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じゅんじん

2回目 (2024/03/29 訪問)

歴史館にもいけました。

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じゅんじん

小牧山 (2024/03/28 訪問)

堀や土塁の復元が進んでいます。

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T-Shionoya

吉良の東条城 (2024/01/27 訪問)

前回投稿した本證寺訪問の後、近くでの用事を済ませて訪れた愛知県西尾市の東条城。

当時の矢作川を挟み、吉良荘西側の西条(西尾)城に対する東側の拠点。
幡豆山地麓の比高約20mの小山に築かれた城で、南側は湿地に守られていた模様。

築城時期は定かでないが、鎌倉初期に三河守護に就いた足利義氏が三男吉良吉継を置いたことが始まりとされ、以後16世紀中頃まで東条吉良氏が継承してきた居城。
家康時代になると三河一向一揆の後に松平家忠と松井忠次が入り、1580年代始めに廃城となりました。

現在は帯曲輪から本丸に掛けて古城公園として整備され、二の丸は八幡社に。
以前は本丸に城門と物見櫓が復元されていたが、老朽化により撤去されたとのこと。

実際に訪れると、予想よりも城跡らしい城跡。
2つの冠木門が設置されており、本丸虎口の土塁も復元でしょうか。
二の丸北東部には土塁跡、本丸北東隅の藪の中にも小さな土塁だか櫓台だかの跡が存在。

滞在時間は1時間弱。
吉良の小さな城が、私の城郭巡りの173城目となりました。

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しんちゃん

陶氏館 山口県周南市 (2024/01/02 訪問)

ぴーかるさん 佐味城登城おめでとうございます。‥こないだも言ったような? 

陶氏館の投稿です。陶氏は大内氏の庶流・右田氏から分かれた家で大内氏の重臣です。当館は南北朝時代に北朝方の鷲頭氏と戦うために陶弘政によって築かれたとされています。現状は公園になっており、主要部を平城(ひらじょう)と呼び、南に一段低い箇所を新殿(にいどん)と呼んだそうです。周囲には上野の城山、七尾城、本城若山城(城びとの城)など陶氏の山城が配されているようです。

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ヒロケン

忠臣蔵の舞台 (2024/05/02 訪問)

赤穂城は、1645年常陸国笠間から53,500石で入封した浅野長直が藩の家老で軍学師範であった近藤正純に築城設計を命じ、1648年から1661年までの13年間を費やし完成させた城です。本丸と二の丸は輪郭式に、二の丸と三の丸は梯郭式に配置し櫓10か所、門12か所、枡形5か所を設けて防備の要としています。城は、千種川が形成した三角州の先端に立地している為、典型的な平城であり、また往時は二の丸の南半分と三の丸の西側が瀬戸内海に面していたので、海城であったことも大きな特徴です。(パンフレットより抜粋)
そして、江戸城松の廊下における藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に斬りつけた刃傷事件に端を発し、四十七士の吉良邸討ち入りえと続く「忠臣蔵」の舞台となった城です。

赤穂城へは11年振り3度目の訪問で、岡山の実家から豊橋に帰る際、二の丸庭園等見学していなかったところを見に立ち寄りました。
甲州流軍学の粋を尽くして築城されたという城は見応えがあり、感心させられます。また、城内にある赤穂大石神社に立ち寄り誓願成就をお祈りされるのも良いのではないかと思います。私は、「宝くじ」に当たる様にお祈りしてきました(*^▽^*)

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ぴーかる

やっとたどり着いた (2024/03/09 訪問)

【佐味城】
<駐車場他>駐車場はなし。高鴨神社参拝者駐車場に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>横堀・土塁・曲輪
<感想>朝6:30に上記高鴨神社に到着し、持参の朝食をいただく。高鴨神社に参拝し佐味城に向かう。神社から登城口までは徒歩12分程なので安心して駐車できて置けます。城郭の歴史や構造は先達の方々が記述しておられるので割愛し、状況の補足説明しておきます。
 墓碑のある所からが遺構(麓の曲輪)で柵を開けて登り始めた左手に堀跡があります。登り始めてすぐに、しんちゃんさんの記述にあった礫石が沢山落ちています。この礫石、ここに櫓台があったのか、上から徐々に落ちてきて溜まったものなのかは分からないが、石積みの石と思われます。(理由は後述)左手に登山道と並行して竪堀が落ちてきています。登山道はかつての大手道だったと思います。木に白いナイロン紐が巻かれているので沿って進めば途中倒木がありますが大手虎口にすぐにたどり着けます。
 城の外郭をはしる横堀ですが、大手虎口のある東辺は切岸が高く、掘った・削った土を外側に盛って土塁としています。南辺は掘り込みが深い。西辺は山側にあたりますが、堆積かもですが相当浅くなっています。
 主郭にも横堀があり、東面と南面の横堀が深い。東に1か所、南に2か所虎口があり土橋で渡してあります。主郭内部に南北に長い、横幅のあまりない、暗渠のような堀のような凹みがあります。その手前が特に平地になっているので建物跡かもしれません。
 前述の礫石について。前述の場所と、大手道土橋状の土塁と、城跡の南東部の曲輪群の曲輪と曲輪の間の堀状通路の低地に多く溜まっています。特に堀状通路の低地に溜まっている礫石(写真添付)は表面観察でこれほど溜まっているのが見られるので近年に石垣から崩落して溜まったものと思います。土の中に相当石が埋もれていると思います。どこかに少しでも石垣が残っていれば裏付けがとれると探しましたが、これまた全然残っていないのが謎とロマン、想像力を搔き立てられます。
 城の成り立ちについて、とある煩悩の登城目録さんの記述にあった寺院・城郭寺院に関連がある事、実際見て私もそう思いました。理由は①大手虎口から主郭まで一直線の大手道がある。②大手虎口・主郭虎口に枡形等の防御設備が見られない平虎口であること。③主郭に虎口が3か所以上もあること。④一概に全てだとは言えないが、直線の道の両脇にひな壇状に曲輪群が並んでいる構造、滋賀県の弥高寺跡の構造にも似ている。

 見ごたえのある、満足度の高い城跡を見逃していました。私のマイベスト奈良の順位は椿尾上城の同率2位に位置付け修正しておき、全部で11城になります。

<満足度>◆◆◆

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しんちゃん

景徳院 武田勝頼一家の墓所 (2017/12/16 訪問)

景徳院は甲斐国国主・武田勝頼が一族と共に滅んだ甲州市大和町田野の地に建てられています。勝頼一家と家臣の慰霊のために徳川家康によって創建され、境内には勝頼一家の墓や生害石(自害したさいに坐した石)、辞世の句碑などが残っています。
「武田家終焉の地」という扱いになりますが、私が訪問した時にほぼ人がおらず、非常にさびしげな印象を受けました。勝頼公の宝篋印塔に刻まれた銘文によると、二百回忌である安永4年(1775)に建てられた供養塔で。両脇に信勝公と北条夫人の供養塔が立てられています。

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しんちゃん

天然の要害に築かれた北条方の出城。 (2023/11/26 訪問)

奥牧野城に行ってきました。地図で見ると簡単に主郭に行けるじゃんと思って行ってみたら通行止めじゃない。しまった、もっと城人の皆さんの投稿を読んでおくんだった。いいんだ、迂回して歩けばいいじゃん。というわけであらためて奥牧野城に到着です。
来る途中に沢があり、小川が流れていました。水の手は問題なし、結構急だけどあのへんから降りるのかな?とか考えながら歩いていました。古城盛衰記さんの記事によると武田氏に備える北条方の出城だそうな。たしかにそんな雰囲気がありますね。構造は単純で湾曲した秋山川を天然の堀として高所を主郭として東側にも出丸が有るようです。あとは道沿いの北麓に扁平地が連なっている感じ。
あとは来た道をえっちらおっちら帰るだけです。

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しんちゃん

あの島津豊久の居城 (2023/01/08 訪問)

佐土原城は14世紀に伊東氏の一族・田島休助によって築かれたとされています。その後、島津氏の侵攻を受け島津家久が入りますが豊臣秀吉の九州平定後に家久は謎の死を遂げます。その跡を継いだのが有名な島津豊久です。オタク的な話で申し訳ないが私は漫画やアニメの「ドリフターズ」の豊久の印象が強いです。
この日は二度目の来訪だったのでスタンプを押して退散しています。本丸の写真は2014年に最初に訪問した時のものになりますが、さすがに古い感じは否めません。10年たって少しは城の訪問の仕方も覚えたかなと感じる今日このごろです。

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火ノ島豊後守正宗

笠間城 (2024/03/16 訪問)

続74城目。
笠間駅よりバスに乗って5分程度で笠間稲荷神社に到着。神社に参内してから徒歩で5分程度でスタンプがある井筒屋を訪れました。ここで御城印と登城への情報を入手して笠間城址攻略に赴きました。そこから徒歩で40分程度で登城することができました。道はかなり整備されていましたでの山城の登城としてはかなり楽な方でした。

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火ノ島豊後守正宗

水戸城 (2024/03/14 訪問)

正72城目。
JR水戸駅より右側に進んでいくと城内を散策することができます。
城内には幼・小・中・高・大の学校が入り乱れていて学生さんたちによく出会います。
学校周辺を抜けたのちに高名な「弘道館」に到着しました。梅が大変綺麗でした。
その後に偕楽園にも足を運びました。

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火ノ島豊後守正宗

土浦城 (2024/03/14 訪問)

続73城目。
土浦駅より徒歩で15分程度で到着できます。
城址公園入口近くの東櫓にてスタンプと御城印をいただくことができます。
公園内はこじんまりとしていて心が癒されます。

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名城一人旅

日本100名城 87番 (2023/10/27 訪問)

空撮許可を頂きましたので今回で3度目の
攻城です。
私の投稿は主に景色を主体にしていますが、
天守台から見る玄界灘は遠い昔に戦国大名
達が結集して出陣した時の風景を想像し
感慨深いものが有りました。
入城窓口の観光案内所の方々はとても
親切で丁寧な対応をして頂き有り難かった
です。
下城後は今回も名物の呼子の烏賊の活け造り
を食べました。美味しかったです。

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しんちゃん

外国人に紛れて滑り込み入門 (2024/04/19 訪問)

姫路城に向かう前日、久々に二条城に行ってきました。国宝&世界遺産の城をハシゴとか、なんて贅沢な旅でしょう ♪
駐車料金が高いので近場の駐車場に停めて、堀の外周を周って東大手門を目指します。すると入り口で外国人の集団を入れて入門を閉め切ろうとしているようです。排除されてはかなわん‥訪問客の後ろにくっついていきます。
「いれてよ~」
警備員「‥仕方無いな~」滑り込みセーフで入ります。訪問客にまじって受付で外国人のフリをしますが、なんとなくバレているような気がします。まだ明るいけど、閉門までそんなに時間が無いのか。じゃあ一番良いとこを先に見よう。唐門をくぐってまっすぐ二の丸御殿へ!外じんさんがいっぱいいます。御殿内は撮影禁止なので大政奉還の間とか写真を撮りたくなる衝動をぐっと我慢。周囲の外じんさんもだれも写真を撮りません。みんなマナーがいいな~。
今回は時間が無かったので手短にすませた(ほう)のですが、二条城は企画展なども含めてみると、たっぷり2時間はかかると思うので、大手門駐車場の2時間1200円+追加料金は妥当な金額かもしれません。時間に余裕のある場合はこちらに駐車をしても良いかもしれませんね。

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チェブ

村役人もお花見中。 (2024/04/13 訪問)

まさに、桜満開の「桜町陣屋」にお邪魔しました。

「小田原城」の城主 大久保 忠朝さんの三男が分家して陣屋を創設したそうです。
その後、疲弊している領内の建て直しをする為に、二宮 金次郎さんが在陣し、復興しました。
37歳~62歳の頃なので、私達が想像する銅像の金次郎さんより、ずいぶん大人になってからです。
用水路や堰、橋などの整備をしたとありました。
金次郎さんの幼少時代、両親が洪水の被害で疲労し亡くなってます。

「桜町陣屋」は広い駐車場がある、大きな公園でした。駐車場から道を渡ると、レジャーシートを広げている家族が何組かいらっしゃいます。最高なお花見日和です。
土塁は桜の花びらが。
『むかーし昔、お爺さんとお婆さんがいました。』から始まる絵本に登場しそうな建物があります。ここで金次郎さんは日々、天災と戦っていたのでしょう。
敷地を囲むように土塁があり、向こうに神社がありました。向かって左手の狛犬様には、2匹の小さな狛犬ちゃんが纏わり付いてます。

「桜町陣屋」には建物が識別されて分かりやすくなってます。
詰所にも、桜の枝が伸びてます。
尽力を尽くした「桜町陣屋」にお勤めの金次郎さんと名も残らない人々。
美味しご飯が食べられるのは、こんな先人の努力のおかげなんだと改めて思った「桜町陣屋」攻めでした。

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しんちゃん

石垣をみてぶつぶつ‥ 本丸枡形、移築門 (2024/04/14 訪問)

加納城は文安2年(1445)に守護館である川手城を守るために土岐氏家老の斎藤利永によって築かれた沓井城が前身となるようです。関ヶ原合戦の後、岐阜城は破却され、慶長7年(1602)7月から短期のうちに工事がなされ、9月には徳川家康の娘・亀姫を妻に持つ奥平信昌が入っています。本丸を中心に二の丸や厩曲輪・大藪曲輪などを配しており本丸と石垣部分が残っています。
本丸の東側には本丸枡形があり、ここから二の丸に通じていたようです。ぱっと見た感じ石垣にはチャートと堅そうな砂岩が多く使われています。チェブさんの投稿によると破却された岐阜城の石垣が使われているようなので、チャートの部分は岐阜城からお越しいただいた物かもしれません。ご苦労様でした。
この堅そうな砂岩は、産地が近いことから、河戸石かな?名古屋城の二の丸の外側にも多く使われています。ジュラ紀に生成されているので砂岩なのに瓦のように隅部が欠けています。崩れてこないんですね。
本丸部分は公園になっているんですが、広いうえに遮るものがないので帽子や日傘が無いと熱中症になってしまいます。城門がいくつか移築されているようで、元しらかわ代官屋敷の結婚式場には二の丸門が移築されて新婚さんたちの門出に趣を与えています。いい仕事してますね。

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赤い城

中津川河口の海城 (2024/04/30 訪問)

広島から朝出発し、この日の宿泊地である別府へ。
途中中津城に立ち寄りました。

まずは中津からあげで腹ごしらえ、と三光の有名店へ。
からあげ弁当をいただきました(お昼前でしたが何組か後のお客さんで終了でした)。
ここはビールが欲しくなりますが車なので我慢。
中津城に向かいました。

本丸下段が駐車場になっていてまずは外周から、と復元された水掘沿いに歩きます。
中津市歴史博物館はこの日休館、水門跡から駐車場に戻ります。
再度川沿いの道に出て黒田時代の石垣を見学。
神籠石という古代山城の唐原山城の石を使ったものです。

北側に進んで定番の黒田、細川時代の石垣の境目を。
確かに違いが良くわかります。

東側にまわり、こちらも定番の模擬天守を見上げながら一旦大手門跡まで行ってみました。
小学校の前に石垣が残ります。

引き返し本丸へ、模擬天守内は奥平資料館になっていて入城料は400円。
続100名城のスタンプもこの中にあります。
とりあえず最上階まで行き、景色を眺めます。
中津川河口と周防灘が間近に望め、天気が良ければ綺麗だったかと。

この後諭吉さん生家を外観のみ見学し別府に。
奮発してちょっと高級な宿を予約したのでゆったりと宿を楽しむことにしました。
長距離ドライブで傷んだ身体が癒やされました。
やっぱり温泉っていいですね。



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しんちゃん

世界遺産の古墳が本丸 (2019/06/02 訪問)

小山城は2019年に世界文化遺産に登録された古市古墳群の一番北にある城山古墳を利用して築かれています。古墳は4~5世紀ごろのものと見られ被埋葬者は天智天皇の第七皇子・志貴皇子(志紀王)ではないかとされています。
古墳そのものは本丸と見られ、周囲に堀が巡らされていたようです。古墳西側に置かれている津堂八幡社は織田信長の河内攻めの際に焼失したものを享保5年(1720)に津堂古墳後円部頂の西端に移築したものと石碑には記載されています。

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しろりん

大垣市のシンボル (2024/05/09 訪問)

大垣城は1535年に創建されました。江戸時代に改修され、今の4層4階の天守になり、1936年(昭和11年)に国宝に指定されました。しかし先の戦争の空襲で焼失しました。現在の天守は数多く残っていた写真や設計図を元にしたコンクリート造りの外観復元天守です。内部は資料館になっていて入館料200円でした(大垣市郷土館との共通券です)。中の資料館は大きくはないもののコンパクトにまとめられており、大垣城の歴史や関ヶ原の戦い前後に果たした大垣城の役割りなどがよく理解できました。家康の策略に乗らなければ大垣城が天下分け目の戦場になっていた可能性もあったことを初めて知りました。難攻不落と呼ばれた大垣城なので、もしそうなっていたら歴史が変わっていたかも知れませんね🤔。展示資料のうち、弓や火縄銃、槍など実際に手に触れられる展示をしているのはいいな、と思いました。実際に火縄銃を構えてみてその重さだったり、弓の弦を引いてみてその引く力の強さだったりを体感出来て良かったです。四階の展望室では西は関ヶ原、東は岐阜城まで見渡せ、大垣市内が一望できます。

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トク

福岡城天守論争続きです(読売新聞の記事から思う)

またまたこの件の投稿ですいません。今度は読売新聞(5月9日)に、この件について取り上げられた記事がありましたので、またお伝えさせていただきます。

この記事の中に千田先生のコメントがあり、先生は「今の状況で天守を建てるのはハードルが高い。文化庁の許可を得るのも難しい。城の魅力は天守だけではない。資料が残る櫓を復元したり立派な石垣を生かしていくことが、市民が誇りに思える城になる近道だ。」と述べて下さいました。まさに福岡市民である私の今まで言ってきた事を代弁していただいたので・・・今ちょっと感動しています。

どうやら、天守を是が非でも建てようと福岡市長や市の行政を最も後押ししているのは、福岡商工会議所のようです。よって福岡城になぜ天守が必要なのか? その理由を9月を目途に福岡商工会議所が提言としてまとめるとの事です。その提言を基に福岡市長が文化庁へ陳情する形となり、つまりその提言がたたき台となって、いよいよ本格的な議論がスタートするという事になると思います。

いったいどんな提言が出てくるのか楽しみです。そもそもなぜこんな論争が始まったのか? だんだんと構図が見えてきました。この先どんな展開になっていくのか! 何だかおもしろい事になりそうな、そんな予感がしてきました。


詳しくは、以下にその記事がありますので、もしよければ読まれて下さい。
htpps://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20240509-OYTNT50090/
 

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