皆さんの口コミで凄いのは理解していました。が、実際に攻めに行くと圧倒されっぱなしでした。しかも市のチカラの入れようがよく分かる位に案内板の多さ、見やすい様にコマメな手入れ。本気に感謝の気持ちがいっぱいです。
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2024/06/16 11:36
圧倒されました (2024/06/16 訪問)
皆さんの口コミで凄いのは理解していました。が、実際に攻めに行くと圧倒されっぱなしでした。しかも市のチカラの入れようがよく分かる位に案内板の多さ、見やすい様にコマメな手入れ。本気に感謝の気持ちがいっぱいです。
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2024/06/16 10:03
三管領斯波氏の居城 (2024/05/22 訪問)
厨川柵、徳丹城を終えて南に約5km程の城山公園が高水寺城です、国道4号線と北上川に挟まれた独立峰全体が城域に成っています。東北城探訪岩手県3城目初登城。
駐車場:城山公園第一駐車場を利用、トイレ有。主郭周辺に第一、第二、第三、麓登城口に第四駐車場が有ります。
参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
国道4号線城山入口交差点を東入、道なりに進み南、東、北に進むと各曲輪、東側の開けた段曲輪と見る事が出来ます。昼頃到着でしたので、昼休憩か何台か車が駐まって居ました。
駐めた第一駐車場から岩手山を遠望する事が出来ました、1郭の西坂道より内部に進入、広い1郭、北東側に愛宕神社愛の神社が鎮座、桜の大木が周囲を囲っておりさぞ桜の頃は見事な事でしょう、南へ御殿跡の看板が有り、南側に石段の虎口、その下は2曲輪、1郭の南西に石垣の残渣と石垣が一部残ってるが後世の工作物かな?周囲の切岸土塁は素晴らしい、1郭の東に3曲輪、その南に5郭運動公園、1郭の北に4郭、3郭と4郭の東には樹木伐採されて開かれた段郭が良く観える、公園かで各郭は変ったのでしょうが車で1郭まで行ける事は大変ありがたい。終わって北西の駐車場より暫し岩手山を眺める岩手山まで北上川の平野、田圃が広がっており雄大な眺めです。
案内板によると
足利尊氏に任じられて斯波家長が奥州管領へ、斯波氏と言えば三管領の一つ、越後、尾張、遠江などの守護に任じられていますが奥州も抑えていたのですね。時代は流れて戦国期末、三戸南部氏との抗争で没落天正16年(1588年)8月の事。
素晴らしい環境下にあり、市民に愛され活用されてる高水寺城城山公園を益々整備保全される事を願っています。
熊注意の看板は有りませんでした。
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2024/06/16 09:28
夏の散歩 津島(津島湊 津島神社 清正神社 奴野城 赤目城移築門) (2024/06/15 訪問)
「信長の台所」といわれる愛知県の津島市。以前に仕事で一度お邪魔したことはありましたが、散策したことはなくいつかは行きたいと思っていました。津島は中世以来、伊勢と尾張をつなぐ湊として、また、津島牛頭天王社の門前町として繁栄し、「尾張の金銀はすべて津島を通る」と言われていました。
織田家とは強い結びつきのある津島市ですが、加藤清正が幼い日を過ごした地でもあります。
津島湊
若き日の織田信長の経済力の源は津島湊であったことはよく知られています。今は地形が変わってしまいましたが、津島湊は尾張と伊勢を結ぶ河川交通の要衝であり、交易が盛んに行われた商業都市でした。祖父の織田信定のときに津島湊を掌握し、その経済力を背景に父信秀の頃に飛躍的に勢力を伸ばします。信長誕生の地として有力視されいる勝幡城を拠点に織田氏はこの地を治めていました。今は天王川公園となり池などが当時を偲ばせてくれます。
津島神社
「西の八坂神社、東の津島神社」と並び称される天王社の総本社です。津島は津島神社の門前町としてもにぎわっていました。織田家は津島神社を氏神として仰ぎ、造営等にも協力していました。後年、安土城築城の際に、城を提灯でライトアップしたという説があります。この提灯によるライトアップは、津島の天王祭を模したものといわれています。
織田氏以降も武門から篤く尊崇されました。桜門は豊臣秀吉、南門は豊臣秀頼、本殿は松平忠吉により寄進されたものです。
清正神社
加藤清正は、1562年6月24日に今の名古屋市中村区で生まれました。清正が数え3歳のときに父、清忠が亡くなり5歳の時に母・伊都と共に叔父が住んでいた津島市に来ました。清正の叔父の家があったと伝わる地に加藤清正を偲んで明治18年(1885年)社と碑が建てられました。それが清正神社です。深夜に賊が侵入したとき、清正が鬼の面をかぶって賊を撃退したという逸話が残っています。今回は行っていませんが近くには清正が読み書きを習ったという妙延寺があります。
他にも近くには奴野城跡、赤目城の移築門などがあり楽しく散策しました。
奴野城
大橋氏の城と伝わっています。城びとには未登録の城址です。九州の守護大名・肥後入道貞能が、源頼朝から永代退隠領として津島の地をもらい代々、居住したそうです。西台寺付近が城址とされています。遺構はありません。
赤目城移築門
愛知県愛西市にある横井氏の城です。城びとには未登録の城址です。移築門が津島市の蓮台寺にあります。
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2024/06/16 09:12
熱烈なファンの存在に (2024/06/15 訪問)
続日本100名城、最近ハマっている古代山城シリーズという事もあって早く訪れたいと思っていた鞠智城です。
到着してからまずは少し勉強してと思い隣の温故創生館へ行きました。
すると鞠智城のキャラクターころうくんが巡回しているとの案内がありました。
入り口でめちゃくちゃおすすめされたのでとりあえず2階へ。
ま、どういうものなのか見るだけみてと思っておりましたら、2階にはすでにころうくんとそのファンが10人ほどが集まっておりました。
皆様、熱烈なころうくんファン。
この集いを楽しみに鞠智城を訪れているようでした。
集いはころうくんからのジェスチャーのクイズなどがあり、最後はころうくんとの記念撮影でした。
ゆるキャラ?のようなころうくん、かわいいキャラではありましたがまさかこういった集いがある事と熱烈なファンがこの為に来ているという事に驚きでした。
その後、八角鼓楼などを見学して帰りました。
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2024/06/16 03:16
織田信雄 (2024/06/15 訪問)
前にも登城したことはありますが、ぶらりと立ち寄り清州城周囲を散策してきました。清州城の縄張りは天正地震の前と後では大きく変わっているようです。織田信雄は地震の後、五条川の流れを変えて天守を備え、城郭と城下町は幅15~40mの三重の堀で囲まれた城を築きました。東西1.6Km、南北2.8Kmの郭域の中に城下町の機能を備えた総構えとなっていたようです。模擬天守の対岸の清州公園に主郭がありました。
遺構はほとんど残っていません。公園の北側にある御園神明社には清州城の中堀跡があります。また名鉄丸ノ内駅近くには清州城土居跡がありました。グーグルマップを見ると清州城外堀跡、清洲城惣堀跡の表示があります。行ってみましたが、今一つわかりませんでした。歩いてみるとかなり広い城域であったことを実感します。
JR清洲駅から徒歩10分くらいで行くことができます。
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2024/06/16 00:34
2024/06/16 00:22
2024/06/15 23:24
会社が休日なので平日から1泊2日で城攻めしようと思い立った その③新発田城 (2024/06/15 訪問)
会社と労働組合が協定で決めた特別休日に城攻めしようと思い立ち、1泊2日で新潟県北東部&山形県南部の3城を攻めて来ました。
最後は新発田城。城の大部分が陸自の駐屯地になっているため立ち入る事が出来なくなってしまっていて大変残念。特に新発田城のシンボルである三階櫓には近づく事も出来ず水堀を挟んだ対岸から眺めるしかありません。三階櫓付近を境に水堀が塀的なもので仕切られているのですが、そんな塀は本来存在していません。国は文化財を何だと思っているのでしょうか?
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2024/06/15 23:15
会社が休日なので平日から1泊2日で城攻めしようと思い立った その②村上城 (2024/06/14 訪問)
会社と労働組合が協定で決めた特別休日に城攻めしようと思い立ち、1泊2日で新潟県北東部&山形県南部の3城を攻めて来ました。
2城目は村上城。村上駅前で自転車をレンタルし、臥牛山の麓まで自転車で。駐車場の空いたスペースに自転車を停め山登り。覚悟していたとはいえ七曲道はちょっときつかった。休みながら四ツ門跡まで辿り着き、あとはなだらかな道。遺された石垣を堪能しました。
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2024/06/15 23:04
会社が休日なので平日から1泊2日で城攻めしようと思い立った その①鶴ヶ岡城 (2024/06/14 訪問)
会社と労働組合が協定で決めた特別休日に城攻めしようと思い立ち、1泊2日で新潟県北東部&山形県南部の百名城・続百名城を3城攻めて来ました。
1城目は鶴ヶ岡城。マップで見ると城っぽい感じがし(水堀があったり神社の裏手には土塁らしきものや櫓跡があり)多少城っぽい感じがするのですが、ほぼ神社で遺構らしい遺構は見られず残念でした。
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2024/06/15 22:56
四方の門にとても趣があります❗ (2024/05/26 訪問)
現在は鑁阿寺となっている足利氏館。ぐるり水堀と土塁に囲まれている館。こういうお屋敷風のお城は初めてです❗入口は4ヶ所全て歴史を感じさせます。
敷地内のお茶屋さんで名物足利シュウマイ。具は玉ねぎに片栗粉をまぶしたものだけ。肉はありませんが、食感とピリ辛ソースの相性が抜群です‼️ソースをお土産に買って家で作ってみましたが、美味しくできました。
足利学校や森高千里さんの歌でも知られる渡良瀬橋なども徒歩圏内です。織姫神社も近く、もちろん御朱印好きにもお勧め❗
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2024/06/15 22:40
2024/06/15 22:20
2024/06/15 18:35
閑話:石碑タイムアタック大阪 (2024/05/07 訪問)
閑話:消化不良気味のチャシ投稿をサクサク終えたので休憩を兼ねたダイジェスト投稿です
体力を温存して鹿児島から北海道まで行くにはフェリーの乗り継ぎが最適だと思います。志布志~大阪朝9時過ぎ到着、敦賀発23.55発です。悩んだ事は大阪から敦賀までの1日の時間の使い方でした。結局、終日晴れなら生駒スカイラインなど走ってライダーの日にする。雨なら短い距離で山城除いた城跡廻りにする。そして当日朝に決めました。
大阪港についてみると予報は昼から雨予報、迷わず予めグーグルマップにマーカーした遺構の無い、若しくは少ない城跡廻りをしながら敦賀に向かいました。ルートは大阪府内の都合良い高速から降りて下道のみで伏見寺田屋を目指し、そこから滋賀県を抜けて行くルートです。雨が降り始めたら終了のタイムアタック開始。本日は前半の大阪編です。
1.黒丸城①→2.三宅城②→3.沢良宜城③→4.水尾城④→5.日垣城→6.茨木城→7.穂積城→8.郡山城⑤→9.福井城⑥→10.安威城⑦→11.太田城⑧→12.普門寺城→13.芥川城⑨→伏見寺田屋 ①は写真番号
大阪内13か所のうち石碑が9か所ありその他は跡地に神社がある場所です。今回廻った場所は石碑及び案内板が設置されていて自治体の力の入れようが感じられてとても楽しかったです。
正続100城以外でも城を見てみたいけどどこから見たら良いか分からない。時間が取れないけどまずは簡単に廻ってみたい。そんな方々の城跡訪問の方法の一つにも思えました。お住まいの地域からでも試してみてはいかがでしょうか。そして様々な方々が城に関わる些細な投稿でも増えて行くと良いなと思います。
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2024/06/15 18:32
土浦城 (2024/05/20 訪問)
過去に二度ほど訪れた事のあるお城でしたが、続百名城カードが発売になったのでまた行ってみました。家からはさほど遠くはないので、会社を半日休暇頂き電車+バスで攻めて来ました。続百名城カードを売っている場所をゴールに設定して検索したつもりが、(同じ名前の)バス停がゴールになっていたため、やたら遠回りするコミュニティバスに乗ってしまいました。土浦駅から歩けば良かった。。。(帰り道は歩きました)
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2024/06/15 16:34
座光寺城 (2024/04/20 訪問)
【座光寺南城】
<駐車場他>麻績神社駐車場に駐車しました。北の登城口<35.537884, 137.852259>にも1台駐車できます。それぞれの入口に城の冊子が置いてあります。
<交通手段>車
<見所>堀切・土塁・曲輪
<感想>日帰り飯田・伊那地方河岸段丘平山城の旅4城目。現地に置いてある城の冊子を要約すると、座光寺南城(以下南本城)と北東に位置する北本城と合わせて上野城と呼ばれています。上野城の築城主体は在地豪族である座光寺氏といわれています。北本城は伝承では鎌倉前半に築城され、広い丘陵地に曲輪が段状にあったようで、城主・家臣屋敷があったと考えられています。現在は小学校になっています。詰めの城が南本城となっていますが、規模の大きさや縄張りからみて座光寺氏単独で築城したとは考えにくく、大きな勢力の手が加えられているようです。冊子には4つの説が挙げられていますがここでは割愛、私の見た感想では北と南の入口に馬出しを備え、深く複雑な堀の造り、座光寺氏は武田氏が伊那郡に侵攻してから武田氏に仕え、秋山虎繁の配下になっていることから武田氏の助力があったように感じました。
城跡はおおむね南北に広がっていて、中心の主郭のすぐ北側を谷を利用した大堀切で南北に分けています。主郭は南面以外の3方に土塁があり北側に虎口が残っています。主郭から帯・腰曲輪が何重かに取り巻いていて主要部の防備は鉄壁です。主要部の南側に西曲輪と東曲輪が独立していて竪堀・横堀が複雑に入り組んでいて堀底を通る者は惑わされます。主要部の北側は北曲輪群となっていて、北曲輪は主郭程の広さがあります。北曲輪群の東側丘陵地上に巨大 Π状土塁が2連あります。佐久市平賀城で見た遺構とよく似ているので、何の施設か分からないが同じ施設(馬舎かな?)があったと思いました。思いのほか大規模城郭にびっくりしました。堀底を散策する楽しさ、スケールの大きな遺構に大満足しました。
<満足度>◆◆◆
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2024/06/15 11:14
広大な徳丹城初探訪 (2024/05/22 訪問)
厨川柵を終えて南下約12km程、途中に盛岡城がナビに出てチョイ寄りしたい気持ちを抑えて徳丹城跡北西の広い砂利駐車場に駐める。志波城が水害により南東の北上川段丘に遷立徳丹城を造営(弘仁3年812年の頃)、征夷将軍文室綿麻呂(フンヤノワタマロ)によりおよそ1200年前。
駐車場:矢巾町歴史民俗資料館の駐車場(此処がベター)
参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。
徳丹城西側の駐車場に駐めたので、城名石碑、幅広の国史徳丹城跡の地図付きガイドを確認して、あまりにも広い(城域は南北約350m東西約350m)ので散策Mapを求めて、矢巾町歴史民俗資料館へ、前に駐車場、北隣に佐々木家曲家(茅葺)、係りの方に散策ルート、Mapを訪ねましたが親切に教えて頂き且つ沢山資料を頂きました。
本来はゆっくり館内見学、ビデオ視聴、勉強して城域を探訪観察するのがよいのですが、時間に余裕なく、マップ片手に城域見学、先ずは陸橋を通り、東の政庁跡を眺め、西の官衙一帯を眺め、遠くに岩手山を望み、天気も良く長閑な眺めです。
草が茂っているので徳田小学校校門よりグランド沿いを通って徳丹城政庁跡へ掘立柱建物なのか半柱列で正殿、西脇殿、東脇殿、南門、両脇建物、板塀跡が地面表示されている、正殿横に政庁の解説盤がある、全体草に覆われているが半柱で良く分かる。
陸橋を通って西側の北官衙地面表示を見学、最近設置されたらしく地面はモルタル表示と半柱、解説板も真新しい、「木製冑」出土井戸跡も確認、徳丹城西門跡続く板塀跡の微高地表示を確認して初徳丹城を終了。
矢巾町歴史民俗資料館の方にお礼申し上げます。
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2024/06/15 07:54
平氏の末裔なの? (2024/04/13 訪問)
中根氏は築城者である平右衛門盛清や忠良の名前から見ると、平氏の流れをくんでいるか、末裔を自称しているのではないでしょうか?
ひょっとしたら山上の扁平地も1428年以前から使われていたのかもしれません。祭ってある石仏の土台も崩した石垣を転用してあるようにも見えますが、どうでしょうかね。戦国時代であれば、ここに詰の城があるのが妥当だと考えます。なんとなく雰囲気はありますね。正直、城郭大系に記載はないし、詳細がよくわからないです。三河の土豪で、家康に仕えたということは譜代の扱いで良いのかな?
平右衛門盛清で調べてみたら「平右衛門」という東小金井のラーメン屋が出てきました‥
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2024/06/14 23:27
詰の城(推定)へレッツゴー ♪ (2024/04/13 訪問)
箱柳城は麓の方に石垣の城があるんだけど、久しぶりに行ったら勢いで山の上の方に行ってしまいました。地形図を見ると城址の雰囲気があるんですね。石仏遊歩道が通じているんだけど、登れるところから登ります。途中に竪堀と見張り台のような岩がありました。
麓の居館に対して、山上は詰めの城になっているようで、限定的ですが石垣や堀切のようなものがあります。なんと矢穴石まであるんですね。どうやら詰の城&石切場でもあるようです(推測)。ここで石を切り出してせっせと麓に運んで行ったんじゃないでしょうか。城址を生かして、仏像やらエビスさんやらを祀って有るようです。上は案外広いんですよ。
箱柳城は室町時代正長年中(1428~29)に中根平右衛門盛清が築き、中根肥後守忠良は、城を拠点に道根六郷(箱柳・小呂・田口・板田・岩谷・中畑の六村)を支配したとのことです。忠良の次男、平左衛門正照は徳川家康の家臣として二俣城の城主となり、三方ケ原の合戦で壮絶な討死を遂げたと石碑の裏側に刻まれています。
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