明治維新後からですが御先祖様が暮らした街で
初登城は半世紀以上前、幼かったため記憶は僅かに残る程度。
四回目の登城です。
東三の丸に無料駐車場が用意されてます。
まずは外大手門から中堀沿を歩き
あまり見ていなかった城址北側を散策してみました。
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2024/07/25 19:56
2024/07/25 19:29
ズドン! (2024/05/05 訪問)
何年持ちますかね~‥いや、こっちの話、最近雷が発生しやすいので気を付けた方がいいですよ。ズドドンドン!(こらこら‥)
皿尾城は忍川を挟んで忍城の北西1kmの所にあり、現在は雷電神社とふるさと館の敷地になっています。神社の北側に土塁が残っており、ふるさと館には城址碑が建っています。忍城を攻略するために永禄4年(1561)上杉謙信により築かれ,木戸監物入道玄斎を置いて、忍城の成田長泰に備えたとされています。
石田三成の忍城攻めの際には陣城として使われたともされ、忍城を守るにも攻めるにも有用な城であったようです。めっちゃ近いですし。
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2024/07/25 18:59
公園化されているので,ファミリー層が多かったです👪 (2024/05/04 訪問)
天白城からの転戦です。猛暑の中でしたが,徒歩でも余裕です。とても暑かったのですが,ファミリー層が多くて撮影に苦慮しました…<苦笑>。
人気があるのは,ネーミングから「真田」の「本」来の「城」との発信力では…と推察。たしかに,上田城に移るまで,真田氏の拠点となっていた城に間違いありませんが,歴史を少しでもかじったうえでの訪城か,いささか疑問に感じるシーンも見受けられました。
なお,こちらの別名は「松尾新城」ですが,「松尾古城」ほど難儀ではありません。車なら,定番の標柱ワキまで行けます。
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2024/07/25 18:49
2024/07/25 17:40
何をするにも便利な場所 (2018/12/02 訪問)
日曜日ということもあってか周辺は相変わらずランナーや散歩を楽しむ人が多い。
それでも中に入ると、ゆったり回ることができました。
駅も近いし何をするにしても便利な場所にあります。
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2024/07/25 16:29
公園内にあります (2024/05/22 訪問)
公園内チャシ3か所目
こちらは探し当てても、んーとなりました。
砦だろうけど平滑跡も見受けられないし、周囲の濠もありません。
写真2の道路位置が濠若しくは帯曲輪跡ではないかという方もあるようです。
どうなんでしょうかね、偉い人がチャシだって言うんだからチャシで良いかな。
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2024/07/25 15:44
2024/07/25 14:42
2024/07/25 11:10
111【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (小牧長久手の戦い(1/2)-小牧山城) (2023/09/06 訪問)
(26人目)井伊直政の続き⑬です。
直政がついに侍大将となり、秀吉との決戦のため初めて「井伊の赤備え」を引き連れて布陣した小牧山城を訪れてきました。名古屋駅から名鉄犬山線に乗り岩倉駅で下車。東口から小牧行のバスに乗って30分、小牧市役所前で下車すると目の前が小牧山城です。
バスを降りると、まず大きな土塁が目の前に現われます。榊原康正がわずか5日で築いたという有名な土塁です。高さ8mと大きくて深いですが、さらにその上にも土塁があり(二段構え)、秀吉がこれを見た瞬間「小牧山を攻めるは容易ではない」と語った理由が分かる気がしました。そして外側は鋭く内側は緩やかな傾斜だったようです(写真⑤⑥⑦)。つまり守りやすく攻めにくい作りになっていたという事ですね! さすがは康正です。
信長・家康時代には天守はなく、土造りの城に最上部を石垣で固められていたようです。今ある天守(写真①)は、昭和42年に名古屋の実業家(平松茂さん)が私財を投じて建てたと書いてありました。その天守に登って見渡すと、360°濃尾平野が見事に一望できました。そして北東の方角を眺めると、秀吉が布陣していたという楽田城があの位置にあったようです(写真②)。そして南東の方角には合戦地、長久手がかすかに見えました(写真⑧)。
井伊直政は御幸橋口付近に布陣していたと思われます(写真③④)。楽田城にいた秀吉軍10万の壮大な軍勢を、家康と直政はどんな思いで、ここ小牧山から見つめていたのでしょうか?
家康はこの時から井伊の赤備えを主力部隊にしようと考えていたようです。というのも石川数正がこの直前に秀吉の元へ出奔したため、徳川軍の戦力や戦術などの情報は秀吉側へ筒抜けとなっていました。よって今までと違う部隊で、違う戦い方を余儀なくされていたようです。そこで家康は軍制を甲州流へ変更、主力は井伊直政軍1万、酒井忠次・本多忠勝・榊原康正軍はそれぞれ5千の陣容に変更しました。。
対する秀吉は、この膠着状態を打開するため「中入り」の策をとります(中入りとは、空白となっている背後の相手の居城を攻める事です)。池田恒興と森長可の秀吉軍別動隊が夜陰にまぎれて岡崎城を攻めるために出陣。家康は伊賀衆の報告でこの動きを知ります。
多数のかがり火を焚いて、いかにも家康はまだこの小牧山城にとどまっているかのように見せかけ、本多忠勝を残し、家康は直政らとともにこの堀を密かに通って城外へ抜け出し、長久手へ向かいました。どうして秀吉の間者(忍者)にも気づかれず、うまく抜け出す事ができたのでしょうか? 深い堀なので気づかれなかったと伝えられていますが、本当にそれだけだったのでしょうか? 深夜で足元が暗いのに、全くかがり火を焚かないで、どうやって長久手までの写真⑧の長い距離を行く事ができたのでしょうか? これだけの軍勢が移動するので、鎧のガシャガシャという音や人間の足音、馬の足音や鳴き声など、秀吉の間者や地元の農民などから気づかれない理由がないと思うのですが🤔? 私には何だかとても不思議に思えてなりませんでした。
次は(長久手古戦場)へ続きます。
引き続き赤備え隊の活躍を追います。
【余談】名古屋の居酒屋
夜は名古屋の居酒屋に入ってみました。濃い味噌ソースをかけたカツや土手煮、名古屋コーチンの手羽やその出し巻き卵といったメニューが多く(写真⑨)、どうやら濃い味噌を使った味で、鶏や豚などを食すのが名古屋文化なのかもしれません。ならばこれらにはチューハイが合いそうだなと思って注文すると、こんなものが出てきてビックリしました😲(写真⑩)。このレモンも名古屋文化なのでしょうか??
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2024/07/25 08:05
とことん江戸城・番外編(上野東照宮) (2024/05/28 訪問)
上野東照宮も昨年は開門時間前で入れなかったので、寛永寺に続いて訪れました。言うまでもなく東照大権現・徳川家康を祀る神社ですが、寛永寺の一角に創建された東照社をはじまりとし、徳川家光が日光までお参りに行けない江戸の人々のために日光東照宮に準じて建立した社殿が現存しています。
大石鳥居から水舎門を抜けて両側に石燈籠の立ち並ぶ表参道を進むと、右手に江戸前期再建の五重塔が建っています。明治の神仏分離令を受けて寛永寺の所属とすることで破却を免れ、その後、東京都に寄付されたことから現在は上野動物園の敷地内にあり、東照宮境内からは柵越しに眺められるのみです。
前回は入れなかった門の中に入ると右手に神楽殿、左手に水舎があり、水舎の隣に境内案内図が立てられています。そして突き当りには絢爛たる唐門が建ち、その背後には金色殿と呼ばれる社殿も覗いています。透塀の内側で社殿を間近に拝観することもできますが(拝観料大人500円)、帰りの新幹線の時間まで余裕がないので断念…。唐門の両脇には徳川御三家が奉献した銅灯籠が三基ずつ並び、御三家灯籠と呼ばれています。参道沿いに立ち並んだ約200基に及ぶ銅灯籠や石灯籠も全国の大名家から奉献されたもので、境内案内図をよく見てみると全ての灯籠が番号付きで書き込まれていて、案内図下段に灯籠の番号と奉献者名、奉献年代が記されていました。時間が許せば案内図を参照しながらひとつひとつ見て回りたいところですが、帰りの新幹線の時間まで(以下同文)。最後に、佐久間勝之が奉献し日本三大燈籠に数えられるお化け燈籠を見て、上野東照宮を後にしました。
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2024/07/25 06:58
庭瀬城と一体の沼城 (2024/07/07 訪問)
庭瀬城から徒歩で5分かからないくらい。
南側に撫川知行所総門が移築されています。
まずは外側をと歩きますが周囲は住宅地で西側から石垣を望むしかありませんでした。
大手に戻り、門から中に入ります。
東側には土塁が残り、北側には三神社が鎮座します。
撫川城址公園となっていてこの日も虫採りの親子が遊んでました。
それにしても子供の頃には平気だった虫が大人になると苦手になってくるのはなぜなんでしょうか?
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2024/07/24 23:18
2024/07/24 22:25
2024/07/24 21:36
昔はまあまあ広かったようで (2024/02/23 訪問)
片岡城は比高48mの丘陵上に築かれており、主郭の東西にも曲輪が配されています。周辺は私有地なので訪問が出来る場所は限られますが、主郭から周辺を確認するだけでも概要を把握することは出来ます。主郭の南側の道路を挟んだ小丘も曲輪の跡とされ、主郭から南東にかけて空堀が有ったとされていますが、今は畑地になっています。南側の曲輪にも堀切が付いているようですが、推奨ルートに入っていなかったので訪問していません。少し惜しかったかな‥。
片岡城は片岡氏の城とされ、明応7年(1498)には越智方に属したため、畠山尚順配下の筒井氏に攻められ、当主・片岡利持は当城にて自害したとされています。その後、片岡氏は再興し筒井氏に属しますが永禄12年(1569)に松永久秀に攻められ落城し、松永氏配下の海老名氏が入城したそうです。天正5年(1577)に松永久秀が織田信長に反旗を翻すと、明智光秀らの征伐軍によって攻められ、10月1日に落城したとのことです。
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2024/07/24 21:32
砦(トリーデ)鳴門城 (2023/03/28 訪問)
“砦”は適当な当て字です。
標高約60mの妙見山山頂にある阿波九城のひとつ 撫養城。
三重三階 望楼型の複合式天守は「トリーデなると」なるもので、数年前に博物館をリニューアルしたとのこと。
築城当時、天守が建てられたという記録はないため、いわゆる模擬天守にはなりますが小高い丘陵にポツンと建つそれは一際目立ち、城好きの目を惹きます。
ちょうど桜の開花時期に訪れたので、二の丸にある妙見神社の桜との相性が素晴らしかったです。
山頂につく数分前に閉館時間をむかえたみたいで、中に入れなかったのが残念です、、、
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2024/07/24 20:47
三瀬の変 (2024/02/18 訪問)
三瀬館は三瀬御所と呼ばれた北畠具教の館跡で上三瀬の山麓に築かれていました。天正4年(1576)11月25日、織田氏の策略で長野左京進・滝川三郎兵衛尉(雄利)・柘植保重らによって具教が殺害され、具教の子の四男・徳松丸と五男・亀松丸そして北畠家臣14名も押し入ってきた軍勢に殺害されたとされています。(三瀬の変)
館跡自体の遺構はさほど残っておらず、幾段かの扁平地が斜面に沿って連なり最大で九段ほどあるようです。東西には砦である茶臼山と八幡山があり(行ってない)、川を挟んだ南側には具教卿の胴塚があり、案内板に従っていけば難なくたどり着くことが出来ます。
一連の騒乱で名門・北畠家もほとんど絶えてしまい、伊勢国は織田氏に乗っ取られてしまいます。キャストは一部異なりますが、映画「忍びの国」の序盤で三瀬の変が描かれています。
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2024/07/24 19:40
登呂遺跡 (2013/09/01 訪問)
登呂遺跡は静岡県静岡市駿河区登呂5丁目にある弥生時代の集落の遺跡で、国の特別史跡に登録されています。
何で登呂遺跡?と思われるかもしれませんが、古い写真の中から転がり出てきて「オラを載せろ!」みたいな圧を出してきてるんですね。そんな場合は抗わずに載せちゃいます。環濠集落では無いですが、当時の竪穴状平地建物や高床倉庫などが再現されていて、周囲に水田が復元されています。一年中オススメではありますが、やはり田んぼに水の張った春や、稲穂が実った秋などが良いのではないでしょうか。
静岡市立登呂博物館が併設されていて、登呂遺跡の出土品の展示がされており、多くが文化財の指定を受けています。
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2024/07/24 19:14
新潟城下(古町6番町)に,タレかつ丼の聖地アリ💥 (2024/07/16 訪問)
にのまるさんの新潟市レポートに、須坂屋のそばとタレかつ丼のセットのグルメ情報がありました。このタレかつ丼発祥の地が新潟城下(古町6番町)にあります。「とんかつ太郎 古町本店」です。ソースは使用してなく,醬油ダレで甘辛いのが特徴です(継ぎ足しの秘伝ダレ)。肉は国産豚モモ肉を使用。サラダ油は使ってなく,ピュアラード100%です。シャリは当然ですが,新潟産コシヒカリを使用。
せっかくなので,聖地「とんかつ太郎 古町本店」のタレかつ丼の画像をアップします。
新潟駅周辺でそばとセットなら,(にのまるさんが食された)須坂屋がリーズナブルでおすすめです。小洒落た雰囲気がお望みなら長岡小嶋屋が新潟駅ビルCoCoLoに2店舗も入っています。タレかつ丼のみなら,とんかつ太郎のお弟子さんが開いた「とんかつ政ちゃん」が東横インのすぐワキにあります。
城びとスタッフのみなさま…
どのような経緯でかるたの商品化にこぎつけたかは,全てを公開できない事情もおありかと思います…。
まずは素直に「おめでとうございます!」とお伝えします。
続報ならびに横浜でのスケジュール公開をお待ち申し上げます。
個人的には,かるた大会よりも(みなさんにお会いできるという)オフ会的な期待のほうが大きいです。
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2024/07/24 19:03
岩崎城 (2024/05/25 訪問)
【岩崎城】
<駐車場他>岩崎城趾公園駐車場(北側)20台あり。
<交通手段>車
<見所>空堀・土塁櫓台・歴史記念館・模擬天守
<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第3弾8城目。現地で頂けるパンフレットによると岩崎城は享禄年間(1528~1531年)に織田信秀が砦を築いたのが始まりと考えられます。1529年ごろに松平清康(家康の祖父)によって攻め落とされます。1535年に守山崩れで松平清康が暗殺されると城兵は撤退して無人化してしまいます。近くの豪族本郷城主の丹羽氏清が入城し砦を修築して城主となります。以降4代にわたって丹羽氏の城となり関ヶ原の合戦後4代目の氏次は伊保藩の藩主として転封となったため岩崎城は廃城となりました。
また小牧長久手の戦いでは徳川方として池田恒興軍を相手に戦いましたが多勢に無勢、城主の弟、丹羽氏重以下城兵300名は討死して落城してしまいました。
城跡は平山城となっていますが丘城程度の微高地ですぐ登れます。城跡の南側半分が主郭部分で主郭南側は急な切岸であったようです。主郭北側に大空堀が縦断していて二郭と他の曲輪を大きく分断しています。なかなか見応えがあります。二郭は現在小庭園になっていますが西側に土塁が残り、二郭の西側にも堀切があり、その西側に縦長の曲輪(空堀から土手を登ります)があります。主郭跡には歴史記念館・模擬天守・土塁櫓台跡・隅櫓跡礎石・井戸跡・古墳跡があり見所が沢山あります。歴史記念館は無料で入館でき、展示資料が充実しています。非常に立派な岩崎城のパンフレットが無料で頂けるのが凄い。南東隅にある模擬天守は南蛮造り、下部に城門を備えて入口から見た感じがなかなかいいです。ちょこ城では無かった、いい遺構の残し方と素敵な模擬建造物があるなかなか楽しめる城跡で、今回の旅で1番よかった城跡でした。
<満足度>◆◆◇
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