西外曲輪の芝生の上を歩き、跳ね出し石垣の下に着きました。やはりいつ見てもカッコイイです(写真①②③)。ヒロケンさんと同じやはりテンションが上がってしまいます。でもなぜここをこのような形にしたのか、みなさん御存知ですか?(🤔試験に出たような?)。1862年2月、川向こうの鉄砲町で起きた火事(寅助火事)の時、乾燥した北西の強風で火の粉が球磨川を越え城内まで飛んで来て、その飛び火で城はほぼ全焼したそうです。その後二ノ丸で焼失した藩主御殿は、この石垣の上の現在の相良神社(写真④)の位置に再建され、その藩主御殿を再び火事から守るために、石垣を跳ね出しの形にしたそうです。よってどちらかと言うと防御のためではなく防火の意味合いの方が強かったというのが正解です(😯思い出したぞ!)。
写真②から右側、相良神社の下側はまだ石垣の補修工事がなされていて、車は通行止めです(前回写真⑩の馬責馬場の道が通行止めです)。よって車の方はこの撮影位置後ろに臨時駐車場が設けてありますので、ここに止めていただく事になります。もう残っている工事箇所はここだけのようです。ここと歴史館以外は、以前あった工事中の看板やロープによる規制は全てなくなっていました。
次は石垣の横にある堀合門から登ります。この堀合門は寅助火事でも運よく焼け残ったようで、一度移築されたもののまた現在の元の位置に戻されたという人吉城で唯一の現存の建築物です(写真⑤⑥)。そこから三ノ丸に登ると景色が見え始めました(写真⑩の下段が三ノ丸です)。ここ三ノ丸は西南戦争の時、田原坂で敗れた西郷隆盛が追って来る官軍を迎え討つため砲台を置いた場所です。でも川向こうの丘の上に陣を敷いた官軍まで砲弾は届かず、逆に官軍の砲弾はここまで届いたとか。西郷にとっては相当ショックだったでしょうね。
三の丸を過ぎると、中ノ御門がありました(写真⑦)。かなり大きな門だったようです。ここが藩主や奥方が居た二ノ丸御殿を守る最後の砦だったわけですね。その門の先には、その焼ける前まで御殿があったとされる二ノ丸がありました。籠城のための塩蔵跡もありました。今では杉の木が生い茂りうっそうとしていますが、ふとそこから見下ろした人吉温泉街の景色は、とても気持ちよかったです。でもよくあそこからここまで火の粉が飛んできたものです(写真⑧⑨⑩)。
次は、さらに本丸まで登ってから、球磨川の方へ下ってみようと思います。
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