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日本三大水城 (2023/01/07 訪問)

 「讃州讃岐は高松様の城が見えます波の上」とうたわれ日本三大水城のひとつとされています。周辺が埋め立てられているため少し残念です。桜御門が再建されていました。桜御門展示施設が見学できるようですが、時間が限られていて遅い時間に登城したために見ていません。月見櫓は改修工事中でした。
 高松駅からも近くアクセスがよいため、何回か来ています。

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古代山城 (2023/01/07 訪問)

 源平合戦で有名な場所ですが、遺構は古代山城時代のものです。城門が修復されていて見ることができます。浦生の石塁も行きたかったのですが、時間がなく行っていません。

 todo94さんも投稿されていましたが、JR屋島駅もしくは琴電屋島駅より山頂までシャトルバスが出ています。片道100円です。

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喜岡寺 (2023/01/07 訪問)

 旧高松城で高松市の名前のルーツといわれています。JR屋島駅から徒歩約10分、喜岡寺周辺が本丸であったようです。石碑が2ヶ所にあります。案内板は1ヶ所にあります。あきらかな遺構はないと思われます。

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安富盛長 (2023/01/07 訪問)

  JR志度駅もしくは琴電志度駅から徒歩約5分の場所に案内板があります。遺構はないと思われます。

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まーやん

世の中はクリスマスイブ (2022/12/24 訪問)

小雨の降るイブの日に一人寂しく京から山中越えで近江の城を探訪した。最近、体力的に問題があることから平地のみリア攻めとした。
衣川城址は1200年代山内氏の築城と伝わるが、児童公園に石碑が残っているのみで遺構はない。

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T-Shionoya

巨大遺構の箕輪城 (2022/11/06 訪問)

国土地理院の色別標高図にキレイに現れる堀が気になっていた群馬県高崎市の箕輪城。

この築城場所は榛名山東南麓、西側を流れる榛名白川により独立した丘陵。
南側は椿名沼という湿地帯だった模様。
国府総社の西に位置し、南を通る東山道や鎌倉街道上道から少々距離があるが、戦乱に備えて平地部の浜川から丘の上へ移転してきたとのこと。

1500年頃に関東管領上杉氏方の長野氏が築城し、1566年の武田信玄による攻略後は武田方の内藤氏、北条氏邦、井伊直政などが城主に。
現在は丘陵部の遺構が史跡公園となり、郭馬出西虎口門と本丸西側の木橋を復元。
続いてその木橋とセットとなる本丸西虎口門を復元するんだとか。

訪問の際は搦手口から入城し、郭馬出から本丸を通って城郭北端へ。引き返して本丸西側の堀や城郭西部南部を巡り、気付けば滞在時間約4時間。
木俣からは高崎市街地が見渡せ、御前曲輪が本丸の詰で西側に木橋があったこと、本丸南虎口が馬出タイプであること、稲荷曲輪に櫓台があることなどは現地で初めて知りました。

見どころは大堀切をはじめとする郭馬出から御前曲輪にかけての巨大な土の堀。
また本丸木橋の土台を見ると、5月に訪れた武蔵松山城も木橋が掛かっていたのではないかと思ったり。

井伊時代の石垣や北条時代と推定される石垣も発掘されていますが、巨大な土の城郭が私の城巡りの135城目となりました。

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まーやん

名前も場所も歴史もややこしい (2022/12/18 訪問)

自分が行ったのは生実神社のある所。「おゆみ」について、マーキングが主のよそ者が理解するのはなかなか難しい。
まず興味のある所から入ってみる。小弓城は元々千葉氏家臣の原氏の居城で、甲斐武田氏家臣で鬼美濃と恐れられた原虎胤の父が城主だった。そこへ古河公方に対抗した真里谷武田氏が足利義明を立て小弓城を落とし小弓公方となる。原氏は敗走し甲斐に逃れたとのこと。
その後小弓公方は国府台合戦で戦死。原氏が城を奪還するが新たに生実城を築き小弓城は廃城となったと。へ?(@_@;)
それを南生実城、北生実城としたりしているもんだから、何がなんだか分からない💦千葉氏に公方に原氏に真里谷武田氏に里見氏に北条氏、関わる者も多過ぎて混乱いたしまする。
誰かにマンガ形式で描いてもらわないと分からないなぁ(笑)

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まーやん

古墳と同居する日本三大陣屋 (2022/12/18 訪問)

ここは保科正直の三男正貞が整備した広大な陣屋で知られていおり、日本三大陣屋の一つに数えられている。
周囲の古墳にあった濠を利用した曲輪の配置となっているが、正直このような形態は初めて見て驚いた!
今は飯野神社が鎮座するあたりから稲荷塚古墳あたりが二ノ丸で神社後方に前方後円墳の三条塚古墳があり、三ノ丸の多くの部分を占めている。本丸は神社手前になる。
とにかく古墳をそのまま利用する感覚が面白い。

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いんげん丸虫

勝見城 千葉県長生郡 (2022/12/31 訪問)

比高60mの丘陵上にあります。
歓喜寺の裏の細尾根に堀切が数ヶ所あります。
尾根は2m幅位の細さで建物を建てられるよう
な平場はほとんどありません。
千葉のこの地域にありがちな地形で、急峻な細
尾根を天然の城壁としてそれに囲われた谷戸部
に屋敷、居館を設けるという典型的城郭です。
谷戸部の平地には小屋ノ谷、沖小屋谷、七井戸
廊などの名が残ってるようです。
歓喜寺入口に城の標柱があり、駐車可能です。
主な尾根上は整備され簡単に訪城出来ますが、
南方は藪漕ぎが必要ですね。

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城とマスク

久能山東照宮 (2018/12/27 訪問)

久能山東照宮は元々お城だったとは驚きました。浜松城を見学してから訪れました。

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肉球

滝井館・青森県板柳町 (2022/10/21 訪問)

浪岡城主北畠顕村は大浦為信に攻められ自害。
顕村の娘が分家筋の顕佐とが婚姻し顕村の祖父からの居城滝井館で江戸時代を通して過ごし
現在も子孫の方がお住まいのようです。
中には入れませんのでご注意を。

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肉球

よく整備されてます (2022/10/21 訪問)

お城すぐ脇にある案内所で散策マップを頂き整備された歩道をひと回り。
雪の積もる今の時期は無理でしょうが歩きやすくなっています。
1460年頃北畠氏によって築かれ120年ほど使われたお城のようですが
親族間の争いで衰退し大浦為信に攻められ落城。
発掘された品々が多数あり近くの中世の館で展示されてます。大人210円です。

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todo94

奈良の城めぐり⑤ (2022/12/10 訪問)

大和郡山城からの転戦です。皆さん、攻城に苦労されているとおり、道の細い住宅地で駐車場所に難渋、獣よけフェンス、廃屋、倒竹と攻城を困難にするファクターがなかなかのてんこ盛り状態でした。

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まるび

小峰城跡 (2023/01/07 訪問)

平成に入ってから復元された三重櫓が白河駅のホームからもよく見える市のシンボルで、地元では「お城山」の愛称で親しまれています。
春にはたくさんの桜に囲まれます。三重櫓のそばに生えている「おとめ桜」は人柱伝説があり有名。
震災の際に崩れた石垣は現在とても美しく修復されています。

三重櫓はとてもコンパクトで数人入ると混み合いますがスマートで綺麗です。
敷地内の公園は広く芝生が植えてあり開放的。
先着300枚とのことですが冬季限定デザインの御城印がありました。

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刑部

標柱だけ (2023/01/05 訪問)

見つけた標柱、柵に囲まれ中に入れず柵外から撮影。

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刑部

季節外れのコスモス園 (2023/01/04 訪問)

秋は沢山の人がいると思うが今は誰1人いませんでした。まるまる城址をコスモス園にしたようです!

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ひろし

空堀や曲輪がきれいに残っていました (2023/01/07 訪問)

こじんまりとした城跡ですが、遺構がしっかり残っています。
小高い丘の斜面の曲輪跡や土塁、空堀など、はっきりと確認出来ました。
整備も行き届いており、非常に見学しやすかったです。
2~3台ですが駐車スペースもあって助かりました。

福知山城から近いので、併せて攻城をおすすめします。

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赤い城

少しだけ残る土塁 (2022/12/25 訪問)

登城口から登っていくと民家があり、その脇に説明板が立っています。
その先に石碑があり、主郭跡のようです。
畑になっている感じですが土塁が残るとのことなのでちょっとだけお邪魔しました。
高さもさほどでも無い土塁が少しだけ残っていました。
他に遺構は無さそうです。
あまり探索も出来ないので早々に退陣しました。

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新ろくべえ

国宝五城・松本城に行ってきました!②惣堀編 (2023/01/03 訪問)

松本城の掘は、内堀、外堀、惣堀のみっつあり、
その中で、惣堀はとても大きいです。
今回は惣堀を紹介します。

『東側』
惣堀の中で、唯一残っているのは東側の一部だけです。
東側の掘は水が張られ、当時の歴史を馳せています。
はじに、昔の石垣が少し残っていて、見えます。
とても大きく、川のようです。

『南側』
大手門のあたりには、今は公園となっていて、説明板があります。
大手門にも惣堀が巡っていたようです。
 
『西側』
西側には、土塁が残っており、公園となっています。
昔の土塁がきれいに一面だけ残っています。
土塁は昔とても広かったようで、とても大きく感じます。

『北側』
北には遺構がありませんが、北門大井戸のあたりに、北門馬出跡の説明看板があります。


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イオ

尼崎市立歴史博物館と尼信会館 (2022/12/10 訪問)

(続き)

廃城後、本丸跡は学校用地となり、戦前に建てられた市立高等女学校の校舎が整備されて歴史博物館になっています。歴史博物館の北東部が天守跡にあたり、玄関前の植込みに尼崎城天守閣遺蹟の石碑が建てられています。また、北辺の道路沿いの植込みには大量の石垣の石がならべて展示されており、矢穴のある石も見られました。

館内に入ると、2階は古代から現代までの常設展示エリアになっていて、尼崎城の絵図や本丸の復元模型、鬼瓦や鯱瓦、桜井松平氏の具足、発掘調査の成果の展示など、尼崎城に関する展示が特に充実しています。中庭にも尼崎城石垣の石が数多く展示されていました。
なお、尼崎城とは無関係ながら現代の常設展示の最後に現下のコロナ禍に関する展示があったのが印象的でした。まだまだ歴史どころか現在進行形ですが、いつか歴史の一ページになった時に後世の人が指針とし得る資料をひとつでも多く伝えていく、それこそが歴史という学問に携わる者の後世に対する責務ですよね。

歴史博物館を出て城下をあちこち散策した後、今度は西屋敷跡の尼信会館に行きました。その名の通り尼崎信用金庫が開設した博物館で、城下町尼崎展として尼崎城と城下の絵図や資料、桜井松平氏に伝わる大旗、太刀や具足が常設展示されています。併設のコイン・ミュージアムもなかなか面白く、ちょうど時期的にFIFAワールドカップ各大会の公式記念コインが展示されていました。ついでに南隣にある尼信本店別館の世界の貯金箱博物館にも行くつもりでしたが、閉館時間が迫っていたため断念しました…。

…ということで、歴史博物館も尼信会館も入館無料ながらなかなかに見応えがあり、尼崎城への理解を大いに深めることができました。さて、歴史博物館で知識を仕入れたら城下を散策します(続く)。
 

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