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todo94

山名氏城跡 (2023/11/24 訪問)

山名氏城跡として有子山城とセットで国史跡に指定されています。出石城を加えた3点セットで御城印とリーフレットも用意されているようですね。先達の皆さん同様、学習館の裏手からの登城です。いずし古代学習館は、木曜日が休館日なのですが、木曜が祝日の勤労感謝の日ということで翌日が休館となっていました。城内の案内表示のおかげで主郭まで迷うことなくたどり着くことができました。

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しんちゃん

福島城・北の郭 青森県五所川原市相内 (2021/05/06 訪問)

十三湊安東氏の本拠(推測)福島城は内郭の北側、国道339号線の北側にも郭や堀切などの遺構が残っています。一見、かわいらしいイチゴのような形状をしている三角形の城域は周囲を丘陵に囲まれており安東氏にとっても古代の人々にとっても格好の防御能力を備えた拠点だったようです。
それにしても10世紀ごろにこの地に住んでいた人々はどのような人たちだったのでしょう。推測ですが、彼らはこの地で争わず平和に暮らしたかっただけなのかもしれません。彼らにとっては中央から武器を携えて集団でや現れる人々は非常に好戦的に見えたのかも知れません。全ては時代の流れの一環なのですが、戦国時代の野性味あふれる強烈なエゴイスト達(武将)に、どうしようもなく惹かれてしまう私は困ったやつなのでしょうか。非道な時代ですが村上海賊や伊賀忍者などが一番輝いていたのも戦国の時代なんですね。

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しんちゃん

安東氏発祥の地。そして林の中に古代のロマンが潜む。 (2021/05/06 訪問)

福島城は青森・十三湖の北に位置する三角形の台地状に築かれた平城です。城門の築かれた内郭の南に広大な城域が広がっていて面積は62.5万平方mもあるそうです。10世紀後半ごろから築かれていたらしく当時この地域にいた人達に築かれた防御性を備えた古代集落だったようです。内郭は14~15世紀ごろの遺構と見られ安東氏の発祥の地でもある十三湊が近いことから安藤(安東)氏の居城ではないかと考えられています。
まず城門から内郭に入りますが、なんとも広い。これでもまだ全体のほんの一部です。頭のなかで誰かが囁きます。「まだ始まったばかりじゃないか」‥マジすか、「バキ」の世界じゃないんだから。
でも南側にある古代集落の遺構は見たい。そうまだ始まったばかりじゃないか!外郭は藪化が進んで堀切は見えづらいですが問題なく進めます。そして三日月掘りに囲まれた古代の集落跡を発見!まさに古代のロマンです。荒くれ武者たちとは異なる古代の人々の息吹を感じます。さらに南の城域の先端にも古代の集落はあったようですが、このあたりは開墾されて畑地になっているようです。タイムスリップ終了‥現代に戻ったので引き上げるとしました。

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朝田 辰兵衛

新潟はお菓子の街💞

新潟から外に出ると,スーパーなどのお菓子売り場がとてもショボく感じます。福祉関連で新宿に行った時,「お菓子売り場ってどこですか?」と聞いて,「ここですよ」と。「えっ!」と絶句したのを思い出します。
新潟のスーパーでは,米菓で1列,チョコやキャンディで1列,和菓子やつまみ系で1列がだいたい定番です。
新潟に本社を置くお菓子メーカーですが,亀田製菓は全国に知れ渡っているところです。あまり知られていないのがブルボンかも…。

今回,にのまるさんがご購入された「サラダホープ」は上手なチョイスです。というのも,数年前から販売エリアを新潟県内だけにとどめたからです。最近,めっきり「エビ味」を見なくなりました。コレはやみつきになります。
私が県外の方をガイドして「職場にはどんなお土産がいいでしょうか?」と尋ねられた時も,「サラダホープ」をおすすめしてます。重くないし,簡単に手に取って食べられるので。しかも,販売は新潟県内限定なので。

では,新潟の代表的なお菓子を5つほど画像アップしますね。話に上がった「サラダホープ」から。

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しんちゃん

竜飛岬 階段国道・津軽半島最果ての地 (2021/05/06 訪問)

ご覧あれが竜飛岬北のはずれと~ ある超有名曲でその名を知られる竜飛岬。津軽半島の最北端です。日本で唯一の階段国道から歩いていくことが出来ますが、車で灯台のすぐ近くまで行けます。本当の本州最北端は下北半島の大間岬ですが、竜飛岬のほうが最果て感があります。景色は実に雄大で強風が吹き荒波が絶壁に打ちつけています。津軽海峡を眺めていると春なのに例の曲が頭の中に流れてきます。

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しんちゃん

ジャングリアン王国 (2021/05/06 訪問)

唐川城は福島城の支城で標高160m比高140mの山頂にきずかれていますが近くまで車で行くことが出来ます。嘉永3年(1443)には福島城の安東盛季が南部氏の攻撃を受け、この城に逃れています。
南に展望所があり、周囲がよく見えますが、とにかく城に行かねば‥どこから見ても立派なジャングルで進入路が無いので2か所の堀跡から入っていきます。縄張りを参考にさせていただくと最高所を主郭に周囲に郭が配され、北と南に堀切があり北郭と南郭から一段下がった所に井戸があるようです。
まずは南の堀切から侵入して南側を攻めますが酷いヤブ地獄で木々が密集しています。お世辞にもスマートとは言えない私ですが木々の隙間を無理やり進んでいきます。木々の隙間から南側の眺望が見えますが、正直井戸どころじゃないです。
一度もどり北の堀切から攻めますが、今度はもっと酷い‥クソジャングルです。もうやだ帰る! ‥気を取り直して次に向かいました。

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しんちゃん

土塁こそ 板東武者の 誇りなり 「かるた?」 (2021/05/05 訪問)

久保田城は旭川の東、標高40mの丘陵(神明山)に築かれています。現在は千秋公園となっており本丸の土塁が残り、模擬天守代用の御隅櫓が立っています。二の丸跡は庭園になっていて彌高神社が鎮座しています。慶長8年(1603)佐竹義宣が湊城から移転を決定した時に築かれました。近世城郭ですが石垣はほとんど使用しておらず、良い意味で板東武者の心意気を感じ取ることができます。この日は二回目の百名城のスタンプを集めに来たので写真の数はそれなりになっています。

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イオ

大溝陣屋 (2023/09/09 訪問)

大溝陣屋は、江戸初期に入封した分部光信が大溝城の三の丸跡に構えた陣屋で、城下町を整備し、明治まで分部氏が11代続きました。

三の丸跡に設けられた藩庁と藩主住居の御殿跡には、初代藩主・分部光信公を祀った分部神社が明治に創建されています。市街化により陣屋の遺構のほとんどが失われるも、武家屋敷地と町人地の境にあたる総門が現存しており、現在ではまち並み案内処として活用されている…ようですが、訪問時は工事中でフェンス越しに眺めるだけでした。残念。

総門の南西側は武家屋敷地跡で、JR湖西線の高架をくぐった先には笠井家の武家屋敷が現存している…にはいるんですが、いつ倒壊しても不思議はないような痛ましい状態でした。貴重な武家屋敷だけに行政の関与で何とか保全できないものでしょうか…。武家屋敷地の西端には藩校脩身堂跡の石碑があり、中央部の「殿さんの水」と呼ばれる古式水道の溜桝(タチアガリ)からは城下町の人々の生活用水となっていた水が現在もこんこんとあふれ出ていました。また、武家屋敷地の西門を出た先の山麓には分部家菩提寺の圓光禪寺があり、分部家の墓所が設けられているようです。

総門の北側には町人地が広がり、生活用水、防火用水として通りの中央に整備された町割り水路が遺っています。町人地は町割り水路以外に目立った遺構は見られませんが、旧町名の石碑はあちこちに建てられていて、ぶらぶら歩いただけでも長刀町、船入町、江戸屋町、蝋燭町、十四軒町の石碑に遭遇しました(まだまだあるようです)。

大溝城のついで程度のつもりでしたが、案外に見るところもあって楽しませていただきました。次の機会には打下城のついでに総門を見学したいと思っています。
 

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todo94

無謀な下城 (2023/11/24 訪問)

2013年から5年ごとに訪れていて今回が3度目の攻城です。日々の鍛錬の賜物か、回数を重ねるにしたがって登城が楽に感じられます。登城口の城址碑から主郭迄、20分丁度の所要でした。今回は石取場の矢穴と北西尾根の第7~第10曲輪を初めて拝むことができました。北西尾根の曲輪の先の堀切はなかなかの深さでした。登城路からかなり下っていたので登るのが億劫になり、そのまま下ってしまって大失敗。懐の深い山中をかなり彷徨する羽目になってしまいました。おかげでその後、昼食にいただいた皿そばがよりおいしく感じられたように思います。

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にのまる

移築門ふたつ。 (2023/09/09 訪問)

三度目の白石城は、初めて東北新幹線の白石蔵王駅から行ってみました。
歩き始めてすぐに右前方の山の上の天守を見つけて、早くも気分最高潮。町なかにあたりまえのように溶け込んでいる天守を見ながら歩く時間がとても好きです。

初めに當信寺(当信寺)を訪れました。大八、阿梅さんのお墓にお参りしたいのでここへは毎回寄っています。個性的な眼象窓をもつ山門は二の丸大手二の門(東口門)からの移築です。
その“二の丸大手二の門”はどこかというと、白石城メイン登城口の長い坂の下。帰りにその場所で想像再建してみると、現在の山門が当時の姿のままではないとしても、堂々とした城門が建つ姿が目に浮かんできました。白石城を伝える貴重な建築遺構が長く保存されますように。

続いて延命寺へ。當信寺からは徒歩20分弱でした。
延命寺の山門は白石城厩口門の移築だそうです。この門も山門らしく改造されているようですが、今なお現役で働き続ける城郭遺構を目にすることができ、ありがたかったです。

今回は、その厩口門から登城しました。
土蔵のある町なみを歩き、“うーめん発祥の地”や武家屋敷に寄ってから神明社側の登城口へ。神明社の大鳥居のところに厩口門跡の説明板がありました。

これまでは移築門を見に行っても、その門が元々あった場所を確認することはほとんどしていなかったのですが、その場所に立ち「あの城門がここにあったんだ……」とイメージすると感慨も一入で、また、当時の姿もより鮮明に浮かんできて、いいことづくめでした。


朝田さん。かるた採用情報ありがとうございます。
バスセンターの黄色いカレー、スパイシーでおいしかったです。ミニでもボリューム満点で!
おみやげにも買いました。あとサラダホープも。

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しんちゃん

城域が広すぎる‥檜山安東氏の居城。 (2021/05/05 訪問)

檜山城は檜山川の南に位置する霧山の尾根上一帯に築かれています。道沿いにすぐ近くまで接近し三の丸からすぐ取りつくことが出来、二の丸を経て本丸にたどり着きます。城域は非常に広く将軍山のある東の尾根上から、北の尾根を西に向かってさらに城域が広がっているようです。それ以外のほぼ総ての尾根上にも城域が広がっているようで、全体の遺構を確認するのは不可能に近いと思います。
本丸の東に大型の枡形があるようですが、写真ではいまいち確認ができません。結局この日は北尾根までは散策せずに引き返しています。
14世紀中ごろに安東兼季が築城し、明応4年(1495)檜山安東氏の居城となったそうです。檜山安東氏は青森十三湊に起こり、秋田まで勢力を伸ばして、戦国時代の末期には日本海沿岸から敦賀湾までの制海権を持っていたそうです。

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しんちゃん

国の史跡 檜山安東氏城館跡の一つ。 (2021/05/05 訪問)

茶臼館は檜山安東氏城館跡の一つとして国の史跡に登録されています。檜山城の西側に存在する出城(支城)と考えられていて葦名氏遺臣墓地の案内板のあるあたりから城域に入りました。郭らしき扁平地と堀切が有りましたが、城域は思ったより広かったと記憶しています。
特に整備はされておらず遺構はネイティブのままでした。

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しんちゃん

神社と公園です。 (2021/05/05 訪問)

湊城は神明社境内と児童公園のあたりに築かれていたようです。湊安東氏の居城とされ、安藤盛季の弟、鹿季を祖としており応永元年(1394)秋田の「湊」を討ち取り湊に移り住んだと城郭体系には記されています。この「湊」というのが当時この地を支配していた上国安東氏を指すのかは不明ですが、鹿季は湊氏を称し秋田城介(出羽国秋田城を管轄した国司の通称)を名乗ったとされています。
湊城は慶長9年(1604)に佐竹義宣によって破却され土地湊町の下地になったそうです。

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朝田 辰兵衛

にのまるさんクイズ解答~万代シティバスセンターのカレー~ (2023/12/20 訪問)

越後に住んでいると,横浜海軍カレーや神戸のカレーにあこがれをいだきます。大別して,西日本は牛肉で東日本は豚肉。個人的に,「万代シティバスセンターのカレー」がブレイクするのは驚きです。いたって普通。家庭の味。それ以外の形容が見当たりません…。
せっかくなんで,万代シティの現在の様子も撮影してきました。画像ではわかりづらいですが,吹雪です。

そうそう,にのまるさんは,水戸城の絵札(♬TRAIN TRAIN走ってゆく,TRAIN TRAIN堀の中♬)と,五稜郭の絵札(夜景)も採用されておりました。

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ぴーかる

小笠原氏城跡 (2023/11/23 訪問)

【林小城】
<駐車場他>駐車場はなし。4駆車で車高あれば登山口砂利道の奥、ゲート前に停めれそう、または<36.226087, 138.002368>にチェーン脱着場があるのでそこでも良いかと。
<交通手段>車

<見所>石垣・竪堀・堀切
<感想>2泊3日松本・佐久・吾妻の山城攻めの旅初日2城目。「日本100名城、続日本100名城に負けない名城 第20回小笠原氏城跡②」で取り上げられた林小城に行きました。
 登山口のゲートを開けて入ります。山は整備され登山道がありますので迷う事はありません。入ってすぐほぼ麓付近に地獄の釜と呼ばれる井戸があります。城跡へは山の東側から真っすぐ南下し登って、折り返して北上して真っすぐ登り北の曲輪群に行き着きます。まず主郭背後から東斜面に落ちる大竪堀がドーンを見え、上方で主郭背後の堀切と竪堀が1つとなって大竪堀として落ちています。下から見上げると圧巻です。たどり着いた北の曲輪群ですが、特集の縄張り図では小さな無数の曲輪群がなんとなく描かれて記述されていますが、私の実際見た感想は当時はゆるやかな斜面に横幅の相当広い曲輪が棚田の様に段々と落ちていっていたように感じます。所々曲輪壁が明瞭に残されている曲輪跡が結構広く大きいので。
 主要部分は主郭を中心に手前に2・3郭を配し、両サイドに腰曲輪があります。主郭は小さく土居(たぶん石垣の)囲み、南後背に土塁があり堀切があります。主郭の曲輪壁には上方に鉢巻き石垣が取り巻いています。石垣跡は主郭背後の土塁部分、主要部虎口、2・3郭の曲輪壁にも残されていて探すのが楽しいです。2郭の石垣跡は虎口や西の尾根曲輪から点々と見られます。納得の日本100名城、続日本100名城に負けない名城、見応えありました。

<満足度>◆◆◆

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イオ

竹木の中の天守台 (2023/09/09 訪問)

(お恥ずかしいところをお見せしましたが、切り替えて平常運転で…)

青春18きっぷの利用期限が迫っていることもあり、この日は電車でニッポン城めぐりのイベント「元亀争乱」のスポットをめぐりました。まずは近江高島駅構内のQRコードを読み込んで打下城をポチ制覇。打下城にはいずれ登城するつもりですが、30度を超える暑さの中、山城に登る根性はありません。とはいえ、ポチだけで帰るのもつまらないので、イベントとは無関係ながら駅を出て大溝城へ。

大溝城は、織田信長が琵琶湖水運を掌握する城郭ネットワークを形成するために甥の織田信澄に築かせた城で、信澄の義父にあたる明智光秀の縄張と伝わります。本能寺の変で信長が討たれると、光秀に従って蜂起することを恐れた織田信孝らに攻められて信澄は大坂城千貫櫓で自刃。その後、丹羽長秀、加藤光泰、生駒親正、京極高次と次々に城主が替わった末に廃城となり、部材は水口岡山城に運ばれました。

駅から二の丸推定地の病院駐車場を抜けると本丸の天守台に至る…はずが、出口を間違えて乙女ヶ池畔の遊歩道に出てしまいました。大溝城は琵琶湖の内湖である洞海(乙女ヶ池)を堀として取り込んだ水城であり、遊歩道からの眺めには往時の雰囲気が感じられました。それにしても、遊歩道は手すりなどがずいぶん老朽化しているなぁ…と思っていたら、先日のしんちゃんさんの投稿で通行止めになっていることを知りびっくり。歩いている時に崩落しなくて良かった…。

湖畔の遊歩道から北西に進むと天守台が見えてきます。野面積みの石垣を見ていると神戸(織田)信孝の神戸城天守台が思い出されました。織田氏一門で天守台の特徴が似ているんでしょうか。天守台の南西部には大溝城跡の石碑と大溝城本丸跡の説明板が2つ建てられています。説明板脇の石段から天守台に上ると、社なり祠なりがあったんでしょうか石材や手水鉢が放置されていました。天守台の北側に下りて行くと、草木や竹が茂ってはいるものの、北西隅~北辺~北東隅~東辺にかけてもしっかり石垣が確認できました。

天守台を離れて介護施設脇の小道を北に進み、車道に出たところに大溝城三の丸跡の石碑があります。三の丸跡石碑の北西すぐ、近江高島駅口交差点前の広場には「織田・京極・浅井家にまつわる大溝城」のパネルが展示されていました。また、広場から北北西に徒歩5分の勝安寺の本堂は大溝城の書院が移築されたものと伝わります。

ほとんど天守台くらいしか見どころのない城ですが、その天守台は竹木に覆われつつもなかなか見応えがありました。続いては、大溝城の三の丸跡に設けられた大溝陣屋と城下町をめぐります。
 

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todo94

2023年最高の紅葉 (2023/11/24 訪問)

平日の出石は初めてです。駐車場がガラガラで吃驚です。この秋は残暑から一転、気温が急降下して家の近辺では美しい紅葉を見られずじまいでした。出石城の紅葉は2023年に見た紅葉の中では最もきれいに色づいていました。城下町も休日とは比較にならない快適さ。有子山城に登ったあと、昼食の出石蕎麦にも待ち時間なしでありつくことができました。お土産に田吾作のおはぎを購入いたしました。

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三浦の晃ちゃん

於万の方 (2023/12/19 訪問)

徳川家康の側室、於万の方の生まれたお城です。紀州徳川家と水戸徳川家の初代藩主の生母ですね。今は、八幡岬公園として整備されています。場所は、日本三大朝市の会場から、徒歩5分ぐらいです。

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とばつびしゃもん

信玄狙撃説が残る城 (2022/10/08 訪問)

二川宿本陣資料館から湯谷温泉へ向かう途中に立ち寄り登城。城址沿いに駐車し登城開始。
信玄狙撃場所の案内板を目にし、何とも言えずじんとくる。日没間近の登城のため、場内は徐々に暗くなり20分ほどで下城。
城址近くの店舗に野田城パンフレットがあるとの案内板を頼りに店舗を訪ねるも、留守のためか応答なくパンフを入手できず。残念。

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しんちゃん

古代のロマンがあふれる「幻の柵」 (2021/05/04 訪問)

少し古い写真で申し訳ないが払田柵の投稿です。払田柵は古代の城柵で詳細不明の「幻の柵」と呼ばれています。小高い丘の中央に政庁を置き東にも掘立柱建造物の跡があります。丘の周囲に外壁を設け東西南北に門を設置してあります。北門の周囲には大溝(水堀)が再現してあり、さらに周囲にも外柵が設けてあったそうです。軍隊も駐留していたらしく、城柵としての機能は一通り備えてあったようです。
外郭南門と周囲の石塁が再現され古代のロマンを感じ取ることができます。

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