので諦めました…

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くうくう

尾張名古屋は城でもつと詠われた名城

日本三名城。江戸城天守、大坂城天守が江戸初期に焼失したため、江戸期を通じ高さ容積など日本一の天守として名高い。1945年5月14日の空襲で焼け落ちたのは残念なことだった。小天守と橋台によって連結した層塔型天守は1959年に銅瓦葺の外観復元天守として再建された。他にも2018年に本格的に復元された本丸御殿。現存し、重文指定を受けた3つの櫓、西南隅櫓、東南隅櫓、西北隅櫓など見所は多い。

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くうくう

7つの石塁が復元整備された国史跡

高さ20mほどの丘陵に珊瑚性石灰岩の石塁がある。15基確認、7基が復元された。グスクに類似しオヤケアカハチ居城跡の言い伝えもあったが、最近の発掘調査などから石塁を伴う集落の可能性が強いらしい。実際2mほどの石塁が周辺に散見するが、攻撃的あるいは守備的な構造は感じられない。平らな広場にはきれいに芝生が張られていた。

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くうくう

日本最南端の有人島「波照間島」のグスク

ぶりぶち公園の碑があり公園になっているが、荒れて半ば密林の薮になっている。野積みの珊瑚性石灰岩の石塁がめぐる。段差のあるいくつかの曲輪に区切られている。ハブはいないと言われているので思い切って踏み込んでみた。城砦らしさを感じるが全体の構造は把握し難い。北側の曲輪から西表島が望める。

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