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ばばよ

展望台に行きましょう (2022/11/13 訪問)

五稜郭公園ではなく、五稜郭であいの館を目指します。
規模は大して大きくないため歩いて周回できます。
地上からは星型かどうかわからないため、展望台には絶対行きましょう。
車道が狭いという情報にビビり過ぎて展望台まで歩きましたが、なかなかの傾斜でタフなコースです。

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くらのり

湯築城 (2023/01/03 訪問)

愛媛県松山市にある城跡。堀や、土塁が現存しており、国の史跡にも指定されています。湯築城は建武2年(1335年)前後に伊予国の守護であった河野通盛の代に築城されました。その後、天文4年(1535年)には通直によって外堀が造られ、天正13年には四国征伐を目指す羽柴秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍が侵攻。河野氏も約1ヶ月の籠城後に降伏し城にとどまっていた通直は命は助かったものの、2年後に病死。天正15年に、福島正則が城主になるものの、国分山城に居城を移したことにより廃城。松山城の築城に際しては、湯築城の瓦などの建材が流用されていた。

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くらのり

今治城 (2023/01/03 訪問)

昭和28年に愛媛県史跡に指定され、別名「吹上城」「吹揚城」と呼ばれ、慶長7年(1602年)に築城の名手といわれた藤堂高虎によって作られ、2年後に完成しました。完成する前は、今治の支配拠点は、唐子山山頂にあった国府城でしたが、より能率的な都市経営を目指すために築城されたといわれています。今治城の構造は、三重の堀に海水を引き入れた特異構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができ、海上交通の要所として海を最大限に活用したお城です。日本三大水城の1つであり、現存する今治城は、石垣と内堀がほぼ江戸時代の姿を残しています。

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イオ

石山本願寺の支城 (2022/12/10 訪問)

戦国中期に石山本願寺の支城として築かれ、石山合戦では荒木村重に攻め落とされて本願寺攻めの拠点となりました。大和田五丁目の「城垣内」と呼ばれるあたりが城跡とされますが、宅地化により遺構は消滅しています。

大和田小学校の北側校門の内側に城趾碑が建てられており、校門少し東の鉄柵には文字の消えかかった説明板が掲示されています。また、校門少し西の道路沿いに設けられている「歴史の散歩道」の案内表示にも大和田城の記載が見られました。

登城は土曜日でしたが、子どもたちがグラウンドで練習していたので、石碑と説明板の写真を撮って早々に退散しました。

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todo94

奈良の城めぐり① (2022/12/10 訪問)

12月を迎えた時点で最も攻城数の少ない県が奈良県でした。満を持しての奈良遠征です。深夜2時過ぎに家を出て御在所のEXPASAで朝食を摂り、朝駆けしたのが古市城。東市小学校のグランドの一角に城址碑がありますが立ち入ることはできません。フェンス越しに写真を撮影しました。小学校の南側、濠跡だという窪地の南の小丘の中は、竹藪の中に城の遺構らしき起伏が見られました。

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侍ホリタン

安芸の名城を訪ねて① (2023/01/03 訪問)

JR利用の場合、岩国駅、新岩国駅からバス利用になりますが岩国駅の方がバスの本数が多い様です。いずれも15分程度で錦帯橋バスセンターに到着します。ここから錦帯橋を渡ってロープウェー駅まで10分程度です。登山道利用でも天守まで行けますがロープウェー利用するなら、錦帯橋入橋、ロープウェー乗車、天守入場のセット券を購入するのがおすすめです。天守からの錦川にかかる錦帯橋の眺めは素晴らしいです。あと旧天守台石垣、北ノ丸跡の石垣、旧天守台近くの登り石垣、空堀跡も迫力があり見逃せません。

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ぎりょう

仙台藩21要害 岩沼要害  (2022/12/25 訪問)

今年最後の城館探訪は岩沼要害跡となった。要害の中心部はJR岩沼駅になり、市街化で跡形もないとの情報だったのでこれまで訪問したことがなかった。この城館の歴史は古く天正年間(1573~1591)まで遡ること(詳細はカズサンの投稿を御覧ください)ができ、そのなかで気になるのは数ある仙台藩の要害のなか、寛文1年(1661)に田村宗良(政宗孫で祖母愛姫の実家田村家を再興した)が内分分地で岩沼藩三万石の大名となり岩沼城として正規の城であったこと。また、要害の中心地だった場所から北西に外れる鵜ヶ崎城跡(現在鵜ヶ崎公園となっている場所)は、丘陵の高さもあり最頂部から三段の曲輪が配置され、それ自体が単独の城館と云ってよい姿を呈していることだ。
要害絵図を見ると中心地には本舘・北ノ舘・二ノ舘の三つの曲輪が描かれ周りを水掘と下中屋敷(家中屋敷 仙台藩の城館絵図では下中と記載)で囲んだ縄張である。戦国期に主要な曲輪群として利用していた現鵜ヶ崎公園の東方を、近世初期になって高い土塁と堀を廻し三万石の大名の城にふさわしい姿に改築したものであろうか。

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ぎりょう

修復完了の確認と「伊達の三傑」片倉小十郎景綱の墓参り (2022/12/24 訪問)

亘理要害と伊達成実御廟を後に、この日二ヵ所目の城館白石城へ。過去にこの欄に投稿したとおり白石城は昨年、一昨年の福島県沖地震により三階櫓や門、塀に多数の亀裂や剥がれの被害があり9月末まで修復作業が続いていた。そこで修復なった三階櫓や門の確認をとの思い、また「伊達の三傑」小十郎景綱の墓参をしたいと考えて訪問した。三階櫓や一ノ門、ニノ門の地震被害は完璧に修復が叶い、白亜の三階櫓はまぶしいまでに美しい姿を見せてくれた。
小十郎景綱の墓は、白石城から1.5km南の傑山寺にある。墓は敵にあばかれないように墓標を作らず一本杉を墓印にしたという。傑山寺では本堂前で甲冑姿の小十郎景綱像が迎えてくれる。本堂横の石階段を登りきり後ろの高台に立つ一本杉に手を合わせることができた。一昨年の春に茂庭綱元の隠居領栗原市文字での墓参から始まった、政宗を支えた「伊達の三傑」を訪ねる旅を終えることができた。

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ぴーかる

周匝茶臼山城 (2022/12/03 訪問)

【周匝茶臼山城】
<駐車場他>城跡前に駐車スペースあり。
<交通手段>車

<見所>竪堀・畝状竪堀
<感想>1泊2日城びと美作・備前山城攻めの旅4城目。周匝茶臼山城の築城年は定かではないが天文年間(1532~ 1555年)の初め頃に笹部勘次郎によって築城され、浦上氏の居城天神山城の北の守りの城だったそうです。宇喜多直家が浦上氏を攻め滅ぼすと共に落城したようです。江戸時代には池田恒興の四男池田長政の嫡男池田長明が周匝(すさい)2万2000石の領主となり麓に陣屋を築き明治まで続きます。長明からの池田家の墓地が模擬天守手前の道路脇に並んでいます。
 城跡は主郭部に模擬石垣・塀・天守があり整備が施されていて当時とは違った様相になっていますが、天守内部(無料)には出土品や発掘の写真がありなかなか参考になります。また眺望も良いです。模擬整備されていない箇所は芝生化されていますが堀切・竪堀・曲輪の輪郭がよく見えるようになっていて見応えあります。二の丸下段から伸びている畝状竪堀は先端の方だけ出ていて下の方は灌木が茂っていて最大の見所なのに非常に勿体ない感じがしました。北東麓に太鼓丸という出丸があり、かなり降りて行ってみましたが中間地点の腐った木のベンチがある曲輪で引き返しました。茅葺屋根の建物の方に沢山資料が置いてあります。御城印はセルフ販売なので小銭の用意を。前投稿に曲輪続きで隣り合った大仙山城を紹介してあります。こちらのほうが見応え、満足度も私的には良かったので合わせて訪れてみてください。2城合わせて3時間程度楽しめます。

<満足度>◆◆◇

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赤い城

主郭には稲荷神社 (2022/12/25 訪問)

県道118号線沿いにあり案内板があるものの駐車場はありません。
駐禁エリアではなさそうなので路駐し登城しました。
細い道を進むと主郭への土橋があり、両側に空堀がありました。
この時季でも藪でした。
主郭は畑になっていて石碑と説明板がありました。
奥に進むと城山稲荷神社が鎮座、その奥に深い空堀がありました。
迷わず降りて見ましたが整備はされてなく、やや藪となっています。
南側は畑になっていました。
主郭脇の畑の奥にも空堀がありましたがここも藪化していました。

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刑部

予想超えた城址 (2023/01/03 訪問)

支倉常長の居城なので行ってみました。
なんと予想超えた遺構がありました、余り大きい城ではなさそうですが曲輪や虎口、空堀、土塁、切岸等見応え充分でした。専用の駐車場・トイレもあり安心して探索できます!

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えだ まめ子

菅谷館跡 (2023/01/02 訪問)

 

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Maho

松山城 (2022/11/16 訪問)

何回行っても飽きない☺️地元最高‼︎
紅葉の季節に行った際の写真です。

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刑部

2023年 初のお城探索 (2032/01/03 訪問)

公民館の横に立派な城址の石碑と案内板があります。この1番高くなっているところが本丸でしょうか。見れば各々曲輪がわかる感じですね。
ちなみにここまで道は細いですが車で来れます!
お昼は蔵王の卵で作った親子丼を食べました。

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ぎりょう

仙台藩21要害 「伊達の三傑」成実の居館 (2022/12/24 訪問)

年の暮れも押し迫った24日、今年最後の城館巡りと考え、昨年来続けている仙台藩21要害探訪に出かけた。まずは県南の亘理要害に。ここは慶長7年(1602)に、政宗を支えた「伊達の三傑」のひとり伊達成実が拝領し、藩政時代を通じて御一門亘理伊達氏2万3850石の居館として明治維新まで続いた。
要害絵図によれば丘陵上に本丸、東側に二之丸を配し、北西側の大沼と水掘りで囲み、本丸東方の南と北に虎口、二之丸も南側に内舛形、北側は外舛形の虎口を設けた縄張となっていた。
現在本丸跡は成実を祀る亘理神社が鎮座しており、本丸東側は南北虎口部分に道路が作られ分断されている。残念なことに、その他の遺構も都市化でほとんどが湮滅している。
要害跡から1.6kmほど南の大雄寺の亘理伊達氏歴代墓所には成実の霊廟があり、手を合わせることができた。中には甲冑姿の成実像が納められており1月と8月の16日に開帳されるという。
JR常磐線亘理駅の隣に白亜の天守閣風建築物の亘理町立郷土歴史館「悠里館」が周囲の街並みにそぐわない立派さで建っている。


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本丸

初日の出 (2023/01/01 訪問)

熊本城(入り口)、和歌山城(天守てっぺん)、に続き清洲城(天守てっぺん)からの初日の出。5時に到着で先客数名。
良い場所から見事な初日の出が見れて素敵な新年の始まりになりました。

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赤い城

主郭や二郭は畑に (2022/12/25 訪問)

川尻川西岸の台地に位置します。
主郭は畑になっていて前に説明板が立っています。
この前に少しだけ駐車スペースがありました。
主郭の南側には空堀がありますが訪問時は草で覆われていました。
二の丸も畑で傍らに朽ちそうになった碑がありました。
少し離れた八坂神社には空堀が残っています。
ここから霞ヶ浦を望むことができます。
戸崎氏によって築かれた城ですが戦国時代には佐竹氏のものとなります。
今ではほとんどが農耕地ですがじっくり歩くと雰囲気が感じられると思います。

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トク

③【関ケ原の26人 】(1)小早川秀秋 (小早川秀秋と名島城) (2022/09/06 訪問)

(前書き1・2の続きです)
2023年トクの空想旅を始めさせて頂きます。
今年もよろしくお願いいたします。
今回は、関ケ原の武将26人の陣跡とゆかりの城またはゆかりの地を巡ります。
まず(1人目)は「小早川秀秋」です。
関ケ原当時の居城、「名島城」を訪れました。

名島城は、豊臣秀吉の九州征伐の恩賞で、筑前の地を加増された「小早川隆景」が30万石で入り、水軍の本拠地となる城に大改修しました。

そして隆景は、1594年秀吉の命で木下家定(ねねの兄)の子で五男の「秀秋」を養子に迎え、文禄の役のあと小早川の家督を譲り、自身は三原へ帰って隠居し、そして生涯を閉じました。

1597年、秀秋はここ名島城より慶長の役へ出陣します。しかし蔚山での軽率な行動を石田三成に報告され越前北ノ庄15万石へ減封左遷されてしまい、名島城は石田三成の預かりとなりますが、翌年秀吉死後、家康の計らいで再び旧領の筑前名島へ復帰します。

そして迎えた1600年7月、小早川軍15,000の中の主力部隊はこの名島城から関ケ原へ向け出陣しました。この時大坂にいた秀秋は戻り合流します。姫路城では実兄(三男)の木下延俊から西軍であるという理由で休息を拒否されたり、伏見城の戦いでは西軍として参戦し東軍の鳥居元忠と戦ったりしながら、本戦前日の9月14日、関ケ原に到着、松尾山に陣を敷きました。

関ケ原の後、秀秋は55万石に加増され岡山城へ移りますが、2年後の21才で生涯を閉じてしまいます。現在の名島城は、本丸に石碑や名島神社が立つのみで名島公園になっています。

私は名島城の本丸跡に立ち、そこから博多湾を眺めて見ました(写真⑧)。秀吉に命じられ、右も左もわからぬまま小早川家へ養子に入ってから6年。旧領の筑前名島へ復帰した当時まだ19才の小早川秀秋は、同じようにここから博多湾を眺め、これまでの事をどう受け止めていたのでしょうか? そしてどのような気持ちで関ケ原へ出陣して行ったのでしょうか? 

次は(小早川秀秋と松尾山)に続きます。
 

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城とマスク

2023お城始め石垣山一夜城 (2023/01/02 訪問)

今年は石垣山一夜城から始めました。お正月は沢山美味しい物を食べるので良い運動にもなるお城ですね。歩き回った後は
鎧塚ファームのマロンソフトクリームがおすすめです。

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じゅんじん

金剛寺 (2022/09/11 訪問)

源頼朝が陣を置いたとか

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