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くうくう

今は展望塔の建つ丹羽氏4代62年の居城

詳細不明ながら享禄年間(1528-31)織田信秀により築城されたという。松平氏との攻防の間に本郷城から移った丹羽氏が居城とした。天正12年(1584)小牧長久手の戦い時に、いわゆる三河中入の池田恒興の進軍を妨害したことで名高い。落城し多くの犠牲を出したが、徳川家康からの信頼を得た。後に大名に取り立てられている。
曲輪、空堀、櫓台、土塁、などの遺構が見られ平山城だった様子が髣髴される。公園化され、模擬天守である展望塔岩崎城が建っている。同じく主郭には岩崎城歴史記念館があり、討死した丹羽氏重の像をはじめ岩崎城を学ぶことができる。

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カズサン

田圃の中にポツンと本丸跡踏込躊躇! (2023/11/27 訪問)

 明石藩舞子台場を小雨に降られて駆け足探訪後、山陽電鉄舞子公園駅から明石駅の西一つ目の山陽電鉄西新町駅下車し船上城を初登城。

 最寄駅:山陽電鉄西新町駅、徒歩約600m程。
 参考資料:古城盛衰記さん、グーグルマップ、城びと投稿記事、船上西公園の船上城跡解説板。

 山陽電鉄西新町駅から徒歩で約600m程、駅より南下し県道718号線を西へ明石警察署の1本西の通りを南下し、船上西公園へ至る、公園に船上城跡解説絵図が在る、現在と往時の対比で解説されている。西を覗くと水路が堀の如く流れてる、城びと投稿者の写真で見る、松が聳えてる本丸跡が見えるが進入する道が見つからない、周囲の住宅街を公道沿いに廻り、見通しの良い所、進入路は?と廻ると西に2ヶ所あり、見通しのみの所、人一人通れるコンクリ壁に挟まれた畦道、畦道から進入できそうなのですが、山城廻りの長靴安全靴で無く町歩き用の靴で、畦道、続く微高地の人踏道もハッキリせず進入を諦めました。
 「あ」さん直近の投稿写真は早苗の頃で田圃に水が入りさも水堀の様です、当日は田圃は耕されて土がむき出し、微高地は島のようで本丸跡で字古城の地番字だそうです。
 西の道を北へ、県道718号線に出て東へ、本丸への進入路、撮影地を探査するが適当なところは無く、西の北の畦道が唯一の進入路かも?
 西新町駅より明石駅に移動し、船上城移築長屋門が明石城外堀西に織田家長屋門として現存し探訪撮影する。

 歴史は絵図入り船上城跡解説板によると、三木城の別所氏一族の林ノ城が始まりで、天正13年(1585年)秀吉の国替えで高山右近が6万石で入封し整備拡大し船上城を築く、天正15年(1587年)秀吉のバテレン追放令で領地没収のうえ明石船上城を追放され、明石船上城は秀吉の直轄領へ、関ケ原の戦い後、播磨は池田輝政領に明石船上城は一族の池田由之の治める所と成り、元和元年の一国一城令により、城構えから櫓や堀などの無い屋敷構えに改造され、元和3年(1617年)信濃国松本の小笠原忠政が入封し、秀忠より明石に新城の築城を命ぜられ元和6年(1620年)明石新城の完成により船上城は廃城と成った。
 

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ぴーかる

二見城 (2023/11/19 訪問)

【二見城】
<駐車場他>駐車場はなし。妙住寺前の道路脇に停車しました。
<交通手段>車

<感想>現地説明板によると二見城は中世この地域に勢力を持っていた二見氏の館を前身とし、慶長十三年(1608年)五條二見藩1万石余の城主として入封した松倉重政が改築したものである。松倉重政は大坂の陣の功績によって肥前国島原に転封となり程なく二見城は廃城となります。
 現地に遺構は残っておらず、妙住寺のある平坦地が当時の主要部分でありましたので、主郭であったろうと思われる場所を撮影しました。また旧街道沿いに松倉豊後守重政之碑があるのでそこにも寄ってみました。

<満足度>◆◇◇

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竹やぶのⅢ〜Ⅴ郭に進入 (2023/11/23 訪問)

鈴鹿市、津市の城巡り。鈴鹿山脈から離れた伊勢湾よりの城は、急峻な斜面を持った丘陵を利用したものが多いです。
お市の方の三姉妹が、賤ヶ岳の戦い後、ここ伊勢上野城で信長の弟の信包の庇護のもとに暮らしたと。信長の弟が入城しただけあって、造りが大きいです。Ⅰ郭、Ⅱ郭は、模擬天守が建ったり、駐車場、グラウンドだったりで、開けてますが、北東の浅い谷を挟んだ、Ⅲ〜Ⅴ郭は、竹やぶになっています。城びと先人のレポートには、竹やぶに進入したとの記載がなく、一方、「三重の山城 ベスト50を歩く」には、「この付近は竹が生い茂り見学は困難であるが、曲輪Ⅲ・Ⅳ間の土橋と両側の堀は規模も大きく、この城の見所の一つである」とあったので、突入して参りました。竹やぶは、3次元迷路まではいっておらず、土橋に至れました。郭縁の土塁と堀も乗り越えて行きます。郭の前面を除く三方に土塁を持つ形態の城は、付近の有力者、長野氏 の領域に分布しているのですと。

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姫街道

朝明けに輝く金のシャチホコ (2023/12/06 訪問)

早朝、名古屋城の外堀を一周した。名古屋城へ行く時は地下鉄から天守閣に向かってしまっていたため、朝明けに輝くシャチホコを観た時には得した気分になった。名古屋城は地下鉄や道路の配置上、北側及び北西の水堀部が遠く感じられるが、素晴らしい景色が待っている。水堀に写し出される隅櫓の美しさにはハッと息を飲んだ。

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カズサン

勝海舟建議砲台の一つ・明石藩舞子台場(舞子砲台) (2023/11/27 訪問)

 西宮砲台を終えて夙川オアシスロードの桜もみじトンネルを楽しみ、阪神電鉄香瓐園駅から山陽電鉄舞子公園駅下車し、明石藩舞子台場を初登城。

 最寄駅:山陽電鉄舞子公園駅下車。JR舞子駅は南隣接。
 参考資料:城郭放浪記さん、ウィキペディア、城びと

 舞子公園駅下車、ストア校内を通って舞子デッキを使いR2号線を渡る、明石大橋と淡路島が近く気に成る、隣接の公園は工事関係資材の置き場と成り進入禁止、R2号線を約150m程西行、明石藩舞子台場の標識が出て居り、海岸に出ると案内板と石碑があり場所を特定できる、ミニ砲が椅子代わり2基設置、天端の石敷き屋外展示、海岸の護岸に成ってるのが台場の残存石垣なのでしょうか?、淡路島が手に取るように近い。舞子デッキ辺りから小雨が降り始め急ぎ足で探訪し早々に切り上げた。

 舞子台場も海軍奉行勝海舟の建議による大阪湾砲台群の一つ、西宮砲台、和田岬砲台、今津砲台が同時期の文久3年(1863年)建設開始、対岸の淡路島徳島藩松帆砲台と連携構想だったのでしょうか?

 この後は播磨船上城に向かいます。
  
  

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todo94

【城びと未登録】朝倉比丘尼城(兵庫県養父市) (2023/11/23 訪問)

グーグルマップにも載っていて気になっていたのですが、現地にて登城口の表示を発見したので、朝倉城攻城前に立ち寄っていきました。朝倉比丘尼城から見る朝倉城の遠景、朝倉城から見る朝倉比丘尼城の遠景、共に良かったのでセットで訪れて正解だったなと感じました。

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BUGTI

南ヤマシロ最大級の山城 (2023/12/09 訪問)

それほど名が知られている城ではないが、行ってみたら遺構の残り具合は良いし、城域も広くて驚きました。大手道から登ると数本の竪堀がはっきりと残り、各尾根には段になった曲輪がたくさん作られています。主郭の東西それぞれには櫓台と呼ばれる土塁の高まりが残り、堀切や土橋といった山城の遺構もみごとです。畝状竪堀もあちこちに残っており、見どころは十分です。なによりも地元の「守る会」の皆さんの活動により、城址が整備されていることがありがたいです。本当に感謝しかありません。

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くうくう

岩盤を掘り切った二重堀切など見応えある遺構が満載

天正16年(1588)新宮城主堀内氏善により築城された。北山一揆に対応したものらしいが、詳細はよくわからない。標高は74mしかないが急登坂で落差感のある曲輪配置に感じられた。まさに別名でいうような要害山だ。主郭は30m四方で、主郭北西尾根に岩盤を掘り切った二重堀切、竪石塁、そして畝状竪堀。東の先端にも畝状竪堀。3郭の北側をはじめ要所要所には石積がみられる。
以前訪れた時は薮に覆われ大した城ではない印象を持っていたが、木々の伐採や草刈りがされた情報を聞き再訪した。見違えるようだ。是非縄張図を持って遺構を味わってほしい。

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くうくう

山城人気に沸く魅力的な石垣の山城

豊臣秀長家臣藤堂高虎が北山一揆鎮圧の拠点として天正17年(1589)頃築城した。三方尾根に曲輪が伸びる中世山城的(北郭の奥には土の城の堀切がある)な縄張に野面ではあるが高石垣や桝形虎口がある総石垣的な造りは見応えがある。中世から近世への過渡期の城だろう。元和元年(1615)一国一城令により廃城。大都市から離れた交通が不便な山間のためか遺構がよく残っている。国史跡。

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いんげん丸虫

浜城 (はまん)  愛知県設楽町 (2023/11/25 訪問)

寺脇城の詰め城とされる標高881mの山城です。
寺脇城に登り口の標柱がありますが、その後の
看板、案内は無く、健脚の方でないとキツイかも
しれません。スマホで位置確認をして、帰り路に
迷わないように何かマークをしていたほうが良い
ですね。
35x11mの主郭に帯曲輪がまわり、北方に2つ
堀切があるだけの簡素な城ですが、だれも来ないよ
うな高所にひっそりとある孤高の雰囲気があり
個人的には好きな城跡でした。

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李牧

アクセス (2023/12/11 訪問)

高山公民館向かいの道に入る→道なりに進むと西方寺→その脇の道(画像)を少し行くと路肩に高山城跡の案内板が見られます。
なお少し先の高山右近生誕地の石碑下に1台分ぐらいですが駐車スペースあり。

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ランフランコ

#30 鷹城 (2023/12/10 訪問)

晴天に恵まれ最高でした。
畳の部屋もあり珍しいな感じました。

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いんげん丸虫

寺脇城 愛知県設楽町 (2023/11/25 訪問)

比高20mで訪れやすく、看板、駐車場所もあります。
横堀、堀切、虎口、大きな土塁と遺構がしっかりと
残っていて見応えあります。
100m四方のコンパクトな城跡です。雑草等少なく
整備されてるので夏でも訪城出来そうですね。
お薦めです。

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カズサン

勝海舟建議による西宮砲台 (2023/11/27 訪問)

 以前より探訪したかった、海軍奉行勝海舟の建議による大阪湾海防施設なる円形石造砲台の西宮砲台を初登城しました。
 同類の砲台は和田岬砲台が在りますが現在特別公開日のみ見学可能で内部のみ撮影可能、三菱重工、三菱電機の工場内です、同建議にはほかに今津砲台、舞子砲台があり同時に幕末文久3年(1863年)建設開始されました。

 最寄駅:阪神電鉄香櫨園駅、より約1.2km程、徒歩20~30分。
 駐車場:御前浜駐車場(有料)、御前浜公園にトイレ有、夙川オアシスロード途中にもトイレ有。
 参考資料:城郭放浪記さん、ウィキペディア、グーグルマップ、城びとに依ります。

 前日は大阪で中学卒業60年の関西地区在住者主体の同級会が3年振りに有り参加し梅田泊り、阪神梅田駅から乗車し西宮の西隣、香櫨園駅下車、南口より夙川沿いの夙川オアシスロードを約1km程南下、丁度桜が紅葉で桜もみじトンネルを通り、嬉しいプレゼントでした南端で御前浜公園の浜に出て約200m程東行すると円形の堡塔が目に入って来ます。
 
 西宮砲台は円形の石造砲塔石堡塔です、外壁には白漆喰仕上げ、11個の砲眼と1個の窓が2層目に並んでいます、外周にはフェンスが廻らされて近づく事は出来ません、フェンス外からの見学、砂浜に松の杭を1000本以上打ち込んで基礎固めし花崗岩の円形石組堡塔を築いた。
 実戦は無かったそうですが、試射で内部に砲煙が充満し実用向きで無かったと有ります、内部木造部の消失、台風被害の修復されて現在に至ります、阪神電鉄が所有して居るようです。現在公開無しで外部からの見学と成ります。
 
 終わって来た道を戻り夙川沿いのオアシスロードの桜もみじを再度楽しみ目出てゆっくりと歩き香櫨園駅へ、夙川の水も奇麗、多くの散策者で歩行者専用道路でした。
 満足と歩行疲れの西宮砲台探訪でした。

 次は舞子台場に向かいます。
 
 

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ぴーかる

秋津城 (2023/11/19 訪問)

【秋津城】
<駐車場他>北東側の「墓地のトイレ」がある墓地の駐車場を利用しました。
<交通手段>車

<見所>堀切・曲輪
<感想>秋津城の秋津氏は朝廷に奉仕し淳和天皇の代(823~833年)の時に吉野郡に封じられます。南北朝時代には南朝方に属して戦います。永禄2年(1559年)に戦いによって落城したようです。
 東側からのルートは墓地の最上まで行くと主郭か堀切を挟んだ北の広い削平地に入り込めます。主郭の方は墓地があります。主郭南に3~4段段曲輪があり土居がある曲輪もあります。主郭の北側に大堀切がありその北側は広い削平地になっていて土塁遺構が見られます。更に北に進んで竹林の方まで行くと竹林も段になっており、曲輪段かと思われます。最北は藪化していますが最北の東側に5~6mくらいの切岸とアーチ状に削った遺構があり下に曲輪が見えます。虎口または駒返しの遺構かと思います。

<満足度>◆◆◇

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キンヤ

信長時代の復元された主郭石垣 (2023/12/03 訪問)

永禄6年(1563)、織田信長が美濃攻めの拠点として築城し、その後、天正12年(1584)、小牧長久手の戦いでは織田信雄・徳川家康の陣城となりました。
山の中腹と山麓の堀・土塁・虎口は家康による改修とされてますが、山頂の主郭の石垣は発掘調査から信長が築いたもので、周囲に2〜3段の石垣を巡らせた城であったことが分かったそうです。

主郭石垣が5カ年計画の復元工事中で、今は令和3年度に復元された5工区の北側、令和4年度に復元された1工区の北西側が見学できます。

まず北西側に到着すると、石垣が3段あり、1段目(上段)は荒々しい大きな石を使っていて、張り出した所の石垣が一番高いです。
2010年と2016年に行った時から北西側には、巨石のためか元々露出していたり、発掘調査で出ていたと思われる石垣が3ヶ所で見られました。
ご参考に同じようなアングルの2016年に行った時の写真も添付します。
復元は、その3ヶ所の石垣や最近の発掘調査で出てきた本物の石の間に新たに石を詰めたり、上に積み増しされているようです。

北西側から北側にかけての城道には玉石敷と石枡の遺構も整備されています。

北側は、以前行った時に石垣は見られなかった所ですが、発掘調査で確認された石垣を基に復元されているようです。

信長時代の野面積石垣が良く再現され、素晴らしい復元だと思います。

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くうくう

堀江郷を支配した中世領主堀江さまの番田館

長禄年間(1457-60)堀江景経が館を築いた。景経は鎮守府将軍藤原利仁の後裔で河合斎藤氏の系統、郷名を以て性とし始祖となる。堀江氏は後に朝倉氏に属し坂井郡一帯(堀江郷)に勢力を張った。番田館には石碑、説明、祠などがあるが遺構は残ってない。後に下番館(本荘小学校あたり)に移る。

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くうくう

鳥越城の出城ともいわれる一向一揆の山城

朝倉氏の加賀侵攻、朝倉宗滴の攻撃に対して享禄年間(1528-32)一向一揆の宗徒が築城。城主は沢米左衛門。その後、織田氏の加賀侵攻で落城、最前線基地として改修された。平虎口であるが屈曲し横矢できる桝形空間がある。
三坂越えの街道を見下ろす位置ではあるが、実際は山の奥。登城も緩やかだか長い距離の山道を歩く(約1.6km、比高226m)。攻撃的なというより守備的、立て籠もり用の城砦に感じた。

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朝田 辰兵衛

私の兵糧丸

考えた結果,登山用の帽子と熊スズをアップします。それから,登城にかかわらず常備しているキシリトールタブレット(ミント味)も。
虫よけスプレーの成分は,ほぼほぼの虫が嫌うミント成分がメインとどこかで知識を得ました。登城時はキシリトールタブレット(ミント味)をダブルで口に含みます。息が荒くなればなるほど,ミント成分を身にまとうことになります。

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