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しんちゃん

調査捕鯨開始! (2024/02/23 訪問)

櫛羅と書いてクジラと読みます。櫛羅陣屋は櫛羅藩(クジラはん)の陣屋なんですね。ネーミングが最高です。クジラの竜田揚げ旨いですよね~。さあクジラ狩りとしゃれむか! 緑豆が現れたらカニ玉に放り込んでやりましょう。
‥櫛羅陣屋跡地は私有地で入れません。ズン‥。
でも移築された遺構が残っています。櫛羅の民家に南門が移築されているんですね。気まずそうにうろついていたら、親切に案内してくれました。有難うございます~。
御所市の楢原にある浄土宗九品寺には御殿の玄関が移築されていました。本堂の横にちょこんと収まってる感じが良いですね。福眼でございました。ごきげんよう。

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朝田 辰兵衛

小沢城 to 小沢城 (2024/04/28 訪問)

「小沢城 to 小沢城」神奈川県内でこんなアソビができます。しりとりリレーと呼ばないでネ。
愛川町の小沢城は「かなちゅう」頼み。橋本駅南口から出発。時間帯とルートにより効率的なバス停をチョイスした方がいいです。最寄りは,小沢バス停。ですが,乗り換えを要します…。なので私は,相模川対岸の,高田橋入口バス停から徒歩で攻城しました。全然気にならない距離です。渡船場跡は見落としがちだと思います。

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しんちゃん

周囲に比べ微高地にある陶昌院が城址 (2024/04/13 訪問)

戦国時代、尾張二宮の祠官・重松秀村の三男落合勝正によって築かれたとされています。勝正の子・安親と孫の庄九郎は小牧長久手の戦いの時に、池田恒興父子および森長可が家康の本拠・三河に中入りを仕掛けようとした際に先達の役割を果たしたとされます。結果はご周知の通り惨敗で上末城も後に廃城になったとのこと。竹藪の中に8mほどの堀が残っているようですが未確認です。
城址は陶昌院の周辺とされ、境内に落合安親の墓が残っています。

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しんちゃん

タケノコ兵が道を塞ぐ。 (2024/04/13 訪問)

西尾式部道永が文安年間(1444~49)に築いたとされています。道永は西尾の出身で、岩倉織田氏に仕えたとのこと。大草城は天文17年(1548)に廃城になったとのことです。白山神社のあるあたりが本丸と見られ、かつては背後(北側)に大堀切が存在したようです。東に向かって道が続き、空堀や土塁が連なりますが案内板とは縄張りが異なる様子。本丸南側の竹藪が三の曲輪と見られ、その先は堀切が周回しているようですが、入れる場所も限られています。尾張の城にしては、比較的城址としての雰囲気を感じとることができました。

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零汰

場所の確定で終わりました (2024/05/22 訪問)

こちらのチャシは頂上ではなく一段下がった中腹の平場がチャシ跡ではないかと思います。

マーカーが低地の場所を指していますがちょっと違うかなと。見あげると平場があり、草の生え方からそこまでのスロープがあるように見受けられました。

こちらは上まで登って確認してくる気が起きなかった場所です。

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零汰

場所の確定で終わりました (2024/05/20 訪問)

自宅が仮に城跡入口に面した場所として、不定期に城訪問で他人が訪れるとなると煩わしいと気が付きました。どおりで素っ気ない、面倒くさそうな対応をされるんだなと。それ以来、訪問自体を諦める事も選択肢に入れるようになりました。

こちらのチャシもそんな場所です。案内板と外観と撮って終わりとしました。

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零汰

場所の確定で終わりました (2024/05/20 訪問)

入口が住宅密集地で地主や住民に断って城跡を見る事の出来る方は流石だと思います。

こちらのチャシは運送会社の駐車場の背後にありました。案内板も同敷地内に設置してあります。建物裏の高低差の低い場所からよじ登れる感じでした。数名の方々がいらしたのですが、声を掛ける気にもなれず場所の写真を撮って終わりとしました。

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みつるん

清洲城 (2024/06/14 訪問)

職場の人達とドライブに出かけました。青空と城が映えていました。

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イタさん

主郭部及び周辺はほぼ学校・住宅地 (2024/06/12 訪問)

七曲坂からスタート。入口右奥にはマンションが建つっているが、七曲殿と言われた館跡になる。以前の写真には坂の先に冠木門が建っているが、今はなく七曲虎口跡だったのか、標示もなかった。武者溜まり址を過ぎ、坂上に出れば先一帯は住宅地。坂上手前には旧道が図に標示されているが、確認しなかった。宅地の間に大手門址の標示がある。門先は高くなり本丸跡だが学校の敷地になる。戻って太鼓櫓址に。曲輪内は3段で奥が高く、櫓があったのだろう。下に平場が見えるが、南に堀切を挟んで硝煙蔵址があるらしいが分からず。櫓址と宅地の先から下りられる道があるが、植木1号市民緑地内の整備のため、柵に鍵が掛けられている。情報不足のためか、多くを観られなかった。帰りに大船観音を参拝(300円)する。

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VagaryBoy

仕事の合間に

電車通りから見た天守閣が印象的でした。

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VagaryBoy

仕事の合間に

広瀬川のほとりも歩いてみました。

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VagaryBoy

仕事の合間に

広瀬川のほとりも歩いてみました。

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VagaryBoy

学校に組み込まれている

情緒がわかないでした。

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VagaryBoy

たまに、トイレをお借りします。

裏の豪徳寺の方が立派ですね。

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VagaryBoy

私と同姓の人が城主

北陸は苦手です。

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カズサン

安倍貞任を偲んで (2024/05/22 訪問)

 青森では安倍氏安藤氏を偲んでの福島城、唐川城、十三湊遺跡の探訪をしましたが平安末期、前九年の役安倍貞任と源義家との抗争、歌合せを偲んで唯一未踏になっていた厨川柵を初探訪しました。弘前から結構遠く約140km程あり途中にはSAで雄大な岩手山を見る事が出来ました。

 駐車場:特に無し、厨川八幡宮の手前参道横の原っぱに路駐(39°43'14"N 141°07'34"E h=150m)
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 厨川八幡宮の地が城びとの厨川柵の指定地、背後は北上川の崖となっているが樹木が茂り良く分からない、県道220号線に出て道沿いに壕が確認できる、同じく道沿いに安倍館遺跡(厨川柵、厨川城跡)の解説板と安倍館遺跡の標柱が在る、そこから50~70m南に進み東の北上川方向へ進むと赤い鳥居の稲荷神社、隣接してこじんまりした宗任貞任神社があります、此処が城郭放浪記さんグーグルマップの厨川柵指定地と成っていますが同じエリアでしょう。
 少し南に安倍館公民館が有りますが公民館の南側は東の北上川に伸びる横堀が確認できます、もう一本安倍館遺跡標柱の処から同じく東に伸びる横堀が在ります。
 神社鳥居の額に宗任・貞任の名が見えますと胸が熱くなります、貞任の思いが後の奥州藤原氏、中世安倍安藤氏へ奥州日之本将軍に、十三湊の繁栄に繋がったのでしょう。

 解説板に依りますと
 発掘調査によると中世工藤氏の居城厨川城跡と確認されている、厨川城は文治5年(1189年)源頼朝の御家人工藤行光が地頭に任じられて以来、天正20年(1590年)廃城に成るまで約400年岩手郡を治める拠点となっていた。今も残る深い堀は工藤時代のもの、と記されていました。
 
 語り継がれた思いを大切に貞任の厨川柵で脳内整理。
  

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VagaryBoy

仕事の空き時間に

大濠公園のほうが記憶に残る。

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VagaryBoy

何度かお伺いしています。

最近は自宅が斜めってます。

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VagaryBoy

仕事の合間に

割とこじんまり

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VagaryBoy

暇なので、散歩しました。

大変疲れました。

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