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スティクラ

一乗谷城朝倉氏遺跡と朝倉氏歴史資料館へ (2023/01/07 訪問)

青春18切符が余っていたので、長年行きたかった一乗谷へ向かう。
電車の時間の関係上、一乗谷城まで散策することはできず、朝倉氏遺跡と朝倉氏歴史資料館へ。

朝倉氏遺跡は、最寄の一乗谷駅から徒歩で30分程度。
朝倉氏遺跡に行く途中の踏切を過ぎてから少しすると遊歩道があり、当時の街並みの遺構をみながら向かうことができるので退屈はなし。
一乗谷復原町並を見た後に朝倉氏館跡へ。
高台からの景色は素晴らしかった。現代の建物が少なく、当時もこんな感じだったのかな~と思わせてくれる風景だった。
散策時間は40分程度。

朝倉氏館跡に行った後歴史資料館へ。
偶然に資料館の無料ガイドが始まる時間だったので、参加。
ガイドの人が言っていたが、資料館は県がかなり力を入れて作ったようで朝倉氏館の一部を原寸大で再現されているなど見る価値は十二分にあり。

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にのまる

真鶴半島めぐりと鎌倉大河ドラマ館 (2022/12/24 訪問)

湯河原の土肥城に行ったときに知った<もうひとつのしとどの窟>。
18きっぷの2回目を使い、周辺の関連地と合わせて行ってきました。

①しとどの窟
真鶴駅から徒歩20分くらい。
箱根の山中や湯河原のしとどの窟などを経て真鶴にたどり着いた頼朝が最後に身を隠したと伝わる窟で、かの時代には130mの奥行きがあったと言われているそうです。今は僅か数メートルの洞穴が残るばかりですが、岩盤や断崖からかつての姿を想像することは難くありません。
品川台場礎石の碑と大石も同じ場所にありました。開発によって台場の遺跡が失われることを危惧し礎石を採掘場であるこの地に移したのだそうです。

②番場浦海岸
真鶴半島は数時間で一周できるくらいの小さな半島です。江戸城石切場跡の残る番場浦海岸まで歩いてみました。観光地化されていない静かな海岸で、冬の海がとてもきれいでした。ただ波が高く、採石ポイントまでは近づけなかったので、機会があれば夏にもう一度行ってみたいです。

③源頼朝船出の浜
番場海岸から来た道を戻りつつ、土肥実平が頼朝の無事を祝い再起を願ってうたい踊ったと伝わる謡坂を通り、岩海岸へ向かいました。
岩海岸は安房を目ざした頼朝一行が船出した海岸です。石碑がふたつ、背中合わせに建てられていました。房総半島は見えなかったけれど、弁天島や真鶴ブルーラインの岩大橋を眺めながらの砂浜散歩は気持ちよかったです。

④大河ドラマ館
最後に鶴岡八幡宮の大河ドラマ館に行きました。予約をしていなかったのですが当日券で16時ちょうどに入館できました。最終回を終えて間もない訪問でしたが、既にいろいろ懐かしかったです。大河ドラマ館の楽しみは実際に使用された衣装や小道具を見ること。ガラスケース越しに貪り見てしまいました。
八幡宮本宮から若宮大路の向こうに見える夕焼けがきれいでした。

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ぴーかる

萩城 (2022/12/10 訪問)

【百名城63城目】
<駐車場他>城跡:指月第一駐車場無料/萩藩船蔵:浜崎伝建地区無料駐車場/武家屋敷・菊ヶ浜土塁:菊ヶ浜無料駐車場
<交通手段>車

<見所>武家屋敷・枡形虎口・二の丸土塀石垣・天守台・指月山要害
<感想>1泊2日萩・浜田の旅1城目。萩市に到着後まず吉田松陰生誕地・墓地を訪れ⇒萩藩船蔵⇒松下村塾⇒萩城⇒要害⇒菊ヶ浜⇒現存武家屋敷数件⇒北総門・外堀⇒城下町⇒菊ヶ浜土塁の順でたっぷり1日を使い1城攻めで巡った。
 お城の方は現存の建築物は残っていないものの、武家屋敷の長屋門等は沢山残されていて、お城の枡形の石垣虎口、櫓台、長大な雁木、天守台の扇の勾配や菊ヶ浜から見える二の丸東面土塀・石垣は美しい。指月山山頂に残る要害は毛利輝元が幼少に過ごした吉田郡山城の想いを残し築造した詰城だけあって山城好きにはたまらない、平城と山城両方楽しめる見応えがあります。
 江戸時代には藩主が参勤交代で初入国した時や幕府の国目付来藩の際には天守と要害でそれぞれ登陟儀式が執り行われたそうです。要害主郭のど真ん中に残る矢穴跡の残る超巨岩もすごくいい。総構え町全体を含めて大好きな城跡がまた1つ増えました。これにて山口県の百・続百名城制覇。

<満足度>★★★★★

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ろっし

お城探訪 (2023/01/08 訪問)

小さな小山しか残ってませんが、大小の石碑が二つに立て看板もあり上には立派な神社があります。
跡形もなくなった城跡よりは良い。

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刑部

城址は亘理神社 (2023/01/05 訪問)

主郭部に神社として残されて後は学校に変わっていました。

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スティクラ

西門以外にも魅力がある鬼ノ城 (2022/12/17 訪問)

岡山駅から車で鬼ノ城へ。あいにくの雨模様。
一番近い駐車場は広く10台以上止めることができるが、それまでの道中は狭い道が多く運転が不慣れは人は注意が必要。

見どころは西門だけだと思って行ってみたが、実際は山全体を楽しむことができる。山全体をハイキングできるようになっていて、それほどアップダウンがない。
西門ほどではないが、各場所に門の遺構があり、特に東門から南門にかけて景色も楽しむことができる。

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スティクラ

リニューアルした岡山城へ (2022/12/18 訪問)

昨年11月にリニューアルした岡山城へ。

天守閣の中は6Fまであり、各階に見どころあり。
体験コーナーや城主となった戦国武将の歴史がわかりやすく書かれていて、興味がなかった人や子供が見にいっても十分に楽しめるようになっていたと思う。ただ最上階からの眺めは見える面積が少なく少し残念。

天守閣以外にも築城当時の石垣を見ることができたり、不明門なども魅力。またどの方向から見ても天守の形が違うように見ることができるのも魅力のひとつ。時間があれば後楽園側に橋を渡って、川を挟んで城を楽しむのもあり。

1時間~1時間半あれば十分楽しめると思います。

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まーやん

神武山公園 (2023/01/03 訪問)

但馬の中心都市豊岡にかつてあった城跡。神武山公園として整備されており、比高も然程なく曲輪跡が見られる。
山麓には往時を偲ばせる門や町並みが残る。かつては円山川の水運を意識した城下町が形成されていたと思われる。
この円山川沿い(多分間違いない)に植えられた柳で柳行李(ヤナギゴオリ)を作り全国に売り歩いていた名残から今も鞄の一大産地となっている。
付近にはコウノトリの郷や玄武洞、城崎温泉に出石など観光地がてんこ盛りである。

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キンヤ

酒井氏5代の居城で酒井忠次誕生の地 (2023/01/08 訪問)

徳川四天王の一人である酒井忠次の誕生地と云われます。
酒井左衛門尉家の氏忠から忠次まで5代の居城とされ、忠次は1564年に吉田城主となり居城を移したとされます。

岡崎城と松平家菩提寺の大樹寺を結ぶ直線上の位置にあり、今は城山公園となっていて、西側から見ると少し高台である事が分かります。
公園化で改変されていると思われますが、方形の曲輪跡や切岸状が見られました。
公園内の西側に城址碑があり、北側の城山稲荷は土壇状に建てられています。

井田城の北東側辺りは井田野古戦場で、松平氏4代親忠の応仁の乱の時から9代元康の桶狭間の戦い後まで何度も激しい戦場となり、井田城を守る将兵も勇戦奮闘したそうです。

西光寺の南西側に千人塚があり、井田野合戦での戦死者を敵味方の区別なく埋葬した塚と云われます。
西光寺の裏手にある大衆塚は、桶狭間の戦い後、大樹寺に逃げ込んだ松平元康を守り、追手の織田軍と戦って亡くなった僧兵を埋葬した塚で、その上に阿弥陀如来石像があります。

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まーやん

織田木瓜が目につく街 (2023/01/03 訪問)

織田信長の弟信包が初代藩主の柏原(かいばら)藩の陣屋跡。長屋門と御殿、付近には太鼓櫓や木の根橋、山上の八幡宮(厄神さん)など見て回れる。
この日はドライブの途中立ち寄り長屋門から御殿を見た。

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トク

⑥【関ケ原の26人 】(2)吉川広家 (吉川広家陣跡と南宮山) (2022/11/30 訪問)

(2人目)「吉川広家」の続きです。
関ケ原の南宮山の麓にある、「吉川広家陣跡」を訪れてきました。

広家は、南宮山の麓(現在の不破高校の付近)に陣を張っていまいた(写真①②③)。その東550mの所に南宮大社があり、大社の奥には「安国寺恵瓊」の陣があり、背後の南宮山頂上には「毛利秀元」の陣がありました。南宮山にはこの南宮大社から登れるようなので、秀元が山頂からどう見えていたのかその景色が見たいと思っていたのですが、あいにく雨だったので登山は断念しました(写真⑤⑥⑦)。しかしこの南宮山に毛利秀元14,000の軍勢がいたかと思うと、きっとこの山全体に隙間もないくらいにぎっしり兵がいたのではないかと思いました。しかし近年の研究では、山に大きな曲輪の跡がないので、実は麓の南宮大社のあたりにいたのではないかという説もあるようです(写真④:吉川広家陣から見た南宮山)。

秀元はやる気満々でしたが、広家が動かないため山を下りる(または前に進む)事ができません。本当に戦の最中に弁当を食べていたのでしょうか? 空弁当というくらいだから、食べてはいないと思いますが・・そもそもそんなもの用意する暇なんてないですよね(笑)。恵瓊から動くよう催促されると「くそぼうずに戦の何が分かる!」と口論になったようです(笑)。広家と恵瓊は実は仲が悪かったようです。

もし、秀元と広家が動き家康の背後を攻めていれば、少なくとも家康は前へ出る事はできず、桃配山に釘付けになっていた事でしょう(あるいは挟み撃ちになり、もしかして家康の首も・・?😲 家康ファンの方にはいつもすいません)。でもよく見ると、すぐそばに池田輝政の陣がありました。広家が動かぬよう輝政が監視し、背後から家康を守っていたのがよく想像できました。しかし、数に勝る秀元が本気で動けば、輝政といえどひとたまりもなかったかも?しれません。でも自分は養子であったため年上の広家に気を使っていたのでしょうか? などとあれこれ気が付けば1時間くらいこの陣跡で空想してしまいました(笑)。

ここからは、桃配山が視界をさえぎって、関ケ原は全く見えません(写真⑨)。ここに居ては合戦の状況は全くわからないでしょう。広家は長政からの再三の寝返りの誘いに最後まで悩んでいました(秀元や恵瓊はこの事を知らず)。そして決戦前日、輝元が秀頼を奉じて大坂からまだ動かぬ事を確信すると、長政の誘いを受け入れる事を決意、前夜に目の前を家康の東軍大軍勢が通るのを黙って見つめます。そして決戦当日も動きませんでした。もし西軍諸将が討ち取られている様子が実際に見えていたならば、広家はどんな行動をとったのでしょうか?(じっとしていられたでしょうか?) などとまたこの場所から考えてしまいました。🤔

結局、小早川秀秋と吉川広家の二人(毛利の両川)が、関ケ原の勝敗を決めるキーマンになったようです。

次は(3人目)に続きます。
 

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まーやん

現在は武道館 (2022/12/24 訪問)

イブの日のダラダラ平城探し。最後は山田城。
武道館建設にあたり発掘調査で環濠の平城であることが分かった模様。遺構は全くないが、琵琶湖岸は重要な地域として様々な時代に史跡があるものだと実感した。

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イオ

城下町めぐり (2022/12/10 訪問)

(続き)

歴史博物館の南にある小学校も本丸跡にあたり、小学校の南西隅には尼崎城址の石碑と説明板が建てられています。また、校庭にはかつて本丸に存在した天守と隅櫓の模型が設置されていて、説明板によれば昭和15年に教職員と児童によって製作されたものだそうです。…って、戦前に作られた模型が80年以上経った今まで伝えられているんですか!? また、小学校北東の幼稚園(平成28年閉園)の壁には卒園記念として尼崎城天守(ちゃんと四重)が描かれていますし、西本町交差点の地下道には荻原一青の天守画模写が、さらには戎橋南詰の普通のガレージにまで築城四〇〇年として天守が! こうしてみると、尼崎城が市民の誇りであり、天守の再建が悲願だっただろうことを実感します。

庄下川から南外堀沿いに東に進み、北浜公園へ。北浜公園は東外堀にあたる大物川を埋め立てた公園で、南端入口に東大手橋跡の石碑が、公園内に尼崎城絵図があります。北浜公園から北に徒歩3分の深正院は桜井松平氏の菩提寺で、歴代藩主や家臣の墓所になっています。かつての本堂は尼崎城本丸御殿を移築したものでしたが、戦災で焼失したようです…。大物駅北東の大物公園の南辺(病院沿い)には、串団子の形をした刻印のある尼崎城本丸の石垣(と説明板)が設置されていました。

西外堀にあたる庄下川の外側には、西国大名への備えとしてでしょうか侍屋敷と寺町が設けられており、寺町には大物くずれで捕らわれた細川高国が自害した広徳寺(羽柴秀吉が中国大返しの途中に休憩したとも)、佐々成政の墓所がある法園寺、室町二代将軍・足利義詮が在陣し大覚寺城とも呼ばれた大覚寺など、数多くのお寺が軒を連ねています。ただ、広徳寺も大覚寺も尼崎城築城に伴って寺町に移転させられているため、現在地はそれぞれ細川高国最期の地でも大覚寺城跡でもありませんが…。

…ということで、尼崎城には明瞭な遺構は(地表面には)見られないものの、エンタメ天守に歴史博物館や尼信会館、城下にも尼崎城の存在を伝えるものがあちこちに見られ、思いのほか楽しませてもらいました。我がまちのお城を誇りに思う気持ちが感じられるのっていいですね。
 

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歴史案内活動【令和5年1月22日(日)10:30~13:30】 (2023/01/22 訪問)

こんにちは、躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。
大河ドラマも幕が上がり、2023年も本格始動しましたね。

初詣の人出がひと段落した今月1/22(日)、
いよいよ当隊も活動初めを行います。

冷え切った冬場は樹が葉を落とし、
躑躅ヶ崎館跡の土塁や空堀がはっきりその姿を顕して
実はガイド活動にもうってつけの季節です。

殊に、館跡の北側を囲む空堀は、
土塁とのアップダウンも相まって、
画像(ステレオグラムでお楽しみください)のように
その大きさ深さをうかがい知ることができます。
我々も甲冑姿で落っこったら
上がってこられる自信がありません(画像は合成です)。
散策中はくれぐれも足元にご注意ください。

COVID-19への感染防止対策をとったうえ、
温かくしてお越しください。

日時:令和5年1月22日(日) 10:30頃~13:30頃
参加ガイド:局長・大塚與左衛門、民部少輔(弥三郎)景政、上田絵馬之助

◆武田神社境内に今日も残る数々の城郭の痕跡を、個性豊かな甲冑ガイドがわかりやすく楽しく案内します。
◆案内時間は10分~30分、ご都合に応じて調整できます。
◆ガイドは無料です。
◆バスツアーなどの自由時間にあわせた案内も可能です。
◆雨天、COVID-19感染拡大状況等により中止の場合があります。
◆案内に先立ち検温等のCOVID-19感染対策を行っていただきます。
◆また、ディスタンス確保による感染防止のため
 甲冑ガイドと一緒に写る記念撮影はご遠慮いただいてます。
 甲冑ガイド単独の撮影は可能ですので、撮影者間の距離を保って撮影ください。
◆案内活動は武田神社様の承認のもとに行ってますが、当隊そのものは武田神社様とは無関係の有志団体なので
 活動に関する武田神社へのお問い合わせはご遠慮ください。
 問い合わせ、連絡は当隊公式ツイッター(https://twitter.com/KoufuSamurais)へお願いします。(E)

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todo94

奈良の城めぐり⑥ (2022/12/10 訪問)

大和田城から南下してアプローチしましたが、此処も駐車場所には難渋します。近くの大福寺児童公園付近にそれなりのスペースがあったので車を駐めさせていただき、そそくさと攻城して参りました。とても立派な城址碑でした。

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香西氏の城 (2023/01/08 訪問)

 香西氏の詰城として築かれた城です。土塁、石積み、竪土塁などが残っています。以前から気になっていた城址で、なんとか登城することができました。

 途中まで車で行けますが、そこからの道は急な坂道で地面も歩きにくくトレッキングシューズ等にて行った方がよいと思います。獣除けの柵からは約20分で虎口に行くことができます。帰りは香西方面へ下りましたが、道だけでいうなら香西方面への道が歩きやすいと感じでした。こちらは車では上がってこれません。
 城域は地元の方が毎週整備されているとのことで、気持ちよく散策できます。感謝です。

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まーやん

寺内町のはしりか? (2022/12/24 訪問)

琵琶湖に近い要衝にあり、蓮如上人の影響を受けた真宗寺院群を中心とした寺内町である。
遺構はないが寺院は残されており、石碑がある。
美濃土岐氏の後継者争いに破れこの地に流れ着いた大畑氏の子息がこの地から苗字をとり金森長近となった(説明端折ります)
今も道路が入り組み付近に川もあることから雰囲気は感じられるかな。

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芝山神社 (2023/01/08 訪問)

 芝山神社になっています。長い階段を上った先にある案内板に土塀の一部が残りと書いてありましたが、土塁のことでしょうか。その土塁もどこのことか、わかりませんでした。

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TAKE

開城前の訪問 (2023/01/08 訪問)

駅より徒歩すぐ。オープン前で天守には入れずでしたが写真を撮るには好都合でした。

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宇佐八幡宮 (2023/01/08 訪問)

 宇佐八幡宮周辺が城址です。本殿が建っている場所が本丸と考えられています。入口に標柱と案内板があります。

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