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にのまる

上杉博物館が楽しすぎました! (2023/09/08 訪問)

上杉家御廟所から米沢城址へ徒歩で向かいました。
奥羽本線と米坂線に囲まれた内側には上杉家ゆかりの寺院や旧跡がいくつもあり、歩いたのは1kmくらいでしたが米沢の町の雰囲気も感じることができて楽しかったです。

お堀端を少し歩いて西門より入城し、観光案内所に寄るなどしながらひとまわりしました。
米沢城といえば銅像、のイメージもあります。景勝公と直江兼続の2ショットは好きだった「天地人」を思い出し、懐かしかったです。

その後、特別展「上杉氏と国絵図の世界」開催中の伝国の杜・米沢市上杉博物館へ。
まずはミュージアムショップで欲しかった「直江状」のマステをゲット。商品化のアイデアがすごいなぁと……。
上杉本洛中洛外図屏風は会期前半のため複製でしたが、そのゴージャスさと緻密さにすっかり見入ってしまいました。バーチャル映像も楽しい!
常設展は1601年の米沢入りからのまちづくりや9代藩主鷹山公の藩政改革などがさまざまな形で学べました。特にワクワクしたのがジオラマで、多分一日中見ていられます。
入館したのが16:00で、あっという間に閉館時間(17:00)になってしまいました。もっと見ていたかったです。

今回もゆっくり名物を味わう時間はありませんでしたが、たくさんの新しいこと、楽しいこととの出会いでお腹いっぱいになりました。

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しんちゃん

足羽七城の一つ。 (2023/12/10 訪問)

安居城は南北朝時代の北朝方の城で足羽七城の一つとされています。あの新田義貞を討ち取ったとされる足利(斯波)高経の重臣・細川出羽守によって築かれたとされ比高20mほどの丘陵に築かれています。戦国期にも使用されていた割には扁平地以外にこれといった遺構は見当たりません。墓地の裏から続く登城道やため池に降っていく道が堀跡に見えなくもないですが詳細は不明です。
墓地の裏から登る道は容赦なく犬にほえられるので、ため池の脇から登って同じ場所に降りてくるほうが面倒が無いと思います。車は南東にある与須奈神社の前に停められるようです。

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小城小次郎

佐生城だったり日吉城だったり (2023/04/16 訪問)

佐生城だったり日吉城だったりするのはなんでかと思ったら佐生町と五個荘日吉町(と佐野町)に跨っていた。簡単に登れて郭が一つしかなくて石垣ががっつり堪能できる魅力満載のお手軽山城。石碑自体も既に年代物かも。

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しんちゃん

新田義貞を討ち取った勢力が出撃した城。 (2023/12/10 訪問)

小黒丸城は大黒丸城の支城で足羽七城の一つに数えられています。南北朝の時代の北朝方の城で足利(斯波)高経によって築かれたとされています。平泉寺衆徒の籠った藤島城を新田義貞の手勢が攻めている際、救援に向かった義貞を小黒丸城から出撃した細川出羽守、鹿草公相らの軍勢が燈明寺畷で討ち取ったとされています。城址は現在水田地帯になっていて、少し南の宅地に城址碑が立っています。

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しんちゃん

大黒丸城 福井県福井市三宅町 (2023/12/10 訪問)

城びとの城である小黒丸城と三宅町にある大黒丸城を合わせて「黒丸城」と呼ばれるそうです。大黒丸城の方が本城で小黒丸城はその支城とされています。小黒丸城だけでは方参りになるので合わせて訪問してきました。
建武4年、足利高経に従って朝倉広景が但馬より越前に入り、目代としてこの城に入ったそうです。以降文明年間(1469~87)に孝景が拠点を一乗谷に移すまで朝倉家の本拠であったとされています。
城址は比高10m足らずですぐに主郭に入り込みますが中は竹林になっています。動きが制限されますが東側に、なんとか土塁の跡を発見しました。もともとは単郭で堀と土塁を配していたシンプルな構造だったようです。ただ麓の祠を祀ってあった土盛りも気になりますね。

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しんちゃん

蓮如上人ゆかりの地 (2023/12/09 訪問)

国の史跡にも登録されている吉崎御坊は本願寺大八世法主蓮如が北陸の拠点として建立した坊舎です。戦国時代は武士同士のみならず、寺社同志でも凄惨な争いや殺し合いをしていた時期ですので吉崎御坊も周囲を崖と湖(北潟湖)に囲まれた天然の要害に築かれていました。
かつて本堂や伽藍・坊舎が建っていたあたりは公園として整備され蓮如上人の像が立っています。周囲の林には幾段かの扁平地が残っているようでした。

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「お城EXPO城」へのご投稿について

ご投稿くださっている皆さま、いつも楽しい登城記録やつぶやきを投稿いただき、誠にありがとうございます。

チェブ様、「お城EXPO城」への初投稿、誠にありがとうございます。「お城EXPO城」はキャンペーン用ではなく、ほかのお城と同じく、今までの参城記録やつぶやきをご投稿いただきたいです! ということで、チェブ様、間違いではなく大正解です。初投稿を拝見して大変うれしかったです!! どうもありがとうございます。私たちのほうこそ、皆さまに支えられて頑張ることができております。今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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しんちゃん

新田義貞落命にかかわりのある城 (2023/12/09 訪問)

藤島城は西超勝寺境内に築かれていたとされ本堂の裏手に土塁が一部残っています。南北朝時代には北朝方の足羽七城の一つとされ、新田義貞がこの城に向かう途中に敵と遭遇し矢を受け自害したとあります。寺の周囲は立派な築地塀で囲まれ本堂もかなり大きく立派です。
門の脇には城址碑が立っています。

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しんちゃん

篠原古戦場跡・首洗池  石川県加賀市手塚町 (2023/12/09 訪問)

篠原古戦場跡・首洗池は源義仲の恩人である斎藤別当実盛が篠原の戦いで命を落とした場所で、実盛の首を洗った池に首洗い池の名が残されています。池のほとりに案内板が立っておりQコードを読み取ることで短編のアニメーションを見ることが出来ます。
実盛は初め源氏方に属し源義朝が弟の義賢を討ち滅ぼした際に、その遺児である駒王丸(後の義仲)の命を助けました。義朝が平氏に滅ぼされた後は平氏に仕え、源義仲の軍と戦うことになりました。齢70を超えていた実盛の髪は真っ白でしたが、髪を黒く染めて死地に赴く覚悟で義仲の軍に挑み、義仲の武将・手塚光盛に打ち取られたとのことです。
池のほとりに実盛の首を抱えて悲しむ義仲と樋口兼光、そして実盛を討ち取った手塚の銅像が建っています。同じ源氏でも陰湿な鎌倉の連中と違って、この人たちの方が素朴で人間味がありますね。

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ぴーかる

小山三箇城 (2023/11/19 訪問)

【今井城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<感想>今井城(小山 三箇城)の築城年は定かではないが、築城者の三箇氏は記録によると藤原秀郷の流れをくむ記録と大和国宇智郡からでた豪族との記録があるので、三箇氏は源平合戦以降から15世紀後半までにはこの大和国宇智郡今井庄に繁栄し館城を築いていたと思われます。戦国時代に三好氏家臣の三箇城(大阪府大東市城びと登録あり)城主三箇頼照はこの地から出た三箇氏の後裔という説があります。
 石碑のある場所は狭い道で駐車できないので、近くの道路脇に駐車しました。石碑の場所は西側からやや微高地になっていき、東側はやや低いので、ちょうど傾斜面の途中に築いた居館のような城だったかもしれません。城びとの城郭情報には遺構が曲輪・横堀とあるので、石碑のある田んぼだけが西面以外からは土壇状に四角くなっているので曲輪跡がそのまま田んぼになっているのかもしれません。また石碑のある西面に溝(水路?)があるのでこれが横堀跡か?とも思いました。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

石碑は御影城跡 (2023/11/27 訪問)

 船上城を終えて、明石城で長居し、明石駅から山陽電鉄、阪神電鉄から阪急電鉄に乗り換えて御影駅下車し平野城周辺を初登城。

 最寄駅:阪急電鉄御影駅
 参考資料:グーグルマップ、城びと投稿者の皆さん、ウィキペディア

 明石城で長居し御影駅に着いたのが3時半、北口の街灯は既に点灯、城びと投稿者の皆さんの内容によって、北口ロータリー西側の小公園の石碑を確認、同公園には御影の松の案内板と松が植栽されてる。
 グーグルマップによると平野城史跡マークは御影北小学校校舎内北側に付いており、御影駅北口から西へ300m程進むと御影北小学校の校門へ、南側、北側は現在の石垣ですが城塁の様、高く聳えています、行内には入れませんので校門坂周辺を見て、東の深田池の探訪へ、御影駅北口から北へ100m程、深田池公園と成っており、平野城の東の守りの堀、池、沼地に成っていたそうです。
 六甲山から南に降りる丘陵に城を築いた、西の花隈城と似ている構造の様です、ウィキペディアによると、1346年赤松氏の家臣平野忠勝によって建てられた。とあります。

 この後は宝塚の小浜城を計画していたのですが、夏なら行けたでしょうが街灯が灯る頃にて今回の阪神沿線未踏の城廻り4城で終了としました。明石城で時間を掛け過ぎました。

 この後の投稿は明石城を数編で投稿します。
  

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トク

84【関ケ原の26人】(24)島津義弘 (島津の退き口②-琳光寺)

(24人目)「島津義弘」続き⑬です。義弘軍「捨て奸」の地(琳光寺)を訪れてきました。

徳川家康最後の陣跡から、前回の写真④の義弘が逃げた矢印の方向へ、私も逃げるように必死でチャリをこいで20分、牧田交差点そばにありました。

捨て奸(すてがまり)とは、負けを覚悟した時の島津の究極の戦法で、主君を逃がすため家臣が道に座して鉄砲を構えて並び、敵をくい止める。主君のためなら自分の身を犠牲にしてでも逃げる時間稼ぎをするという戦法です。

義弘の幼い頃からの守役であり家老であった長寿院盛淳は、この牧田の琳光寺にて、義弘の鎧・兜・陣羽織をはおり、「我こそは島津義弘なり!」と叫び、まさに身代わりとなって壮絶な捨て奸を行いました。この犠牲により、義弘は山田有栄に守られ、伊勢東街道を逃げ延び、薩摩まで帰還する事ができたのでした。

琳光寺には、盛淳の墓や供養塔が建てられています。主君を守るためなら自分の命をも惜しまないという彼らの生き様に、私は思わず絶句し身震いしてしまいました😱~。

次は、薩摩に帰還した義弘がその後蟄居した(桜島)に上陸します。
 

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todo94

越前朝倉氏発祥の地 (2023/11/23 訪問)

訪れてみるまで越前朝倉氏発祥の地であることを知らずにいました。技巧的な遺構が見られるわけではありませんが、土の城の美しさを感じることはできました。高知の朝倉城より自分の好みです。主郭からの眺望も素晴らしいものでした。

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しんちゃん

カモちゃん・in・安宅の関  (2023/12/09 訪問)

安宅の関の続きです。安宅の森を歩いていると指名手配犯みたいな張り紙が目に入ってきます。カモシカがいますって…マジですか?
顔を前に向けるとすぐ近くにカモシカが!マジですか?‥タイミング良すぎる。さすがにすぐには信じられないのでジーっと見ていたら、動いた!本物のカモシカだ! しばらくそっぽを向いていたのですが、やがて悠々と去っていきました。
写真を何枚か撮ったものの、まだ少し信じられないでいます。地元の人に聞くとしばらく前からこの森にすみついているらしいです。
人の言葉がわかるらしく、「そっちは危ないから、こっちに来なさい」というと道路から戻って来るそうです。何頭いるのかは解りませんが地元の方はカモシカのことをカモちゃんと読んでいたので、さっきのカモシカ君は自分の中ではカモちゃんで決定です。
朝早く公園に来るとカモちゃんに会えるみたいで、地元の人たちが実にうらやましい。これからも不慮の事故が無いように皆さんで暖かく見守っていっていただきたいと思います。ちなみに小さい犬を連れて散歩しているとすぐ後ろに近づいて来たりするそうです。その方はびっくりしたかもしれませんがカモシカも寂しいんじゃないかと思います。
野生動物の上に天然記念物だから人とのなれ合いがNGなので、それがちょっと残念ですね。

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しんちゃん

安宅の関・勧進帳  石川県小松市安宅町タ140-4 (2023/12/09 訪問)

勧進帳で有名な安宅の関は石川県小松市にある安宅住吉神社の背後に広がる森のあたりになります。そこから海岸に向かって道が続いていて進んでいくと冠木門が有り、その先に義経主従と関守の富樫の銅像が建っています。像の背後には雄大な日本海が広がり、地元の人の絶好の散歩コースになっているようですね。銅像は‥というとちょうど三人が小芝居をやっているところなのですが、この義経なにか表情が硬いですね。弁慶が馬鹿力で本気で打つので少し腹が立っているのでしょうか?表情が怖いです。弁慶のほうは、ちょっと気まずそうに見えますね。「やべ、義経怒ってる?関所を通るためなんだから仕方ないじゃん」とでもいいたげな表情ですが二人を見ている富樫の冷ややかな眼差しがいい味だしています。
実はこの森、まだ秘密があるんですね。‥次に続きます。

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しんちゃん

戌山城と並んで大野城築城前の主要な城郭。 (2023/12/08 訪問)

亥山城は山王日吉神社周辺に築かれていたとされ堀が一部残っています。延元4年(1339)に南朝方の堀口氏政が亥山城を構えていたと「太平記」に記載があるようで、大山咋神が城の守護神として祭られていたのが日吉神社の始まりでもあるようです。城郭大系を参考にさせていただくと「大野郡誌」に記載があり、斯波氏が越前国を領したとき持種の子、義敏が亥山城を居館としていたようです。
義敏は本家の武衛家を継ぐにあたり家臣の千福中務大輔に殺害され、中務大輔は戌山城を占拠したようです。足利義政の遣わした朝倉敏景によって中務大輔は討たれ、後の朝倉景鏡の時代に再び亥山城を居城としたそうです。

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しんちゃん

藩校・成器堂の遺構を巡る (2023/12/08 訪問)

勝山城は初め柴田勝成(勝安)によってこの地に築かれたとされています。柴田氏が滅亡後、成田重政・長谷川秀一が居城し、結城家が入国した後はその支配下に入り、元禄4年(1691)小笠原貞信が2万3千石で入り勝山藩が成立しました。築城は宝永6年(1709)より修築という名目で行われ、現在市役所や市民会館のある場所が本丸で、かつて天守台があった位置に立派な城址碑が建てられています。周囲には堀が巡らされ、二の丸・三の丸が配され、南東には大手門が配され、その先に南馬出が築かれおり小規模ながらも十分に城郭としての体裁を保っていたようです。かつての勝山城の外追手筋に建てられた藩校・成器堂の遺構が市内各所に移築されていて神明神社に移築された講堂の瓦には小笠原家の家門である「三階菱」があり、往時の姿を保っています。

成器堂講堂‥神明神社に移築・勝山市元町1
成器堂演武尞‥集会所に移築・勝山市荒土町布市
成器堂門および土蔵‥宅地に移築・勝山市群町

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AJ

そんな真田に魅せられて (2016/06/07 訪問)

真田(さ・な・だ)ーー。その響きだけでご飯三杯はイケるという方、少なくないのでは。武田を支えた骨太な家柄、「表裏比興」な父、「日本一の兵」な息子、そして史実を飛び越えてくる忍術使い。規格外の要素が絡み合って、そのネームバリューを押し上げているように思います。

一方、その歴史を紐解いてみると、一族の中には必ずしもキラキラしてない真田さんもいらっしゃったようで、、。

沼田城(群馬県沼田市)。続100名城のひとつですが、城域はかなり改変されていて、堀や土塁の跡は限られています。上田城(長野県上田市)と並んで、同家生き残りの礎となった城ですが、同時にその影響力を削ぐきっかけともなった土地であります。

利根川流域にお手本のような河岸段丘。中心街は駅から70メートルほど持ち上がった高さに広がっています。城域が最大規模になるのは、真田昌幸の孫で、信繁(幸村)の甥にあたる信吉の城主時代。本丸北東隅に四重天守、南東に三重櫓が建てられ、各郭はそれぞれ幅20m以上の空堀で区切られたほか、計6棟もの櫓門が築かれたといいます。実高3万石(諸説あり)の領主でありながら、その格式の高さは10万石級だと指摘する向きもあります。

1622年、真田氏が上田から松代(長野市)に国替えとなった後も沼田は飛地として存続しますが、信吉の次男・信利が本家の相続問題を機に独立。このあたりから雲行きが怪しくなります。

正式に沼田藩を立藩した信利はその後、松代への対抗心と財政難から拡大検地に手を染め、所領を過大申告。重税で領民を苦しめた挙句、江戸における幕命工事の負担を果たせなかったとして改易され、廃藩。城は取り壊されたといいます。

これにより沼田は天領(幕府直轄地)として扱われますが、下総から入った本多氏が藩を再興。ただ、天守や櫓は再建されず、石垣や土塁の整備にとどまります。今日、遺構に物足りなさが残る背景にはこういった事情があるようです。とはいえ、そこはあくまで真田の地。彼らのちょっと残念な部分さえも抱きしめたい、、、そんなマニアックなあなたにおすすめの攻城先かもしれません。

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しんちゃん

石垣も 苔むす時代の 長閑さ (2021/04/03 訪問)

高取城は日本三大山城の一つとも言われ、標高の高い総石垣の山城としては別格に広い城域を持っています。もともとは越智氏の築いた南朝方の城だったそうですが、戦国末期には越智氏を滅ぼした筒居氏の城となり本格的な城塞として改修を受けたようです。天正13年に豊臣秀長が大和国に入ると重臣の脇坂安治、続いて本多利久が入りました。この本多氏の時代に今の高取城のような壮大な縄張りを持つ城になったようです。城下町から登城道が続いていますが、自分は車道でズルして壷坂口門あたりから二の丸を経由して本丸に入りました。でもやっぱり全部の遺構が見たくて猿石のある所まで下って、また石段を登って元来た道を戻りました。
雰囲気を味わうのであれば城下町から登るのが一番でしょう。自分は三度目なので、はしょりましたけど。

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朝田 辰兵衛

北条氏照さんから手紙が…

先月の八王子でのイベント「日本遺産 Festival in 桑都・八王子」で実施した,スタンプラリーのコンプリート景品が届きました。
「東京たま未来メッセ」,「八王子博物館」,「まちなか休憩所 八王子宿」の3ヶ所のラリー。完成後,「高尾山 天狗」,「北条氏照」,「絹の妖精 シルク」のいずれかをチョイスして投函すると,返事が届くとのこと。私は「北条氏照」をチョイスしました。
しかけは,北条氏照さんからの手紙を,八王子市教育委員会生涯学習スポーツ部文化財課の担当の方が,転送して発送しているという概要です。
手が込んでおりますが,果たして何通発送したのか気になるところです。

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