岡崎の街を歩いていると総堀跡、信濃門跡などの説明板や標柱を見かけます。また岡崎の城下町の特徴のひとつに二十七曲りがあります。岡崎城下の東海道は敵の侵入を拒むために屈折した道となっていたようです。平岩城の説明板を見つけました。西郷氏が今の岡崎城の地に城を築く前まで居城としていた城です。
大河ドラマ館は三河武士の館になっていました。からくり時計がちょうど動き出したので撮影しました。
暑かったのでカクキュー八丁味噌さんの味噌ソフトクリームをいただきました。
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2024/07/27 22:53
城下町と三河武士の館家康館付近 (2024/07/27 訪問)
岡崎の街を歩いていると総堀跡、信濃門跡などの説明板や標柱を見かけます。また岡崎の城下町の特徴のひとつに二十七曲りがあります。岡崎城下の東海道は敵の侵入を拒むために屈折した道となっていたようです。平岩城の説明板を見つけました。西郷氏が今の岡崎城の地に城を築く前まで居城としていた城です。
大河ドラマ館は三河武士の館になっていました。からくり時計がちょうど動き出したので撮影しました。
暑かったのでカクキュー八丁味噌さんの味噌ソフトクリームをいただきました。
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2024/07/27 22:41
2024/07/27 22:25
2024/07/27 22:15
2024/07/27 21:39
フェイク石垣 (2024/07/27 訪問)
名前と場所以外は殆ど情報の無い城跡に行くと色々驚かされます。まぁそれが楽しみでもあるのですが。
今日行ったことの無い城跡に5か所程行ってきた中の一つです。
場所柄から島津氏に抵抗していた国人衆の城跡だろうと思います。
城域に入るとすぐに写真1~6の様な石垣が現れて来ました。
最初は興奮していましたが次々現れると我に返り?マーク、ちょっと待て。
鹿児島の城跡は殆ど土一択なのにこれはおかしい、国人衆の城跡で石垣を見た事はない。
疑惑の目で取り合えず写真を撮りながら本丸に向かいました。
元々自然石の多い地域の様でゴロゴロ転がっていて所々石積が見受けられます。
写真7~10は本丸周囲の石積です。こちらはおそらく当時の物でしょう。
1~6は石の質・形状は全然違いますので間違いなく後年積まれたフェイク石垣でしょう。
ですが積んだ目的が分からなくて、手の込んだ事しているなとは思います。
それにしても全く人騒がせなフェイク石垣でした。
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2024/07/27 21:07
末森城 (2024/05/25 訪問)
【末森城】
<駐車場他>城山八幡宮参拝者駐車場10台分程あり。
<交通手段>車
<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第3弾ラスト11城目。末森城は1548年に織田信秀が築城しました。信秀は古渡城から居城をここに移します。1552年に信秀が死去後に信長の全弟である信行(信勝)に城が譲られます。御存じの通り信行は2度目の謀反で清洲城で信長に誅殺されるのでその時城は廃城となったようです。
本丸跡の城山八幡宮に8台程度の駐車場があります。本丸東面にある空堀は初夏で鬱蒼としていたので入り込めず。御城印を買いたかったのですが、16:30までの社務所が16:25に目の前ブラインドをぴしゃりと降ろされて買えません、何とも冷たい(あくまで個人の感想です)神社でした。駐車も30分以内でしたので早々に立ち去りました。これにてこの旅終了、濃尾平野制覇にはあと2回程訪問が必要です。418㎞無事走破。
<満足度>◆◇◇
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2024/07/27 19:13
遺構はなかなか残っている。後はアクセスの方法が問題。 (2024/02/23 訪問)
大和田城は小和田氏の城とされますが、詳細のわからない謎の城です。周囲の道は狭く、なんとかポリスに捕まらない場所に車を置いて歩いて城址に向かいます。南側からアクセスしてみますが柵が行く手を遮ります。じゃあ「廃屋」から攻めてみようかと思ったら明かりがついてる。人いるじゃん‥。廃屋じゃないのかな? しょうがないので倉庫のあたりから直接城址に取りつきますが、なかなか急です。
結局直登のようになりましたが、上の方は曲輪のようになっていて帯曲輪が付いているようです。北側になかなか立派な土塁が付いていて櫓台のようになっている箇所もあり、土塁の先は堀切になっていました。
現状不審者以外の何物でもないので、物音ひとつ立てるのにも気を使います。長居は無用‥見るもの見たらさっさと立ち去るのでありました。
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2024/07/27 19:01
大きなケヤキに目をうばわれる城 (2024/05/04 訪問)
迷いに迷って大井城の一区分である王城跡(王城公園)の入口を発見し登城開始。公園の駐車場は発見できず。
公園内では大きなケヤキの木に目を引かれる。遺構らしきものは確認できず10分ほど攻城し撤退。
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2024/07/27 18:36
五條代官所 奈良県五條市 (2024/02/24 訪問)
文久3年(1863)「天誅組」の襲撃により、五条代官所は焼き払われました。天誅組は「暴徒」として扱われ、各地を転戦し高取城を攻撃したりしますが、統率力や計画性が欠如しており東吉野村周辺で終焉を迎えます。
こんなぶっそうな連中ですが、京都霊山護国神社に祀られていたりします。時代ですな。
五條代官所は元治元年(1864)にこの地に建てなおされ、現在は史跡公園として整備されています。代官所の正門であった長屋門が修復され、五条市立民族資料館として公開されています。跡地は奈良地方裁判所となっており、当時の石垣も残っているようです。
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2024/07/27 17:57
2024/07/27 17:15
埋もれた山城 (2024/05/04 訪問)
雲興寺の駐車スペースに車を駐車し、寺の右手の登城口から登城開始。城縄張図を入手できずまた城跡に案内板もなく、ネットの情報を参考に攻城。
10分ほど進むと前方を遮断するように大きな岩場が出現。左に回り込み進む。枯れ葉が大量に積もっている箇所があり、足をとられ滑らないようゆるゆると進軍。登城口から30分で主郭と思われるエリアに到達。登城途中には、自然の岩場や曲輪、堀切など城の痕跡を目にするが、案内板がなく正確な情報を確認できない。
下城は同じルートを進むつもりが道に迷って時間を要す。
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2024/07/27 16:52
三橋架け替え工事 (2024/07/26 訪問)
小浜城は、北川・多田川・南川の河口に挟まれた三角州に築かれた水城です。現在、城域の殆どは河川の拡張工事や埋め立てられて宅地化しており、天守台と本丸を囲む石垣が残っている程度です。当時は、北川と南川に挟まれ両河川を外堀とし、東側は湿地、西側は若狭湾、内堀に囲まれた本丸を中心に二の丸、三の丸、西の丸、北の丸が四方に配置された城でした。
関ヶ原の合戦の後、小浜藩初代藩主である京極高次公によって後瀬山城から拠点が移され築城が開始されましたが、二代藩主忠高公は小浜城の完成を待たずして、出雲松江へ転封。代わりに11万3500石で川越から小浜に転封となった、酒井忠勝公が小浜城の築城を引き継ぎ1641年に完成させました。(酒井忠勝公は3代将軍徳川家光公を補佐する幕府大老)
現在の小浜城は本丸跡のみが残り、この酒井忠勝公を祀る小浜神社が鎮座しています。
この日、兵庫県→京都府→福井県の日本海側の城を訪問しており、10年振り二度目の訪問でしたが小浜城をナビで検索し、走行していたところ、ナビに回避できない通行止めが発生しているとの案内(; ・`д・´)調べると、小浜城に通じる大手橋・城内橋・西津橋の三橋架け替え工事で令和4年7月16日~5年の期間で行われているとの事"(-""-)"ただし、自転車と徒歩では通行可能との事で、小浜城手前にある若狭小浜お魚センターに駐車。小浜城まで1.2kmで15分程です。この日の気温36度、3分も歩けば汗が噴き出る暑さ"(-""-)"途中にある、日本百名水の”雲城水”で喉を潤しながらの歩きでした。迂回路南川上流の橋を渡り中州の堤防沿いを行けば車でも小浜城まで行くことが出来ます。
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2024/07/27 15:19
2024/07/27 14:48
縄張りも把握しやすい上に素晴らしい遺構が見れます (2024/07/26 訪問)
元々は在地領主の三瀬氏の居城だったのを神代勝利を招いて譲ったと言われているそうです。
この神代勝利さん、かなりの勇猛果敢な武将だったそうです。
ご当地のキャラにもなっているようです。
登城口から山へ入るとしばらく山道をすすむと堀底道のような所をさらに進みます。
程なくしてニの郭の虎口が見えてきます。
そこまでいきますとちらほら石垣の跡も見る事ができます。
虎口を入った二の郭は土塁に囲まれた空間です。
さらに先に進み見事な竪堀を見ながら本郭の虎口です。
虎口にも石垣が配置され往年の姿を想像します。
本郭はさらに見事な土塁に囲まれた素晴らしい空間です。
その囲んだ土塁に石垣が所々残っています。
城跡はそこそこの角度はあります。
また、蜘蛛の巣や虫なども結構いますが、その嫌な思いも一瞬で忘れるくらいの城跡です。
ま、それは夏に訪れたからですが…。
本郭、二の郭と縄張りも確認しやすく、石垣などの遺構も見る事のできる素晴らしい城跡だと思います。
糸島と佐賀をつなぐ263号の有料の道路に沿うようにある旧道に入ると料金所に近い所に城跡への目印のある林道の入り口があります。
林道をすすんで行くと駐車場があります。
そこから登城です。
ココからがおすすめです。
駐車場を過ぎた所にも登城口はあり、川の横を通る石が敷き詰められたきれいな道もありますが、150メートルほど進むと道が塞がっておりました。
(もしかしたら行く事ができるのかもしれませんが)
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2024/07/27 12:54
開会式にドン引き (2024/02/24 訪問)
パリオリンピック‥始まっちゃいましたね~。しかし、セーヌ川汚いな~(汗)、雲っているので余計に目立っちゃいますね。
それはさておき、今井城は三箇氏の居城(居館)と伝わっています。東が腰郭のようになっていて、東を除く三方に堀が残っているようですね。主郭は水田になっているようで周囲に畔が盛られています。城址の東側は急な斜面になっているようです。皆さんの投稿にあるようにGoo〇〇〇マップで見てみると形状が良くわかります。周囲の田畑がまるで曲輪のように配されていますね。
Oの話題に戻りますが、セーヌ川は100年遊泳禁止だったようですがパリ市長は競技の実施にすごい前向きのようですね。選手村にはエアコンも無く(床冷房らしい)移動用のバスはエアコンが無いうえに窓には目張りがされているようです。
相変わらずドSな国ですね。選手の皆さんには競技で頑張ってほしいですが、その前に体調を崩さないようにして欲しいです。
ではがんばれジャパン! みんながんばれ~
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2024/07/27 10:10
天守台再現 どこまで成るか (2024/07/13 訪問)
駿府城は明治維新の後、明治5年までに払い下げられ、豊橋師団の所属、歩兵第29旅団第34連隊が置かれ、本丸は壊され水堀も埋められてしまいました。現在は本丸と二の丸が一緒になった状態で公園化されています。
当時は景気対策で軍隊の誘致が活発化していたようで天守台もこの時に埋められてしまっていたようです。時代の流れとはいえ、罪深い話です。現在駿府城跡天守台野外展示プロジェクトが行われており発掘の工程が解るように公開がされています。天守台の再現は完全とはいかないようですが、やむを得ない処置だとは思います。
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2024/07/27 09:49
葛山館 静岡県裾野市中村 (2024/07/16 訪問)
葛山館は葛山城主・葛山氏の居館で起源は鎌倉時代(平安時代末期)にまで遡ります。東西約97m、南北約104mほどの規模で周囲に良く土塁を残しています。これらの遺構は戦国時代のものと見られ、西側南の開口部がかつての門跡とされています。
南に大久保川が流れ、東側一帯は宮川の峡谷に遮られた天然の要害の地に築かれています。詰の城とは少し離れた位置に存在するのが特徴です。また城郭大系の「葛山城要図」には館の北東に池久保(古池)という地名が見られ天然の堀(もしくは水瓶)の役割を果たしていた可能性があります。
永享10年(1438)の永享の乱の際に今川範忠は足利持氏の討伐に向かい、葛山氏はその先鋒を務めています。しかし「文中年間御番帳」には将軍・足利義政の御番衆の中に今川氏と葛山氏の名が併記されているようなので、徐々に今川氏に従属するようになり、北条氏とも近い間柄であったと思われます。
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2024/07/27 00:01
草津宿周辺 (2024/02/11 訪問)
滋賀県草津市には東海道五十三次の52番目の宿場町、草津宿が有りました。中山道が合流する場所でもあり、全国でも珍しい本陣建物が現存し、国の史跡にも指定されています。南西に200mほどの場所に草津宿街道交流館があり、錦絵の版画刷の体験をすることが出来ます。
道中には寿司清さんがあり、「本陣セット」や「はこずしセット」をリーズナブルな値段でいただくことが出来ます。「はこずし」は草津の名物ですが、本陣セットを注文すれば、お寿司とはこずしをバランス良くいただくことが出来ます。
写真は許可をいただいて投稿してますよ。
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2024/07/26 23:41
訪問は最新の注意を払って (2024/02/11 訪問)
桜生城は六角氏家臣の沢氏の居城とされ、今でも子孫の方が住んでいるようです。土塁や水堀が往時をしのばせますが、これ全部私有地じゃないのかな。 申し訳ありませんが写真を掲載させていただきます。戦国末期のオーソドックスな平城のようで、僅かな微高地にはなりますが、この程度であれば平城という扱いになるわけですね。ご住居が主郭と見られ、隣接する扁平地も曲輪と見られます。
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2024/07/26 21:06
砦というよりは居館跡のような。 (2024/02/18 訪問)
三瀬砦は南は宮川、西は宮川に流れ込む大谷川に挟まれた河岸段丘上に築かれている城館跡で、城主は「三瀬の変」の下手人の一人・長野左京進という説と、北畠家臣・三瀬左京という説が有るようです。また二人は同一の人物でもあるという説もあるようですが、真実はわかりません。主要部は東側に配された曲輪で、周囲を土塁で囲まれ東に虎口が付いています。
また東側と北側には石垣が積まれてあったとされ、土塁の中にも石積みが見え隠れしています。この石積が土塁の形状保持の為のものか、石垣の中込石の用途であるかは不明です。奈良の椿尾上城でも土塁の中の石積を見たような気がします。
主郭から西側、河岸段丘の先端に向けても曲輪が連なっているようです。主要部より少し小高い位置にある曲輪には社が祭られ、西側には少し低くなった位置に曲輪がありました。そこから西側には訪れていませんが、先にも遺構があるようです。
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