海綺麗食べ物美味しい険しすぎる城跡難攻不落やった
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2024/05/11 21:49
いいとこ (2024/04/15 訪問)
海綺麗食べ物美味しい険しすぎる城跡難攻不落やった
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2024/05/11 21:42
当時、最も先進的だった平山城。 (2023/07/16 訪問)
多聞山城は松永久秀によって標高115m、比高30mの多聞山(眉間寺山)の山頂に築かれました。大和支配に適した立地にあり、石垣や贅を尽くした建築物に四重の天守まで備えた近代的な平山城で、西の丸は聖武天皇や光明皇后の陵墓がある佐保山に築かれていたそうです。
さすがに見学は難しいですが城址の主要部を占めている若草中学校の校門の隙間から城址碑を確認することが出来ます。
また中学校校舎と体育館の間にある道路は、かつての堀跡だったみたいです。
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2024/05/11 21:28
地元の民の力で建設・運営された国の史跡の台場跡 (2019/05/03 訪問)
淀江台場は文久3年(1863)に鳥取藩の命で地元の郷士・松波宏年(徹翁)によって築かれました。設計は徹翁の長男・宏元によるもので長崎で蘭学や築城法を学んだ人物とのことです。敷地に関しても徹翁が無償で提供し、松波父子と地元の民の尽力によって台場を完成させ「防禦隊」を組織し台場を守護しました。この防禦隊は農兵隊であったと思われます。
現在でも長さ65m、高さ5mの土塁が残っており、台場はかつては最大で大砲8門を備え、土塁の高さも今の3倍ぐらいあったとのことです。
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2024/05/11 19:55
2024/05/11 19:16
ずいぶん前‥ (2013/06/24 訪問)
本丸御殿第一期に行ったきり。また行きたいな。
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2024/05/11 19:13
新幹線の車窓から (2022/02/03 訪問)
以前に登城したけど、たまたま車窓から撮った写真。
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2024/05/11 19:07
2024/05/11 19:03
2024/05/11 19:03
二回目の高田城 (2024/05/11 訪問)
春日山城に続き二回目。下手なりに綺麗に撮れた気がする。
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2024/05/11 18:59
二回目の春日山城 (2024/05/11 訪問)
五月晴れに誘われて久々にやってきました。やっぱり規模がすごい。今度はもう少し上まで行きたい。
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2024/05/11 17:59
お万の方の生まれた城 (2019/01/04 訪問)
勝浦城は勝浦湾に突き出した天然の要衝に築かれている海城で、大永元年(1521)に上総武田氏の一族、真里谷信興によって築かれたという説が有るようです。本丸の位地ははっきりしませんが地元の案内板には子供の広場あたりとされており、先端部の展望広場は物見のエリアとされているようです。(ひょっとするとここが本丸かも) なんにせよ陸側から攻められたら逃げ場のない文字通りの背水の陣です。
紀州徳川家の祖・徳川頼宣および水戸徳川家の祖・徳川頼房の母となる養珠院(おまんの方)にまつわる逸話があり、父の正木頼忠が同族の正木憲時の攻撃を受けた時に布を垂らして逃げ延びたとされる「お万の布晒し」の伝承が残っています。
この伝承は豊臣秀吉の北条成敗の時とする説もあるようです。
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2024/05/11 15:32
稲葉一鉄 (2024/04/14 訪問)
曽根城は稲葉氏によって築かれたとされます。曽根城は後に廃城になりますが本丸跡には稲葉一鉄が母の菩提を弔うために建立した華溪寺が移築されていると案内板に記載が有ります。縄張り図を見ると本丸を中心に幾重にも堀を巡らし(少なくても三重)周囲に家臣の屋敷や町家が並んでいたようです。近くを流れる平野井川も縄張りに取り込んでいますが、切所池(追堀)はどういう扱いになるのでしょうか? 北にある曽根城公園には大島堤が連なり梁川星巌紅蘭像があります。
せっかくだから稲葉一鉄の像もあると良かったんだけど‥梁川星巌は曽根村の漢詩人で、奥さんの紅蘭さんも漢詩人で結婚後に二人で岡山、下関、長崎を旅したそうです。坂本龍馬も新婚旅行をしたそうですが、それよりも早いですね。
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2024/05/11 13:13
かつての守護館あと (2024/04/14 訪問)
川手城は革手城とも呼ばれ斉美高校の敷地内の道沿いの一角にひっそりと城址碑が立っています。最初はその存在になかなか気づかず、周囲を二周してようやく解りました。すでに不審者予備軍になりかけているので、すぐに退散です。
川手城は美濃守護となる土岐氏3代・頼康によって築かれて以後11代まで歴代守護職土岐氏の居城となったようです。近くには正法寺跡と守護代館である加納城があり、これらはセットになっているイメージです。
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2024/05/11 11:08
2024/05/11 10:57
房総旅行にて (2024/04/29 訪問)
偶然のショットが撮れました。
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2024/05/11 10:55
2024/05/11 10:48
2024/05/11 10:20
栃木佐野 唐沢山城跡 (2024/05/09 訪問)
自宅から関越道・圏央道・東北道・北関東道経由で1時間半くらいで到着しました。
田沼の街を抜け、つづら折りの山道を登ったところで、猫ちゃんがお出むかいしてくれました。
神社に向けて参道を登っていくと、曲輪跡や堀切跡が見られ、神社の周りには立派な石垣が残っていました。
この周辺のゴルフ場でプレーしたことがありましたが、こんな立派なお城跡が近辺にあるとは知りませんでした。
また違う季節にお邪魔したいお城です。
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2024/05/11 09:42
歴史は深い (2024/04/19 訪問)
二条古城は織田信長が足利義昭のために永禄12年(1569)に約70日の短期間で築き上げた城郭造りの居館で二条御所とも呼ばれます。かつては義昭の兄、義輝の御所があり、それ以前には武衛職にあった斯波氏の居館が有ったようです。工期を短くするため本圀寺から多くの建物を移築しており、本圀寺やその宗徒にとってはとんだとばっちりだったようです。
義昭が槇島城での戦いで敗れ毛利氏を頼って逃れた後に必要性が無くなり破壊され、地元の衆が持ち去ったり、安土城に運ばれたりで御所跡は後肩も無くなったそうです。いまでは平安女学院敷地内に城址碑と案内板が立てられています。
わずかな時間で斯波武衛陣跡と足利兄弟二代の御所を見学できるチョコ城(ぴーかるさん拝借します)の鑑です。あたたたたたっ
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2024/05/11 09:22
生沼家住宅の巻。 (2024/04/13 訪問)
「上三川城」を右手に見て、城址公園通りを歩くと大きな道に出ます。
手前にコインランドリー。道を渡った斜向かいに「生沼家住宅」がありました。
道路沿いに「生沼家住宅」の説明板。格子戸に桜のくす玉がいくつも飾られていて、可愛らしくなっています。
調べてみたら季節ごとに、くす玉 飾りが変わり、格子戸が華やかになるようです。
とても大きな「生沼家住宅」。主屋、土蔵、店舗が国登録有形文化財なんだそうです。
生沼家の初代は1698年生まれ。このお宅は、明治~大正時代に活躍しました。
現在、一般公開はしてないらしく、外から威風堂々とした佇まいを眺めるだけです。
バリアフリーの歩道と、黒漆喰の建物。とても融合していました。
「上三川城」周辺は、古い物と 新しい物が 一緒に、街を彩っている印象でした。
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