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しんちゃん

なんだかんだで山城跡 (2024/07/13 訪問)

久能山城の投稿。今回は最新のものを載せさせていただきます。階段を下から登って一の門に到着。天候に恵まれれば、さらに良い眺望を得られるのですが、今回は曇天のため今一つです。古い縄張りでは上に向かって幾段にも曲輪が連なっているのですが、現状は東照宮として改変が成されているので雰囲気を味わうのみになります。本殿のあたりが本丸と見られ、御廟所の東上にみられる扁平地が愛宕社の曲輪のようですが、柵があり進めません。そもそも不敬であるし、行けたとしてもいろいろと面倒です。
下から眺めるのみとなりますが、御廟所の周囲には山城の曲輪としての雰囲気がまだ残っているようです。東照宮の始祖の宮として改変が成されていますが、山頂のあたりにはまだネイティブな遺構が残っている気がします。

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ぴーかる

大留城 (2024/05/25 訪問)

【大留城】
<駐車場他>駐車場はなし。子安神明社(城跡)前に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第3弾6城目。大留城は1546年に村瀬作左衛門というものが築城しました。小牧長久手の戦いでは池田恒興が三河中入り作戦で大留城で軍議を開き村瀬作左衛門も従軍したが翌日徳川家康軍に敗れ討死し城もその後廃城となったようです。
 現地城跡は庄内川に面した平城で現在は子安神明社という神社になっています。中央に土塁跡のような土盛があり城跡碑があります。本殿の裏側に堀跡があるようでしたがコンクリ壁の裏側だったようで気づきませんでした。城跡の説明板はありません。

<満足度>◆◇◇

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トク

110【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政と天正壬午の乱(3/3)-和睦の使者) (2023/12/08 訪問)

(26人目)井伊直政の続き⑫です。
北条氏の居城小田原城を訪れてきました。日曜だったこともあり、人が多かったです(写真①②)。訪れたのは秋の終わりで、紅葉がきれいでした(写真③:暑い日が続いていますので、この写真で少しでも涼しい気分になって頂ければ幸いです)。また天守からは、ちょうど石垣山に沈む夕日もきれいに見えました(写真⑧⑨)。私も使者になったつもりになって登城してみました。すると、馬出門や銅門などには北条の家紋「三つ鱗(みつうろこ)」の旗がたくさんなびいていて、まさに敵地の中を歩いている感じがして、何かとても緊張してしまいました(写真④⑤⑥)。直政も同じ事を感じたのでしょうか?

現在の小田原城は、家康の側近であった「大久保忠世」が築き始めた石垣に、家光の側近で春日局の子と孫である「稲葉正勝・正則」の時代に築かれた天守に基づいて再建されたものではないかと思います(写真⑦)。北条時代は天守や石垣もなく土造りの城だったようです。秀吉から攻められる直前には、全長9kmの見事な総構えで囲まれていて、その中には10万の人々が暮らし、当時としては日本最大規模の城郭だったとか。私も“しんちゃん“さんと同じく、北条時代のそんな城郭を見て見たい気持ちになりました。

1582年、天正壬午の乱は黒駒の戦いの後、織田信雄の仲介でいったん両者は撤退し、改めて和睦のため直政は北条氏とのその和睦の使者という大役に抜擢されます。そして直政は、甲斐信濃は徳川、西上野は北条(両者切り取り次第干渉せず)、また家康の次女「督姫」を北条氏直に嫁がせるという条件で、見事に和睦を成立させました。

私は小田原城を眺めながら考えてみました。なぜ家康は交渉役に、ベテランの酒井忠次や石川数正ではなく、また中堅の本多忠勝や榊原康正でもなく、家臣団で最も最年少でまだこの時22才の井伊直政を大抜擢したのでしょうか? またそれに見事に応えた直政もすごいと思います。なぜ彼にはこれほどの交渉力があったのでしょうか? 家康はそこまで見抜いていたのでしょうか? 見た目は美男子でかつ小柄(推定165cm)であったらしい直政が、あの強者の武田の旧臣たちをも取り込み、北条氏をも屈服させたこの交渉力は相当なものだと思います。彼の交渉力は、この後の関ケ原でも発揮されます。彼が今の時代に生きていて外務大臣になっていたら、日本はどうなっていただろうか?🤔 なんてまたふとまたありえない事まで想像してしまいました(笑)。

最後に、小田原といえばかまぼこだと思い、駅で(少し贅沢な)おつまみかまぼこを買って新幹線の中で食べました。これはいける! なかなかの美味でした(写真⑩)。

北条と和睦した後は、秀吉との決戦(小牧・長久手の戦い)です。
次は、「井伊の赤備え」デビューの舞台(小牧山城)を訪れます。
 

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渡辺崋山 (2024/07/20 訪問)

 田原城周辺の街を散策していると藩校跡の石碑や渡辺崋山に関連した史跡などがありました。自分としても田原藩というと城主であった戸田氏や三宅氏よりも渡辺崋山を思い浮かべます。城内にあった田原市博物館でも渡辺崋山の展示は多かったと思います。

 この日は暑かったのでゆっくり散策というわけにはいかず早々に退散しました。

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戸田宗光 (2024/07/20 訪問)

 久しぶりの登城です。明治時代の廃城後に多くは取り壊されましたが、曲輪、石垣、堀などが一部ですが残っています。再建された桜門や二の丸櫓がいい雰囲気を醸し出しています。城址から南へ行くと惣門跡や大手通りなどがありました。

 豊橋鉄道渥美線三河田原駅から徒歩約15分で城址にある田原市博物館まで行くことができます。

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しんちゃん

ロープウェーで天空から登城 (2013/09/01 訪問)

先日、伊豆半島をめぐる前に久能山に行ってきました。4回ぐらい来てますかね、ここも。二回は日本平からロープウェーで渡って、二回は下から登ってます。どちらも風情が会って良いですよ。下から登ると少ししんどいですが攻め手の気分になれるし、石段や石垣(いずれも後世のもの)を楽しむことが出来ます。すこし調子が戻ってきましたね‥考えてみれば城人を初めてから一年ちょっとで新規とリピートで500~600は回っているので、ちょっと飛ばしすぎたんですよ(アホですか)。もともと山城をいくつか登ってヒーヒー言ってる「しんちゃん」ではないです。
ロープウェーで日本平から東照宮に渡ると、ちょっとした神様気分に浸れます(?)。気分は徳川家康公ですかね。東照大権現おな~り~ってか。
写真は最初に訪問した時のものなので、いささか古いです。でも階段登城からは味わえない景色なので先に掲載させていただきます。

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しんちゃん

熱海の城跡といえばココ (2024/07/16 訪問)

熱海と言えば熱海城という怪しい「お城」が有名ですが、城びとの城では網代城になります。教安寺に城址碑があり、そこからの眺めもなかなかですが、より高所に江戸時代の石丁場があるので寄って来ました。伊豆半島も僻地の割には見所が多く、もっとゆっくりしたかったのですが、時間の制限もあり全部は見切れていません。でも、なんとか伊豆の城びとの城は回ることが出来ました。
「古城盛衰記」さんによると網代中学校跡の北側に入り口があり、山頂の朝日山公園に曲輪があるとのことですが、認識不足で至っていません。すぐ近くまで寄っていたものの、いささか惜しいことをしたと思います。
「城郭放浪記」さんにも記載があるので参考にするべきでした。
網代城は南北朝の時代に聞間氏によって築かれたのが発端とされ、戦国時代には北条氏家臣とおぼしき岡本善左衛門尉が城主を務めたとされますが、諸説あるようです。岡本善左衛門尉に関しては北条氏規の朱印状に名前が出ており、伊豆多賀郷の代官・百姓に貸し付けた兵糧が返済されずトラブルになっていたようです。「早く取り立てろ」と催促されていたようで、氏規さんもけっこうイライラ来てたのが伝わってきます。

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チェブ

『信松院』の巻き。 (2024/04/20 訪問)

八王子の「横山党館」から車で10分弱。「八王子城」や「滝山城」からなら30分位の場所に『信松院』があります。
八王子市 台町 3-18-28
『信松院』の道路を挟んだ所に駐車場もあります。

武田 信玄さんの娘 松姫が過ごした『信松院』。
こちらに たどり着くまで、大変な道のりを越えて来ました。
松姫と言えば、織田 信長さんの嫡男 信忠さんと婚約したが、破棄になり尼さんになったくらいしか知りませんでした。
写真⑨の本、『疾風に折れぬ花あり』は、武田家の衰退近い「高遠城」から始まります。松姫は、仁科 盛信さん、武田 勝頼さん、小山田 信成さんの娘を託され八王子に逃れて来ました。

『信松院』は青い屋根のかわいらしい御寺さんです。
入口には松姫像。この細いお身体から、前向きに生きる様を教えていただきました。
中にはカフェもあります。松姫が手植した松があったようです。
『信松院』には松姫のお墓があります。
お墓は、松の木が。こちらは手植した松ではなさそうですが、お墓を守っているかのように枝の伸ばしています。

私の他にもお参りしている方がいらっしゃいました。

この八王子市は松姫様を慕い旧武田家の方々が集まってきたそうです。
先人たちの足跡は武将だけではなく、姫たちも戦い紡いで今があるのだと再確認した『信松院』参拝でした。

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しんちゃん

ペリーロード (2024/07/15 訪問)

車中泊で下田まで来たのですが暑かったですね~ ネットの予報では夜25度くらいだったんだけど実際は29度。だいぶ違うねぇ~。5年前のデータでやってるんじゃないの?
下田といえば下田城だけど、ここは母方の実家でもあるので、下田城→ペリーロード→叔父の家と訪問して、ソバいただいて2時間くらいお邪魔して次に向かいました。次はもうちょっとゆっくりさせていただきます。
下田は本当に狭い町ですが見どころはたくさんあります。ペリーやハリスが来航したり、吉田松陰が密航を企てたりと材料には事欠かない上に、ダイナミックな自然や海水浴場があったりします。下田公園に駐車して(無料)ペリーの像を見てからペリーロードに向かいます。澤村邸(無料)からペリーロードを眺め、異国情緒漂う街並みを歩いていきます。このあと叔父の家で何か食べてくつもりだったので、食事等は摂りませんでしたが、おしゃれな喫茶店やレストランがあちこちにあります。
長楽寺にも寄っていきます。日米和親条約や日露和親条約の批書交換が行われた場所で境内は広くはありませんが、風情を感じることはできます。

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しんちゃん

土肥金山 伊豆市土肥 (2024/07/14 訪問)

雨期明け直前、ギリ大丈夫かなと思って伊豆半島を車中泊で回ってきました。予報では夜は25度くらいだからハンディの扇風機回せば大丈夫かな‥と思っていたのですが実際は29度、冗談じゃないですわ。夜中の2時にギブアップしてエンジンかけてエアコンつけてしのぎました。ネットの天気予報は当てにならんぜよ(毎回これ言ってる)南伊豆~西伊豆は暑かった。
土肥金山、正確には土肥金山郷土資料館です。
内容は金鉱跡の洞窟と資料館の二本立てで金鉱跡は結構広いです。中には大山祇神社が祭られ、工 夫達の人形が至る所に配置されています。鉱山では女性も働いていたようで、労働者たちの憩いの場である風呂場にはムフフな人形も置いてあります。中は暑くて皆、裸に近い格好で働いていたというし混浴だったのかな?
史料館にはあの大久保長安の人形もありました。慶長11年(1606)から伊豆の奉行を務め金山の管理もしていたようです。いわゆる「やらかし系」で子孫は悲惨な目にあってますが、それは置いといて、展示物には大判・小判や千両箱など金や金属に関する展示が充実しています。中でも目を引くのがギネスにも登録された重さ250kg、時価33億円の金塊です。いま円がクッソ安いので、もっと価値は上がってるんじゃないですかね。触ることが出来るので、皆さん必ずおさわりしていきます。
嬉しそうな、ちょっぴり寂しそうな、何とも言えない表情が良いですね。なでなでなでなで‥ なでなでなでなで‥

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モト

古代の人の技術力の高さを感じる土塁跡です。 (2024/07/19 訪問)

ただの土塁、されど土塁と改めて感じる場所でした。
古代からこの技術力があるのはすごい。
一見ただの公園にも見える場所ですが我々城好きにはロマンを感じる場所です。

以下は案内文から参照
鎮西山から南に延びる八藤丘陵と二塚山丘陵をふさぐように築かれた土塁である。築成当時は両丘陵を東西につないでいたと思われるが、中央を流れる船石川により分断されている。規模は全体で300m。東側で幅10~15m、高さ1~1.5m。西側で幅34~40m、高さ4~5mである。堤体は種類の違う土を交互に積んで叩き締める「版築技法」が用いられている。この土塁の築造時期については、出土遺物が少ないため断定できないが、版築の技法、周辺の遺跡の状況等から、7~8世紀頃と推定されている。築成目的については、灌漑施設説、防衛施設説、道路跡説、併用説などがある。古代における大規模かつ高度な土木技術を示すものとしても重要である。

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todo94

安房神社に説明板 (2024/07/13 訪問)

鷹尾城をグーグルマップで検索すると筑後川とは別水系の矢部川の近くの鷹尾城主田尻親種墓碑案内板が引っ掛かりましたので、まずはここに向かいました。近くの安房神社もグーグルマップで( )付きで鷹尾城表記がありますので徒歩で向かおうとしたところ、雨が落ちてきてしまいました。結構強めの雨になってしまったので仕方なく車で向かい、車中から説明板を撮影しました。

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you

いにしへも 今も変はらぬ 世の中に こころの種を 残す言の葉 (2023/11/22 訪問)

2本目です。ぼちぼち投稿していきます。

別名の舞鶴(ぶかく)城が現在の地名の由来になったとか。
古今和歌集の伝承者 細川藤孝(幽斎)50余日の籠城の舞台となった丹後田辺城。
JR西舞鶴駅から徒歩約5分。現在、主郭部分は舞鶴公園として整備されています。
公園の西側に、城跡の入口と言わんばかりに櫓門が建っており、2階部分が資料館になっています。
櫓門を抜けて左側に見える二重櫓が彰古館で、この城の代表的景観です(私的に)。
現存する天守台の石垣は本丸の石垣よりも高さがないので、説明板を見るまで気づきませんでした。
発掘調査によれば、天守台の周囲には水堀が巡らされていたらしいのですが、その面影はあまり感じられません。

本投稿のタイトルにもなっている幽斎の歌は、彼が古今伝授を証明する書物に添えたものといわれていますが、とても気に入っています。
短歌って、聞きなじみのない難しい古語が平然と並んでいるのでどうしても距離を置いてしまうのですが、この歌は平易な言葉遣いゆえの妙な語呂のよさがあって、スッと耳に入ってきますね。

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しんちゃん

アノお城‥ (2024/07/16 訪問)

大きな声では言えませんが熱海城の投稿です。城じゃないぞって? はい城じゃないですね。正確には城郭風の鉄筋コンクリート製の建造物です。海抜100mの地点に築かれ、見晴らしは非常に良さそうですが(曇ってた)、ここに城郭があったという記録は見当たりません。
駐車場料金は500円、入場料は1200円と結構値が張りますが、親子連れなどでなかなか賑わっています。私はスルーしましたが、近くには熱海秘宝館もあります。刀剣や鎧の展示の他、城郭の絵や春画の展示が豊富です(写真OK)。地下一階には無料のゲームセンターがあって、ここで元を取ることが出来ます。時間の制約が無かったらあと三時間ぐらい居たかった‥。
熱海城はゴジラに完膚なきまでに破壊された数少ない「城」と名のつく建造物で、他には名古屋城や大阪城がブッ壊されています。ゴジラも案外わきまえていて、現存天守などは破壊してないんですね。松本城もキングギドラに表層を吹き飛ばされただけで済んでいます。別にエレベータのついてる鉄筋コンクリートだから破壊していいってわけじゃないんですけどね。

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カズサン

【近江 柏原御殿】滋賀県米原市 柏原御茶屋御殿 (2024/06/24 訪問)

 滋賀県に4ヶ所ある徳川将軍家御茶屋御殿の一つ柏原御殿を1泊2日滋賀県近江未踏の城探訪の最終に訪ね4ヶ所の御茶屋御殿跡探訪完了する事が出来ました。

 住所:滋賀県米原市柏原2137
 駐車場:柏原宿観光駐車場(米原市柏原831辺り)、余裕の駐車スペース、トイレ有。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る

 当地は国道21号線から北に1本道に入った旧中山道柏原宿に当たる。
 観光駐車場から旧中山道に出ると、街並み家並みは往時の風情豊かに落ち着いている、道は融雪装置付きと砂利道風浸透性にある舗装路で街並みに合っている、伝統的建物群を観ながら約西に約350m程で柏原御茶屋御殿跡の小公園があります、石碑と解説板と樹木が植栽されて御茶屋跡を偲ばせている。
 更に西に約200m行くと柏原宿一里塚跡が在ります、黒塀、黒基調の建物が風情あり、郷宿、柏原銀行跡、柏原宿歴史資料館、旧造り酒屋などの建物で、江戸の町に紛れ込んだ様です。
 
 解説板によると
 江戸時代の初め、将軍上洛下向の際の宿泊・休息の目的で、街道の各所に設けられた館で、天正18年(1588年)徳川家康が上洛の際、当地の西村家で休息。以後、中山道通過の際の恒例となっていたが、通過が頻繫に成った為、元和9年(1623年)二代将軍秀忠が殿舎を新築。以後御殿番を置いて守備してきた。
 その後、徳川幕府の勢力増大につれて将軍上洛は減少、元禄2年(1689年)ついに当地御茶屋御殿は廃止された。
 

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ぴーかる

大草城 (2024/05/25 訪問)

【大草城】
<駐車場他>福厳寺駐車場に駐車し参詣してから徒歩で白山神社(大草城跡)に行きました。
<交通手段>車

<見所>土塁・曲輪
<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第3弾5城目。現地説明板によると大草城は文安年間(1444~1449年)に西尾式部道永によって築城されました。道永は三河西尾の出身といわれ、その後岩倉織田氏に仕えました。織田氏の家督争いから1548年頃この地を離れて廃城となったようです。西側の白山神社入口からすぐに竹林の曲輪跡がみられます。平山城というより丘城で南側に対してはやや比高があるが、残り3方は緩やかに高くなっています。最頂部の城跡碑・祠から東西に土塁が伸びています。南と西方向の竹林にひな壇状の曲輪が降りていっています。筍採取の為に土地整備されているかも分かりませんが、曲輪段がはっきりしています。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

登りは急! ゴム手袋を用意して行った方が良い (2024/02/11 訪問)

水茎岡山城は標高188mの岡山(大山)の頂部に築かれ尾根上に東西に遺構が残っています。南側にも遺構が有るようですが、状態が良くないので山頂の遺構を散策するのにとどめています。
北東に位置する水道施設に向かう急な階段を上っていくと途中から更に道が悪くなります。急な登り坂をトラロープを頼りに登って行くのでゴム手袋を用意しておかないと手のひらにダメージを受けてしまいます。城址は荒れ放題で正直、ここは城びとしか来てないんじゃないかと思います。上まで登りきって尾根上を西に移動して行くと、ほどなくして、かなり大きな堀切が見えてきます。その先にも曲輪があり南側には腰曲輪が配されています。さらにその先の堀切まで行き、この日は引き返しました。この周辺が主郭か二郭だと思います。
水茎岡山城は南北朝時代に佐々木氏によって築かれたとされ、永正5年(1508)室町幕府の11代将軍・足利義澄が六角氏被官の城主・九里信隆を頼って城に入った頃に本格的な築城が成されたとされています。また、当城で後の12代将軍・足利義晴が誕生したとされ、同年に足利義澄が帰洛を果たせぬまま、ここで亡くなったとされています。

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しんちゃん

アディオス八王子城。そして謎のオヤジ。 (2024/01/28 訪問)

八王子城投稿 5回目にしてようやく御主殿に到達です。普通最初に来るところですが、今回の訪問では山上の遺構を優先しました。いろいろありました、本丸行って、整備道通ったら西の曲輪いったり、謎のオヤジと遭遇したり‥。
ここ御主殿には「主殿」「会所」とされる大型の建物の礎石が検出され、主殿は北条氏照の居館跡であったとされています。他にも敷石通路や庭園跡の遺構が発掘されており、盛土を60cm施した後、忠実に再現がされています。ひとしきり訪問を終え、疲労感と満足感に浸ります。きっちり3時間半はかかりましたが、それだけの甲斐は有りました。帰り道にはさっきのオヤジがいなくなっています。ノルマを果たしたから帰ったのかな?
ひょっとしたら、この八王子城に住まう妖精だったのかもしれません。あなたも運が良ければ謎のオヤジに会えるかもしれませんよ。運がいいのか悪いのか知らんけど。

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todo94

クリークの城 (2024/07/13 訪問)

蒲池城からの転戦です。戒音寺辺りが城跡とのことで戒音寺周りにはクリークが巡っていました。近くの皿垣小学校は2024年度をもって閉校となるようです。

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シャンシャン

さんじゅーろー人形GET‼ (2024/07/13 訪問)

新発売となったさんじゅーろー人形をあしあと館でGET‼
本物との記念写真も撮影(^^♪
人出もそこまで多くなく、さんじゅーろーとたくさん触れ合うことができた。

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