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びーこ

標高663m、寒いはずだわ・・ (2023/12/23 訪問)

上田からしなの鉄道に乗って、いざ小諸へ!
なんとも懐かしい電車が来たではないか!調べてみたら、湘南カラーというのね。いきなりテンションが上がった。

さて、この日の小諸は前日からの雪が少々積もり、吹き付ける冷たい風で顔もパキパキである。
午後から用事があるため、開園とともに登城しようと思い少々早く着いてしまった。

1分でも外で待つのは辛いという中、懐古園入口横にある歴史博物館「徴古館」の館長さんが、チケットは後で良いので、中に入って見学してても良いですよ、と言ってくださり、有難く中に入れてもらった。感謝〜

博物館は小さいが「どうする家康」にハマっている私と友人にとっては興味深いものばかり!盛り上がって喋りまくっていると、館長さんが展示物の説明をしてくださり、色々と勉強になりました。

館長さんとの楽しいお喋りの後は、いよいよ小諸城へ。しかし、雪のせいで足元がおぼつかなく、ざっと見るのがやっと。私は2度目だが初登城の友人は残念がっていた。併設されている動物園にも行ったが、寒すぎて動物たちの動きも鈍い。ということで、冬の小諸は寒すぎて登城には不向きであることが分かった。でも今回は博物館を見るだけでも十分楽しめたので良しとしよう(その1)。

登城後のお楽しみはもちろん小諸そば♪寒いけどビールも!ここで元気を取り戻し、最後は駅を越えて雪を被った大手門を見学。寒かったけど、美しい門が見れたので良しとしよう(その2)。

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トク

91【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (佐土原城①-鶴松館・いろは館) (2023/11/04 訪問)

(25人目)島津豊久の続き④です。関ケ原当時の居城「佐土原城」を訪れてきました。

宮崎駅または宮交シティ(南宮崎駅前)から出ている橘通り経由「西都(さいと)」行のバスに乗り40分、「交流センター」で下車すると目の前が佐土原城「鶴松館(かくしょうかん)」と城の駅「いろは館」です(写真①②⑦)。

父の家久には1584年沖田畷の戦いで龍造寺氏を破った功績で、ここ佐土原の地が与えられます。そして1587年豊臣との根白坂の戦いに敗れるも、秀吉より佐土原の地を安堵されますが、翌年に突然の病で亡くなってしまいます。そこでまだ18才であった嫡男の豊久が後を継ぎ佐土原城主となりました。

当時は鶴松館の背後一帯の山が城で、山頂に天守があり、関ケ原で豊久が亡くなると豊久に嫡子がなかったため、家康から叔父の島津以久(これひさ)に与えられ、似久が初代佐土原藩主となりました。そしてその子(2代藩主)忠興が山頂は不便なため麓に館(鶴松館)を構え居を移し、その館が現在再建されています。

スタンプは(いろは館)(鶴松館)どちらでも押せますが、鶴松館は土日祝しか開館していないので注意です。私はまずいろは館に行き荷物を預ける所がないか聞くと、気さくな店員さんで「うちで預かりますよ、パンフレットもよければどうぞ!」と無料で預かってくれました(ありがとうございます)。おかげで身軽で登城する事ができました。おいしそうなお弁当が売られていてイートインコーナーもあったので、そこで食べてから登城しました(この手作り弁当おいしかったです😊写真⑩:登城後に食べたソフトクリームも)。

いろは館の前には記念撮影用のコーナーもありました。豊久は美男子だったとの説があり、それでコミックの主人公にもなったようですね(写真⑧)。訪れたのは秋で、ちょうどいろは館の前はコスモスが綺麗に咲いていました(写真⑨)。

まず登城前に鶴松館に入りました(写真③)。入口から入ると大広間があります(写真④)。ここは藩主の対面の場に使われていたようです。さらに庭園を眺めながら(写真⑤)その廊下を渡った奥の書院は歴史資料館になっていて、佐土原城の歴史(伊東氏の時代から島津氏の時代と西南戦争まで)が展示説明されています。また佐土原城登城路の様子がビデオなどで解説されてますので、登城する前に先に見学される事オススメです(写真⑥)。

次は、佐土原城に登城する前に、家久・豊久の墓が近くにあるのでちょっと先に見てきます(続く)。
 

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肉球

見れました (2024/01/11 訪問)

今回も仕事途中の立ち寄りです。
普段は湖水に沈んでいる石垣が姿を現していることを思い出し向ました。
相方はマクドナルドで昼食、私はコンビニのおにぎりを頬張りながら見学。
入り口は畦道にある小さな看板。
僅かな時間でしたが貴重な遺構を見ることができ満足しました。 
12月にしんちゃんさんが投稿されてましたが更に水位が低下しているようで
雪解けが始まる時期まで見ることができそうです。

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イオ

城下に遺る痕跡 (2023/12/16 訪問)

楠木正成が築いたとも安富氏とも福富氏とも云われ詳細は不明ですが、室町中期には茨木氏の居城となっていました。茨木氏が白井河原の戦いで荒木村重・中川清秀らに敗れると、茨木城には中川清秀が入って大規模に改修。中川氏が播磨国・三木城に移封されると豊臣秀吉の直轄地となり、関ケ原の戦いの後には片桐且元・貞隆兄弟が城主となっています。大坂夏の陣の後、片桐且元は大和国・龍田城に、貞隆は小泉城に移封になり、一国一城令により茨木城は廃城となりました。

阪急・茨木市駅から徒歩で登城開始。市街化により遺構はほとんど見られませんが、茨木小学校周辺が本丸跡にあたり、小学校前には慈光院(奈良県大和郡山市小泉町)に移築された櫓門が復元されています(櫓門の説明板もあります)。櫓門の奥には城址碑もあるようですが、校内に勝手に立ち入るのはためらわれたので未確認です。また、門の脇には旧殿町の旧地名標柱が立てられており、城ノ町や東馬口引町、柴屋町などあちこちで標柱を見かけ、阪急本通商店街には旧地名の案内板もありました。廃城になった後も続く歴史ある城下町なんですね。

本丸の周辺もぶらぶらと。茨木城の西側を流れていた茨木川の跡地は緑地になっていますが、西辺を画する堀代わりだった様子が今も窺えます。緑地沿いの上泉児童遊園には旧佐助屋敷の標柱が立てられており、中川期には古田織部こと古田佐助(佐介、左介とも)の屋敷があったようです。中川清秀の妹婿ですもんね。緑地の少し上流には、茨木川から屋敷に水を引いていたと伝わる佐介樋の石碑が建てられている…はずですが、見落としてしまいました。見落としたといえば、小学校の南にある梅林寺には中川清秀の墓所があるようですが、墓所への行き方がわからず未確認です。

元茨木川緑地沿いの茨木神社には茨木城の搦手門が東門として移築されています(門の内側に説明板あり)。かつては小学校北東の妙徳寺にも脇門が移築されていたようですが、今や茨木市内に遺るのはこの門だけとあって貴重な遺構です。また、茨木神社には茨木城から移設された石垣があるそうですが、矢穴などわかりやすくこれだな、と思えるような石垣は見付けられませんでした。茨木神社から南へ進むと、茨木高校の門前が城下町の南口にあたる兵桝(武者だまり)で、常夜燈と兵枡地蔵が建てられています。城とは関係ありませんが、兵桝のすぐ東には茨木童子ゆかりの貌見橋の石碑が、高校の門脇には貌見橋の説明板がありました。

兵桝から元茨木川緑地をさらに南下して、茨木市立文化財資料館にも行きました(南茨木駅からのほうが遥かに近いですが)。資料館は入館無料で、旧石器時代から近世以降に至る茨木市の歴史と文化財が紹介されていて、茨木城についてもパネルや城下町からの出土品などが展示されています。なお、資料館裏手の東奈良史跡公園には、白井河原の戦いで討死した和田惟政の供養塔が移設されていました。

遺構はほとんどないものの、歩き回ると思いのほか痕跡があり、これはこれで楽しめました。
 

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todo94

黒島渡航前の攻城 (2023/12/25 訪問)

前日、天神西通り献血ルームにて献血を済ませ、青春18きっぷで佐世保にアプローチしました。この日の目的は世界遺産の島・黒島の散策。黒島渡航前の朝駆けです。大智庵城跡公園として整備されています。山頂の主郭には招魂碑と松浦政の墓が建っていました。

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higekam

久しぶりに再訪 (2024/01/29 訪問)

ずいぶん復元作業が進んでいて驚く!

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しんちゃん

ハッタリ要素も含むが、変な所に手が込んでいる城。 (2018/12/31 訪問)

先週、神奈川と東京の西側(八王子方面)に行ってきました。石垣山城にも行ってきたのですが、5年ほど前の写真が出てきたので先に登録させていただきます。この城は元々、小田原城を落城させるための心理戦の一環として築かれた城なので小田原城が落城した時点で、役目はすでに終えていると思います。小田原城が頑張った時のことも考えて、それなりの耐久性は有していたとは思いますが恒久的な使用は考えていなかったと思うんですね。訪れるたびに形状の変わっている城で最新の写真と5年前の写真を比較すると色々違いがありました。(ヒマ人) 特に本丸北側と西曲輪のベンチ周辺の石垣に変化が見られました。先週の日曜に東京中心部で震度4の地震があったみたいです。小田原には影響はそれほどないと思いますが、つくづく地震は恐いですね。

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しんちゃん

屏風折れ土塀に粘着 (2024/02/03 訪問)

冬用タイヤを買いに行くついでに西尾城に寄って来ました。先週・八王子に行ってきたときには、そこまで寒くは無かったのに本日は大雪になるとかで‥。やはりスタッドレスは必要なのですね。
前に西尾城に行ったときに屏風折れ土塀の写真を撮ってなくてしまったと思ってたんですね。そんなわけで、ここぞとばかりに屏風折れ土塀の写真を撮りまくって来ました。全国でも珍しい土塀とかでキャラが立っていますね。どのアングルが一番かっこいいかな?

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ぴーかる

関津城 (2023/12/23 訪問)

【関津城】
<駐車場他>駐車場はなし。<34.927148, 135.922820>に国道422号線から西の住宅街に入る新しい道が出来ており、その道路脇に停めれます。
<交通手段>車

<感想>2023 お城EXPOin滋賀・びわ湖のサイトによると関津城は宇野城とも呼ばれ、1221年、承久の乱で宇野源太郎守治が戦功を立て、恩賞として関津の地を幕府から与えられたことに始まりまるそうです。
 上記新道の駐車ポイントのすぐ南に土塁囲みの曲輪が1つ残されています。北側入口に虎口も残っており曲輪の土塁は南により高くなっています。残る遺構はここだけのようで、国道422号線の東側は工事で造成・改変されており立入禁止に、この曲輪のもう少し南に城びとのフラッグがありますが特に表面観察できる遺構は残っていませんでした。以前は住宅街から回り込んでこの曲輪に至らなければならなかったようですが、今は簡単に見れらるようになっています。この曲輪1つだけでも城跡の遺構として残しておいて欲しいものです。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

観音寺が本丸跡 (2023/12/30 訪問)

志方城は赤松円心の四男・氏則によって築かれたとされています。戦国期の城主は櫛橋氏とされ伊則の時に三木城の別所長治の与力として戦い落城したとされています。観音寺が本丸跡とされ西に二の丸、北の志方小学校も郭の跡とされています。観音寺の東側に水堀跡(空堀跡)と見られる場所があり、かつては皿池のあたりとも水彫りで繋がっていたようです。

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カズサン

【遠江滝堺城】静岡県牧之原市 武田軍高天神城への兵站基地 (2024/01/30 訪問)

 住所:静岡県牧之原市片浜
 駐車場:無し、旧道沿い案内板(グーグルマップ史跡マーク滝堺城跡案内板と有り)から北へ約200m程の所に片浜コミュニティセンターが在り利用可能かも?

 今回、大鐘屋敷を訪ねるに当たり国道150号線を東進、北進し片浜の旧道へ入り約100m程の西路端小屋前に滝堺城跡案内板が掲示されています、傍に路駐し案内板と、滝堺城跡東端の山容樹林を撮影しました。
 滝堺城へは7年前の平成29年1月に登城(投稿済)しています。前回は狭い集落の道を進み若宮八幡神社の鳥居傍の狭い空きスペースに駐めましたが、現在案内板のアルミ支柱左横に赤い字で「城まで道狭し 車両通行不可」と新しく貼られています。のでどこかに車を駐車して登城するのがベターです。

 滝堺城は武田軍の遠州攻略兵站基地群の一つで高天神城に近く駿河湾水軍ルートでも有りました、駿府城から田中城、小山城、滝堺城、相良城、高天神城へ、北ルートでは諏訪原城が有名です。

 今回登城せず、案内板と眺めた山容写真を投稿します。
 
 

 

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トク

潮見櫓の復元工事始まる (2024/01/24 訪問)

福岡城で潮見櫓の復元工事(再移築工事)が始まりました。

下之橋御門に並ぶ現在の地に旧黒田邸から移築された櫓が、30年前までは潮見櫓とされていました(写真①②の櫓が潮見櫓とされていた)。しかし、黒田家の墓所である「崇福寺」にあった櫓が、もともとは三ノ丸北西角にあった潮見櫓が移築されたものだとの証拠(棟札と移築図面)が見つかり、それから後は現在の櫓は、伝潮見櫓と(伝)の字がつけられるようになりました。ならば結局この伝の櫓は、福岡城にあったとされる47の櫓の中のいったいどの櫓だったのか? それはまだ特定できていないそうです。

この福岡城の三ノ丸の北西角にあった潮見櫓は、遠く玄海灘や博多湾に現れる異国船などの監視や、また福浜(現ペイペイドーム東側)から黒門川を通り直接福岡城内へ物資を運び入れる船を監視していたようで(写真⑦)、高さ10mの二階建ての櫓だったそうです。梁や柱など再利用可能な部分は再利用され、土に藁を混ぜて土壁を作るなど当時の技法を採用して、実際に建っていたとされる三ノ丸の北西角にできるだけ忠実に崇福寺より再移築して復元されるとの事です(説明写真④⑤⑥)。

私は工事現場を訪れて来ました。しかし、素屋根と高い工事塀に覆われて近づく事ができず、中の工事の様子を見る事はできませんでした(写真③)。逆に言えば、完成したら一夜城のように突然現れるという事になるのかもしれません。それもまた別の意味で楽しみです。

福岡城から東へ3km程離れた所にある「崇福寺」へも行ってきました。入口にある山門(写真⑧)は、福岡城の本丸表御門が移築されたものだと伝えられています。この寺は中門(写真⑨)から中へは、普段は立ち入る事はできません。塀に隙間がちょっとだけある場所があったので、そこからこっそり黒田家の代々の墓所を覗いて写真を撮りました(写真⑩)。ここには「黒田官兵衛(如水)」と「黒田長政」が眠っています。一番右の茶色い墓が如水、右から二番目が長政の墓です。中に入れなかったので、どこに今まで櫓が建っていたのか? それはわかりませんでした。

完成は1年後(2025年春)だそうです。今から楽しみに待ちたいと思います😊。
 

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しんちゃん

桜と蓮でイメージが良くなった。 (2019/08/14 訪問)

高田城には21年5月にも訪問していますが古い方の写真で登録させていただきます。高田城址公園として整備され桜の名所でもあります。徳川家康の六男、松平忠輝の居城として天下普請によって築かれました。西側の堀や郭の配置は正保年間の構造を残しており内堀の外周に外堀である北堀・西堀・南掘が残っています。石垣は使用されず、すべての郭には土塁が築かれていたようです。本丸には天守代用の二重櫓(後に三重櫓に改修)が置かれ、今は天守代用の復興櫓が築かれ堂々とした天守の風格を漂わせています。
忠輝改易後は左遷地としての意味合いが強くなり不始末をやらかした大名が中央から飛ばされてくることがしばしばあったようです。負のイメージが付いてしまった高田城ですが北陸でも屈指の桜の名所で、外堀に植えられた蓮は紅白の入り混じった珍しいもので規模の大きさもあって「東洋一」を自称し、高田城の印象は間違いなく良い物に転換できたと思います。めでたし、めでたしということで‥。

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しんちゃん

何気に国の史跡で世界遺産だったりする。 (2013/10/05 訪問)

山吹城は国の史跡「石見銀山遺跡」に含まれており、2007年に石見銀山が世界遺産に登録されるにあたって構成要素の一つの「銀山柵内」に当城が含まれています。標高414m、比高200mの山城ですが実際に登ってみると結構しんどかった記憶があるので、ここで登録してしまいます。(できればもう登りたくない)
延慶2年(1309年)ごろに石見銀山が発見され、その守城として大内氏によって築かれたとされています。戦国期には大内氏と小笠原氏の間で銀山を巡る争いが起こり、天文6年(1537)には尼子経久によって占領されます。やがて大内氏に代わって毛利氏が銀山の争奪戦に加わり永禄5年(1562)には毛利元就の手中に収まったそうです。関ヶ原の合戦後は幕府領となり大久保長安が山吹城に入りますが翌年、大森代官所に拠点を移したため廃城となったようです。
山吹城は最高所を主郭として南北に4段程度の郭を配しています。東西の側面がほぼ無防備になりますが特にこれといった防御の仕掛けは無いようです。南側には多数の畝状竪堀を有しているようですが未確認です。もしもう一回行くことがあったら確認に行きますかね‥

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とばつびしゃもん

観音寺城の付城らしき城 (2023/11/04 訪問)

八幡城北の丸から八幡山縦走コースを行く。上り下りはあるが整備されている道を25分ほど進むと下り道との分岐点へ。そこには北之庄城縄張図や城址説明看板が設置されている。
縄張図を参考に、堀切に架けられ土橋を渡って城内へ入るとのろし展望台。当時はここで狼煙を確認したのか?そこから城の西側土塁の上を進むと7、8分で長命寺港展望台と案内板のある地点へ。その間は八幡山城全景や琵琶湖が望める。Uターンし下段曲輪の七ツ池跡に向け木々が生い茂る下段曲輪を恐る恐る進むと、それらしい跡をひとつふたつ発見。またその先に進むと大手門にあたる桝形虎口らしき遺構が確認できました。
下城は先の分岐点を下り、20分ほどで北之庄神社横へ出る。そこからラコリーナへ。有名なバウムクーヘンを食べて山城攻めの疲れを癒す。

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T-Shionoya

堀切が印象的な三河山中城 (2023/12/10 訪問)

県内最大級の山城とのフレーズに釣られて訪れた愛知県岡崎市の山中城。

東西三河の境界エリアで、平地から山地に入った比高約100mの山を城郭とした城。
山頂の主郭から、"山"の字形の各尾根に曲輪と堀切を配置した縄張。

北麓を東海道が通り、西尾へ向かう吉良道と、桑谷峠を越え蒲郡へ向かう西郡道の分岐点が存在する要衝。
築城時期は定かでないが、西郷(岡崎松平)信貞所有の1524年に安城の松平清康が奇策で奪取。
清康が殺害されると、今川そして徳川の支城となり、都度城が拡張されたと考えられている模様。

現在は遊歩道が整備された岡崎市の指定史跡。

訪問時は東端の舞木口から獣除けの門を開閉し入山。しばらく登ると土橋のような尾根が現れ、それを渡ると城内。
曲輪1段1段の高低差が大きく、下段側の付け根に設置された堀切が印象的で、特に東曲輪2と3の間の深い堀切は1つの見どころ。

帰りに東部市民センターに寄ると、模型と共に現在の遊歩道とは異なる推定城道が示された地図があり、事前にコレを入手して行けば更に深い見方ができたかも。
トータル滞在時間約3時間の三河山中城が、私の城郭巡りの166城目となりました。

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HARU

名古屋城 (2023/10/26 訪問)

前日に「関ヶ原古戦場」を訪ね、大垣に宿泊、この日大垣城をみてから名古屋に移動し、初めて「名古屋城」を訪れました。名古屋城の天守は戦災で焼失し、昭和34年に鉄骨鉄筋コンクリートで再建されましたが、現在木造での復元計画が進行中で色々な問題もあるようです。現在は内部に入れず外観を見るだけになっていますが、その代わりに2018年に完成公開した「本丸御殿」が素晴らしく、見応えがありました。

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しんちゃん

スーパーパノラマビューですわ (2019/05/03 訪問)

関ヶ原の合戦の際、東軍に加わった中村一氏の嫡子・一忠はその功により伯耆国17万5千石を賜り近世米子城を築いたとされています。麓に三の丸、中腹に二の丸、頂部に本丸が築かれ大天守(四重)と四重櫓がそびえ立つ壮観な眺めであっただろうと思います。
完全な総石垣の城で麓の枡形から、しっかりとした石垣で築かれています。三の丸・二の丸と訪れ、内膳丸を経て本丸に向かいます。本丸一帯はかなりの広さを持ち建造物が全くない分、周囲の眺望は抜群です。とにかく人が多く、顔が写ってなければいいやで掲載しております。市街地から中海・大山と周囲を良く見渡せ、目の良い御仁なら日本海まで見通すことが出来るかもしれません。
かつての巨大建築物が失われたのは残念ですが、頂部一帯の解放感は格別のものが有ります。ただ石垣から落ちると危ないので昼寝はお勧めできません。

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HARU

大垣城 (2023/10/26 訪問)

徳川家康公ゆかりの地巡りで、「関ヶ原古戦場」を訪れたあと大垣に宿泊、翌朝に訪ねました。大垣城は関ヶ原の戦いの折り、石田三成の西軍の陣が置かれ、激しい籠城戦を展開しました。大垣城は国宝に指定された後、戦災で焼失し、昭和34年に再建されています。天守内にある資料をみると、関ヶ原の戦いの様子など窺い知ることができます。

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HARU

姫路城 (2023/09/07 訪問)

姫路城の世界遺産登録30周年の関連で夏の特別公開として普段非公開の「乾小天守」「東小天守」など6棟が公開されるのに合わせ、学生の時以来45年ぶりに訪れました。とにかく感動の一言でした。

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