るの門なう!(笑)
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2024/02/17 13:39
2024/02/17 12:52
姫路城初登城 (2023/12/13 訪問)
関西弾丸旅行で姫路を訪れました。
さすがに国宝で立派な御城ですね。
完成当時はどんな感じだったでしょうか?
西への睨みをきかせていた巨大城郭ですね!
素晴らしかったです。。
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2024/02/17 02:55
稲荷曲輪の櫓台は初でした。 (2023/12/16 訪問)
1年半ぶり、5度目になります。
今回は大手尾根口から登城しました。
箕輪城は複数の登城口のどこから入ってもワンダーランドが待っている!というワクワク感を得られますが、大手尾根口の竹に覆われたひっそり感も堪らなくよかったです。
といっても10年前の初登城時は搦手口から上がった二の丸で「イノシシに注意」の張り紙にビビッてその先に進めなかったという苦い経験があるのですが、リベンジから回を重ねていくうちにどんどん好きになってきました。
木俣から下界を眺め、郭馬出西虎口門をあちこちから観察し、二の丸、本丸へと進みます。
木橋は通行止め(HPによると3月中旬まで)でしたが、2022年春の完成時にはりきって渡りに来ているのでOKです。
御前曲輪から稲荷曲輪へ下りました。ここの高低差は惚れ惚れします。
前回訪問時に躊躇して行かなかった稲荷山へ今回は行ってみました。稲荷社のある櫓台で、たった今通ってきたところが丸見え。これは討たれます。
新曲輪へ渡り、堀底道を歩いて木橋の下まで。見上げる木橋、かっこいいです。周辺整備が完了して近道の木橋が通れるようになってもここに下りて見上げたくなるだろうなと思います。
三の丸石垣、鍛冶曲輪の石垣を見ながら虎韜門へ向かいました。
帰りのバスの時間が迫っていましたが、大堀切を見上げていると(行かなかったらきっと後悔する……)と思ったので駆け上がりました。郭馬出が見えてきて、これで一周!の拍手を自分に送ってまた駆け下りて。
そして最後の最後に白川口埋門をチェックしておしまいです。
お気に入りのお城のお気に入りの風景を見て、新しい発見をして。
城歩きの楽しい思い出をまたひとつ重ねられました。
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2024/02/16 21:21
京都御所 畏れ多くも城館扱いしちゃいます (2016/07/31 訪問)
京都御所は京都市上京区に存在します。建武4年(1337)から明治2年(1869)まで長らく帝(みかど)および一族の住まうところで、いわゆる宮中(内裏・禁中・禁裏)というやつです。日本の歴史の中でもとりわけ特別な場所なのですが、居館の中でも最上級に位置することから城郭の仲間であると言えるでしょう。さすがの城びともここは登録してはいませんね。
普段は非公開ですが、たまに一般公開しています。特に予約なしで普通に入ることが出来ました。こんな私でも紫宸殿を見た時は「おおっ」となりますね。天皇がいなくなって久しいですが厳かな雰囲気は漂っています。
桂離宮や仙洞御所などと同じくインターネットで予約して拝観することが可能です。拝観料かかんないのでお得感ありますよ。何と言っても御館日の丸ですからね。ちなみに紫宸殿の左手にあるのが右近の橘で、右手にあるのが左近の桜です。毎日こればっかり見ているとさすがに飽きると思うけど‥
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2024/02/16 20:56
国衡館(くにひらたて) 泰衡の兄で奥州合戦では大将軍を務める (2017/05/02 訪問)
国衡館は城びとの城ではありませんが岩手県平泉町平泉にある藤原国衡の館跡とされています。平泉小学校が館跡で土塁が残っています。
この時は普通に近くまで行けたので写真を撮らせていただきました。GWの最中でお断りを入れようにも近くに誰もいないんですね。
藤原三代秀衡の長子ですが庶子であったため跡取りにはなれませんでした。四代目泰衡の兄なのですが、亡父の正室(義理のお母さん)を妻としたため泰衡とは義理の父子になるようです。‥‥‥なかなかに狂ってますね。やだなあそんなの。
庶子という立場からか泰衡と他の兄弟たちの争いを防ぎきれず、義経のみならず頼衡(6男)・忠衡-3・通衡-5も泰衡に殺害されてしまいます。文治5年(1189)の奥州合戦では兄弟歯抜けの状態で大将軍を務めますが敗れ、出羽国に逃れる途中で和田義盛の矢に倒れ畠山重忠の家臣・大串次郎に打ち取られてしまったそうです。
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2024/02/16 20:26
2024/02/16 19:59
そもそも籠城戦、考えてないでしょ (2017/12/10 訪問)
要害山城は武田信玄の父・信虎が築いた詰めの城で信玄公の時代にも存在していました。武田信玄生誕の地とされており麓には東郷平八郎の書による石碑もあります。東西に伸びる尾根上に築かれており西の大手から段状に郭が続いており要所を守る門には石垣が礎石として積まれていたようです。竪堀や堀切なども備え、それなりの山城ではあると思いますが、武田信玄の詰めの城にしては少々物足りなくもあります。上杉謙信や織田信長、今川義元らの本城を訪ねてみると未完成だったり、防御が甘かったりと感じることも多々あるのですが、この方々の頭の中には籠城という発想は無いのかもしれません。戦というものは他人の地でやるものだと思っているのではないでしょうか。
いい気なものだなと思いますが、上杉家以外の子孫たちが悲惨な目に合っているのを見ると、それ見たことかと思わなくもないです。
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2024/02/16 19:13
蘆名盛氏が隠居のために築いた城なんだけど (2015/05/02 訪問)
向羽黒山城は永禄4年(1561)に葦名盛氏によって築かれたとされています。隠居のために築いたのですが嫡子・盛興が亡くなると二階堂盛義の子・盛隆に盛興の未亡人を嫁がせて後見人として黒川城に移ったそうです。
盛氏さんは隠居したと言いながらも元気に戦をしまくっていたらしいので隠居城といってもかなりの規模の城ですね。東日本でもかなり大きい山城です。岩崎山の山頂に本丸(実城)が築かれ周囲にかなり大きい竪堀があります。東に弁天曲輪、北に二の丸、北曲輪、三の丸が配され周囲に多数の曲輪が配されているようです。隠居した時は、まだ40ぐらいだったようで戦に集中したかっただけなんじゃないかって思ってしまいますね。
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2024/02/16 18:32
野府城だよね。 (2024/01/03 訪問)
織田 信長さんの弟、信治さんの居城「野府城」。
夜の7時30分頃 到着しました。
皆さんの投稿で、開明小学校の正門の中に石碑と説明板があるとの情報で、一つでも『行った』をポチりたかったので目指しました。
さすがに暗いです。
正門も開いているわけありません。左手に石碑等のシルエットが見えます。正門外からパチッ。退陣です。
よく、『古戦場や廃城に行ったら落武者オバケが出るんじゃない?』と聞かれます。
こんなんじゃー、オバケもあきれて出てこれないでしょって思った「野府城」攻めでした。
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2024/02/16 11:16
93【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (佐土原城③-登城路) (2023/11/04 訪問)
(25人目)島津豊久の続き⑥です。関ケ原当時の居城「佐土原城」に登城してきました。その登城路の様子です。鶴松館の横から登ります。
大手道はまだ通れないとは書かれていましたが、ロープなどによる規制もされてなかったので、行ける所まで行ってみようと思い入ってみました(写真①)。イノシシに注意??(写真②)。確かに秋は猪が餌を求めて現れる季節なのでここは注意して登ります(注:訪れたのは秋です)。
途中の土壁に囲まれた登城路は結構な迫力がありました(写真④)。少し風化されていてVの字になっていますが、当時は垂直に掘られていたと思います(垂直に深く掘るのが島津の特徴です)。家久・豊久もこの道を何度も通ったのかと思うと、ちょっと感慨深かったです。
途中ブルーシートがかけられた崩落個所がありましたが(写真⑤)、特にロープもなく何も問題なく通れそうだったで通ってしまいました(すいません。簡単に通れたので。そしてこの一箇所だけでした。)。
帰りは中の道の方から下りました(写真⑩)。途中虎口の跡(写真⑥⑦)や城門の痕跡(写真⑧⑨)も残っていました。
次は、(豊久と日本最南端の天守台)へ続きます。
【余談】熊と猪(イノシシ)
九州には野生の熊はいません。熊本にぬぐるみを着た公務員の熊が一匹いるだけです(笑)。しかし野生のイノシシは住宅地に近い山間部でもいる事があります。私も親の大きなイノシシに遭遇した事はまだありませんが、子のイノシシ(うり坊)には何度か遭遇した事があります。例えば、大野城のキャンプ場でキャンプをしていた時、うり坊が私の足元まで来て焼けた肉を盗み食いしていきました。この時、威嚇したり攻撃したりしてはいけません。必ず近くに親のイノシシが潜んで見ているかもしれないと思った方がいいです。うり坊は人間を攻撃してはきませんので、あわてずに少し離れて距離をおき、だまって好きなようにさせて見送る事です。焼肉のたれも好きなようで、たれの皿まできれいに舐めて帰っていきました。でも内心は「俺の肉返して~😭」です。
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2024/02/16 09:56
鉄櫓情景それぞれ (2024/02/10 訪問)
「総堀土塁」のつづきです。
戦後復興のシンボルとして昭和29年に城戸博士の設計で復元されてた模擬鉄櫓も今年で70歳を迎えます、吉田城のシンボルとしての鉄櫓はいろいろの角度で撮影されて写真投稿されていますが、4年振りの登城で写真を撮り鉄櫓に限って各角度からの写真を投稿致します。
豊川の北対岸からの写真はグラウンドゴルフ場から若干位置を変えて撮りました、駐車場はグラウンドゴルフ場側に駐めて撮影、当日プレーしてた人より14時に閉めるから言われ、10分程眺めて撮影しました。プレー日以外ゲートは鎖で閉められて利用できません。
浜松への帰路へ山道国道362号線利用で約45km程です。
今回9編に分けて長々と投稿させて頂きましたが、千貫櫓台の石垣修復復元、南御多門東脇多聞櫓台の修復復元の確認、三の丸口門の鏡石確認、惣堀北東の残存総堀土塁の確認が今回の見所で新たな感動も有りました、名残は吉田宿東惣門、西惣門の跡の確認と1/2縮小門の確認、後日機会をみて訪ねたいと思います。
長々の投稿ご覧いただきありがとうございました。
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2024/02/16 07:17
千々石ミゲルの父が城主 (2023/12/27 訪問)
島原城から諫早に引き返す途次の攻城です。近くの雲仙市役所千々石支所にある千々石ミゲルの像はチェックしたことがあるのですが、この城のことは全く知らずにいました。城主・千々石大和守直員の遺子が千々石清左衛門・千々石ミゲルとのことです。千々石清左衛門の碑がありました。千々石中学校隣の橘神社脇の道を上っていくとグランドが広がっており、その奥に釜蓋城跡展望台が鎮座しています。千々石支所の千々石ミゲル像もチェックしておきました。
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2024/02/16 06:55
高峠城主の居館 (2024/02/09 訪問)
国道194号線から細い道に入ったところにあります。
駐車場はありませんが隣接する倉庫のようなところに車を置きました。
跡地には民家が建ち、今でも住人がいらっしゃいます。
二段になった石垣で守られた立派なお家です。
石垣の前の水路が堀跡のようです。
北側にも門の跡のような遺構がありますが畑越しに眺めるのみとしました。
河野通道が居館として築いたあと、代々高峠城主の居館として使用されました。
住民の方に迷惑がかからないよう見学しましょう。
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2024/02/15 22:43
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画面一杯に広がるバナー広告なんとかしませんか
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2024/02/15 21:46
2024/02/15 21:36
2024/02/15 20:33
霧に煙る山上ノ丸 (2019/05/01 訪問)
鳥取城の餓え殺しで有名な鳥取城山上の丸は標高263mの久松山山頂に築かれています。山麓の総石垣の城は山下の丸と呼ばれ区別されています。いずれも鳥取城ですが、山上・山下ともに総石垣で二の丸・三の丸を備えています。山上には天守櫓が天守台に建っていましたが元禄5年(1692)に落雷で焼失しています。山下には天守代用の御三階櫓が建っていました。どちらも立派な別の城と言っても良いですね。山上の城は吉川経家の時の凄惨な戦いの記録が趣を深くし、山下の城は見事な総石垣と天球丸の石垣が目を引きます。
投稿の写真は山上ノ丸のものですが良い感じにガスっていて天上の城の雰囲気が出ています。
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2024/02/15 19:41
ゆずりはの城 (2024/01/04 訪問)
【楪城】
<駐車場他>駐車場あり<35.031705, 133.428382>、登城口<35.032108, 133.428640>前にも縦列駐車3台分程あり。
<交通手段>車
<見所>曲輪・切岸・堀切・石垣跡
<感想>現地説明板によると、楪城の築城は鎌倉時代末期頃に新見氏によって築城されたと思われる。戦国時代に三村氏の侵入によって城主新見貞経は行方不明となる。1567年に三村元範が城主となるも1575年備中兵乱で毛利方の小早川隆景軍2万が押し寄せ落城します。その後、楪城は毛利方の吉川元春の城となり家臣の今田経高が城番となります。関ヶ原の戦い後に城は廃城となったようです。
上記登城口から城跡までは700mあります。登山道は主郭北側の尾根上まで軽自動車1台分が通れる舗装道になっていて非常に登りやすいです。城跡は南北に非常に長く全長1㎞以上はあります。主郭の北西部下段に2段曲輪があり、ここから城跡に入ります。主郭南側に敵を誘い込む花の丸という曲輪があり虎口土塁で狭く塞ぎ、中が広い削平地になっていて凝った造りになっています。主郭は南北に広い長方形の曲輪で北側が少し上がって土壇か土塁のようになっています。主郭南下段も広く、トイレも設置されています。主郭~2郭までは細長い尾根上曲輪で繋いでおり、帯曲輪と表示されていますが馬場曲輪といった感じです。石積みの櫓台跡があります。2郭は三日月状の曲輪で切岸が高いです。2郭南下段の南に堀切があり、そこから南に現地縄張り図では尾根曲輪になっていますが、あまり曲輪感はないです。200~300mある尾根曲輪には防備遺構が表面観察では無く、私が城主なら連続大堀切を造成するのになあ。といったような遺構です。
尾根曲輪南に大手道と繋がる舗装道があり、その南に3郭があります。3郭北側に大堀切があり3郭から城跡が石垣造りになり様相が一変します。3郭北下段の曲輪には転落石が多くあり進入口は枡形の虎口跡らしき石列が薄っすら残っています。曲輪壁に石垣は残っていませんが、表面に見える落ちている石の数も相当なので石垣が組まれていたことが分かります。3郭内にも石列や礎石らしき平たい石が地面に見えています。石組井戸も中心部にあります。
現地説明板には本丸が新見氏時代で2郭・3郭が三村氏時代に増築されたと思われるとありますが、私の考えでは3郭だけがポツンと離れており別郭2城のような感じを受けたので、3郭だけが三村氏・毛利氏時代に増築・改修したものと考えます。帯曲輪にある石積み櫓台もこの増築・改修時に設置したものかと。残りが全部土造りの城なので。
城跡はとても良く整備されていて、主郭周辺に楪の木が沢山あります。遺構も見応えあり、いい城跡でした。
<満足度>◆◆◆
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2024/02/15 19:34
海が良く見える総石垣の城。 (2019/05/04 訪問)
浜田城は西は浜田川、北は松原湾、外ノ浦に面した丘陵上に築かれており、江戸時代は浜田藩の政庁として機能していました。登城道には津和野藩の武家屋敷から移築した門が建っていて石垣しか残っていない城に良い風味を加えています。北の最高所に本丸が有り海を良く見渡すことが出来ます。南に二の丸が配されていて総石垣の枡形を備えた二ノ門跡は城址で最も見ごたえのある場所だと思います。
慶応二年(1866)の第二次長州征伐では長州藩の大村益次郎の進軍を受け、藩主・松平武聡は戦わずして逃亡し、残存の藩兵が城と城下に火を放ちことごとく灰燼と化したそうです。
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2024/02/15 19:15
畠山重忠の居館跡 (2019/08/10 訪問)
菅谷館は「鎌倉殿の十三人」で有名な畠山重忠の居館跡で、戦国時代は近辺の須川原にて山内上杉家と扇谷上杉家の対立が有り、山内上杉氏の武将太田資康(太田道灌の嫡男)が河越城に対する抑えの城として整備を行い、後に小田原北条氏の城となっています。
本郭の周囲に二の丸や南郭が配され、北西に西の郭、北側に三の郭と複数の郭が配され、最も広い三の郭の東に駐車場があり、博物館が建っています。
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