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カズサン

比翼の三重櫓 (2023/11/27 訪問)

 天守台の続きです。

 明石城は本丸南面高石垣上に東に巽三重櫓、西に坤三重櫓その間に白土塀が控えた構図が青空と一体と成った景観が明石城のビューポイントでシンボルマークてき存在です。
 令和元年5月にJR明石駅駅頭が整備されて同ホームより明石城の両翼三重櫓と白土塀、高石垣を眺めて以来のビューポイント景観探訪です。
 明石城を散策して巽三重櫓と坤三重櫓が入った構図でどこが最適ビューポイントかと撮った写真を投稿させて頂きます、同じ構図が繰り返しますがご容赦ください、舞子台場で雨に降られて以降雨の降りそうな天気で青空の借景が無いのが残念ですが?楽しい時間でした。
 
 次は坤三重櫓に続きます。
   

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カズサン

天守台 (2023/11/27 訪問)

 西不明門跡と太鼓門跡の続きです。

 明石城の天守台は本丸西側の坤櫓の北奥に平面約24m×20m規模で西の稲荷曲輪に突出てる、築城時から天守閣は造られなかった、完成した元和6年(1620年)であれば幕府に遠慮し建造を控えた所が多くなり、三重櫓を天守の代わりとしたようです。?
 これが関ケ原直後であれば、天守台を南に出し坤櫓辺りに5層5階の大天守閣が聳えていたのでしょう⁈ 元和6年頃だと層塔型かな?見たかったなぁ~と想像し天守台周辺を廻る、坤櫓西下から稲荷曲輪から眺めて本丸に登り、天守台上部に入る広い天守台内部です、坤櫓が南に直ぐ見えて、西の稲荷曲輪の南西角の二重櫓台周辺石垣塁、本丸西側の北に伸びる多門櫓台?城塁も良く観える。

 次は比翼の櫓に続きます。
  

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todo94

城カードゲット・雲海は残念 (2023/11/23 訪問)

城カード入手目的の攻城です。販売場所は駅近くの情報館天空の城なのですが、山城の郷と間違えてしまって、徒歩で下って行って何とか手に入れることができました。せっかく麓まで下りたので法樹寺の赤松広秀墓に立ち寄ってみました。赤松広秀墓から竹田城北千畳まで18分で到達。なかなかの健脚だと思います。味気ないルートに沿っての攻城でしたが、これも時代の流れで仕方ありません。この後、夕食を済ませ、日帰り温泉施設で汗を流してから、立雲峡の駐車場へと向かいました。車中泊して朝目覚めてみると駐車場は満車状態。平日でこの状態、土日祝日の朝はどんな状況なのでしょうか。雲海予報は「期待できる」だったのですが、天気予報よりも最低気温が5℃も高く、残念ながら雲海を拝むことはできませんでした。立雲峡からの遠望は初めてだったので良いのですが、捲土重来を期したいと思います。

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トク

85【関ケ原の26人】(24)島津義弘 (藤崎屋敷=島津義弘蟄居の地(桜島)) (2023/10/09 訪問)

(24人目)島津義弘の続き⑭です。義弘が関ケ原から戻り2カ月の間蟄居したという、桜島にある藤崎正兵衛の屋敷を訪れてきました。

鹿児島フェリーターミナル(写真①)から桜島まで15分の船旅です。 いや~感動です😯!  船がでっかい桜島にどんどん近づいていく光景を、海の上から眺めるのは、何か醍醐味を感じました(写真②)。そしていよいよ桜島に上陸です(写真③)。このフェリーは約20分間隔で運行されていて、料金もたったの200円です。何度でも乗りたくなる船でした。桜島フェリーターミナルを下りると、そこからは市営バス東向浜行で10分「藤野」で下車し、すぐの所に藤崎氏の屋敷がありました(写真④⑤⑥)。

関ケ原の戦いに敗れ、義弘は多くの犠牲を払い命かながら帖佐の館へ帰還します。1500人いた兵も薩摩へ帰還できたのはわずか80人でした。義弘はその全員に感状を与えねぎらい、亡くなった兵の家族にも詫びたそうです。しかし問題はここからです!

徳川家康は自分の命を狙ったあげく薩摩に逃げ帰った義弘を絶対に許す気はありません。当主の島津義久に義弘を江戸に引き渡すよう命じます。それを聞いた義弘は、帖佐から海を渡ったここ桜島にある藤崎氏の屋敷に蟄居し家康に恭順の意を示したと伝わっています。

しかしそんな事で家康が納得するわけがありません。再三にわたり義弘を引き渡すよう義久に命じます。義久は引き渡せば必ず殺されるとわかっているので絶対に渡しません。義弘の子の忠恒を使者に送りますが拉致が空きません。もはや交渉決裂か!!

徳川と一戦辞さずと義久は戦の準備を始めます。内城の西方の城山に土塁で固めた詰城を築き、そして100ある外城に防備を固めるよう命じます。家康も最悪を覚悟し戦の準備を命じます。先鋒として加藤清正、鍋島直茂、黒田官兵衛の総勢4万の軍勢を国境の水俣まで進軍させます。ここで船上で懇意となった立花宗茂が説得に行きますが、やはり拉致が空きません。このまま戦がまた起きてしまうのでしょうか? さあどうする家康?どうする義久? はたして二人の選択は!(この続きは最後の(26人目)の中でまた)

私は藤崎氏の屋敷の前から、錦江湾の海を眺め考えてみました(写真⑦⑧⑨)。義弘はどんな思いでここで過ごしていたのでしょうか。この後自分は一体どうなるのだろうか? いや自分だけでなく薩摩や兄もどうなるのだろうか? そんな不安な気持ちで、夜も眠れずに、毎日ここからこの海を、眺めていたのではないでしょうか・・・


【余談】島津桜島うどん
帰りにフェリーの中にうどん屋があり、見ると名物「島津桜島うどん」というメニューがあったので気になり注文して食べてみました。注文して何とわずか30秒で出てきました(すごく早い!)でもすごくおいしい。どうやらたまごを噴火口に、黄身とゴボウの天婦羅を溶岩に見立てているようです。さつま揚げもちょこっと入っていました(写真⑩)。15分で着岸なので急いで食べました😊(アチチ!)

次は、義弘晩年の居城(加治木城)を訪れます。
 

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しんちゃん

石垣遺構は大城より充実している。まだ未完の城か? (2023/11/19 訪問)

林小城は別名・福山城とも呼ばれ小笠原氏城館として林大城・井川城とともに国の史跡に指定されています。林大城とセットで考えられているようで麓の大嵩崎集落と合わせて小笠原氏の本拠とされているようです。登り口はいくつかあるようですが自分は大嵩崎集落の登り口から登りました。麓には水の手である「地獄の釜」があってかつては底なし沼のような様相だったらしいです。登っていくと北側に回り込むようにして北の郭を経由して主郭に向かっていきます。道中で下を見渡せば幾つもの扁平地が見渡せます。
思ったより複雑な構造をしているようで主要な郭以外にも無数の平場群や未整地のエリアが存在します。北上を続けていくと二郭を経て主郭にたどり着きます。主郭は四方に石垣を残し、特に北側には見事な石垣が残ります。主郭の内部にも石垣が存在し南側には高土塁がそびえます。どうやら主郭の中でも南側は特に格式が高いようです。そのさき南方には未整地の空間が広がりますが幾つかの堀切が存在します。どうもこの城はまだ未完成な感じがしますね。
大城に対する位置づけは不明ですが石垣遺構に関しては大城より充実しています。個人的には大城より好きな城で、山城の魅力を十分に伝えてくれています。

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垣屋氏の城 (2023/12/14 訪問)

 但馬守護山名氏の守護代垣屋氏の城と伝わっています。北城と南城がありますが、曲輪の比較的明瞭に残っていて、木もあまりなく遺構は見やすい状況でした。畝状竪堀が見たくて登城しましたが、思ったより上の方にありました。迫力のある大きな畝と竪堀が残っていました。城域は思っていたより広く堀切、土橋、土塁や竪堀があり、主郭近くには石積みもあり楽しめる城址です。ただ畝状竪堀のある所だけはロープがありましたが、整備された登城路があるわけではなく案内板もありません。縄張り図とにらめっこしながらの散策となりました。遺構も比較的残っていていい城址だと思います。

 北側の墓地より登城しました。踏み跡がありましたが、概ね直登です。落ち葉が堆積していることに加え土が湿気を含んだ粘土質で、滑って歩きにくかったですね。足を滑らせながらもなんとか尾根に到達して登って行きました。尾根には道がある所もありますが、わかりにくい所もありました。楽々前には行けなかったですね。ただ尾根を只管登って行くだけなので迷うことはありません。主郭の南東部にある堀切へ降りて行くと、その下に誘導するようにピンクリボンが付いている木を見つけました。帰りは来た道を戻りたくないという気持ちもあり、こちらからも登城した人がいたと記憶していたのでピンクリボンを追って降りて行きました。道もなく倒木やぬかるんだ地面に難渋しながら下山すると、城の西側にある民家の近くに出てしまい帰りは遠回りとなってしまいました。素直に来た道を戻ればよかったと反省しています。
楽々前城を「ささのくまじょう」とは読めませんね。「らくらくまえじょう」と読んでいました。

江原駅より登城口近くまでバスで行く予定でしたが本数が少なく徒歩にて行きました。30分くらいかかりました。

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しんちゃん

主郭には鉄筋の展望台がある。 (2023/12/10 訪問)

朝倉山城は標高173mの朝倉山の山頂に築かれています。麓に駐車場があり林道は徒歩で登っていきます。途中に地元の子供たちが書いた旧登山口の案内板があるのでそこから山に入っていきます。道はつづら折りで山頂に向かっていくのですが、だいぶ藪に埋もれてきていて、いささか見づらいです。地元の子供たちの案内板がある所が登山道なのでそれに沿って進みます。
山頂につくと展望台がありそこが主郭になります。虎口の周囲には石積みが残り破城のあとを示しているようです。展望台の上には鐘があるので周囲の獣たちに人間がいることを知らせてやります。ちなみに主郭の下の郭には猪のウンこが落ちていました。
猪のウンこは一見熊のモノに似ていますが時間が経つとバラバラになって鹿のウンこのように散らばるそうです。
主郭の東側にはテレビ塔のある郭があり、ここが二郭になるようです。南側にもいくつか郭があって先に道があるようですが自分は来た時と同じ旧道を通って戻りました。
城主は朝倉玄蕃助景連とも言われ、「朝倉始末記」には信長の越前侵攻に備えて一揆勢が立てこもったとされる記載があるようです。

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しんちゃん

村岡山城 一向一揆の城。遺構が良く残り眺望も良い。 福井県勝山市村岡町郡。 (2023/12/08 訪問)

村岡山城は標高301m比高約150mの御立山の山頂に築かれています。大野南袋一向一揆によって築かれ、敵対する白山平泉寺とは5kmの距離にあります。平泉寺は朝倉式部大輔景鏡を差し向けましたが一揆勢は裏手より平泉寺に放火、景鏡は敗れ四方に落ちますが、50~60人余りでなおも戦おうとして多勢相手に皆討死したそうです。この合戦での勝利が地元の勝山の語源になっています。
一揆衆の築いた城ですが非常に良く出来ていて、遺構も良好に残っています。主郭や二の丸からの眺望は良好で、主郭の周囲に土塁や堀が良く残り、南に虎口が付き土橋がかかっています。本丸の周囲を二の丸が囲っていて、この城で最大の面積を持っています。東側には畝状竪堀を良く残し、南東側にも幾筋かの竪堀が残っています。西側の郭には幾つかの堀切を越えるとたどり着き、ここからの眺望はかなり良いです。なかなか見どころの多い良い城で、白山平泉寺に行かれる方はぜひ、この城も訪れていただければと思います。
村岡神社境内から道が続いていて途中道が分かれますが南の尾根に登る道を選択していただくとスムーズに登れます。道中ずっと並んでいる石仏が目印になってくれるので迷うことは無いと思います。

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きよまさ

蟹江合戦 (2023/12/14 訪問)

蟹江城跡に行ってきました。
近くの蟹江町歴史民俗資料館では、小牧・長久手の戦いにおける蟹江合戦を取り上げた展覧会が開催されていた。12月17日まで。

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しんちゃん

国の史跡。なかなかの絶景です。白山見ゆ。 (2023/12/09 訪問)

国の史跡・丸岡藩砲台跡は嘉永5年(1852)に幕府の命によって丸岡藩によって築かれました。砲眼は五つで内側に石積みで、外側は土盛りをもって固めています。設計は丸岡藩砲術家の栗原源左衛門、築造は砲台築造奉行・原貞煕とあります。(by現地案内板)
海岸の道沿いに駐車場がありそこから海岸に降りていきます。なかなか風光明媚で日本海を広く見渡せ、内陸側には山々を見渡すことが出来ます。遠くに雪をかぶった一際美しい山が見えますが名前がわかりません。ひょっとして白山でしょうか。
※調べてみたら白山で合ってました。これはテンションが上がりますね。白山にもいつか行ってみたいです。

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しんちゃん

三つの堀江館が存在。 (2023/12/09 訪問)

堀江館は番田・中番・下番の三つが存在するようで、下番と中番の二つは隣接しています。最も古いのが番田の堀江館で城びとの地図で示されているのがそうです。館の主の堀江氏が加賀一向一揆との戦いの後、一揆勢に備えて番田から下番に本拠を移したようです。中番の館は春日神社の境内と見られ、下番の館は本荘小学校一帯に築かれていて堀と土塁を備えていたようです。本荘小学校と春日神社の間には堀跡とおぼしき跡が見られ、西側の土塁があった場所にはそれらしい土盛りがあるようです。小学校の北側には堀江館と関係ありそうな石碑と石塔が立っています。

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いんげん丸虫

鍬塚城 愛知県設楽町 (2023/11/25 訪問)

標高790mの山城です。名倉奥平氏の城郭。
主郭の半周に低い土塁がまわり、下の帯曲輪にも少し
土塁がみられます。西面に虎口があります。堅固な地に
あるためか、大きな堀切はありません。
街道沿いに小さな看板があり、そこから細く荒れた林道を
300m位行くと登り口の看板があります。
キツイ登りはないですが、20分位は歩きますね。
車は林道に入ってすぐの広いところに停めておいたほうが
いいですね。

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ぴーかる

越智氏本城 (2023/11/19 訪問)

【越智城】
<駐車場他>越智公民館に駐車できるようですが公民館の所は満車で南側の砂利の広場は公民館の駐車場なのかどうか分からなかったのでゴルフセンター近くの道路脇に駐車。
<交通手段>車

<見所>堀切
<感想>貝吹山城の主郭にある越智城の説明板によると、「蘇我川右岸の東西に細長い谷に向かって開口した小谷地形に築かれた平城です。小谷地形はコ字状の丘陵で囲郭され、南側に設けられた濠で区画されたものとわかります。谷地に設けられた平場は上中下段の3段に削平され居館が設けられていました。‥‥」とあります。この地の支配者越智氏は南北朝時代には大和国有数の豪族となっていますのでこの頃には越智城は本居館城として築城されていたと思われます。西に1㎞ほど行くと貝吹山城がありそこが詰城となっています。
 
 中心の居館跡は現在段々の農耕地になっているのみなので、すぐ見終わります。コ字状(正確には Π 状)の丘陵地を攻めます。登城口はΠの字の南東端<34.464234 135.769940>から山に入ると東の虎口跡がありますので分かります。東側のピークは木が伐採された削平地・鉄塔があります。堀切等の防御遺構はありません。奥に進んで北側には2個目の鉄塔の更に北側に古墳丘陵が、この2個目の鉄塔の横付近に獣柵の扉がありますので入ります。入って左斜め方向に進むとまた獣柵がありますので2回目の柵を左手にして100~150m程進むと堀切部分に柵の扉がありますので入ります。柵入って右手奥の竹林に北の大堀切があり見応えあります。左手に進むと Π 状の西側に進めます。西側には防御遺構が多くあり南北を堀切で仕切った削平地が主郭部分と思われます。主郭南の堀切から南西端の斜面に横堀を添わせて合間に曲輪が設けられているような遺構もありました。なかなか散策楽しめました。

<満足度>◆◆◇

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ぴーかる

獣柵が設置されていて‥‥ (2023/11/19 訪問)

【佐味城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<感想>個人サイトの方の情報で登城口を確認し行ってはみたものの。<34.408293, 135.702889>地点から北にあぜ道を通りトタンの板をまたぎ、山に入ると新たに山に獣柵が設けられていました。入口を探してみました(北の方には200m程行きました)が見当たらず、入れたとしても藪化でとても登れそうにもなかったので痛恨の断念をしました。ここは新たな冒険者の方の投稿の方を待つこととします。

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ばばよ

まだまだ復元できそう (2023/12/08 訪問)

復元三重櫓のイメージが強かったですが、石垣が立派でそれだけでも飽きません!
落とし積みかと思ったら従来の積み方に変わったりと面白いことやるなぁと感心。
旧太鼓櫓は少し離れた場所にあるのでお見逃しなきよう。
松平定信公がマメに城内の櫓や門、蔵など37箇所の実測図・平面図を残しています(白河城御櫓絵図)。
そのためVR復元動画にも説得力があります。
石垣も震災を経てきれいに修復されていますので、お金と時間があれば更なる木造復元も期待できます。
今は清水門の復元を目指しているようです。
30年とか経って再訪したらどのくらい違っているのか楽しみですね。

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刑部

丸馬出しがいい! (2023/11/03 訪問)

行ったこの日はイベントをしてて大賑わいでした、私が着いた時はもう終わりのようで駐車場は直ぐに止めることができましたが、天守の中は5分遅れで入ることはできません 惜しい! 本日イベントの為無料だったのに丸馬出しをじっくり見ていて入れませんでした残念! この馬出しと天守の位置関係がおかしいのは仕方ないことですかね?

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カズサン

西不明門跡と太鼓門跡 (2023/11/27 訪問)

 18年振りの明石城探訪、前回は明石蛸の活きの刺身目的で兄と訪ねました、令和元年にはJR明石駅ホームで駅頭整理されて明石城の三重櫓巽櫓と三重坤櫓・間の白土塀景観整備された明石城を撮影確認して以来の探訪登城です。

 最寄駅:山陽電鉄明石駅、JR明石駅より徒歩
 参考資料:今回はグーグルマップのみ。

 阪神間未踏の城廻り電車旅、西宮砲台、舞子台場、船上城を終えて平野城探訪前に、船上城の移築長屋門の見学探訪後、外濠西側の西不明門から探訪開始、球場、駐車場横を通って大手に当たる太鼓門へ、丁度太鼓門跡横にからくり人形が実演中、大勢の人が見学して居ました、1時間毎に実演されて朝8時から夕方18時までの11回の実演だそうです。
 比翼の三重櫓の景観撮影を目的にもしていましたので、三の丸、武蔵の庭園、三重櫓下を西へ、稲荷曲輪西城壁、稲荷曲輪と坤櫓間の虎口を通り天守台正面に進み、稲荷曲輪へ、天守台西面、本丸西面、乾櫓台、稲荷曲輪北門跡から桜堀方向を眺めて、本丸北の見ノ門櫓台から本丸へ、本丸内部へ、本丸より西の稲荷曲輪、北に本丸多門櫓台、南に坤櫓を直近に眺め、天守台を降りて、坤櫓、白土塀沿いに展望デッキ、出来で明石大橋を遠くに眺め、城下、坤櫓、巽櫓を眺めて、本丸と二の丸の土橋から二の丸へ、土橋の北と南に大堀切、二の丸東屋から巽櫓を眺め、二の丸櫓門虎口から登り虎口を上から下から南川眺め撮影、東の丸は南城塁のみ見学、日時計辺りで携帯食を遅まきながら三重櫓を見ながら食べて時間稼ぎ、2時間近く経っていました。

 ここの編では西不明門、太鼓門辺りを写真投稿します。
 次は天守台へ続きます。
  

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todo94

朝来市和田山郷土歴史館 (2023/11/23 訪問)

じゅんじんさんの投稿を拝見せずに訪れてしまったため、移築陣屋門はノーチェックです。陣屋跡に建つ朝来市和田山郷土歴史館を見学するには、事前に朝来市埋蔵文化財センター079-670-7330に予約の電話を入れる必要があります。

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しんちゃん

松山城 加賀市松山町 思ったより広い。小城とあなどるなかれ。 (2023/12/09 訪問)

松山城は松山町の丘陵地一帯に築かれている平山城(山城)で加賀の一向一揆勢の城とされています。足利義昭の仲介で朝倉氏と和睦し永禄10年(1567)に焼却されたとのことです。当初はそれほどの規模ではないとたかをくくって主郭から攻めましたが、城址を巡っているうちに思った以上に城域が広く技巧も凝らしてある城だということがわかりました。加賀の一向一揆あなどれずです。
訪問の推奨コースは城址西側の見張櫓からで集落に縄張りの案内があります。林の中に道が通じているので見張櫓(西郭)から攻めていきます。そのまま南の尾根続きに主郭に向かいます。
天然の尾根を利用した堀を越えると主郭にたどり着きます。主郭の周囲には堀が巡らされていて、北と東にも郭があり、途中に堀切が配されています。本丸の周囲は藪化していて遺構が少しわかりづらいですが、城としての防御機能はしっかりとしています。

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しんちゃん

養浩館庭園・福井市宝永3丁目 (2023/12/09 訪問)

養浩館庭園は福井藩松平家の別邸・御泉水屋敷が原型で一時福井城と共に兵部省の管轄になっていましたが、越前松平家によって買い戻され松平春嶽によって「養浩館」と名付けられました。現在の建物は戦後に再建されたもので、戦後から一般に公開されています。
管理は福井市によってなされているようで国内のみならず海外からも高い評価を得ているようです。

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