⑥【関ケ原の26人 】(2)吉川広家 (吉川広家陣跡と南宮山)
(2022/11/30 訪問)
(2人目)「吉川広家」の続きです。
関ケ原の南宮山の麓にある、「吉川広家陣跡」を訪れてきました。
広家は、南宮山の麓(現在の不破高校の付近)に陣を張っていまいた(写真①②③)。その東550mの所に南宮大社があり、大社の奥には「安国寺恵瓊」の陣があり、背後の南宮山頂上には「毛利秀元」の陣がありました。南宮山にはこの南宮大社から登れるようなので、秀元が山頂からどう見えていたのかその景色が見たいと思っていたのですが、あいにく雨だったので登山は断念しました(写真⑤⑥⑦)。しかしこの南宮山に毛利秀元14,000の軍勢がいたかと思うと、きっとこの山全体に隙間もないくらいにぎっしり兵がいたのではないかと思いました。しかし近年の研究では、山に大きな曲輪の跡がないので、実は麓の南宮大社のあたりにいたのではないかという説もあるようです(写真④:吉川広家陣から見た南宮山)。
秀元はやる気満々でしたが、広家が動かないため山を下りる(または前に進む)事ができません。本当に戦の最中に弁当を食べていたのでしょうか? 空弁当というくらいだから、食べてはいないと思いますが・・そもそもそんなもの用意する暇なんてないですよね(笑)。恵瓊から動くよう催促されると「くそぼうずに戦の何が分かる!」と口論になったようです(笑)。広家と恵瓊は実は仲が悪かったようです。
もし、秀元と広家が動き家康の背後を攻めていれば、少なくとも家康は前へ出る事はできず、桃配山に釘付けになっていた事でしょう(あるいは挟み撃ちになり、もしかして家康の首も・・?😲 家康ファンの方にはいつもすいません)。でもよく見ると、すぐそばに池田輝政の陣がありました。広家が動かぬよう輝政が監視し、背後から家康を守っていたのがよく想像できました。しかし、数に勝る秀元が本気で動けば、輝政といえどひとたまりもなかったかも?しれません。でも自分は養子であったため年上の広家に気を使っていたのでしょうか? などとあれこれ気が付けば1時間くらいこの陣跡で空想してしまいました(笑)。
ここからは、桃配山が視界をさえぎって、関ケ原は全く見えません(写真⑨)。ここに居ては合戦の状況は全くわからないでしょう。広家は長政からの再三の寝返りの誘いに最後まで悩んでいました(秀元や恵瓊はこの事を知らず)。そして決戦前日、輝元が秀頼を奉じて大坂からまだ動かぬ事を確信すると、長政の誘いを受け入れる事を決意、前夜に目の前を家康の東軍大軍勢が通るのを黙って見つめます。そして決戦当日も動きませんでした。もし西軍諸将が討ち取られている様子が実際に見えていたならば、広家はどんな行動をとったのでしょうか?(じっとしていられたでしょうか?) などとまたこの場所から考えてしまいました。🤔
結局、小早川秀秋と吉川広家の二人(毛利の両川)が、関ケ原の勝敗を決めるキーマンになったようです。
次は(3人目)に続きます。
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