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まさお

川越城 本丸御殿・中ノ門堀跡 (2024/05/16 訪問)

川越城本丸御殿と中ノ門堀跡を訪問しました。
さすがに国際観光都市川越らしく、訪問者の大半が外国の方でした。
英語・中国語・タイ語等々いろいろな言葉が飛び交っていました。
本丸御殿は以前にも訪問したことがあるのですが、家老詰所で会議中の
マネキンの家老の方々は前から居られたかなと思いました。
家老詰所がふじみ野市の星野家に移築されていて、再度またこちらに
戻ってきたそうで驚きました。ふじみ野では星野家は有名な名家なので。
本丸御殿から中ノ門堀跡まで歩きましたが、歩道等きれい整備されていて
川越市の力量を感じました。

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イオ

迷うことなく登城できる…はず (2024/03/09 訪問)

阿坂城の南東約1kmの丘陵上に位置し、高城とともに阿坂城の出城とされますが、築城時期や城主等、詳細は不明です。

「松阪の城50選」で案内されていた阿坂運動公園の駐車場から伊勢自動車道沿いに南下してガードをくぐり、あとは山見老人会による案内標識に従って進めば迷うことなく城跡に行ける……はずが、登城口のゲートから入ってしばらく進んでも、右手に見える枳城のある丘陵に近付くどころかむしろ遠ざかるようで、不安になってGoogleマップで確認すると、より丘陵に近い側にもう一本別の道があるようです。曲がるところを間違えた!? と引き返してそちらの道に向かったのが運の尽き、進んでも進んでも案内標識は無く(当たり前)、ついには丘陵の中腹で行き止まりになってしまい、もう一度引き返すくらいなら、この丘陵の上にあるのは間違いないんだから、と直登して丘陵東端の尾根に出て、尾根伝いに西に向かって何とか主郭にたどり着くことができました。やれやれ…。

主郭は東西に細長く、説明板と「大日さん」と呼ばれる石仏がありました。南側の眺望は開けていますが、北西側の阿坂城(南郭)は樹木の合間にわずかに覗く程度です。主郭から下りると主郭の周囲をひとめぐりします。東側の尾根との間には堀切が設けられています。「この先、道無し。来た道を戻ってください。」 堀切付近の山見老人会の案内表示が身に染みます。…ええ、身をもって承知していますとも。北側に回り込むと、主郭の切岸と帯曲輪が続いています。帯曲輪は切岸から続く竪土塁でいくつかに区画されていました。西側の尾根も堀切で断ち切り、堀底を南側に抜けると登城道に出ました。登城道が南側の帯曲輪のようです。

その登城道を下って行くと、道沿いのあちこちに案内表示が設けられています。みかん山の作業道から山道に入るところにも案内表示があり、先ほど引き返したあたりを過ぎて登城口のゲートに到着。なるほどこれなら普通は迷うことはないでしょうなぁ……わざわざ途中で引き返したりさえしなければ。…ということで、普通なら登城口から15分程度で行けるところを40分以上も要してしまった枳城でした。
 

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todo94

【城びと未登録】金谷城(千葉県富津市) (2024/04/14 訪問)

海城サミットのチラシをお城EXPO2023でいただいてぜひ参加したいと思っていた金谷城特別公開に幸運にも参加することができました。通常非公開の主郭部分に加え、今回が初公開となる三の郭迄、金谷城を堪能させていただきました。此れだけの城が城びと未登録なのはなんとも残念な限りです。

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ぎりょう

景勝会津治世の夢の跡 (2024/05/12 訪問)

久しぶりに兄姉たちと会津若松方面に出掛けました。温泉と観光が目的の家族旅行なのですが、私としては名所訪問の合間に城館跡への立ち寄りを考えていました。一日目の主たる見学地を湯川村の勝常寺(平安初期の開山で重要文化財指定の元講堂と仏像十二体を有する古刹)としていたため、その途中で神指城を訪問しました。
会津盆地の南側中央に位置する神指町にあった上杉景勝時代の城郭跡です。中世の長い期間、会津は葦名氏が治めた場所で、古くから会津黒川城(後の会津若松城)が利用されていました。伊達政宗により葦名氏が滅亡、会津は一時伊達領となるのですが秀吉の奥州仕置きにより蒲生氏郷が、その後の慶長三年(1598)には上杉景勝が120万石で配されます。景勝は黒川城が手狭であったことから、慶長五年三月に、黒川城から北西4kmの神指ヶ原に新城を築き始めます。会津周辺や仙道、越後から八万人もの作業者を動員して本丸、二ノ丸を築きますが、中央の情勢変化により六月には工事は中断、関ヶ原戦後の米沢移封により廃城となったといいます。
かつての城地は圃場整備により見渡す限り田んぼとなり、わずかに残る本丸と二ノ丸の土塁に、会津治世の新たな拠点をと夢見た景勝の思いが偲ばれます。

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備中兵乱 (2024/05/16 訪問)

 福山の西北、標高164mの小山の頂上にあり、眼下に山陽道が一望できる良好な立地条件の下に築かれた山城です。16世紀の後半には、備中松山城主三村元親と毛利氏の間に備中兵乱と呼ばれる戦が起こり、幸山城はその舞台のひとつとなりました。
 東の曲輪と西の曲輪に分かれていて間に幅30m、深さ4mの堀切があります。低い曲輪だと思っていましたが、堀切とは説明板を見て知りました。また説明板には「福山の北西の中腹から大きな堀切を下りて、、」とあります。福山から来る途中に土橋、竪堀のような地形はありましたが、その場所が説明板に書いてある堀切なのかはわかりません。コンパクトな城址で土塁が少し残っています。

 福山城より登城しました。下りなので20分くらいで行けると思います。ただ自分は妙見展望台や八畳岩などに寄り道をし、さらに道に迷ったので40分くらいかかってしまいました。

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福山合戦 (2024/05/16 訪問)

 湊川合戦の前哨戦として知られる福山合戦の舞台となった城です。奈良時代より平安時代にかけて山岳寺院「福山寺」が存在していました。この山岳寺院を改造し城郭としたと伝わっています。
 土塁、空堀、井戸等が一部ですが残っています。奈良平安時代に存在した福山寺は伽藍が全山に及んでいたようです。主郭に案内図がありますが、実際には図で示された地域より平坦地は広く存在していました。山岳寺院の頃の規模を考えると城域は案内図よりかなり広範囲に及んでいたのではないかと思っています。

 登城路はいくつかあり幸山城から福山城へ「幸福の小径」を使うルート、東側から1234段の階段を登って来るルート、安養寺方面から登るルートなどがあるようですが、西の和霊神社からの登城路は高低差があまりなく20分くらいで主郭へ行くことができます。和霊神社までは車で登ることができ駐車スペースもあります。ハイキングコースとして整備されていて歩きやすい道です。

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朝田 辰兵衛

岩花集落に潜入すべし👉 (2024/04/06 訪問)

JR陸羽西線の津谷駅の南西部が岩花集落になります。集落入口の溜池を見つけ,道なりに上へ登れば岩鼻館があります。妙に集落になじんでおり,注意しないと見落としてしまうかもしれません。赤い鳥居よりも土塁のほうが目立つと思いますので,地形に注意されたほうが宜しいかと思います。

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小城小次郎

紛らわしいが (2024/11/04 訪問)

同名の温泉施設が城地に隣接し立派過ぎる天守も建っているので湯浅城を検索するとまずこっちが普通に出てくる。城としての湯浅城は鎌倉~南北朝に活躍した湯浅党の本拠地で本当に鎌倉時代から存在していたことがわかっている。

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しんちゃん

伏見櫓ほか (2024/01/04 訪問)

福山城は慶長20年(1615)に水野勝成によって築かれ、大規模な近世城郭としては最も新しい部類に入ります。城内に遣されている江戸時代からの遺構は伏見城から移築されたとされる伏見櫓と筋鉄御門のみで、それ以外の遺構は昭和20年の福山大空襲によって焼失してしまいました。天守と月見櫓、御湯殿は鉄筋コンクリートで再建され、鐘櫓は多聞櫓(鐘楼が設置されていた)を解体した古材を用いて修復したもので鐘楼の部分のみが市重要文化財に指定されています。
伏見櫓は2023年の8月に1日だけ特別公開されていますが抽選で180名という狭き門です。正直、これだけの城址を見学して鉄筋の天守だけというのはいささか物足りないので他の建築物の公開や整備も合わせてお願いしたいところです。

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ぴーかる

思い出の地 (2024/03/02 訪問)

【真田庵】和歌山県伊都郡九度山町
<駐車場他>九度山駐車場(真田庵前)に駐車しました。

<感想>30数年ぶりの訪問、今は亡き親父に多分19歳頃、紀伊半島1周の旅に連れてってもらい、真田庵もその時に行きました。近くの丹生川に鯉のぼりが沢山掛けてあったのと、プレハブ小屋みたいな資料館があったを鮮明に覚えていましたが、真田昌幸公の墓碑は覚えていませんでした。しかし、再訪して真田昌幸公の墓碑である宝篋印塔を見た瞬間に思い出しました。記憶って考えても出てこないのに海馬に残っているものなんですねぇ。大好きな武将なので感動しました。
 真田の抜け穴を見て、道の駅柿の郷くどやまに行って帰りました。道の駅は柑橘類と梅干の種類が多く充実しています。資料館も併設しています。真田ミュージアムには寄りませんでした。

 この日は佐味城⇒長藪城⇒不動山巨石⇒真田庵と巡りました。行けなかった佐味城に行け、思い出の地に行けて楽しさ満喫しました。走行距離280㎞無事走破。

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ぴーかる

不動山の巨石 (2024/03/09 訪問)

【不動山の巨石】和歌山県橋本市
<駐車場他>不動山巨石駐車場5台分程あり。

<感想>Googleマップで長藪城周辺を見ていると、好きな巨石の名勝を見つけたので行ってみました。専用の駐車場から階段が635段もあり(結構キツイ)登ると、山の中腹に角礫岩の巨石群があります。千早城にも近いことから、楠木公の腰かけ石と名付けられた石なんかがあります。大給城の超巨大花崗岩群を見た後なので、少し物足りなかった。

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しんちゃん

車だと楽して城址に来れる。各曲輪からの眺望は良好 (2024/01/02 訪問)

イオさんの高城の投稿を読ませていただきました。この時期はシーズンオフなのでさすがに地元のハンターさんもいないでしょう。
イオさんが無事に登城できたので、皆さん高城に行きやすくなったと思います。お疲れ様でした。
私も年内には再トライしたいな~。
いまは良い気候ですが、これからじわじわ暑くなってきますね。去年の7月、椿尾上城を意識朦朧としながら畝状竪堀を探していたのが懐かしい(ぴーかるさん、やはり無かったですか)。今年の夏はクーラーかけて家でガンプラ作ろうかな。

若山城の投稿です。ここは二の丸・三の丸が駐車所になっていて展望所にもなっています。ここまで車で来れるのは有り難いですね。まさに私好みの山城です。西側に向かって、本格的に遺構が残り、畝状竪堀を見ながら本丸に至ります。写真では少し見づらいけど確かに竪堀は複数ありました。さらに西に向かって進み西の丸に至ります。西の丸には東側周辺に石積みがありました。

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しんちゃん

東西に峰があって、東側が城址 (2024/01/02 訪問)

私はtodo94さんと同じルートから登城しました。他のルートを知らなかったし、なんか私有地の看板の横の登城道が「おいでおいで」しているように見えたので、気が付いたら入っちゃてました。誘惑に弱いですね。
城址は東のピークなのですが、西の方に行って登り切ったあとに、なんか違うな~と気が付きました。この辺は物見の跡ですかね?改めて東の城址に向かいます。東の峰の方が登りやすく、堀切や幾つかの郭が有りました。

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WEST

上山城探訪 (2024/05/10 訪問)

上山城を訪問しました。JRかみのやま温泉駅から徒歩で向かいました。所要時間は約10分です。
このお城は藩主土岐氏の時代に「羽州の名城」と呼ばれていたようですが、江戸時代前期に転封とともに取り壊されたそうです。
現在は、二の丸跡に郷土資料館を兼ねた模擬天守、本丸跡には月岡神社が建てられています。
なお、当時の遺構としては、内堀跡と石垣跡の一部を見ることができます。しかし、注意深く散策しないと見落としてしまいそうでした。
訪問後は城下町にある武家屋敷に寄りました。そのうち、三輪家は内部を見学ができ。江戸時代当時の雰囲気を感じることができました。

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WEST

米沢城探訪 (2024/05/10 訪問)

米沢城を訪問しました。米沢駅からは山交バスに乗り上杉神社前バス停にて降りました。
米沢城は関ケ原の戦い以降、上杉氏の居城です。本丸、二の丸には櫓等の建物があったそうですが、明治時代に入り破却され建物の遺構はないようです。しかし、本丸を囲む水堀は立派であり、この城の見どころの一つでしょう。
現在、本丸跡には上杉神社が、二の丸跡には松岬神社が鎮座しています。
なお、二の丸跡には、上杉記念館、米沢市上杉博物館がありますので、訪問をお勧めします。特に米沢市上杉博物館が所蔵する国宝「上杉本洛中洛外図屏風」は必見ですね。

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トク

「筑後赤司城」と「太刀洗平和記念館(ゴジラ-1.0)」 (2024/05/15 訪問)

筑後赤司城を訪れてきました。西鉄甘木線大城駅から北へ徒歩10分の所にあります。

平安時代に赤司八幡宮が建立され、鎌倉時代に赤司氏により赤司城が築城されたとされていますが、年代や詳細は定かではないようです。赤司八幡宮(写真②)の境内の南にある一段高くなっている場所が本丸とされています(写真①)。八幡宮には説明板がありました(写真③④)。過去に何度か戦があった場所のようですが、今回は立花道雪にゆかりがある城と聞き、さらに別の理由もあってここを訪れました。

1584年沖田畷の戦いで龍造寺氏が敗れると、大友義統(宗麟の嫡子)は大友配下であったが龍造寺に寝返った筑後一円の豪族たちの鎮圧に乗り出します。大友家の重臣である立花道雪(立花山城主)と高橋紹運(岩屋城主)は黒木氏の猫尾城を攻め落とした後、蒲池氏の柳川城攻めに向かいます。しかしその途中に、何と道雪の病が悪化したため反転帰途に。本陣を高良山城(モトさん5/14投稿の場所)から赤司城に移すも、紹運らに見守られながらこの地で息を引き取ったという説があります。その死に際に道雪は、「我が死体には鎧兜を着せ高良山に頭を柳川に向けて埋めよ」という遺言を残したとか、よほど蒲池氏が憎かったのでしょうか? しかし宗茂が、敵地に埋めるには忍びないと立花山へ運び帰るよう命じたそうです。

その後に豊臣秀吉から、道雪の実娘「誾千代」とその婿養子で紹運の実子の「宗茂」には、蒲池氏の居城であった柳川城(8万石)が与えられるので、これも何かの皮肉と言うか因縁めいたものを感じます。

関ケ原後は、筑後柳川に入った田中吉政の弟で田中清政が城代となり、赤司城は現在のような城郭になりました。しかし一国一城令で廃城となったようです。そしてその石垣や廃材などは、後に筑後久留米に入った有馬豊氏により、久留米城の一部に使われたそうです。

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【余談】太刀洗平和記念館
ここからは、実はここを訪れたもう一の理由です。

この赤司城から北へ3kmの広大な一帯には、太平洋戦争中には日本陸軍の「太刀洗飛行場」がありました。その場所には現在は平和記念館が建てられています(写真⑤)。ここから沖縄へ向け飛び立った特攻隊員たちの遺書や遺影、マーシャルから引き揚げられた実物の零戦32型などが展示され、また当時の飛行場の様子やB29の空襲で犠牲となった31名の小学生たちの悲しい物語などがシアターで語り継がれています。もし機会がありましたら、皆さんにも合わせて是非一度は訪れていただきたい場所です(甘木鉄道太刀洗駅前に記念館はあります)(パンフレット⑥)。

実は、この記念館を訪れたかった理由は、最近の映画「ゴジラ-1.0」(写真⑨)の撮影で実際に使用された戦闘機「震電」が、今何とここに展示されているというので見に来ました(写真⑦⑧)(🤔デカい!)。震電は当時日本で3機試作されましたが終戦となり、実際に戦闘に出る事はありませんでした。その震電を映画のために忠実に再現したそうです。私もその映画を見に行きました。特攻隊員の生き残りを演じる神木隆之介さんがこの震電に乗り、1000kgの爆弾を抱え、そして日本を救うため、ゴジラの弱点とされる口の中めがけて突入して行ったラストシーンは衝撃でした(😱お~!)。その震電が今ここに展示されています! そして最後はどうなったのか!・・・それは映画を御覧あれ(え?😲教えてくれないの?)。
 

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イオ

警戒しつつ登城… (2024/03/09 訪問)

阿坂城から北東にのびる尾根の突端に位置する丘城で、詳細は不明ながら阿坂城の出城として北畠氏重臣の大宮入道含忍斎が守ったとされ、阿坂城の落城に伴い廃城となったと思われます。

阿射加神社の駐車場に駐めさせてもらい、南東側の登城口(道沿いに案内表示あり)から登城開始。水路を渡り石仏に登城中の無事を祈りつつ登って行くと、緩やかに傾斜した削平地に高城跡の説明板が立てられていました。その先の虎口を抜けると主郭に至ります。主郭内には用途不明の窪地がいくつも見られ、前夜の雨が溜まっているところもありました。主郭の西半分(北辺~西辺~南辺)には土塁がめぐり、北西隅と南西隅は特に分厚く高くなっていて櫓台だったものと思われます。西側の虎口は枡形状で、北西隅の櫓台の麓を回り込むように登城道が設けられていました。そして最後に、主郭北辺の踏み跡をたどって下りて行き、北尾根を遮断する二重堀切を確認して高城をひとめぐり。

登城の3週間ほど前にしんしんちゃんさんから注意喚起の投稿があり、猟犬に襲われるのも撃たれるのもイヤだなぁ…と思いつつも、松阪市内の城めぐりは今年の一年の計でもあるので、ヤバそうな雰囲気を感じたらすぐに撤退しよう、と警戒しつつの登城でした。小さな城ながら虎口も土塁もなかなか見応えありますし、そんな心配をすることなく登城できればいいんですが…。
 

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todo94

金谷城特別公開前日の城めぐり⑥ (2024/03/13 訪問)

枡形城からの転戦でこの日最後の攻城です。とある煩悩の登城目録さん、赤い城さんに倣って善性寺と六所神社を回らせていただきました。善性寺はちょっとした高台に本堂が建っているのでほんの僅かですが砦テイストを味わうことができました。この後は、小田急線と東京メトロで銀座にアクセスし、銀座ライオンにて晩酌を楽しみました。

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しんちゃん

白黒のパンダ天守 (2024/01/04 訪問)

福山城は最後の近世城郭と言われ元和8年(1622)水野勝成によって築かれました。五重(当初は四重とも)の天守と7基の三重櫓を擁した堂々たる近世城郭で、天守は昭和20年の福山大空襲で焼失するまでは国宝に指定されていました。
昭和41年に建設された天守も近年リニューアルされ、北側の鉄板も史実に基づいて再現され、2022年8月より公開されています。独自の景観を持った日本唯一の天守ですね。

※間違って別の福山城に掲載していました。申し訳ないけど再度掲載させていただきます。

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しんちゃん

豊国廟 豊臣秀吉公廟所 (2017/05/28 訪問)

豊国廟は関白・豊臣秀吉公の廟所で京都府東山区の阿弥陀ヶ峰の頂部に築かれています。麓から563段の石段を登っていくと頂部に至り、そこに秀吉公の五輪塔があります。かつての壮麗な豊国廟は阿弥陀ヶ峰の西麓の太閤平と呼ばれる平坦地にありましたが、大阪夏の陣の後に破却され、社殿は残されたものの朽ち果てるまで放置され続けたとのことです。
明治6年に阿弥陀峯を豊国神社の鎮座地と定め、明治13年に方広寺大仏殿跡地に豊国神社が建てられました。墳墓の移築工事の際に秀吉公の亡骸も発見され丁重に埋葬されています。西麓には新日吉神宮が鎮座し、境内には樹下社(豊国神社)が祭られています。

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