ここは大分県日出町(ひじまち)、日出町と言えば(日出城→鬼門櫓→城下カレイ→二階堂麦焼酎→ハーモニーランド)が有名です!(・・・🤔?)
日出城の築城者は「木下延俊」、豊臣秀吉の妻おねの兄「木下家定」の三男です。五男(弟)には、養子に出た小早川秀秋がいます。妻は細川忠興の妹(加賀)です。関ケ原の直前、姫路城主であった家定は大坂城に入るため、延俊に城代を任せます。そこに筑前と三原の兵を引き連れ関ケ原へ向かう小早川秀秋が姫路城に着き、ここで軍勢を休ませてほしいと兄延俊に懇願します。しかし延俊はこれを拒否したそうです。さらに忠興の進言で、秀秋が西軍として大軍勢を率いて向かっている事を即座に家康に報告し、自分は家康様に二心なき事を伝えたようです。秀秋が松尾山に着陣したのは前日ギリギリだったので、こういう所にも影響したのかもしれません。そして延俊は、義父細川幽斎の田辺城を攻めた小野木重勝の福知山城を仕返しにと攻めました。その両方の功績などで、関ケ原後に家康から、豊前へ転封となった細川忠興の領地の南端(杵築)と接する豊後日出の地に3万石が与えられ、日出藩を立藩したようです。(写真⑧⑨)
暘谷駅から10分程歩いて行くと、最初に鬼門櫓が目に入ってきました。鬼門櫓は一度移築されたものが元の場所に戻されているという現存櫓です。思ったより大きな櫓で驚きました。そして鬼門の方向(北東)の角が確かに厄除けのため欠けていました(写真①)。このような珍しい形の現存櫓はここだけだそうです。内部も見学できました(写真②③)。
鬼門櫓の横には歴史資料館があります(写真⑤)。ここには木下家(旧杉原家)の歴史や貴重な資料が展示されていました。ちょうど高台院(おね)の没後400年を記念して、高台院が延俊の事を我が子のようにかわいがっていたという二人の関係や、やりとりした手紙などが特別展示されていました(写真⑥:内部撮影は不可)。
資料館を出ると本丸へ渡る土橋がありました。土橋の先は日出小学校のため、ここから中の本丸へは入れません。土橋の上には、暘谷城の石碑と高欄はかまぼこ石になっていました(写真⑦)。
鬼門櫓と本丸との間の掘から、ちょうど別府湾と高崎山が見えるいいアングルがあったので、思わず撮ってしまいました(写真⑩)。
次は海岸側から本丸石垣を眺めてみようと思います。
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