小牧・長久手の戦いの前哨戦である蟹江合戦の時、城主の山口重政は母を人質に取られながらも徳川方に味方し、秀吉方の敵を撃破したと云われます。
低い土地にありますので、遺構は震災や水害で失われたことが想像されますが、道路に分かり易い標識があり、立派な石碑もあり、ありがたいです。
+ 続きを読む
✕
人が「いいね」しています。
2020/12/15 22:57
2020/03/20 17:58
蟹江城の支城天正地震で壊滅か? (2020/03/17 訪問)
蟹江城を終えて西に1,2km程の日光川沿いの大野城に初登城。
情報とガイドは古城盛衰記さんグーグルマップで城址を確認して目的地を城址碑の在る場所に合わせ進行し車は案内看板の在る畑中道に路駐、離合が問題ない広さ。
大野城は蟹江城の支城で小牧長久手合戦の中で蟹江城と蟹江合戦の役割を果たした、ここも天正地震で大きな被害を被りそのまま廃城か?
周り田圃の中に城址碑が建てられており日光川河川改修の前の川が三日月湖として残ってる、お往時は河川沿い周りは湖沼、潟地と地盤緩く水で守られ要害地が天正地震で地盤液状化、津波などで壊滅的被害が思われます。
ここの日光川を北に上れば信長の勝幡城、蜂須賀氏の蜂須賀城にたどり着けます。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2019/09/26 21:52
田んぼの中に記念碑が建っているだけだが (2010/05/02 訪問)
明智光秀・柴田勝家を破った羽柴秀吉でしたが、織田信雄(信長の次男)・徳川家康と対立し、小牧・長久手の戦いが発生してしまいます。
この戦いの最終局面がこの近辺の蟹江城(海部郡蟹江町)を中心にして、おこった蟹江合戦と呼ばれるものです。
もともと大野城は蟹江城の支城としてつくられ、徳川側の城でした。
しかし、秀吉は蟹江城を味方に付けてしまいました。
大野城主の山口重政は母親を人質に取られましたたが城を守りきり、蟹江城も取り返すことができました。
この戦いが小牧・長久手の戦いの決着をつけ、和議となったといわれています。
ゆえに秀吉は、この後に天下統一を成し遂げるのですが、家康に一定の地位と力を授けざるを得ませんでした。
この地での戦いが江戸幕府成立につながると思うと感慨が深いです。
蟹江合戦の翌年の天正十三年(1585)大地震により大野城は崩れ落ち、その大部分は地中に埋まってしまい、廃城になりました。
このあたりは水郷地帯であり、河川が堀の役割をしていたことが容易に推定できます。
現在では、田んぼの中に記念碑が建っているだけです。
+ 続きを読む
♥ いいね
8人が「いいね」しています。
2019/08/17 21:38
田んぼの中に (2019/08/17 訪問)
JR永和駅から徒歩10分くらいです。蟹江城の支城で遺構はなく、田んぼの中に碑と案内板が立っています。
+ 続きを読む
♥ いいね
5人が「いいね」しています。
分類・構造 | 丘城 |
---|---|
築城主 | 佐久間信栄 |
築城年 | 天正12年(1584) |
主な城主 | 佐久間信栄、山口重政 |
廃城年 | 天正13年(1585)? |
遺構 | 消滅 |
指定文化財 | 市史跡(大野城址) |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 愛知県愛西市大字郷前(地図は石碑の場所を示す) |
問い合わせ先 | 愛西市役所八開庁舎教育委員会社会教育課 |
問い合わせ先電話番号 | 0567-37-0231 |