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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)9日目:稗田環濠 (2024/09/30 訪問)

若槻環濠から徒歩10分ちょっとで、売太神社鳥居前(34.639009、135.797150)に着き、その後、稗田環濠標識前(34.640794、135.796055)に向かいました。

室町時代頃に形成された環濠集落と考えられているそうです。
1444年(文安元年)古市胤仙が稗田を奪って城として使ったということから、この頃には城郭として一時機能していたと考えられているようです。

稗田環濠は売太神社を南東端とする環濠集落で、現在も良く残っています。
売太神社の駐車場付近に案内板が設置されており、環濠は整備されて幅広の水路となっています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=辰市城を目指す為、美濃庄バス停から奈良交通バスで神殿バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)9日目:若槻環濠 (2024/09/30 訪問)

番条環濠(城びと未登録 奈良県大和郡山市)から徒歩15分くらいで、南端の標柱(34.633781、135.799812)に着き、その後、天満神社付近(34.633782、135.798823)で天満神社を確認しました。

若槻環濠は1466年(文正元年)以前から築かれた環濠集落のようです。
鎌倉時代には散村であった集落が1466年(文正元年)頃に集村して環濠が形成されはじめ、1595年(文禄4年)には東西に長い環濠となったそうです。

若槻環濠は天満神社を南西端とする環濠集落で、 集落の中央北側の道路に案内板があります。
環濠は細長い水路となってしまっている部分が大半ですが、天満神社付近は良く残っており、一部土塁もありました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=稗田環濠へは、ここから徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)9日目:番条環濠(城びと未登録 奈良県大和郡山市) (2024/09/30 訪問)

筒井城から徒歩20分くらいで、光明院前(34.628910、135.792364)に着き、その後、熊野神社鳥居前(34.629932、135.792596)➡堀跡(34.630832、135.791598)の順番で巡りました。

築城年代は定かではないようですが、室町時代に番条氏の居城があったそうです。
番条氏は大乗院方衆徒で、1459年(長禄3年)筒井方に攻められ、番条長懐父子らは番条城に籠もって戦いましたが敗れています。

番条環濠とも呼ばれる番条城は現在の佐保川に沿って南北に伸びた番条町一帯に築かれていました。
東側には堀跡である水路が今も残っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=若槻環濠へは、ここから徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)9日目:筒井城 (2024/09/30 訪問)

筒井駅バス停から徒歩5分くらいで、城址碑(34.621265、135.782568)に着きました。その後、説明板前(34.621496、135.783654)➡菅田比売神社鳥居前(34.622060、135.784347)で神社左側の水掘を確認しました。

1429年(永享元年)筒井順覚によって築かれました。 筒井氏は天児屋根命の子孫ともいわれますが定かではなく、 興福寺一乗院の衆徒です。
1441年(嘉吉元年)に家督を継いだ順永の代に勢力を広げ、その後は越智氏などと抗争が繰り広げられました。
1559年(永禄2年)松永久秀が大和に入国すると松永氏と対立し筒井城を奪われました。
松永氏の滅亡後、多聞城の石を転用して城郭の拡張を行いましたが、織田信長の大和一国破城命令によって破却となり、郡山城を居城としました。

菅田比賣神社の西、光専寺の南の辺りが本丸で、一部広場として残されており、ここに案内板が建っています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=番条環濠(城びと未登録 奈良県大和郡山市)へは、ここから徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)9日目:小泉城 (2024/09/30 訪問)

今日は攻城予定の城跡が多いので、ホテルでの朝食は抜きで出発しました。(王寺駅から大和小泉駅を目指します)
大和小泉駅から徒歩15分弱で、小泉神社入口(34.624576、135.755266)に着き、その後、復興櫓(34.627382、135.754358)➡道路沿の城址碑(34.626638、135.757743)の順番で巡りました。

築城年代は定かではないようですが、室町時代に小泉氏によって築かれました。
小泉氏は大乗院方衆徒で、1455年(康正元年)畠山政長方の筒井氏が没落した後、官符衆徒につき、その後越智方について筒井氏と対立しましたが、 1459年(長禄3年)筒井順永の攻撃をうけ落城しました。
1580年(天正8年)以後、羽田長門守が陣屋を置いていましたが、1601年(慶長6年)片桐且元の弟貞隆が15,000石を領して小泉に入部し陣屋を構えました。
2代貞昌は石州流茶道の開祖で、現在でも高林庵として続いています。

小泉神社の表門は旧小泉陣屋の陣屋門で、本殿は室町時代の建築です。
復興櫓付近に高林庵がありますが、朝早く閉まっていて、中に入れませんでした。
道路沿の城址碑の奥に小さな公園があり、そこに陣屋の石碑と案内板があります。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=筒井城を目指す為、小泉口バス停から奈良交通バスで筒井駅バス停に向かいました。

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朝田 辰兵衛

まだ「鳥栖ジャンクション」が続いてた…😲 (2024/09/14 訪問)

しんちゃんさん,ここまで「鳥栖ジャンクション」を持ち上げてくださり,ありがとうございます。ホントに「翔んで埼玉」が佐賀に飛び火し,「鳥栖ジャンクション」がピックアップされたら笑いが止まりません。

ぴーかるさん,クイズであまり気になさっていると,精神を病んでしまいますョ…😨
「たまたまフィーリングが合わなかっただけ」ぐらいで笑い飛ばせばイイかと思います。そういえば,ぴーかるさんに出題した「大坂城残念石」はかなりの難度だったと思います。鋭い観察力と理詰めで答えを導き出したことに感服しました。
私も赤い城さんも,お互いに出し合ったクイズの正答率は高くはありません。みなさん,目線に差異があり,それをクイズという形で共有できて面白い。それでいいじゃないかと考えております。

さて,深見城ですが,鶴間駅のコインロッカーがちょうどひとつ空いていて救われました。
また,深見城のある「深見歴史の森」は土地所有者のご好意で大和市と賃貸契約を交わして保全されているというパネルが設置されていました。散策できることに感謝です。

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しんちゃん

天守台の石垣は見事 (2024/06/15 訪問)

小里城は天文3年(1534)に小里光忠によって築かれたとされています。小里氏は織田信長に従い、池田恒興によって改修が行われたようです。山上の城の天守台は不等辺多角形(六角?)の天守台があり、見事な石垣が残ります。
この天守台のあり曲輪が本丸と見られますが、周囲の石垣はところどころ散らばっています。これが破城の痕跡によるものなのか、築城用のものなのかは良くわかりません。

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しんちゃん

承久の乱古戦場 大井戸渡・岐阜県美濃加茂市太田本町 (2024/06/15 訪問)

承久3年(1221)に勃発した「承久の乱」で後鳥羽上皇に従う朝廷軍と鎌倉幕府の軍が木曽川を挟んで戦いました。
岐阜県美濃加茂市太田本町の虚空蔵堂のあるあたりは、戦場の北端であったとされています。6月5日、鎌倉幕府軍・武田信光、小笠原長清らが大井戸を渡り、戦いが始まったとされています。朝廷軍の大内惟信ら2000余騎は奮闘しますが、幕府側が勝利を収めました。
当時、朝廷側は太田側にいたとされるので、川向うの対岸には幕府軍がいたということになります。

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しんちゃん

クロスボンバー特集 

今日は29日(にくのひ)ですので、クロスボンバー特集の投稿をさせていただきます。
先日、朝田 辰兵衛さんの「基肄城」の投稿にあった「鳥栖ジャンクション」。まさしくこれこそ九州を南北に縦断する「九州縦貫自動車道」と、九州を東西に横断する「九州横断自動車道」が交差する九州の中心に位置するポイントです。
まだまだ鳥栖市の城を攻略しきれていませんが(九州は遠い)国史跡・勝尾城はなかなか攻略しがいのある山城でした。筑紫氏の城で、天正14年(1586)島津氏によって落城させられています。そういえば、豊臣秀吉も佐賀県(肥前国)を重視していた気がします。

神奈川県横浜市港北区の子机城もJR横浜線と国道466号線のクロスポイントに存在します。北側もなかなか凄く、国道466号線と首都高速神奈川7号横浜北西線、さらに新横浜元石川線がクロスしています。さすが首都圏、鉄道やバイパスが網の目のように走りまくっています。
クロスボンバーは完璧(パーフェクト)超人の首魁(当時の)、ネプチューンキング(ビッグ・ザ・武道)とネプチューンマンが二人がかりで放つ必殺技で、ラリアートで相手を挟み込むという比較的単純な技ですが、その威力はすさまじいです。
プロレスなどでも使用されていましたが、あまりの危険性から使用禁止になっているようです。ただでさえ強力なラリアートを両側から叩き込むため、力の逃しようが無く、首にすさまじい衝撃がかかります。子供のプロレスごっこでは絶対に使ってほしくない技ですね。

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ぴーかる

比較的簡単に内部に行けます。 (2024/10/05 訪問)

【槻下豪族館】
<駐車場他>槻下神社駐車場<35.486944,133.715000>4台程度に駐車できます。
<交通手段>車

<見所>土塁・横堀
<感想>初秋の鳥取縦断平山城攻め旅4城目。現地説明板によると鎌倉時代の豪族の館跡であったようです。2つの方形の曲輪が東西にあり、周囲は空堀で巡らしています。西側の曲輪が主郭のようで堀底から高さ3m程の土塁で囲んでいます。
 
 藪化が酷く入れないとの事で、城びと内部投稿初になりますが、館跡へは比較的簡単に行けますよ。まず<35.487831, 133.716164>の地点から轍のある土の道が北へ伸びているので、そこに入って左手を見ながら少し進むと左手(西側)に平坦な竹林道がありますので西に進みます。館跡の北側に位置するのですが、今は一帯が筍を取る竹林になっていますが、広がる削平地の雰囲気からはかつての家臣屋敷の曲輪跡のようにも見受けられます。左手(南側)を見ながら進むと土塁が見え、近づくと大空堀があります。東の曲輪は空堀のゆかるみと倒竹がひどく行けませんでした。西の主郭と思われる曲輪は北側に切通しの虎口がありますので内部に入れます。内部は北の虎口が1か所、周囲を高土塁で囲みしっかりとした造りになっています。南と西側に深い空堀が残り西側は民家と接しているため改変されているかも。
 深い堀を造って出た土を高土塁にした、館跡というより完全なお城でした。

<満足度>◆◆◇

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小城小次郎

模擬天守でも天守は天守か (2024/02/22 訪問)

富山城の模擬天守を更にマンガにしたような模擬天守(四万十市立郷土博物館)はかっこいいんだかかっこわるいんだかよくわからない天守だが城下から見上げるとちゃんと絵になる。天守はやっぱり天守か。

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じゅんじん

ひこにゃん (2024/10/13 訪問)

城跡は井伊家のまねきねこのお寺ですね。近くに城址公園もあります。

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トク

122【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (伏見城-直政の調略1) (2023/02/09 訪問)

(26人目)井伊直政の続き㉔です。
直政が調略に専念した木幡山伏見城です。JR桃山駅から徒歩で行きました。まっすぐ行けば1時間くらいで往復できるとは思いますが、私は模擬天守(旧キャッスルランド)も見たかったので回り道して行ったら、途中はアップダウンがとても多い道で、しかも何やら和風の超高級住宅街が続き(家老の子孫たちだろうか🤔?)、気がつくと2時間も歩いていました。そして最後は砂利で緩い登り坂の西参道を20分行くか230段の階段を登るかの選択です。私は砂利道を選びましたが、後で地図で模擬天守から北参道経由のショートカットの近道がある事に気づいた時はショックでした(笑)。さらにここまで来たからにはと、今度は下って駅と反対側にある指月伏見城まで歩いたので結局合計3時間も歩いてしまい(ああ足が痛い)。

1598年豊臣秀吉はここ木幡山伏見城にて死去。その後、徳川家康は江戸に戻らず、秀吉の遺言に従ってここで五大老としての政務を行い、直政も高崎には戻らずここで家康に付き従います。

現在の木幡山伏見城は明治天皇御陵になっていて、この(写真①)の位置までしか立ち入る事はできません。かつてここには壮大な五重の天守がありました。しかし関ケ原の前哨戦で、家康が会津の上杉征伐に出陣した後、鳥居元忠がわずかな兵で守るも西軍に敗れ焼かれてしまいます。

秀吉が死去すると、にわかに豊臣恩顧の大名たちの不穏な動きが始まります。家康が秀吉死後も伏見に留まったため、石田三成と徳川家康の対立は本格化。三成を中心とした文治派と福島正則を中心とした武断派の争いに目をつけ、家康と直政は武断派を味方に付け三成を追い落とそうと画策します。

まず目をつけたのが、黒田如水(官兵衛)でした。直政と如水、先を読むことに長けたこの二人は、朝鮮出兵中の名護屋にいた時から、秀吉亡き後の事を話し合っていたと思われます。そして秀吉が死去すると如水と起請文を交わし、互いが隠し事をせず味方となる事を誓い合います。

次に直政が目をつけたのが黒田長政です。長政は以前から家康を尊敬していた事を直政は知っていました。そして父の如水との盟約を理由に近づきます。長政を調略すれば豊臣恩顧の大名たちが必ず賛同するとにらんだからです。「家康様からこき使われて実は私は困っているのです」といった同情を誘う手紙を送るなどして、見事調略に成功したようです。そして長政を通じて、秀吉に小姓から仕えた朝鮮出兵後の処遇に不満を持つ、福島正則・加藤清正らの不満の矛先を三成に向けさせる事で七将をも調略、その結束はその七将らが大坂で起こした三成襲撃事件で表に現れ、さらにその回りの諸将(藤堂高虎ら)の調略にも成功していったようです。

しかし最新の研究では、三成襲撃事件は実際には起きていない? 大河ドラマ「どうする家康」や映画「関ケ原」で描かれたような、三成は実際は伏見の家康の屋敷には逃げ込んでいない? (逃げ込んだのは自分の伏見屋敷である=「英雄たちの選択」より)。などといった説もあるので、ここは興味深いところです。

残るは毛利の調略です。
次は関ケ原の井伊直政陣跡に続きます。
写真は(11人目)鳥居元忠の時のを再掲させていただきました(すいません)。
 

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イオ

とことん岡山城(岡山ナゾトキミステリー) (2024/09/14 訪問)

(続き)

後楽園から天守を眺めつつ月見橋を渡って天守へ。今回の岡山遠征はニッポン城めぐりのイベント「続・新岡山城 宇喜多二代とその妻」が目的のひとつであり、岡山城のスポット制覇のためには天守に入る必要がありますが、リニューアルされた天守内は昨夏にひと通り見ているので、企画展「武将たちの愛刀」くらいしか楽しみがないかな…と思っていたところ、RIDDLERによる「岡山ナゾトキミステリー第二弾」が前日から始まったばかりとのことで、渡りに船と挑戦してみました。

RIDDLERの謎解きイベントは昨秋に姫路城でも挑戦しましたが、城下を結構歩き回る必要があった姫路城と違って岡山城は本丸内で完結するため、さほど時間を要せず突破できそうです。難易度も問題1~3は簡単だったので余裕、余裕と思っていたら最終問題が難しい…。謎解きの書にヒントは載っているものの、今度こそ自力で解く! と見ないでうんうん頭をひねっていましたが……力及ばずでした。もともと柔軟な発想に乏しい上に、年とともにますます頭が固くなっている気がします。そして(ヒントに頼ってですが)全ての謎を解き、宇喜多ニンジャ認定証を受けて岡山城を後にしました。所要約1時間。来年3月まで開催されていますので、ニッポン城めぐりのイベントついでにどうぞ。

参加無料とあって謎解きの書を片手に天守内や本丸を歩き回る人を多く見かけましたが、謎解きを進める中で自然と岡山城や宇喜多氏への理解が深まり、お城に興味を持つきっかけにもなる(かもしれない)という意味で、いいイベントだよなぁ、と。姫路城でもそうでしたが、ぜひ他の城でもやってもらいたいものです。そして…次こそは自力で解く!(笑)
 

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todo94

秋の乗り放題パスでの攻城⑧ (2024/10/13 訪問)

献血後、ゆとりを持って赴きました。アプローチはJR尼崎駅からの徒歩だったのでかなり歩きでがありました。3年前に入館できなかった模擬天守より、無料で入館できる尼崎市立歴史博物館の方がかなり楽しかったです。歴史博物館ではカードを片っ端からいただいてきてしまいました。周辺の散策、また機会があったら楽しんでみたいと思います。

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赤い城

新庄山城 岡山県岡山市 (2024/10/13 訪問)

城びと未登録の城です。
三徳公園に車を停めて北側の登城口へ。
鳥居の脇に石碑と説明板が立っています。

登り始めはやや急ですがハイキングコースになっていて歩きやすく、山頂部までは20分くらい。
主郭には石鉄神社が鎮座しています。
派手な遺構はありませんが南側に向けて段になった曲輪が続きます。

4郭の先に堀切があったとされますが、ハイキングコースを造る際に埋められたようです。
両脇の藪を覗いてみるとなんとなく竪堀っぽいのが残ります。
なんとなくですが。

この新庄山城、砥石城主の浮田大和守を討ち取った恩賞として浦上宗景から宇喜多直家に与えられた城とされています。
直家にとっては2番目の居城ということになります。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:天保山台場 (2024/09/29 訪問)

大阪港駅から徒歩5分ちょっとで、天保山跡碑前(34.656965、135.432863)に着きました。

安政年間(1855~1860年)になると江戸幕府は朝廷側の不安に応えるため、大阪湾から木津川、安治川への海防強化を実施するべく、河口に四基の台場を築いて、各藩に防備を委任することになりました。
しかし、台場の構築は進まず、1857年(安政4年)には台場の仕様の再調査が命じられるなど、台場の構築は進んでいなかったそうです。
1864年(元治元年)には天保山台場の構築が本格的に始まり完成しましたが、実戦で使用されることは一度もなかったそうです。

天保山台場は安治川の天保山一帯に築かれていましたが、遺構はなく移築大砲が再建されていました。
夜の天保山観覧車(10:00~21:00)を見る為、19時過ぎに到着するように予定を立てましたが、夜景はきれいでした。
攻城時間は15分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先の奈良県王寺駅へ戻りました。
本日の攻城徒歩=42206歩、攻城距離=29.54Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:高屋城 (2024/09/29 訪問)

古市駅から徒歩10分くらいで、不動明王説明碑(34.547610、135.609288)に着き、その後、高屋城不動坂説明板(34.548562、135.610520)に向かいました。

1479年(文明11年)畠山義就によって築かれたと云われています。 以後、河内国守護職であった畠山氏の居城となりました。
畠山氏の家臣で飯盛山城主の安見直政は、守護職畠山高政を追放して守護代を称し高屋城主となりましたが、高政を支援した三好長慶によって追われました。
しかし、三好長慶の河内進出を懸念した高政は安見直政を呼び戻すと、これに怒った三好長慶は高屋城を取り囲み、後詰めの安見直政軍を撃退すると、高政と直政を河内より追放しました。
その後、織田信長が摂津・河内を平定すると北河内を与えられた畠山昭高が高屋城主となりましたが、昭高は重臣の遊佐信教によって討たれ、遊佐信教と三好長康が結んで織田信長と対抗しましたが、1575年(天正3年)織田軍により落城しました。

高屋城は安閑天皇陵を本丸とした平山城で、城山と呼ばれる台地の上に築かれていました。
安閑天皇稜(34.548815、135.608387)と堀は高屋城不動坂説明板に行く途中に確認しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=天保山台場を目指す為、古市駅から電車で大阪港駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:金胎寺城 (2024/09/29 訪問)

汐ノ宮駅から徒歩20分弱で、登山口(34.459689、135.581311)に着きました。

金胎寺城は、嶽山城のある嶽山の南方にある金胎寺山にあります。
元弘年間(1331年~1334年)に楠木正成が築城し、佐備正忠が入ったとされます。
あるいは、正平年間(1346年~1370年)に楠木正儀、和田正武が築城したともされるようです。
1447年頃から戦国時代にかけて、畠山氏の家督争いで、畠山義就が嶽山城に立て籠もり、金胎寺・寛弘寺・金剛寺・国見山などの支城を構え、3年近くの間、畠山政長と戦っています。
1360年(正平15年)畠山氏の持ち城であったようで、1463年(寛正4年)に畠山義就が寄ったが、筒井氏などに攻められ落城したとされます。
1466年(文正元年)復権を狙う義就が金胎寺城に陣をして烏帽子形城を攻撃したという史料もあるようです。
1493年(明応2年)畠山基家(義就の嫡男)の家臣の甲斐庄氏(隆成?)が在城したという記録もあるようです。
1524年には政長流の畠山稙長軍がこの金胎寺城に集結し、仁王山城にいた義就流の畠山義堯を攻撃しています。

登り口ゲートを開けて案内に従い山頂まで行きます。
金胎寺城跡本丸からの景観は素晴らしいです。 
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=高屋城へは、汐ノ宮駅から電車で古市駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:烏帽子形城 (2024/09/29 訪問)

三日市町駅から徒歩20分弱で、城跡公園駐車場付近(34.4436641、135.5637232)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1332年(正慶元年)に楠木正成が赤坂城の出城として築いたとの伝承があるそうです。
南北朝時代には楠正成の部将高向氏が籠もって北朝方と激しく争われました。
応仁の乱以後は守護畠山氏の持城となり、家臣も石川氏や甲斐庄氏などが務めました。甲斐庄氏は橘氏あるいは烏帽子形氏とも称し、甲斐庄正治はキリシタン大名でした。
元亀年間(1570年〜1573年)に甲斐庄正治は徳川家康に召しだされて遠江の浜松へ移り烏帽子形城は廃城となりましたが、その子甲斐庄正房が旗本となり、河内の地理に詳しいことから大坂の陣で活躍、2,000石を知行しています。
1584年(天正12年)羽柴秀吉の紀州攻めにあたり、古城となっていた烏帽子形城を普請するように中村一氏に命じています。

烏帽子形城は現在、烏帽子形公園として整備されており国指定史跡となっています。
狭い曲輪、堀、土塁、堀切などが確認できます。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=金胎寺城を目指す為、河内長野駅から電車で汐ノ宮駅に向かいました。

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