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彦根城 (2022/10/02 訪問)

天守閣の階段が恐ろしいほど急でびっくりしてしまった…
また玄宮園から見える景色がとても美しかったです☺️

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橋吉

一番新幹線駅に近い城 (2023/01/06 訪問)

三原市歴史民俗資料館の2階に三原城の展示コーナーがあると聞きましたが、閉館5分前に着いたので、続日本100名城スタンプだけいただきました。

クルマを市役所の駐車場に置いて、歩いて見て回ることにしました。

本丸中門跡→JR三原駅→天守台→後藤門跡→船入櫓
とまわって45分

そのあと三原焼をいただきました。
(三原焼きは広島風お好み焼きに鶏もつが入っています。)

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朝田 辰兵衛

駅からの移動距離が一番長いところから。 (2022/12/17 訪問)

JR入谷駅から意外に距離があるな…と感じたので,相模線内でのスタートはここから。18きっぷだと,こんな自由が可能。電車にばかり乗ってないで,さっさと歩きたくなってきたので,ここで降りたという理由も少しあります。
距離的には,小田急小田原線の座間駅からのアクセスのほうがビミョーに近いです。

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ぴろちゃん

鉄砲隊〜‼︎ (2023/01/15 訪問)

知らずに行ったら鉄砲隊の演舞がありました。思わぬ轟音にビックリしましたが、とても楽しくはしゃいでしまいました。桜御門もやっと行けました〜🌸

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T-Shionoya

石垣の関東代表 新田金山城 (2022/11/18 訪問)

昨年11月、桐生宝徳寺の床もみじとセットで、群馬県太田市の新田金山城へ。

上野国の新田郡。足尾山地から関東平野に飛び出た比高約180mの金山を城郭とした城。
新田は東山道の上野国府と下野国府を結ぶ中継点で、古くは東山道武蔵路の分岐点。戦国期も南へ向かうルートが存続していたことでしょう。

1469年に新田一族の岩松家純が築城し、主な城主は岩松氏家臣から下剋上を起こした横瀬氏(後に由良氏に改姓)。
1584年に調略で小田原北条氏が没収し、秀吉の小田原征伐で廃城に。

現在は発掘調査をもとに大手虎口周辺から西城エリアに掛けて石垣の城を復元。
二ノ丸は竹林、三ノ丸は民家のため立入不可で、本丸は新田神社。
比高130m地点に駐車場があり、隣は西城筋違城門の食い違い虎口。本丸に向けて尾根上を進むに連れ、徐々に石垣が増すコース料理のような城。
メインの大手虎口は、直進を阻む正面土塁石垣もポイント。デザートに日ノ池が現れ、本丸は食後のコーヒー?

ゆっくりしすぎて北城等には行けず、訪問時間は3時間。
関東を代表する石垣の城が、私の城巡りの136城目となりました。

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にのまる

砲台を備えた稜堡式城郭だった (2022/12/31 訪問)

18きっぷ4回目は大みそかに山口へ出かけました。
「やまぐち」と発音するとき「ま」にアクセントを置くと山口県、「や」にアクセントを置くと山口市のことを指します。出かけたのは「や」まぐちです。

山口御屋形(山口城)は、山口藩庁から山口県庁へと引き継がれ、現在も同じ場所に県庁舎が建っています。
幕末に築かれた際の初代石門は第一次長州出兵で破却されたため、現在残る薬医門は明治3年に山口藩庁門として再建されたものですが、高さも幅もある堂々とした構えで、脇門ですら主役感が漂っており、格式(と気位)の高さを感じました。水堀や枡形とともに当時の面影を残していますし、歴史を伝えるモニュメントとしてだけではなく、150年を経た今もなお現役で、その役目を果たし続けているのが素晴らしいです。

大みそかの訪問で建物はすべて閉館していましたが敷地内を歩くことは可能でしたので、県政資料館(旧本庁舎)や旧議会堂の外観などを見学しながら砲台の跡が見られるという東稜堡跡へ行ってみました。規模の大きな土塁も残っており、大内氏の築山御殿の石垣も転用したと伝わる砲台基礎石垣など、激動の時代を物語る遺物を確認することができました。

高嶺城を後盾とし、数基の砲台を備えた幕末の稜堡式城郭。
萩城があるので、藩は「これは城じゃないです💦屋形です!」と主張するも、だれがどう見ても「城」。
藩内外で呼称が違ったのがおもしろいです。


🏔この日のいちばんの目的は高嶺城でした。
続100名城スタンプラリーでは大内氏館とセットになっているため、以前大内氏館を訪問した際にスタンプは押印済みなのですが、高嶺城は未登城。山口大神宮から見上げただけで絶対無理……と退散していました。
今回、登山道のよくわからない山口大神宮側からではなく、木戸神社から林道をひたすら歩いて高嶺城に行く計画を立てました。そして、無事下山できたら歴史民俗資料館で2個目の続100名城スタンプを押そうと。2個目というのは城郭協会さんが会員にくださった2冊目の公式スタンプ帳で、高嶺城を極めるまでは(何度大内氏館に行こうとも)押さないぞ!と決めていました。
ところが、朝、山口駅に着いたのがちょうど観光案内所が開く時間だったのでパンフレットがあればいただいていこうかなと立ち寄り、その際、つい口が滑って「山口大神宮から高嶺城に行くのは無理ですよね……」と聞いてみたところ「そっちの方が近いですよ。ハイキングコースだし。」というお返事。「でも地図がないと無理そうで…」と言うと「あったはず」と、手書きの地図のコピーを出してくださったのです。何たる僥倖♡
「この地図さえあれば山口大神宮から高嶺城に行ける!」とすっかり調子にのってしまい、先に登城口近くの山口御屋形(山口城)に寄り、下山後に押すと決めていた2個目のスタンプも歴史民俗資料館(休館日のため門のところに置いてありました)でさっさと押して高嶺城を目指したのでした。

→高嶺城へ続く

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チェブ

セリフだけだったけど、、、。 (2022/12/25 訪問)

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で登場すると期待していた「衣笠城」。
『衣笠が落ちた』のセリフのみで、ガックリしました。三浦のお爺様も頑張ったのに、、、、。

平安時代後期、『前九年の役』での功績で源 頼義さんから領地を賜り、三浦 為通さんが築城しました。

まずは、「衣笠城」に到着するまでの急坂。
車にパワーがなく、歩いた方が早いのではないかと思うほどの急坂でした。
因みに「衣笠城」には、『馬返しの坂』があります。(通って来た坂かは不明。)
一ノ谷合戦での、鵯越の坂落としでは、
『三浦では、もっと険しい所を日頃、駆け落ちてる』
と言って、難なくクリアしたんだとか。
確かに、すごーい急坂です。
『大善寺』の駐車場をお借りしました。
『大善寺』には、お邪魔しませんでしたが、ドラマの幟がありました。こちらの『大善寺』は「衣笠城」より歴史が古く、奈良時代の頃からあるそうです。
奈良時代、平城京を中心とする貴族、仏教文化の時代です。

階段を上ると、開けた場所に。こんな高い所なのに、更に土塁で守ってます。
奥には、大きな岩がありました。

平家方だった、畠山 重忠さんが攻めた「衣笠城」。
畠山 重忠さん、鵯越の坂落としでは、愛馬をおんぶしました。
「衣笠城」から退陣した時は、愛馬はどうしたんだろう、と、ドラマで描いて欲しかった「衣笠城」でした。

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赤い城

高久城 茨城県城里町 (2022/12/30 訪問)

道路沿いに説明板が立っていて駐車スペースがあります。
向かいの墓地が主郭、道路を挟んで藪化した五郭があります。
道路を歩き、両サイドの畑は曲輪の跡となります。
道路がクランク状になっていて城の気配を感じながら民家の方に進みます。
廃屋となった民家裏がクライマックス。
竹藪の中に深い二重堀が残っていました。
内側の一条は横堀に繋がっていました。
周辺を歩いてみると民家と農耕地ですが土塁や堀の跡も確認することができます。
だんだん日も暮れて来たのでこれで2022年城納めとなりました。
最後に三郭に建つ小さな神社。
で、その前に立つ鳥居が出色!
何と塩ビのパイプで出来ていました。
なんかほっこり、2023年がいい年になりそうな気がしました。

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ぴーかる

みかん畑の山頂に (2022/12/24 訪問)

【岩室城】
<駐車場他>城跡入口ゲート前<34.083467, 135.190021>5台程度の駐車場あり。
<交通手段>車

<見所>堀切・曲輪・眺望
<感想>初投稿いただきます。岩室城の築城は平安時代末期に湯浅氏によって築城されたと思われます。現地説明板によると屋島合戦で敗れた平忠房がこの地に逃れ、湯浅荘地頭の湯浅宗重を頼った。これを追討する源氏の軍勢をこの城にて兵500にて3か月間立て籠もったそうです。南北朝・室町時代には畠山基国が紀伊国守護となったので弟の満国に有田地方を与え岩村城⇒岩室城と改名し改修を行ったようです。戦国時代には畠山氏も根来・雑賀衆に圧され秀吉の紀州攻めによって落城・廃城となったようです。
 南の国道480号線から城跡に行くには蜜柑畑の農道を通ります。細いつづら折りの舗装道を上がっていくので大きい1BOX車では厳しそうです。RV車以下くらいの大きさならOKです。上記ポイントの城跡入口ゲート前に5台程度駐車できる専用駐車場があります。ゲートを開けて中に入り少し登ると主要部に着きます。駐車場・ゲート付近も北東側搦手の曲輪であったろうと思われます。主要部は小さく西に向かって3段程度下がる曲輪になっており最上部には土塁があります。主郭からの眺望は良く、有田川・有田市街・海が見渡せます。主郭から南側斜面には段曲輪が広がっていたようですが現在は曲輪跡を利用した蜜柑畑になっています。主要部切岸にほんの僅かに石積み跡の石があります。主要部の西側に行くと薄くなった堀切が残り、曲輪⇒尾根上の細曲輪・片方土塁がありその先に大堀切があります。大堀切の北側に落ちる(蜜柑畑ではない反対側)竪堀の起点と背後の土塁には少しだけ石積みが残っています。くまなく探索していないのでまだどこかに石積み遺構が残されているかもしれません。大堀切の西側は岩場になっていて物見台になっていたかもしれません。江戸時代に徳本上人という僧がこの岩場で千日苦行を行ったそうです。この岩場からも南方向と東方向が見渡せて眺望が良いです。
 ちょうど蜜柑の収穫時期で実の生った蜜柑畑が美しかった。たわわに実った蜜柑畑の眺望も良いものです。蜜柑以外にも柑橘類が生っていて後で好物の八朔と気づいてJAにでも寄って買えばよかったと後悔しました。

<満足度>◆◆◇

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いんげん丸虫

立鳥城 千葉県長生郡  (2022/12/31 訪問)

比高30m程の丘陵上に細尾根があります。
千葉県独特の城跡で帯曲輪のような平場はある
ものの居住スペースは谷戸部にあったのでしょ
う。1条の尾根が南北に伸び、途中から東へ折
れます。2重堀切等多くの堀切があります。
詳細は不明。
西の墓地の後方から訪城出来ます。

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イタさん

跡地はほぼ小学校に (2023/01/12 訪問)

 天正18年(1590)に依田康勝によって築城されたと伝わる。康勝は依田信蕃(のぶしげ)の二男で、兄の討ち死に後に家督を継いだとも。依田家は武田の家臣だったが、徳川家に仕えるようになり、この地に所領をもらい築城したが、10年後改易され廃城になったと伝わる。
 城は方形単郭だったようで、跡は小学校になり北側の土塁のみ一部が遺っている。土塁の西隅に城跡地を寄贈した「井元たい女史」の顕彰碑が建っている。小学校の東にやや高い場所に建つ英霊殿があり、北側に遺る土塁の延長上になる。
 駐車させてもらった市民ホールには、和算家の関孝和は藤岡生まれと言われ・・云々とあり、関孝和像が設置されている。

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イタさん

平井城の詰城 (2023/01/12 訪問)

 平井城の詰城として築城される。西平井の住民の話では出城と言っていた。駐車城からすぐに山道になり、先に石垣を組んだ段が現れるが、これは畑にするためのものらしい。城跡散策と言うより軽い登山のようで意外だった。
 尾根筋に出て右が物見台跡となる。尾根を西に進めば浅い堀切跡、虎口跡がある。尾根を削平した郭になるが大きな堀切で区画されていない。駐車場の案内板では三の丸・二の丸と続く記載がある。本丸は東西に長く、端に東屋風の小屋が建ち、北下は伐採されて腰郭が眺められる。
 北に下れば虎口があり、先は土橋になっている。先は幾段かの平地になり、大手方向へは北へ、西には土橋を渡り井戸曲輪(郭)があり、やや下に整備された石組みの井戸跡が見られる。湧水が少なく有事に水を運び入れ、一時的な水場としたと考えられます。と案内に載る。
 北には櫓門跡・堀切・櫃岩(かろうといわ)・表門跡・大手門跡と続く。大手門跡のすぐ下はゴルフ場で、害獣除けの電気柵が設置されている。櫃岩の西側も眼下にゴルフ場が見える。

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イタさん

関東管領上杉氏の関連が多い地区 (2023/01/12 訪問)

説明板の概要は「永享10年(1438)の永享の乱に際し、関東管領山内上杉憲実が、長尾忠房に命じ築城させた説と、応仁元年(1467)に上杉顕定が築城したとされる説がある。天文21年(1552)、後北条氏に攻められ落城するまで、関東管領山内上杉氏が居城としていた。
 構造は「庚申堀」と称される堀をめぐらし、西平井の村落を取り込んだ「惣構」と呼ばれる構造で、城域の南端部の鮎川左岸の崖の上に、土塁・堀によって区画された通称本丸(主郭)があり、西側に二の丸・笹曲輪(副郭)が配されている。
 平井城の背後には有事の際の「詰の城」として金山城を配し、周辺は国人・配下の武将が築いた御嶽城(金鑚神社近く)・東日野金井城・一郷山城・東平井の砦・飛石の砦などの多くの城や砦により守られていた。」と記されている。

 道路に面して土塁が見えれば、その周辺が城域になる。説明板に拠れば、道路は本丸と二の丸を隔てる堀跡だったようだ。土塁の内側が主郭(本丸)だが、豚舎など私有地が多く改変されている。駐車場西側に、御影石の「堀跡」・「土塁跡」の標柱がある。単に数メートル離れ並んであるので、位置関係がよく分からない。
土塁は復元整備されたもので、本丸東に小さな郭があり、境に堀と木橋が復元整備されている。郭内に竪堀と表記をするコの字型の石積があるが不自然さを覚えるが。北には溝程度の堀跡などがある。
 車道を歩いていると幟や案内板があり、三の丸と総郭の境、総郭跡などを標示しているが、遺構はほぼ無く民家や畑地になっている。二の丸北の堀跡と思える狭い道を西へ行くと、南に続く溝があり二の丸西の堀跡と言われる。

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カズサン

【遠江・引馬城】静岡県浜松市 浜松城古城 (2023/01/12 訪問)

 浜松城に令和5年初の登城をして浜松城古城引馬城に東照宮がありますのでここにも初詣と寄りました。
 引間城は浜松城公園駐車場から国道152号線を越えて東に樹木が茂った小高い所が浜松城古城引馬城跡です、引馬城は曳馬城、引間城とも呼称されて居ます。
 
 引馬城は今川氏時代飯尾氏が治めており、現在の5月浜松凧合戦祭りは飯尾氏の長男誕生を祝う凧揚げが発祥と伝わって居ます、城域の構造は三方ヶ原台地の南側先端の北東に突き出した丘陵に田の字のように曲輪を4ヶ所設けて堀で夫々囲み、特に東側の堀が大きかったようです。(古地図絵図を見ると)
 虎口で有名所は引馬城の北口に当たる玄黙口(元目口)です、ここは三方ヶ原合戦で家康が命からがら逃げ込んできた虎口として有名です、その前には北東約500m程の所に在る八幡神社楠の木のむろに潜み難を逃れ、更にその前には敗戦を心配し駆け付けた夏目次郎左衛門が家康の身代りと成り、現在布橋犀ヶ崖資料館の近くに夏目次郎左衛門の石碑が立って居ます、尚夏目次郎左衛門は明治の文豪夏目漱石の先祖との事。
 もう一つの虎口は引馬城の東口に当たる霜垂口(下垂口)食違い虎口と成って居り、浜松城に取り込まれたましたが江戸期以降も東口の一つとして下垂口として残りました。

 現在は四曲輪の内北西に当たる曲輪(本丸)に明治期に元城町東照宮が勧進されて居ます、元城町集会所、解説板、城名石碑も設置されて居り、平成26年頃発掘調査もされて、周辺の土塁、家康時代の遺物も発見されても居ります、その後同地に二公像(若き日の家康、松下家に仕えた時代の秀吉)が据えられています。出世の街浜松の宣伝かも像の間に入り写真を撮って居るようです。出世を願う方はどうぞお越しいただき写真撮影を!
 堀は道と成り他の曲輪は住宅と成り開発されて居ます。

 元城町東照宮初詣で久しぶりに引馬城跡を散策しましたので撮った写真を投稿します。
  

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橋吉

40分間の登り (2023/01/06 訪問)

本郷生涯学習センターで、新高山城や高山城,小早川氏に関するパンフレットと続日本100名城を得ることが出来ます。

生涯学習センターから2km、登山口近くに無料駐車場があります。

新高山が目前にそびえます。
川を挟んで向かいには高山が見えます。

鐘の段→番所跡→匡真寺跡→中の丸→本丸→詰の丸へ→釣井の段→ライゲンガ丸→(再度)中の丸→石弓の段→北の丸
とまわりました。
中の丸までは40分間の登り、それ以降は尾根部分にあるので移動は楽でした。

所要時間:1時間45分

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todo94

城びと登録の山梨の城コンプに立直 (2022/12/17 訪問)

日帰り山梨ドライブを企図した理由は、石和WINSにて毎年購入しているJRAカレンダーを購入するためです。競馬歴は2023年で30年になりますが、その間、全く値上げされず今でも1000円のままのカレンダーは卵以上に物価の優等生と言えるでしょう。折角、山梨に赴くのだから、この機会に城びと登録の山梨県の城をコンプリートしてしまうことにしました。上野原城は、中央道によって主郭が大きくえぐられてしまっています。稲荷神社に説明板があります。中央道の対岸にも削り取られた主郭の残骸が残っているようでした。

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トク

⑨【関ケ原の26人 】(4)織田秀信 (織田秀信と岐阜城) (2022/11/30 訪問)

(4人目)は「織田秀信」です。
関ケ原当時の居城「岐阜城」を訪れてきました。

岐阜城と言うと、織田信長や斎藤道三の名前が浮かぶ方が多いと思いますが、私はあえて織田秀信の気持ちで登城してきました。

織田秀信と言えば?・・・そうです! 幼名「三法師」、あの清州会議で担ぎ出された織田信忠の忘れ形見です。この時20才になり岐阜城主となって美濃を治めていました。家臣領民からの評判もよく、さすが信長の嫡孫と言われていたそうです。

1600年8月23日、福島正則・池田輝政による岐阜城攻めが行われました。西軍についた秀信は善戦むなしく岐阜城はわずか1日で陥落してしまいます。特に輝政は以前岐阜城主だった事もあるため、岐阜城の弱点は知り尽くしており、落とすのは容易だったようです。

そして正則や輝政は勝利するも、さすがに偉大なる元主君(織田信長)の孫である秀信を殺すことはできず、家康に助命嘆願し高野山へ送られたそうです。しかし高野山は祖父信長に迫害を受けた事を当時いまだに恨んでおり、今度は逆に秀信は迫害を受け、耐えかねて下山するもそれが原因か病となり麓の寺で生涯を閉じたそうです(享年26)。織田家嫡流の血はこれで絶えてしまいました。

私は岐阜城の天守に立ち、大垣や関ケ原方向を眺めてみました(写真⑦⑧⑨)。織田秀信はこの戦に勝てば、美濃・尾張二か国(父信忠と同じ50万石)を石田三成から約束されていたため、これにより織田家の再興を夢見ていました。しかし、頼みとしていた三成の大垣城からの援軍も来ず、どんな思いでこの岐阜城から大垣城を眺め、そして敗れていったのでしょうか? そして高野山では、偉大な祖父信長の孫であったために迫害を受けた自分をどのように思い、そして亡くなっていったのでしょうか?


【余談】信長どて丼
展望レストランがあったので大垣・関ケ原方向を眺めながらゆっくり食事をとりました。「信長どて丼」なるものがあり食べてみました(味噌味のもつ煮込み丼でした)。ビールによく合い、とても美味しかったです😊(写真⑩)。

次は(5人目)へ続きます。
 

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侍ホリタン

浅井三姉妹誕生の名城を訪ねて (2022/05/02 訪問)

登山道は戦国ガイドステーション近くの「出丸入口」もしくは小谷城戦国歴史資料館近くの「追手道入口」が一般的です。いずれも番所跡で合流します。駐車場は前述のガイドステーション、歴史資料館に無料駐車場あります。それと番所跡に数台停めれる駐車場ありますが、GW中、9月の指定日、11月の指定日は駅から番所跡までのシャトルバスが運行されるので一般車両は入れません。 山王丸から大嶽城跡に行かれる方は、一旦下って上る形になり傾斜がきついので体力に自信のある方にオススメです。御城印、スタンプは歴史資料館内にあります。

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赤い城

高沢城 茨城県常陸大宮市 (2022/12/30 訪問)

国道293号線沿いに駐車場と説明板があり、すぐ近くの案内板から脇道に入っていくと赤い鳥居があります。
そこから直登気味に登って行きました。
登ると曲輪があり、尾根道を更に登って行きます。
主郭手前に堀切があり、両サイドは竪堀となり落ちています。
その先が主郭。
主郭の周りを帯曲輪が囲んでいました。
帯曲輪の西側には空堀があり、竪堀が何条か落ちていました。
見どころは何と言っても北西側の二重堀切。
主郭側の一条にはクランクが入っています。
この城も那須氏に対しての最前線の城だったようです。
高沢向館と続いていますが時間の都合でこの日は断念。
常陸といえば堀底道ですがこの辺りの城は一味違うテイストも入っていました。

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にのまる

城碑がかわいい😀 (2022/12/30 訪問)

黒崎から直方までは筑豊電鉄でも行けますが18きっぷを持っていたのでJRで行きました。

◇雲心寺
直方陣屋跡である多賀公園に向かう途中、雲心寺の看板に「直方藩主黒田家塔所」とあったので寄ってみました。
直方藩(東蓮寺藩)初代藩主黒田高政(黒田長政の4男)、之勝、長清と、高政に殉死した四名が祀られていました。遠く江戸で亡くなり遺髪を当地に埋葬……切ない🥲
二代・之勝の正室二人(中津藩主の息女で姉妹)の五輪塔もありました。

◇多賀公園
「直方城址」の城碑がありました。手書き風でカワ(・∀・)イイ!!
城びと登録名は「直方陣屋」で、現地説明板は「直方藩主館跡」。←これがわかりやすくていいです。
山頂というほどの山ではないですが、てっぺんの平場は公園(多賀児童遊園地)で、誰もいないと思ったら猫が一匹いました。
筑豊といえば炭田。年末で休館でしたが、隣接する石炭記念館に行ってみたくなりました( ..)φメモ

◇西徳寺
直方駅の正面のお寺です。
藩主館の門を移築したと伝わる山門と福岡城の梵鐘があるとのことでしたので、帰りに見に行きました。駅舎を見下ろす薬医門は修復が施され現役続行。大関魁皇像とともに駅前のシンボルのようにも感じました。梵鐘は吊るされていない方が福岡城のもの。鮮明に写せませんでしたが、“筑州福岡城楼鐘”の文字が見えます。貝原益軒の銘文だそうです。

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