根古地城(城びと未登録)は、徳永寿昌の子・徳永昌重の城と伝わりますが、詳細は不明です。天照寺が城跡とされるものの、遺構はもとより石碑も説明板もなく、わずかに微高地に城の名残を感じるくらいです。
天照寺は宝暦治水工事に携わった薩摩藩士と関わりが深かったそうで、墓地には3名の義歿者墓があり、境内の薩摩義士資料館には義士の位牌や過去帳、埋葬に用いられた甕(復元)などが展示されている……ようですが、訪問時は閉まっていたため未確認です。天照寺から北西に徒歩5分には根古地薩摩工事義没者の墓があり、慰霊堂にはこの地に埋葬された24名の遺骨と位牌が安置されています。また、天照寺の南東約1kmには、宝暦治水工事の総奉行を務めた平田靱負の役館跡が大巻薩摩工事役館跡として史跡指定されており、平田靱負をはじめ治水工事で命を落とした義士の顕彰供養堂や平田靱負の像が建てられています。
…根古地城にかこつけた宝暦治水史跡めぐりになっていますが、「その時歴史が動いた」の宝暦治水の回を観て、涙で画面が見えなくなるほどに感動した者としては、平田靱負最期の地を訪れるのは十数年来の念願であり、平田靱負翁像を仰いでも、説明板を読んでも、辞世の碑を見ても万感胸に迫るものがありました。とどめは駐車場に設けられた桜島が描かれた「薩摩義士へ感謝をこめて」の碑。故郷の桜島を再び目にすることも叶わず病に斃れ、抗議の切腹をした彼らがどんな思いだったか…。けれど、彼らの義挙がこの地の多くの人々の生命と生活を救ってきたからこそ、260年あまりを経た今も顕彰され続けているのだと考えると、彼らを義士と呼ばずして何と呼ぶ、との思いを新たにしました。
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