詳細は不明ながら、北畠具教が北畠信意(織田信雄)に謀殺された翌年、北畠具親(具教の弟)の北畠氏再興の呼びかけに応じて挙兵した粟野半六郎の城で、蛇行する櫛田川に三方を囲まれた急峻な断崖という地の利を活かして織田軍と対峙しましたが、日置大膳亮兄弟の夜襲により落城しました。
国道166号線から案内表示に従って南に入り、Y字の分岐を右側に進むと見えてくる鳥居が登城口で、鳥居の手前が駐車場になっています。登城口脇には九十九曲城合戦由来記が立てられ、地元では大切にされている城のようです。防獣柵のゲートを開閉して急斜面を登ること10分弱で東側の尾根に至り、尾根伝いに西に進むと主郭に到着です。
主郭は北辺に土塁をめぐらせ、西辺は土壇状に幅広く八幡社が祀られています(御神体は山麓に移されたようです)。土壇の西側は川まで落ちる急峻な断崖。現在は木々が茂っていますが、樹木が刈られていたであろう往時ならとても攻め上れそうにありません。主郭の南西下は堀切と堀切から西に落ちる竪堀により南西尾根からの侵攻を防ぎ、南西尾根の先にも竪堀が設けられていました。南西尾根から主郭南東下の腰曲輪を経て南尾根へ。腰曲輪の南下にも堀切がありますが、その先の南尾根には軽トラなら充分通れそうな幅広い道が通され、堀切も重機を使って拡張されたような感じでした(御神体を移すため?)。
この前に登城した下滝野城から小雨が降り出したこともあってか、下山してトレッキングシューズを脱ぐとヤマビルが2匹…。厚手の靴下を二重履きしていたため今回は無事でしたが、九曲城または下滝野城(谷筋が怪しい?)ではヤマビルにご注意を。
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