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todo94

年神社 (2023/12/23 訪問)

島原半島の城めぐりを終え、諫早に戻ってきての攻城です。長崎本線の車窓からもよく見えます。十二支公園の戌・久山城山公園になっています。年神社拝殿脇に公園の標柱が建っているので迷わず登城することができるでしょう。山頂からは諫早湾をバッチリ望むことができました。

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トク

94【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (佐土原城④-豊久と日本最南端の天守台) (2023/11/04 訪問)

(25人目)島津豊久の続き⑦です。佐土原城の本丸に到着しました。

ここは日本最南端の天守台で有名です(写真①②③④)。ここにはいったいどんな天守が建っていたのでしょうか? 古絵図には天守が描かれており金箔瓦も出土されたため(写真⑤)、ここに天守が建っていた事は間違えないようです。しかし、その天守が二層であったか三層であったかなどの詳細はまだ解っていないそうです。金箔瓦は秀吉から許された者にしか使えないので・・・となると🤔? 発見された瓦は、家久か豊久の時代の瓦という事になるのでしょうか? 見ているだけでなぜか想像をかき立てられます。

島津豊久は、根白坂の戦いの翌年に死んだ父の家久の跡を継ぎ、18才で城主となります。そしてここから叔父の義弘と共に秀吉の命で二度朝鮮へ出兵して行きました。そして二度目の慶長の役から帰国後しばらくして、1599年大坂へ参勤中に島津家の内乱「庄内の乱」が勃発します。豊久は家康から「薩摩の当主義久とよく相談しながらこの乱を鎮めよ!」と命じられ佐土原へ戻ってから薩摩へ行き、義久とともにこの乱の鎮圧にあたります。

そして1600年5月には乱も鎮圧し、当主義久(当時67才)に代わって家康へその報告をするため再び大坂へ戻ります。しかし、そこで何と関ケ原に巻き込まれてしまう事になるのです。

私は、佐土原城の本丸から佐土原城下を眺め考えてみました(写真⑦)。義久とともに乱を鎮圧した豊久は、大坂へ旅立つ前日、どんな思いでここにあった天守から、同じようにこの城下を眺めていたのでしょうか? この後、まさか関ケ原で戦が起こり、自分がそこに巻き込まれるとは、まして生きて再びこの佐土原の地へ帰る事ができぬとは、思ってもいなかったのではないでしょうか?

乱の状況やいきさつを、どのように家康様に報告し、どうやって内乱を起こした島津家の恥を詫びればいいのか? その事で頭がいっぱいのまま、大坂へ旅立って行ったのではないでしょうか?・・・

次は、豊久が関ケ原へ巻き込まれる事になった要因で、庄内の乱の舞台となった「都之城」を訪れます。


【余談】宮崎名物「チキン南蛮と冷汁」
宮崎駅前で、以前から気になっていた宮崎名物「チキン南蛮と冷汁」の定食を食べてみました(写真⑩)。冷たい冷汁に薬味をのせてごはんの上にぶっかけ、タルタルのチキン南蛮と合わせて食べるようですが、食べてみると(うわ最高!)。歩き疲れた体に冷汁がしみわたり胃も元気回復、さらに少し揚げた南蛮に甘酸っぱいタルタルが口の中に広がり・・・思わずビールをもう一杯おかわりしてしまいました(😊笑)。
 

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じゅんじん

岡崎城 (2024/01/07 訪問)

大河ドラマ館終了前日。賑わってました。

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しんちゃん

バリバリジョニーへ行こう (2024/02/11 訪問)

坂本城の石垣見学の行列に並んでいる時、頭の中に声が響いてきました。
「私は琵琶湖の神です。私は今、あなたの頭の中に直接話しかけています。あなたは滋賀県で天下〇〇や、リ〇〇ーハットを食べている場合じゃありません。バリバリジョニーへ行くのです。バリバリジョニーに行くのです‥‥」
「はっ!今のは?」延々と続く行列にうんざりして意識がもうろうとした隙を突かれたようです。今のは天〇〇品に押さ気味のご当地ラーメンを憂う偉大な琵琶湖の意志でしょうか?
そんなわけでエイスクエアに行ってみたら、ずいぶん前に閉店したようです。仕方がないのでリンガー〇〇〇のち〇〇ぽん麺を食べました。
「うまいじゃないか!」うまいけど今の私が求めている味はコレじゃないのです。
次の日、滋賀を車で走っていたら誰もが一度は目にするであろう、あの店に行きました。私ももういい歳なので油っこいのはちょっと‥おあつらえ向きに「あっさり味」がありました。でもミニチャーハンをおまけに付けたので替え玉を食べる胃のスペースが無い。
次は替え玉にチャレンジしようと思います。

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kitanosho

北之庄城のホームページができました (2023/02/12 訪問)

北之庄城のホームページができました。近江北之庄城に関して広がっているいくつかの誤解を訂正したいと思っています。
・北之庄城(岩崎山城)という城跡名からの類推で、城跡のある山の名前を岩崎山と考える方がおられますが、岩崎山は尾根続きの別の峰の名前です。岩崎山城という名前は、江戸時代の文献に由来する名称で、現在の山の名前に由来するものではありません。北之庄城(遺跡名)=岩崎山城(文献上の名前)ですが、北之庄山254m≠岩崎山278mです。
・確かに江戸時代の文献に寺院跡と推測する記事がありますが、少なくとも「阿弥陀寺」が前身ではないと思われます。阿弥陀寺は現在も八幡山の北部にある別峰の奥島山に存在し、その近くに室町期の「阿弥陀寺」跡と考えられている遺跡が存在します。
次のサイトもご覧ください
北之庄城(岩崎山城)http://uenosato.net/kitanoshojo/

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しんちゃん

朝から雨、だが押して参ろう (2024/02/18 訪問)

この日は朝から雨です。天気予報と違うじゃん‥。しょうがない行くか~。実際はこんな感じです。
山頂の本丸は社になっていて麓の鳥居に駐車できるスペースがあり、そこから階段を一気に登って行きます。かなり急で木の階段も朽ち果てつつあるので気を付けて登ります。これは攻め手もかなり苦労したでしょう。登り切った後は岩肌がむき出しの尾根を進んでいくと社のある主郭に到着です。木の根がすごい張り出していて、なかなか壮観。雨の中来た甲斐があった?
主郭と副郭は一体化しているようで主郭の方がすこし高地にあるようですが、一つの郭として捕えても良いのではないでしょうか。主郭の周囲には土塁が残りかつてはかなりの規模だったようです。主郭から下がって周囲を散策すると堀切がありました。雨にぬれ続けながらの登城なので、ここでヨシとして切り上げます。
九曲城は北を除く三方を櫛田川に囲まれ北は急峻な崖になっています。要害の地にあるわけですね。天正4年(1576)川股・波瀬峯以下の川股谷の地侍約50人が織田信雄に屈せず日置大膳に一日~二日で赤桶城と共に落とされてしまったそうです。
あれ‥いま要害と書いたばかりなのに。多勢に無勢ってやつですか。


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ぴーかる

宇喜多氏方の岩屋城攻めの陣城 (2024/01/04 訪問)

【荒神の上砦】岡山県津山市中北上
<駐車場他>駐車場はなし。道路の<35.068659, 133.841450>の場所が広いので道路脇に停めました。
<交通手段>車

<見所>曲輪横堀・曲輪土塁・竪堀・尾根土塁
<感想>城びと未登録の荒神の上砦は毛利氏に攻略された岩屋城を奪還するために宇喜多氏方が岩屋城を包囲した陣城群の一つで、天正12年(1584年)に築かれました。陣城群は岩屋城を包囲していて、荒神の上砦と楽万の上砦の遺構が良好に残っているそうです。後者は岩屋城訪城に時間がかかってしまい行けませんでした。
 登城口は<35.068245, 133.842182>で東方向に農道がありますので奥に進んで行くと砦の最北の竪堀跡から入れます。麓の登城口からの比高はそれほどなく丘城です。陣城の曲輪は大きく3つに分かれていて最北の曲輪は横堀と方形土塁で囲み、南側に小さな枡形虎口があります。中心部分の曲輪は横堀と方形土塁囲みの平虎口、最南の曲輪は山の最高所に位置して堀切からの竪堀で仕切り、横堀があります。曲輪は土塁囲みではないが一番広い曲輪で山城の普通サイズの曲輪です。3つの曲輪は尾根に沿って長大な土塁で結んでいます。

 この陣跡を見て合点がいった事があり、富山県氷見市の海老瀬城が陣城かもしれないということです。越中国と美作国で地域が全然違いますが、砦の横堀、土塁、曲輪のサイズがほぼ同じで、同じようなミニチュアサイズの造りになっているからです。これまで陣城は玄蕃尾城をはじめ、虎御前山城や太閤が平のスケールの大きな陣城しか見てきていなかったので、荒神の上砦を見て海老瀬城がそうではないかと納得いきました。一見に如かず、現地に行って勉強になりました。機会があれば楽万の上砦に行ってみたい。

<満足度>◆◆◇

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枡形ともき

丸亀で亀発見! (2023/08/19 訪問)

現存天守12城のうちの1つです残りが備中松山城と高知城になりました。
高石垣の迫力はすごかったです。
石垣好きとしてはかなり満足なお城でした…
最近過去に行ったお城の投稿をしております。

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しんちゃん

今は入らない方がよさそう (2024/02/17 訪問)

実は高城は2017年の6月に阿坂城と一緒に訪問しています。でも後付ハードディスクのデータが2回破損して阿坂城の写真ともども消えてしまいました。写真が残っていないのも寂しいのでもう一回やってきました。
北側の菰池から道が続いているのですが何か雰囲気がおかしいですね。西手の橋からアクセスしようとしたらゲートの奥に犬を連れたオヤジがいます。話をしてみると猟〇〇の人で、ここは人が来ないのでアレをアレしているとのこと。さっきは気づきませんでしたが手には立派なラ〇〇〇を持っています。うるさい団体が騒ぐと困るので伏字が多いですが、撃たれてはかなわんので、ここはおとなしく退散です。枳城行くかな。
4月以降にまた来てみようかなと思いますが、この城は危ないとおもったらサッと引き返してポチっても良いと思います。個人的意見ですが必要以上の危険に見合うだけの城なんて無いと思います。安全第一ですよ。

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小城小次郎

奥に行くほどものすごい (2023/05/13 訪問)

昨春に静岡古城研究会の猛者の皆様とご一緒した見学会で奥まで足を運び、行けば行くほどすさまじい遺構が現れたことに仰天した。主郭周辺の織豊系石垣もすごいが、後瀬山城は奥に行けば行くほどものすごいお城だと思う。

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氷室神社 (2004/02/11 訪問)

城びと先人の投稿を見て、行きたい城にノミネート。伊賀方面からアクセスし、脇道に入るべきところを行き過ぎてUターンしようとしたら、氷室神社前👀 せっかくなのでお参りすると、北向き軒下に雪が残ってました。氷室神社自体には氷室はなく、周囲の山々に散在しているようですが、さすが、氷室神社。福住氏は、氷室神社の神主も勤めていたと。
奈良盆地と伊賀盆地の間の奈良(大和)高原は、侵食・堆積によりいったん平坦になった土地が隆起して、再び侵食を受け始めた準平原。山中なのに、小さな盆地がたくさん連なって、有力豪族が割拠してました。標高は400〜500m。奈良盆地の標高が100m以下。伊賀盆地が200mほどなので、氷室も成り立つのでしょう。
肝心の福住城は、登城口位置も含め、城びと先人が詳しくレポートされていますので、「コンパクトながら技術が凝らされた城」とまとめさせていただきます。主郭の折れがある切り岸が良かった😄この後、さらに奈良盆地側の椿尾城に行きました。これまた、城びと先人が伝えるとおり、奈良三大山城との呼称はだてではなかったです。

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にのまる

2023年城納め (2023/12/31 訪問)

年末の帰省時の立ち寄りです。
今回はガイドブックに載っている8つの門をチェックしながら歩きました。
しかし、やはり大きな天守に目がいきます。もうすっかりこの形に馴染んでいて、復興天守の代表格としての価値や地位、貫禄を感じます。


一周して満足したので実家に帰ります。
地元駅も自動改札機が導入されていましたが、ICカードのエリアまたぎができず、自動改札機も分けられているという情報を新潟の朝田さんが以前教えてくださっていたので、素直に券売機で切符を買って帰りました。


毎冬恒例の〈新幹線から富士山〉は今年はB席しか取れなかったので無理でしたが、別日に18きっぷで富士川に行って〈新幹線と富士山〉を眺めてきました。
“お城から富士山”は未達です。どこかいいところあるかなぁ。

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天守無しがアツい

ここ本当に城跡? (2024/02/18 訪問)

王子駅から川沿いに歩いて10分ほどの場所にここはあります

ただ…今はもはやただのお寺(金剛寺)

城の痕跡はいくら境内を探しても…全くありませんでした😭

弘法大師に関するノボリはあったのですが

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T-Shionoya

宇佐山城 突発訪問 (2023/12/22 訪問)

この日は次回掲載する城が目的でしたが、その前に余裕ができたため急遽訪問した滋賀県大津市の宇佐山城。

琵琶湖南部の西岸の比高200m少々の宇佐山に築かれた城。
湖畔の西近江路から直接京都へ入る山中越の分岐点で、琵琶湖の水運と京都への往来を監視していたことでしょう。

1570年、信長の命により森可成が築城。
その可成が討たれた後は、明智光秀が城主に。

現在は、本丸にアンテナ施設が建つものの概ねの普請跡を残し、宇佐八幡からハイキングコースが整備されている城跡。

訪問時、麓から割と急勾配な道を登って行くと本丸東側の竪堀に到達。
そして目につく石垣を確認しながら現代版の烽火台が建つ本丸へ。
事前調査をしておらず、本丸に掲示されていた縄張図を参考に二の丸や三の丸を巡り1時間程度で下山。
その結果、帰宅後に二の丸東腰曲輪にある石垣の存在を知り、1番の見どころを見逃したことが発覚。
今も後悔を残している、私の城郭巡りの167城目です。

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キンヤ

蓮如上人が築いた寺内町で土塁が部分的に残る城 (2024/02/11 訪問)

山科本願寺は、文明10年(1478年)に浄土真宗中興の祖である本願寺8世蓮如上人が造営を開始した寺内町で、その後、9世実如、10世証如の時代に土塁や堀が完成したのではないかとされます。
市街化されてますが、土塁が部分的に残されています。

内寺内(二の丸)の北東側にある国史跡指定の土塁は巨大で驚きました。
かなりの土木量で本願寺は大きな勢力を持っていたのだろうと思います。

御本寺(本丸)の北西から西側にかけて4箇所で土塁が残されてます。
北西側に立派な長屋門の奥田家住宅があり、敷地の北側と西側は土塁で囲まれており、フェンスの外から土塁が見られました。
西側土塁とその内側一帯は、発掘調査が行われており、土塁は構造などが調査され、建物跡・井戸・石風呂などが見つかり、調査結果を基に2016年に国史跡として追加指定され、2021年に史跡山科本願寺跡公園として整備されたようです。

推定復元図を見ると、土塁・堀は屈曲し、2重の土塁・堀で取り囲み、ただの寺院ではなく城ですね。
復元図には描かれていないですが、内寺内の北側から北東側には外寺内(三ノ丸)もあったようです。
山科本願寺は、天文元年(1532年)に法華宗や六角氏などの軍勢により焼き討ちにあい廃城となりましたが、その以前に発達した縄張りの城を造っていたとは凄いと思い、戦国時代後期の平城のようでもありました。

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枡形ともき

親子名城見学 (2023/11/24 訪問)

御廊下橋や天守閣の裏口(?)
の見学をしました。
転用石なども見ました。

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小城小次郎

弘前城の亀甲門はここから移築されたとか (2023/05/04 訪問)

曽我氏、安東氏が使った古館を南部方が完全リニューアルし津軽方面への一大拠点としたが津軽方との抗争に敗れ津軽方のものとなった。弘前城の亀甲門は大光寺城からの移築と伝わりその重要性が窺えるが現地にはまあ何もない。

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POYO58

八丈岩 (2024/02/10 訪問)

三雲城址散策の前に訪問しました。八丈岩は落ちそうで落ちない岩と言われパワースポットとなっています。白龍が祀られていて受験生が石にお願い事を書いて岩の上に置くそうです。またここは猿飛佐助が修行をしていたそうです。
僕も早速お願い事を書きました。そろそろ大学受験も近いので第一志望校を書いて岩のうえに乗せておきました。結構高いところに乗せました。乗せる時は他の石が落ちないように気をつけてください。
その後は八丈岩を一周してみました。背後から見ると結構落ちそうな感じでした。逆光なのでかなり撮りづらかったです。
また馬の背道方面に向かうとまた巨石群が見られるのですが、そこに六角氏の刻印が今も残っています。(写真④)佐々木六角氏が当時に記したとされ大変貴重です。探すのが結構大変でしたが、意外と近くにありました。場所については公式サイトを見てみるのがよろしいかと思います。
最後に車で下っていくと、途中に鬼滅の刃のロケ地説となっている岩がありました。(写真⑥)鬼滅の刃を見ている人ならわかるのですが、主人公の炭治郎が修行の時に教に岩を切るよう試練を与えられ、大きな岩を2年かけて刀で切る場面があります(普通あり得ないのですが)。そのシーンの聖地としていくつか挙げられているのですが、この三雲城がその一つとされています。まあそっくりでしたね。
気になる人は調べてみてください!

長々とありがとうございました!

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チェブ

関ヶ原の前夜。 (2024/01/04 訪問)

お正月休みを利用して、岐阜県の「大垣城」を選んだ理由は、1月4日から続100名城のスタンプが押せるからです。

「大垣城」は1535年、美濃国守護の土岐氏一族 宮川 安定さんにより築城されました。
個人的に気分は、関ヶ原合戦前夜の石田 三成さん。これからの大戦を考え、車に乗り込みます。(←大分、勘違いしています。)

「大垣城」は街中にある事は承知していましたが、こんなに近いとは思いませんでした。
まずは駐車場を探すのに、「大垣城」へ近づくと、戌亥櫓を曲がり丑寅櫓へ一方通行。東門から通りに出ました。堀を隔てる事なく石垣が近くにあり驚きました。
コインパーキングに駐車して、戸田 氏鉄さんと「大垣城」の天守を写しました。絵になります。
こちらの天守は戦争で消失し、昭和になって再建されましたが、忠実ではなかったようです。
平成23年に外観が改修され、今の堂々たるお姿になりました。ちょっと、ナンチャッテ天守も見たかったですが( *´艸`)
石垣と白い塀を見て歩くと、門の右側に石碑があります。手前に橋の欄干があって水堀の跡がうかがえます。
門をくぐれば外とは違う武骨な石垣がありました。かつての西軍の主だった武将達も、ここに立ったのかとワクワクし、天守へ。
中は資料館になっていて「大垣城」の歴史や体験コーナーがありました。鉄砲隊にも弓隊にも槍隊にもなれます。

かつて4重の水堀があった「大垣城」。
今は街中に馴染んでいて、1歩でタイムスリップできます。

三成さんは、勝利を願い関ヶ原を目指し出発した事でしょう。
道路標識には関ヶ原の地名。

そーだ、水まんじゅうが美味しいんだった。と、甘味処を目指し出発した「大垣城」攻めでした。

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yoda 1253

唯一無二の障子堀 (2034/02/17 訪問)

資料や映像で見るよりも迫力がありました

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