3城目は、護佐丸が築城した「座喜味城」です。山田城から転戦しました。
名護行の山田のバス停(前々々回の写真⑩)から50m先を左折した小学校の前にもう一つ山田のバス停があり、そこに停まる[48]読谷行のバスに乗り15分読谷BTで下車、その先のバスがすぐに無くタクシーの電話番号が書いてあったので、タクシーを呼び座喜味城まで行きました(10分900円)。帰りは徒歩10分の「上地」のバス停(写真⑩)から、1日3本しかない[29]那覇BT行のバスの時間にうまく合わせて帰りました。
まず座喜味城の入口には「ユンタンザミュージアム」があります。続100名城スタンプは外に置いてありました(写真①)。1階のトイレまでは無料で使えますが、展示室へ入るのは有料です。私はせっかくなので見学し、城の模型(写真②)や歴史、また護佐丸に関する説明や、太平洋戦争で住民が戦火にあった読谷村の記録(写真③④)などの説明を見てから入りました。
座喜味城は二郭しかないコンパクトな城ですが、にもかかわらずここを築城した護佐丸が、なぜ築城名人と呼ばれるようになったのか? その理由が訪れてみてよく解りました。では私が学んだその5つの理由を御紹介します。
【理由1】
ここは地盤が軟弱な場所でした。従来の四角い門では崩れやすいため、護佐丸は沖縄で初めてアーチ門という技術を採用します(写真⑤)。それだけではありません。さらにそのアーチ門の中央にはくさびを入れる事でさらに強度を増したようです(写真⑥)。
【理由2】
同じく地盤が軟弱な場所に立てたため、石垣は崩れやすかったようです。そこで護佐丸は最も崩れやすい所には、新たに5~6角形の石で組む相方積み(亀甲積み)とい技法を採用します(写真⑦)。それ以外の部分には、布積みでかつ交互に石を重ね合わせようにし(写真⑧)、外郭の一部は野面積みで、短期間でかつ強固な石垣を築こうとしたようです。
【理由3】
石不足や人手不足を補うため、奄美より大量の人手を雇い、自分の山田城の石を人手でここまで運ばせる事で、短期間で築城を成し遂げたようです。外郭に野面積みの石垣があったので、それが山田城から運ばれた石かもしれませんね(写真⑨)。
残りの理由は(2/2)に続きます。
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