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じゅんじん

JA消滅 (2023/06/10 訪問)

前回はあったJAが更地となり立ち入り禁止でした。
登城口がわからず撤退しました。

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じゅんじん

神社 (2023/06/10 訪問)

車がいける最後の地にお社がありました。あとは雑木林でした。

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じゅんじん

夜討ち (2023/06/06 訪問)

講習会で名古屋に来たので夜討ちをかけました。

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スティクラ

2年ぶりの丸亀城 (2023/09/08 訪問)

前回は2年前に来城。
ちょうどオリンピックの聖火ランナーの四国を走っていた時期だったような気がした。

丸亀駅から徒歩で向かい、外堀を一周。
前回の訪城から引き続き、石垣の修復中だったが、改めてみると広範囲で、完全修復にあと何年かかるのか…。

天守の登るための最大の難所が見返り坂。
猛暑の影響もあるが、かなりきつかった。
他の天守に比べると小さいので、がっかりするかもしれないが、景色が見事なので、登ってみる価値は十分にある。
見返り坂付近から見える石垣も見事です。

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T-Shionoya

堀の構成が独特な岩櫃城 (2023/04/09 訪問)

岩山の景観と真田の城という点に惹かれ、群馬県吾妻郡東吾妻町の岩櫃城へ。

上野国の山がちな吾妻郡において、政治経済の中心地となってきた中之条盆地。
その南西、吾妻川北岸の岩櫃山の中腹に築かれた城。
南は吾妻川や切沢、背後(西)は切り立った岩櫃山山上部が天然の要害。比較的緩やかな地形の北側は、広く堀が配備されている模様。

残る記録では南北朝時代の吾妻氏に始まり斉藤氏が本拠とし、1563年からは真田氏が城主に。
大阪の陣の1615年頃、廃城となります。

現在は国指定史跡に登録され、岩櫃山の登山道も兼ねる土の城跡。
訪問時は、観光案内所のある平沢登山口から中城経由で本丸へ。
折れを有して一部が横堀的な竪堀は、個人的に初めて見るタイプ。
印象は、割とシンプルだが独特な城。

またリサーチ不足で武田勝頼を迎えるためにつくられた御殿跡が離れた場所だと知らず・・・
急遽、潜竜院跡へ向かうと、岩櫃山らしい岩櫃山が出現。

トータル滞在時間は3時間半。
発掘調査では本丸で金属加工が行われていたという岩櫃城が、私の城郭巡りの153城目となりました。

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しんちゃん

城主片山伊賀は前田利家の遺言で粛清。 (2021/11/18 訪問)

安田城は井田川の左側に位置し、長らく畑地として使用されてきましたが、現在は
城址公園として、整備されています。二の丸から城域に入り、北に本丸、西に右郭が
存在し、周囲を水堀が取り囲んでいます。各郭の周囲に土塁が配され、特に本丸の
土塁は非常に分厚く、まるで土塁自体が一つの郭であるようです。
訪問した時間が遅かったので、写真は暗いです。月まで出てます。申し訳ないのですが
今はこれが精いっぱい。(ルパン風に)
安田城の築城年代は不明ですが、豊臣秀吉の軍勢が佐々成政を討つため白鳥城に陣を構えた時に
前田氏家臣、岡嶋一吉が安田城に移ったとあります。後に前田利長家臣、片山伊賀と岡嶋一吉が
白鳥城に置かれた時、片山らは生活の不便から利長に請うて安田城に下りてきたと有り、
その際に、白鳥城は安田城の詰めの城として位置付けられたと考えられています。
これらは戦国から時代が移るにつけ、城の主役が山城から平城に替わってきたことを感じます。
ちなみに片山伊賀は片山延高のことで、前田利家に家康との内通を疑われ、遺言には片山伊賀には
油断するなとあり、利家死後の7日後に利長の命で石川源太、松田直憲に殺害されています。
親というのはいつの時代も変わらないようです。

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しんちゃん

せっかく城を譲ってもらったんだけど‥。 (2021/11/21 訪問)

安吉城は山島公民館周辺に築かれていたようで、土塁らしき遺構も残っているそうです。
長享2年5月、加賀一向衆徒は守護の富樫政親を高尾城にて自害させましたが、その中に
河原衆(河原組)を率いる安吉(大窪)源左衛門尉家長という人物がおり、この人物によって
安吉城は築かれたとされています。河原衆というのは安吉周辺の一向宗徒のことを指し、
家長はその首領格とみなされます。天文年間に城を家臣の窪田大炊介に譲って出家し
浄土寺を建て、了海と名乗ったと伝わります。
天正8年、安吉城は柴田勝家によって落とされ、指導者19人の首が信長に進上されましたが
その中に窪田大炊介も含まれていたようです。
「越登賀三州志」によると主郭の大きさは長さ45間、幅33間で北方に枡形とあり
牧忠輔の図だと長さ40間、幅20間で北方に10間四方の郭とあります。
1間=1.82mと考えればわかりやすいと思います。2倍して1割引いてやれば良いわけです。

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イオ

矢島御所(滋賀県守山市矢島町) (2023/07/15 訪問)

矢島御所(城びと未登録)は、戦国末期に奈良を脱出した覚慶の居館として六角承禎の命により築かれた城館で、覚慶はこの地で還俗して足利義秋(後に義昭)を名乗り上洛を目指しましたが、六角氏が離反して三好三人衆と結んだことから、矢島御所を離れて若狭国から越前国に逃れました。江戸期には大溝藩分部氏の飛地領となり、御所跡には野洲郡内の領地を管理する矢嶋分城が設けられたようです。

矢島御所は二重の堀と土塁をめぐらせた城館だったとされますが、現在では跡地には自治会館が建ち、周囲にわずかに堀や土塁の痕跡が見られるくらいです(私は見付けられませんでしたが)。自治会館の前には矢島御所の石碑と説明板、矢島町~歴史と安全マップ~が立てられています。

また、矢島御所の比定地は自治会館でなく、西に徒歩3分の少林寺とする説もあるようなので、少林寺にも行ってみました。一休さん(アニメ)で知られる一休宗純ゆかりの禅寺で、立派な庭園もあり御所らしい雰囲気が感じられます。一休の手植えと伝わるギンモクセイや一休さんの銅像もありました。
 

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しんちゃん

御幸塚城攻めで猛将・佐久間盛政が活躍。 (2021/11/21 訪問)

御幸塚城は今江小学校の南の丘陵に築かれていて、公園として整備されています。
周辺の道路や公園内の構造から高低差を感じる構造になっていて、城址の雰囲気を
感じ取ることができます。最高所のこんもりとした部分が古墳のようで城址碑が立っています。
城郭体系に記載されている古図を見ると本丸の周辺から東側にかけて城域が広がっており
小学校の周辺や、東側の工場一帯まで城域に含まれていたものと思われます。
天正4年(1576)一揆方の内田四郎左衛門や林七介らが、この城から出撃し、大聖寺城の
織田信長配下、戸次広正を攻撃したと有ります。信長は守将を佐久間盛政に替え、
佐久間は徳山則秀と共に敷地天神城を落とし、徳山の策で内田と林の両氏を寝返らせ
落城させたと伝わります。慶長5年の関ヶ原の合戦の際には前田利長が山崎長徳、奥村栄明、
太田長知らを布陣させたとあります。

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しんちゃん

詳細不明の領主クラスの館跡。 (2021/11/21 訪問)

勅使館周辺は奈良時代から中世に至る遺跡が数多く存在し、勅使小学校建設に伴う
発掘調査で良好な状態の遺跡群が検出されています。館の主としては勅使河原右京や
河原四郎左衛門の名が挙げられています。どうやら花山法皇の勅使としての伝承が
その名の由来のようです。調査の結果、東西150m×南北200mほどの範囲に館跡と
見られる遺構が発掘されたようです。第二次発掘調査で6間×4間という大規模な
建造物の跡が発掘されています。さらに石垣によって築かれた塁状の遺構と
内堀状の遺構も発見されています。累状(土塀?)の遺構は東西80m、南北160m
程と見られ、内堀と外堀を結び、水量調整を図ったと見られる水路跡も発見され
規模から見て、領主クラスの人物の居館ではないかと推測されています。

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しんちゃん

廃れた後は学び舎として復活。‥できたのだろうか? (2021/11/18 訪問)

福光城は福光館とも呼ばれ、「福満」という書き方もしたようです。周辺の交通の
要衝でもあり、平安末期の石黒光弘の時代に築かれたものと考えられています。
「越中古城記」には東西27間、南北16間とされているので、49m×29mほどの広さになり
当時はまだ土塁が残っていたそうです。付近に「殿館」「高土井」「馬場」などの地名が
残っているらしく、城址の一角に栖霞園が残り、案内板が建っています。おそらく
上記の広さは主要な部分で、周囲にも城域が広がっていたのでは無いでしょうか。
文明13年(1481)石黒氏は井波瑞泉寺の一向宗徒との争いで敗れ、城址は荒れ放題に
なっていたそうです。慶応年間(1865~68)前村礼蔵、波多易直らが学問奨励のため
漢学者菽園と弟の半仏を招き明治2年(1869)に郷学所を建て栖霞塾と称したそうです。
でも明治には政府が学校をあちこちに建て始めるので、時代が追い付いてきちゃってますね。
微妙なタイミングですね。

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しんちゃん

様々な勢力が使った城。立地が良いのだろう。 (2021/11/18 訪問)

富崎城は山田川の南に接する丘陵に築かれています。周囲は田原で、東側の虎口周辺に
案内板が立てられていて、そこから主郭に侵入します。主郭内には城址碑、井戸があり
内掘を経て二郭に侵入します。城の周囲は外堀で覆われています。案内板を見ると
主郭と二郭の間に小さな郭があり馬出しの役目をしているようです。もともとは
越中の有力武将、神保氏の支城だったらしいのですが、神保長職の時代に上杉謙信に
攻められ、下ったとも討死したともあります。元亀2年(1571)には長職の旧臣水越氏が
一向一揆とともに籠ったため、9月に謙信に攻められ城は焼き払われたと有ります。
その後もさまざまな勢力に使われましたが、佐々の支城の時代に佐々が秀吉に降伏した
前後に廃城になったと思われます。

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しんちゃん

出てこなかった小判千両 (2021/11/18 訪問)

上見城は北側の主郭と南側の副郭の二郭が確認でき、二郭の周辺には土塁が残り、
東側の虎口から侵入し、北側の虎口から主郭に向かいます。主郭の西側あたりにも
土塁が残っているようです。上見城には天正年間(1573~1591)に篠原太左衛門が
居城したとされています。「越中古城記」によると城域は東西17間、南北40間と
有ります。換算すると東西31m、南北73mとなります。城郭大系には落城らしき
記述があり井戸に小判千両を入れた箱を沈めた言い伝えがありますが、調査では
錆びた薬研と刃物しか出てこなかったようです。今では石で塞がれていますが
調査員(?)のちょっと残念そうな顔が浮かんできますね。

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しんちゃん

井口城 +蛇喰館(オマケ) (2021/11/18 訪問)

井口城は14世紀初めに井口氏が居住したとされる城で今は田畑となり
墓地の一角に石碑が建っています。
主郭の東に二ノ郭が会ったようで周囲は大きな堀で囲まれていたようです。
東南部の堀は二重だったらしいと案内板には記載されているのですが、今では遺構は
すっかり埋まっているようです。
南側の近くに蛇喰館があったので、一緒に写真を掲載します。現状、水田ですが
台地状に張り出しており、あぜが土塁や切岸を思わせます。城郭放浪記さんに
よると一辺70m規模の方型居館と見られ、堀跡、掘立柱建物跡、井戸などが検出されたとのこと。

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しんちゃん

白川郷  (2021/11/18 訪問)

北陸遠征の前にちょっと白川郷に寄り道をしました。夜通し走ってきたので、まだ明け方くらいで、
人はほとんどいません。当然店も閉まっているので(空いてる店もありました)
ゆっくり郷内を散歩します。
早起きの地元のおじいさんと同じような状況です。
それでも十分楽しめます。であい橋を渡って郷内を散策した後は、展望所付近までいって撮影。
展望所はこの時間、閉まっていたと思います。
ライトアップなどの特別なイベントの際は人がいっぱい集まって大変だとか。
今考えると贅沢な寄り道でした。

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能登守利信

呟き (2023/09/09 訪問)

家山駅下車、徒歩20分の川根文化センターにて電動自転車をレンタル、約80分(省エネモードでもバッテリーギリギリ)。登福寺駐車場奥にある大頭龍神社が登城口。山頂が主郭で土塁、虎口、堀切(神社裏手)に確認できます

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赤い城

町のシンボル模擬天守 (2023/09/03 訪問)

公園となっていて山頂部にも駐車場がありますが、最近歩いていないことに気づき麓の駐車場から徒歩で登城しました。
少し登ると模擬の石垣が見えてきます。
その上に模擬の涼櫓も置かれています。
海側には落城時の悲話が残る姫ケ嶽の説明板があります。
草が茂っていて崖感は少ないですが眺望は良かったです。
その先に駐車場があり下側が三の丸、特に遺構もありません。
涼櫓がある二の丸から模擬門を経て本丸へ。
時間が早く中には入れませんでしたが存在感はありました。
史実には無いのですがすっかり町に溶け込んでいるようです。
本丸の石垣には一部当時のものもある、という話もありますが定かではありません。
まぁこれはこれで良いのかもしれませんね。

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ヒロケン

豊後の名城 (2023/08/15 訪問)

日出城は日出港を望む独立した低い台地上に築かれた平山城です。別府湾に面した海城でもあります。本丸を中心に二の丸・三の丸・外郭で囲み、各曲輪を堀でめぐらせています。二の丸・三の丸には、武家屋敷、外郭には商家も配されました。
この日出城は豊臣秀吉公の正室、ねねの甥にあたる木下延俊公が、義兄でにあたる細川忠興公の多大な支援を受けて築いた城郭です。関ヶ原の合戦を経て豊後国日出3万石を拝領し、1601年から2年かけ築城しています。城の設計は細川忠興公、石垣の構築は家臣の穴太理右衛門が、自然石をそのまま積み上げていく野面積みで築いています。

前日14日別府温泉に宿泊し、観光しながら城巡りを行うのに時間が足りず、早起きしての朝駆けで日出城を訪れました。8年ぶり2度目の訪問で、宿泊したホテルから30分弱で到着し、到着時間は5時半、曇り空で時折雨が降る天候です。朝早かったので、駐車場はロープで閉ざされ駐車することが出来なかったので、仕方なく釣鐘のある堀横に駐車させて頂きました。m(__)m

この城の見所は、別府湾に面した海側の石垣だと思います(私見)。野面積みで積まれた石垣が何ともかっこ良く見惚れてしまいます。(*^▽^*)1時間半程の攻城でしたが、満足した時間でした。

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しんちゃん

西の切岸はかなり険しい。 (2021/11/18 訪問)

城端城は城端別院善徳寺が建っている場所に築かれて
いたとされ、善徳寺は戦国期に瑞泉寺、勝興寺と並んで、
加賀一向一揆の中心となりました。
現在の善徳寺は左を山田川、右を池川に挟まれた△形の
台地上に築かれています。寺の西側はかなりけわだった切岸に
なっていて、かつての城塞としての防御力は健在です。
永禄2年(1559)か元亀3年(1572)にかつての城主、荒木大膳が
善徳寺に城の敷地、城門を寄進したと有ります。

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しんちゃん

兼六園 ライトアップ (2021/11/18 訪問)

2021年11月 北陸へ行ってきたのですが、この時期
コロナも沈静化してきており、各地の観光地にもお客さんが
戻ってきているようでした。
わたしも2020年は城めぐりを自粛していたのですが、この年から
城めぐりを再開しています。
この日は、兼六園のライトアップを見てきたのですが、昼間とは
また違った雰囲気で楽しませていただきました。
帰りは近くの城山亭で治部煮をいただいたのですが、なかなか
おいしくいただけました。個人的に好きな味なので、自分でも
何回か作ってみたりしています。
なぜ金沢で治部少輔なのか?という疑問はありますが、じぶじぶ煮る
から、じぶ煮をいう説もあるようです。でも治部少輔の名が
こういった形で残っているのも少しうれしかったりします。

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