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赤い城

我等の松山〜♪ (2024/01/16 訪問)

前夜に続き、この日は朝駆けで登城しました。
まだ夜明け前、東雲神社より登ります。
少しずつ明るくなっていく中、高い石垣やその上に建つ櫓を見上げながら歩きました。
この時間でも地元の方が登城されています。
毎日の日課で城攻めなんてなんて贅沢、羨ましい!
戸無門から隠門を経て本丸に向かいました。
天守の周りを一周して降りようとした頃がちょうど日の出の時間。
残念ながら雲がかかっていて綺麗な日の出は拝めませんでした。
下りは県庁方面に。
昨夜は暗くて見れなかった南側の登り石垣もしっかり見学できました。

この後仕事を終え帰りの電車はアンパンマン列車。
カープファンの私としては松山とアンパンマンが重なってちょっと嬉しい感じでした。

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カズサン

【遠江相良氏館】静岡県牧之原市 相良氏発祥の地 (2024/01/30 訪問)

 住所:静岡県牧之原市大沢214-1
 駐車場:同上地(34°41'23"N 138°11'56"E)グラウンド・野球場の南前に広いジャリ駐車場利用、バックネット裏側にトイレ有。

 相良城の仙台河岸より萩間川に架かる湊橋を渡り300m程道なりに住宅街を進むとグラウンド・野球場に当たります。
 グラウンド入口より北東に約50m程の所にグーグルマップの史跡マーク相良氏館跡に当たる標柱が在ります。
 グラウンド入口よりやや微高地の処にポツンと白い標柱が立っており、相良氏館跡の文字が見ます。

 歴史は標柱によると。
 天永3年(1112年)工藤周頼が相良庄に住み、はじめて相良氏を称しました。以来、長瀬まで5代82年間ここ中島を相良館としました。したがって、この地が相良氏発祥の地であります。
 九州相良氏初代長瀬が相良庄から肥後・人吉城に入ったのは、鎌倉時代の建久9年(1198年)12月31日で、今からちょうど800年前に当たります。(平成10年12月31日牧之原市教育委員会書)

 私の毎朝の日課は城びと、城郭放浪さんのブログを開く処から始まります、今年1月は城郭放浪さんが遠江、三河を巡って居り、新しく相良氏館が写真館に登録され、初めて相良氏館を認識し、今回の2025年大河ドラマで田沼意次候出演の相良城は如何にと訪ね、萩間川挟んで300~400m程でしたので寄った次第です。標柱と周辺に萩間川沿いの葦の原を見るだけですが九州相良につながる相良氏発祥の地を探訪するのも良いものです。
 
 

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にのまる

いつもたのしい。 (2023/11/25 訪問)

午前中に新宿で知人と用事を済ませたあと、まだ時間もあるし……ということで江戸城に繰り出しました。
東京駅から和田倉門経由で大手門へ。
開館記念展開催中の三の丸尚蔵館へ行ってみると長蛇の列。係の方に何分待ちかうかがうと、日時指定の予約制かつ有料とのこと。当日券もありませんでした。
連れに「タダだよー」と大ボラを吹いてしまっていて平謝りです。
ですがやはり気になって検索してみたところ、以前(旧館時代)は無料でしたが、この秋の新館オープン後から事前予約制になり、一般料金は1,000円に設定されていました。同時に宮内庁の管轄でもなくなったようです。
実は入館の目的はもしかしたら館内からしか見えない石垣があるのではないか?という疑問を確かめることにあったのできちんと予約して改めて来なきゃなーと思っていたら、隣接する取り壊した旧館跡のゲートが開いてトラックが出てきました。
おーっ!石垣見える!!奥に見えた打込接布積みは二の丸庭園の端の部分。ここには新棟が建つそうなので今しか見られない貴重な石垣だっ!と写真撮りまくりました。

それにしても人が多いなぁと思ったらこの日は秋の乾通り一般公開の初日でした。
それならばと坂下門に向かいます。
人が多いといっても、もう以前ほどの大行列はできておらず、皇居前広場が人で埋めつくされるということもありません。
富士見櫓、富士見多聞、道灌堀と楽しみながら乾門へ。
前回来たときは西桔橋門が閉まっているのも写真に人が写り込まなくてよいなと思ったのですが、今回も閉まっていて天守台方面へ抜けられず。すてきな野面積みに近づけないのは少し残念で、これから先もうずっと通れない?のだとすると寂しい気もします。

乾門から退出後、北桔橋門から東御苑に入って、天守台、天守模型、台所前三重櫓跡展望台、汐見坂、富士見櫓と歩きまわりました。果樹古品種園にはたくさんの柑橘が実っていてとってもおいしそうでした!三つの番所をチェックして再び大手門に戻り終了。
ちょっと行くだけのつもりが2時間強の滞在となり、やっぱり江戸城は最高のテーマパークだ!と思いました。

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しんちゃん

趣向を凝らした石垣は見る者の目を楽しませてくれる。 (2024/01/03 訪問)

吉川元春館は元春公が天正10年に元長に家督を譲った後に隠居した館とされています。志路原川によって削られた河岸段丘の地形を利用して築かれており、東から北側にかけて見事な石垣が築かれています。東に大きな門跡があり巨石(鏡石)が両側に配されています。東側の石垣の各所に一定の区間を置いて巨石が配され一種の芸術性すら感じます。居館内には庭園も造られ、戦国期とはいえ堅実さだけでなく優雅さを兼ね備えた見事な居館跡だと感じました。

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小城小次郎

公園外周に点在するマニアスポット (2023/05/04 訪問)

西側にはひっそりと存在する坂下門跡を示す石製モニュメントが、南側には城内唯一の現存建造物である彦御蔵(ひこおくら)という蔵があったりと、公園化された城域の外周部にはマニアスポットが点在している。

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チェブ

日本の歴史公園100選。 (2024/01/03 訪問)

江戸時代の旗本、徳山氏の「更木陣屋」は住宅街にありました。

道路から曲がると石畳になっています。駐車場のようには見えませんでしたが、1台 車が停まっていたので、習って木と木の間に縦に駐車しました。

復元された門があり、こちらには『徳山陣屋』と立派な標札。風格が漂います。
お邪魔すると右手に池があり、綺麗な公園です。
奥に説明板が見えたので歩けば、建物の配置が分かりやすく整備されてました。
発掘調査を元に整備されたそうで、想像すれば陣屋の中にいるようで公園の見え方も変わってきました。
低くなってしまった土塁と、整備された部分。
とても、いい感じです。

後に「更木陣屋」を調べてみたら『日本の歴史公園100選』に選出されているそうです。
因みに『岐阜公園』や『大垣公園』も選ばれてました。
駐車した場所の木は、コヒガンザクラと言って桜のアーチになるんだとか。桜の時期の写真も、素敵でした。
帰りに、ワンちゃんのお散歩をしてる方が会釈して下さいました。
こんな小さな事もプラスして、好印象になった「更木陣屋」です。

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カズサン

2025年大河ドラマに田沼意次候出演 (2024/01/30 訪問)

 来年2025年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺」に主演:横浜流星の蔦屋重三郎、絡むように大物俳優渡辺謙の田沼意次が出演が決まり、年明けの1月30日相良城、相良庁舎周辺の幟旗の賑わいは如何にと3年振りに登城しましたが賑わい幟旗は無く静かな佇まい、唯一相良小学校150年の幟旗はそこかしこ。

 駐車場:牧之原市相良庁舎駐車場を利用。

 賑わっているだろうと思って行きましたが少しがっかり、牧之原市史料館に入り事務所の方にお聞きしましたが、まだ特に動きは無く協議をしてる様?の感じを受けました、史料館一階の階段上がりには「田沼意次候を大河ドラマに!」の看板が掲げられており、決定大河ドラマ感は無し。
 時間経過と供に田沼意次候大河ドラマ感が高揚してくるのでしょうか?・・時間待ちです。

 そんなわけでサラッと相良城を見て回りました。
 二の丸土塁上の松と土塁の表、裏、角の腰巻石垣、三重櫓台石垣を探すも見つからず、特に案内も無い、3年前に除幕した田沼意次候像と対面、仙台河岸の石垣観察、萩間川と架かる湊橋、下流の相良港方向を遠望して終了としました。
 

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イオ

連戦連敗… (2023/11/25 訪問)

平須賀城で無念の撤退をし、うめ振興館に立ち寄ってもまだ時間があったので、軽く下調べしてあった赤松城に行くことにしました。下調べによれば赤松城へのルートは2つ。北西のおたき瀧法寺からのルートは藪を突破して尾根まで直登し、尾根筋に出ても分岐が多くて迷いやすい上に距離もある…と大変そうなので、「戦国和歌山の群雄と城館」で案内されていた南麓の苗代川池からのルートでの登城です。

県道202号線から分岐に入り、工場を過ぎたあたりから道幅は狭くなります。案内には「道幅は狭く駐車可能な場所は少ないので、早めに駐車すべき」とありましたが、道沿いの畑で農作業をしている方もいたので邪魔になりそうなところには駐められず、そうこうするうちに山中に入って道幅はさらに狭くなり、先にも駐車できそうな場所は見えません。このまま進むのはマズいのでは…と思ってバックで畑まで引き返そうとするも、カーブして小川を渡る橋の縁石に乗り上げて脱輪(あわや小川に転落)しそうになり、恐ろしくてもう後退もできません。さりとてこれ以上車で進むのも怖いので、車を降りて徒歩で前方の偵察に向かうと、もうしばらく行ったところにどうにか転回できそうな箇所がありました。助かった…。今にしてみれば、転回スペースにひとまず車を駐めて、その先に駐車できそうな場所があるかどうか徒歩で確認しておけば良かったと思いますが、あの時は脱輪しかけて半ばパニック状態になり、一刻も早くこの地から脱出したいという心境だったので…。平須賀城に続いての連戦連敗にも、当面は再挑戦の意欲が湧かないほどの惨敗ぶりでした。

…ということで、赤松城の最初の投稿がこんなぐだぐだな内容で申し訳ありませんが、苗代川池からのルートで登城される場合は、道幅の狭さと駐車場所にはくれぐれもご注意下さい。
 

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todo94

お城EXPO城登城前の朝駆け (2023/12/17 訪問)

お城EXPO参陣前、朝駆けにて攻城してまいりました。攻城といっても横浜市立太田小学校前に行っただけです。にのまるさんに倣って太田小学校向かいの三春台第二公園からの眺望は楽しんでまいりました。ここからパシフィコ横浜まで徒歩にて一気にアプローチしました。

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しんちゃん

結果的にラーメンを食べに来たような‥ (2019/08/04 訪問)

長岡城は簡略して言うと元和3年(1618)に堀直寄により着工され、牧野忠成が6万4千石で入り工事を完成させたとあります。西を大手、東を搦手とし本丸は中央東寄りに築かれていたようです。東西に二の丸と詰の丸、北側に堀を介して東西に伸びる三の丸が配されていたそうです。かつての本丸は市街地に埋まれ、本丸の東側に長岡駅が建てられています。本丸の遺構は全く残っていませんが、駅の近くを歩いていると美味しそうなラーメンの看板が出ていたのでそれに釣られてご入店と相成りました。結果的にラーメンを食べに来たような形になりましたが美味しかったので良しとします。

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ぴーかる

マイベストなら

今回、城びとの奈良県をコンプリートしまして、奈良県の百・続百名城以外の城びと城マイベスト10を作成してみました。私的好みで上位が山城ばかりになってしまいました。

1位[龍王山城]
ぶっちぎりの1位、南城と北城の2城分楽しめ、全て巡るのに半日以上はかかります。特に北城は様々な遺構と残る石積み、広大な城域、なんといっても高低差のある城跡散策の楽しさがたまらない。駐車場もトイレも完備しているので兵糧を持参して攻めよう!
同率2位[椿尾上城]
竪堀・堀切・横堀と所々に残る石積みを探す楽しさ、城内は整備されてくっきり残る曲輪の形、私好みの山城石積みも多く残っています。
同率2位[佐味城]
2024/3/9に完全コンプリート。緩斜地に方形区画された曲輪群と深い堀切が大見応え。皆様の助けにより攻め城できました。
3位[信貴山城]
松永屋敷跡・立入屋敷跡の広大な曲輪群は圧巻です。朝護孫子寺からの登り口からずっと歩いて高安城跡まで城感を楽しめます。登山・散策が楽しい。
同率4位
[小川城]
オーソドックスな連郭の山城跡ですが、曲輪・堀・堀切がくっきり残っているのがとてもいい。
[豊田城]
山城ながら堀に特化した城跡。深い横堀で横堀の端から竪堀として谷に落とし込む技巧的な城跡です。
6位[石打城]
甲賀・伊賀地方特有の主郭高土塁が見所です。奈良県の城びと登録のある城でこの特徴が見られる城跡は石打城だけかもしれません。しかも単郭ではなく広い複数の曲輪を備えています。
7位[笠間城]
主要部が高い切岸で囲み下から見上げると圧巻です。主郭部分に櫓台とスロープ状の遺構が明瞭に残っています。主郭を取り巻く横堀は通路だったか堀だったか当時の様子の想像が膨らみます。
同率8位3城
[赤埴上城]
主郭と主郭虎口、水堀が明瞭に残っています。主郭以外の平坦地が当時どんなだったかを考察しながら散策する楽しさがある。
[今井環濠]
遺構がよく残っているので当時の寺内町がこういう風になっていたかが分かって、勉強になった場所。伝建地区で重要文化財の住宅があり、まちなみ散策が楽しい。
[稗田環濠]
幅のある堀が多く残り現在でも周囲の田んぼから独立した自治集落だった様子がよく分かります。稗田阿礼出身地でさすが古都奈良歴史が半端ない。

訂正:わたくしのマイベストおおさかで高安城10位にしていましたが、今回再確認すると城びとでは奈良県生駒郡になっていました。結果に大きな変動はないのでこのままにします。

つぶやき①:城びとの城跡巡りをしていて、後勉強にはなっていましたが、中世城跡の多くが城主・築城者が興福寺の衆徒というの多かった。加賀国が「百姓の持ちたる国」ならば大和国は「興福寺の持ちたる国」だった。興福寺の権力が衰えると、その衆徒である有力豪族の古市氏・十市氏、筒井氏、豊田氏・箸尾氏が権力を争い、大和平野の南の越智氏も加わって、戦国時代、一国の中でかなり争乱している国でしょう。この争乱の国で三好長慶の後ろ盾はあるが松永久秀が台頭してくるというのは本当にすごい事で、まさに下剋上で上がってきた大人物(善行、悪行は別として)と思う。

つぶやき②:何十年も前から古寺に自家用車で観光に行くたびに、大通り以外の道が狭く、対向車とのすれ違いが来たらこわい県(地元の方がすごいスピードで来る)でした。また大通りや国道はいつも渋滞しています。城びとの城巡りをするようになって、奈良によく行くようになっても、あまり状況は変わっていませんでした。十分ご注意を。奈良にうまいものなしとよく言いますが、彩華ラーメン旨いです。

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黒田官兵衛 (2024/02/01 訪問)

 羽柴秀吉に姫路城を譲った黒田官兵衛と父・黒田職隆が入城した城です。
荒神社から登城路が整備されています。概ね歩きやすく頂上周辺を矢印の標識に従ってぐるりと歩くコースができていました。登城口にある「妻鹿 国府山城跡 平面図」を見ると空堀、縦堀、石垣跡などの表記がありますが、よくわかりません。石垣跡らしい場所はありましたが、遺構かどうか判断できません。
 主郭からは姫路城天守閣を観ることができます。

山陽電鉄本線妻鹿駅より徒歩10分くらいで登城口である荒神社に行くことができます。

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高砂神社 (2024/02/01 訪問)

 高砂神社周辺が城址とのことです。遺構はないようです。石碑を見逃しました。

 山陽電鉄本線高砂駅から徒歩にて登城しました。15分くらいで行くことができます。

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西小天守 冬の特別公開 (2024/02/01 訪問)

 1年と少しぶりに登城しました。「西小天守 冬の特別公開」が今日から始まり行って来ました。何回か登城していますが、西小天守に入るのは初めてです。
この城は見どころ満載で、気が付くと半日以上経ってしまったこともあります。今回は主要な所だけを散策してきました。白鷺城といわれているように白壁の美しい城ですが、登城したときは曇り空で写真を撮影してもバックが雲だと今一つ映えませんね。姫路城には青空が似合う気がします。

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カズサン

【遠江撰要寺砦】静岡県掛川市 横須賀城前の陣城・移築山門の撰要寺 (2024/01/30 訪問)

 撰要寺由来と余湖図コレクションさんの撰要寺砦によると大須賀康高が家康の命により武田勢の高天神城を攻略で横須賀城を築城完成するまで撰要寺に布陣して陣城としていた様子、横須賀城は天正6年(1578年)築城開始し天正8年(1580年)に完成し移り初代城主へ、2年程陣城として使用していたのか?。

 住所:静岡県掛川市山崎1302-1
 駐車場:横須賀城西の丸西下駐車場、トイレ完備、徒歩で西行300~400m程北行100程で山門、山門下西の歩道に広い所があり1台路駐可?。

 南西面の2段丸石垣と参道と参道石垣、山門は城構え其の物である、山門下に横須賀城不開門の標柱が在る、山門は横須賀城不開門を移築したもの立派な松材で門扉は透かし扉。
 撰要寺は天正9年(1581年)大須賀康高による創建で菩提寺、歴代城主菩提寺とし厚く敬われていた。
 大須賀康高、忠政の墓は立派な宝篋印塔墓で石柱列と石扉で囲まれて並び立っている。
 由来板には、「観光の寺ではありません、皆さん手を合わせお参り致しましょう」と注意書きされて居ましたので、奥には踏み込みを遠慮して手前と歴代住職の墓、墓場を遠望するのみにしました。西側の墓場は多段曲輪だったかもしれない?

 西側の田圃はその当時入り江に成っており、磐田今之浦から馬伏塚城、岡崎城の兵站基地経由して潟湖の水運を経て撰要寺砦で兵糧の集積し高天神城攻防の要に成っていた。

 撰要寺砦の北に水堀が残って居る、しかし矢竹が茂り、樹木も茂り見学しにくいですが確認する事は出来る、西側の堀は埋められて道路に成っている、入江は宝永の地震(1707年)で隆起し消滅した。
 

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しんちゃん

扇形の美しい台場跡 (2018/01/05 訪問)

須崎台場は土佐藩砲台跡とも呼ばれ、国の史跡に認定されています。文久3年(1863)7月に着工し、わずか一か月半の短期で完成したそうです。石垣を土台に使用した扇形の美しい砲台で7門の砲台を備えています。
黒船の大砲で砲撃されると石垣が四散して将兵を傷つけてしまうと思うのですが、当時の武士階級の石垣への信頼は絶大だったようです。おかげで今でも美しい砲台の跡を鑑賞することが出来るのですが、実戦に使われなくて良かった。
案内板(陶器のパネル)によると慶応3年(1867)8月6日、イギリス水夫殺害事件で公使パークスは土佐藩と交渉するために軍艦バジリスク号で須崎港に入港し、幕府艦回転丸や坂本龍馬も来港して外交交渉の舞台となったそうです。

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しんちゃん

かつての模擬天守の雄姿!(なんだかな) (2018/01/04 訪問)

日和佐城は謎の多い城で室町時代に日和佐肥前守が築いたとされているようです。入館無料の模擬天守が建っていて、地元の方にもいろいろと活用されていたようです。郷土資料館のような展示が有ったり、休憩所に謎の壺があったり展望台からは周囲が良く眺望できたようです。今は長らく休館中のようですが、この写真では絶賛会館中です。なぜなら写真が古いからです。(石つぶてを投げないで下さい)

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しんちゃん

上杉景虎ここに散る。 (2019/08/13 訪問)

鮫ヶ尾城は標高187mの城山に築かれていました。御館の乱で敗れた上杉景虎が自害した城として知られ、城内の井戸の近くで自害したと伝わっています。本丸の西手に二の丸、三の丸が配され東西南の尾根上にも幾つも曲輪が配され堀切も多く見られます。
この日の登城コースは総合案内所のある東側から登城し、東一ノ曲輪や堀切を通過して本丸にたどり着きました。その後は北の米蔵や二の丸、三の丸を散策して下山しました。
御館の乱では当初は景虎側に付く武将も多かったのですが御館に放火されてからは脱走する将兵が相次ぎ、和議に向かおうとした前関東管領・上杉憲政は景虎の長子道満丸ともども四ツ谷砦で殺害されてしまったそうです。景虎は兄・北条氏政の下へ逃亡を試みるも鮫ヶ尾城主・堀江氏の裏切りと上杉景勝の追手の勢いに耐えられず城中で自害して果てたそうです。まだ26歳と若くイケメン武将だったともっぱらの評判ですが残念な話ですね。

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イオ

敗残兵とうめ振興館 (2023/11/25 訪問)

国道424号線から分岐に入って南部川を渡り、梅林の間を進んだ先に平須賀城跡の案内表示があります。その手前の道が広くなったところに路駐して登城開始。川沿いに7分ほど歩くと平須賀城跡登り口の案内表示があり、そこから山に入って行きます。登り始めてすぐに右手に電気柵が現れ、左手は斜面のはずですが、シダが登城道にせり出してきていて地面がよく見えません。それでもなお進むとシダだけでなくトゲトゲの木(タラノキ?)が行く手を阻み、さらにはシダをかきわける腕にイバラが絡みつき、トゲで顔にひっかき傷を付けたところでやむなく撤退。感電もトゲトゲも嫌ですが、左手が斜面だけにシダで足元が見えずに滑落するのが一番困りますので…。

和歌山県内でも一、二を争う規模の山城ということで、この日のメインに据えていただけに残念無念。todo94さんやキンヤさんの登城時には下草は定期的に刈られていたようですが、私のタイミングが悪かっただけなのか、ここ数年は放置されてしまっているのか、いずれにせよ藪に敗れたままでは終われないので、また機会を見て再挑戦したいと思います。

…で、思いがけず時間も余ってしまいましたし、このまま帰るのも癪なので、平須賀城に関する展示があるという道の駅みなべうめ振興館に立ち寄りました。うめ振興館の名の通り、梅に関するさまざまな展示のある2階の梅資料ゾーンがメインですが、1階の歴史ゾーンでは古代から近代にいたるみなべ町の歴史が紹介されていて、平須賀城のジオラマや発掘調査での出土品、周辺の中世山城の説明パネルなどが展示されています。ジオラマを見ていると、いつか必ず現地で見てやる…と敗残兵の闘志がかき立てられました。また、うめ振興館らしく「戦と梅干丸」「武士と梅干」など梅にちなんだコラムもありました。そして、3階の物販コーナーでお土産(もちろん南高梅)を買い、屋上展望所からの南部川を見渡して、うめ振興館を後にしました。
 

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カズサン

櫓門南前面が整地化されスッキリ (2024/01/30 訪問)

 松尾山北、東の大空堀を堪能した後、西の丸下の駐車場に戻り、大空堀投稿の写真に花を添えようと横須賀城の見所である玉石垣の本丸南下櫓門周辺玉石垣を撮影しようと本丸下枡形によると、何か明るいスッキリしたなと感じると、なんと三日月池が見通せて、旧道の両脇に在った建物が取り払われて整地されていた、中土居道である県道41号線まで見通せて南側外堀跡まで整地されている。
 整地後はガイダンス施設か?大型観光バス駐車場か?期待される施設で有ればいいのですが?。

 整地された所より櫓門跡、本丸、西の丸南側の玉石垣を正面より撮影、以前は斜めに撮るしか無かった玉石垣を真正面から撮影する事が出来ました。
 後はサラッと本丸南前面の玉石垣壁、東虎口から本丸、発掘整備された天守台、立体模型、最後の城主西尾子爵による横須賀城址碑、西の丸、本丸石段上部と西の丸石段上部から建物が取り払われて整地に成った所を撮影し見下ろす。

 駐車場からまだ確認して居なかった二の丸北西角の不開門跡、と西側外堀の確認、現在はコンクリートの水路と埋め立て地と成っています。駐車場から西へ約300~400m程の所に標柱が有ります。

 この後は不開門が移築されてる撰要寺・撰要寺砦を探訪見学しました。
 

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