本丸を終えて二の丸南内門、未申櫓、辰巳櫓を中濠越しに撮影し三の丸追手門を見学撮影、弘前城には現存の桝形櫓門が健在です、南の三の丸に追手門桝形、二の丸の南に南内門桝形、先に登城入口の東の三の丸に東門桝形、二の丸の東に東内門桝形、北の四の丸に北門桝形またの名を亀甲門桝形と五つの桝形を備えた現存櫓門が有ります、国内でも稀な現存桝形櫓門の残りを誇っています。
先ずは追手門と南内門の写真投稿致します。
現存桝形櫓門の東門と東内門に続きます。
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2024/06/10 16:06
現存桝形櫓門の追手門と南内門-4/7 (2024/05/20 訪問)
本丸を終えて二の丸南内門、未申櫓、辰巳櫓を中濠越しに撮影し三の丸追手門を見学撮影、弘前城には現存の桝形櫓門が健在です、南の三の丸に追手門桝形、二の丸の南に南内門桝形、先に登城入口の東の三の丸に東門桝形、二の丸の東に東内門桝形、北の四の丸に北門桝形またの名を亀甲門桝形と五つの桝形を備えた現存櫓門が有ります、国内でも稀な現存桝形櫓門の残りを誇っています。
先ずは追手門と南内門の写真投稿致します。
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2024/06/10 14:42
閑話:砂利道7選+α
チャシが7か所続いて少々飽きてきそうでしたので目線を変えて一旦休憩
城の訪問時を除きバイクで出かける際に砂利道に出くわすと迂回して走行します。普段は道路工事中の砂利道を渋々走行する程度でしょうか。この2週間余りに城跡に訪れたり絶景を求めていたので過去数年分の砂利道を走り抜けました。そこで色んな意味で記憶に残る砂利道を書き出してみたいと思います。〇印が城跡関係です。
※この投稿は北海道並びに関係自治体や所有者に対してのバッシングではありません。歩いていく(熊の脅威は別として)、車で行くなど危険を回避すれば良い話です。バイクで行ったが故のいわば副産物の投稿です。零汰の戯れ程度とお考え下さい。
〇、ユクエピラチャシ訪問時の道道143号線・・・峠超えの山間部をぬうクネクネした砂利道です。別ルートを利用すれば問題ありません。
〇、桜丘チャシに至る砂利道・・・ここを訪れる場合は必ず通る1km程の砂利道。訪問時は道路工事終了直前の様子で砂利が深かったですが、体力のある時期に訪れたので少々苦労した程度です。
〇、鶴沼チャシに至る砂利道・・・ここも必ず通る道、坂道カーブがあるので出来れば避けたいところです。別の砂利道で迷いこんだので3km程度走る事となりました。写真1
〇、茂別館に至る砂利道・・・境内まで砂利道で行く事が出来ますが、坂道カーブそして砂利が大きいです。後半戦で疲弊の出始めていた頃で難儀しました。
・、コッタロ湿原と釧路湿原を繋ぐ砂利道・・・とにかく景色は抜群です。湿原を歩いて眺める場所は幾つもありますが、車窓から眺める事が出来るのはここだけではないでしょうか。深砂利部分が所々ありチラ見程度しか出来ませんでした。5km程度の長さでしたが、舗装すると人が殺到してしまうかもしれないので舗装を避けているのかもしれません。
・、十勝牧場白樺並木と展望台に至る砂利道・・・並木道を舗装してラインを引いた風景を想像すると味気なくなります。現状維持が良いと思います。展望台に向かう途中で挫折しました。深砂利+登りだったからです。写真3
・、礼文林道・・・8km弱の砂利、土混じりの林道です。絶景を見たくて無理をして走行して転倒した場所です。これは全て自身の責任で私が悪いです。想像通り絶景でした、緑の時期だったらもっと良かった事でしょう。写真4.5
番外、志苔館入口・・・勢いよく入り込んで身動きが取れなくなった場所です。道路に出すのを苦労しました。こちらの入口は車でも苦労しそうです。写真2
番外、白い道・・・宗谷丘陵にある最近観光客の増加した場所です。砂利ではなく帆立貝を粉砕して撒いていて景観は良いです。道に浮いた砂や小砂利と変わらず滑るので気にしながらの走行となりました。
くだらない与太話でした。いずれ小ネタが溜まったら息抜きに城に絡めて投稿する事があるかもしれません。
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2024/06/10 13:28
一回も展望台に入れていない。 (2024/06/08 訪問)
大草城には2013年と2021年と三回来ています。なんとなく展望台に登ったような気がするのですが、古い写真を見ると、一回も登ってない。そうだったのか‥。現状、変な城型オブジェです。そういえば、本丸と二の丸の草も荒れてきている気がする。
展望台が整備されて、草をキレイに刈ると良い公園になるんだけど、ちょっともったいないですね。
大草城は本能寺の変の後、織田長益(有楽斎)によって築かれたとされています。江戸時代は尾張藩によって城址が保存されていたので江戸末期まで堀や土塁が良好に残っていたようです。現在残っている遺構が当時のものかはわかりませんが、そうだと思ったほうが、訪問時のテンションは高いです。
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2024/06/10 13:09
白山神社と円観寺が城址 (2024/06/08 訪問)
知多半島東岸側、白山神社と円観寺のある丘陵が城址のようです。遺構かどうかは不明ですが、白山神社の背後にはうっすらと土盛りがあります。当地の武雄天神社の祠官・岩田氏が長尾城の支城として築いたとされています。
やがて河和戸田氏がとってかわり、戸田孫左衛門(法雲)が居住したとされますが、今川氏についた戸田氏は水野氏や、その後ろ盾の織田氏の攻勢を受け、桶狭間の合戦の後に廃城になったようです。
ちなみに今日も屋根の修理の業者が来ています。家も築40年もたってくると修理が大変ですわ。
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2024/06/10 13:01
会下(えげ)山 (2024/05/04 訪問)
吉川英治の「私本太平記」を読みました。楠木正成の最後の戦い、湊川の戦いの描写のなかで「会下山」が要衝であり、西から押し寄せる、足利の大軍に対し、700騎ほどの少数で楠木正成がここに陣を張ったとされています。新田義貞は、会下山南麓から和田岬に布陣し、楠軍と合わせて、(六甲山〜)会下山〜和田岬(〜瀬戸内海)を防衛ラインとしました。
会下山に登ってみると、傾斜は急だが、比高はそれほどでなく、かつ広い頂部をもった独立峰で陣を構えるのに適しており、また、六甲山と瀬戸内海に挟まれた狭い平地を塞ぐ要衝であることがよくわかりました。
山頂に東郷平八郎元帥揮毫の「大楠公湊川陣之遺蹟」の石碑があります。
南側中腹に、牧野富太郎植物研究所跡があり、得した気分。
また、この辺りは、平清盛が作った福原京、一之谷の戦いの場所とも被ります。
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2024/06/10 11:58
現存二の丸三つの隅櫓・三階櫓-3/7 (2024/05/20 訪問)
本丸の石垣積直し作業現場見学、曳家位置の天守閣を内外からの見学を二の丸に現存する三つの隅櫓を中濠越しに見学、二の丸内からの見学をしますが桜の葉が茂り良く観る事が出来ません。
二の丸南西の未申櫓・三階櫓、二の丸南東の辰巳櫓・三階櫓、二の丸北東の丑寅櫓・三階櫓が現存で天守閣を入れると四の三階櫓が現存し弘前城はまた五つの桝形櫓門も残っており、日本では大変貴重な城郭です。
時間切れで三の丸植物園が閉門しており辰巳櫓が良く観える場所の確保が出来ませんでした。
夕刻も迫り駆け足で未申櫓、辰巳櫓、丑寅櫓を廻り、東内門前の与力番所も残っており投稿させて頂きます。
現存桝形櫓門追手門と南内門-4/7に続きます。
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2024/06/10 11:00
今しか見れない曳家位置天守閣-2/7 (2024/05/20 訪問)
石垣積直し作業現場の通路見学を終えて、本丸・天守閣見学時間期限15分前に本丸へ、赤い下城橋、馬出、本丸桝形虎口の鏡石が多く立派な巨石が目を引きます。
先ずは時間ギリギリの今しか見れない曳家位置天守に登閣、靴のまま入る事が出来ました、1階の弘前城本丸模型を見学、2階3階と登り、銅板瓦を格子窓越しに観察、同じく破風周りの瓦、鬼瓦を観察、曳家での鉄H鋼組が痛々しいが致し方無い。
時間切れに見学終えて、本丸の展望デッキより曳家位置の天守閣を眺め工事現場も眺めるが作業も本日は17時で終了。
曳家位置の天守閣も目に焼き付け一生の思い出です。元の天守台に戻る日を待ちたいと思います、だいぶん年を取りましたが青森弘前に来る事が出来るでしょうか?車での駆けつけは無理でしょうから新幹線?飛行機?でしょうか?
現存三隅櫓(三階櫓)-3/7に続きます。
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2024/06/10 10:24
今しか見れない本丸石垣大修理-1/7 (2024/05/20 訪問)
堀越城の復元土塁・堀に大感激の後、平成15年初登城の弘前城へ夕刻3度目の登城、今の時期しか観れない本丸・天守台石垣修理工事及び曳家位置天守閣の見学体験が主目的。
駐車場:弘前文化センター駐車場を利用(門限は22時まで)
参考資料:グーグルマップ、弘前城パンフレットに依る。
弘前文化センター西広場の藩祖津軽為信公像を拝見して、東門より登城開始、東門、石橋、東内門を通て本丸東面の石垣修理現場へ、見学通路が内濠沿いに設けられて見学観察しやすくなっている、弘前城本丸石垣修理事業(100年振りの大修理)内容案内板と弘前城本丸東面の石垣を知らしめる案内板が見学通路前に掲示されていた。
上面にはシートが掛けられて雨を凌ぎ、石垣工事現場は仮設足場が掛けられ、クレーン車での吊り作業、ひと石、ひと石丁寧な石垣積直し作業が繰り返されて居ります、工事の告知看板には令和7年3月15日までとなって居ましたが、期限通りに行くのでしょうか?
また本丸天守台横に曳家天守見学展望デッキが有り石垣工事、天守閣、遠く岩木山を見る事が出来ます。しかし岩木山は当日当時間には雲で良く観れず。
完成竣工が待ち遠しい事です。
今しか見れない石垣積直し工事です。
曳家位置天守閣-2/7へ続きます。
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2024/06/09 22:12
幻の城 (2023/12/02 訪問)
長くこれこそが善徳寺城の遺構だと信じられてきた枡形状の石垣が当時の城の遺構であるはずはなくこの地で行われたと言われてきた善徳寺の会盟も存在しなかっただろうというのが定説となるなどいろいろ幻想感の漂うお城。
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2024/06/09 22:04
「私の兵糧丸…〇」 (2024/06/09 訪問)
朝田さんとチェブさんのやり取りを生暖かく見守っていて、余計なこと言わずに大人しくしてようかな~と思っていたのですが、
何となくチェブさんの返しが‥ちょっと無茶しそうですね(笑)
お気持ちはわかりますぜ。無理しないようにといいながら、時として無理をしたくなるのが人情というもの。じっとしててもストレスがたまりますからね。
私の兵糧〇、もとい兵糧丸ですが、膝に負担をかけないよう常にストックとサポーターは持ち歩いています。膝まわりの筋肉が疲れると、膝そのものに負担がかかって来るので、一日中動き回るときは平城でもストックを使用する場合もあります。少々周囲の目が痛いですが、明日も城を攻めるためにはやむを得ないと考えています。ロキソニンテープは膝に張り付いて適度に筋肉を刺激するので、会社にいるときや、軽い運動の際に良く使います。成分がじわじわ膝に浸透して来るので、常時使い続けるのは良くないですね。
熊スズは必須です。秋田の山奥の熊は威嚇なしで突っ込んでくるらしいので、東北に行っても無茶はしないようにするつもりです。写真に写っていませんが、スマホには国土地理院の地形図を読める複数のアプリをダウンロードしています。
また痛み止めのロキソニン錠剤も携帯しています。数日歩きづめだと、どうしても足にマメができてしまうので(超イタイ)その際には重宝します。ただ膝痛にはお勧めできません。マメは数日で治りますが、膝痛は長期的なものですので。
ちょっと話が長くなりましたが、足の爪も爪床が健在なようで安心しました。少し心配なのは複数の症例を抱えているようなので、いずれかをかばった結果、別の箇所が悪くなることですね。足の爪も専門のクリニックもありますし、いろいろアイテムを使ったり、小技を駆使して全体の負担を和らげると良いのでではないでしょうか。
差し出がましいようでございましたが、ふだん小技ばっかり使っている、しんしんちゃんでした。
ご安全に!
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2024/06/09 21:29
岩崎城 空堀と土橋と櫓台 (2024/02/24 訪問)
小牧長久手の戦いに関する城として興味が湧き、2月に訪れた愛知県日進市の岩崎城。
尾張東部の丘陵地帯、天白川水系によりつくられた平地との縁に築かれた城。
平地部と本丸の比高は約15mで、その北に馬出状の二の丸、その東西に東曲輪と西曲輪を配置した縄張。
尾張の東端に位置しており、飯田街道の国境の往来を監視していたでしょうか。
築城主やその時期は不明だが、一説では1520年代に信長の父・織田信秀が築いた砦が始まりとのこと。
城主荒川頼宗は松平清康に敗れるが、守山崩れで松平軍は撤退。
無人化した城を1536年頃に土豪の丹羽氏清が修築し、以後1600年まで岩崎丹羽氏4代の居城となりました。
現在は本丸と二の丸が岩崎城址公園として整備され、本丸には展望塔(模擬天守)と歴史記念館が建つ城跡。
実際に訪れると、小さな城ながら本丸と二の丸間の空堀がダイナミック。1584年の小牧長久手の戦いに伴い拡張されたと推定されている模様。
土橋は本丸側が東に曲がる構造で、長篠城同様に食違タイプの虎口だったのでしょうか。更に西の櫓台からは横矢が掛かる仕組み。
その櫓台は地元で"オテンシ"と伝わっており、天守のような建物が存在したかもしれないのだとか。
妙仙寺までの周辺探索を含めて約3時間滞在した、私の城郭巡りの175城目でした。
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2024/06/09 21:10
創建1300年の多賀城 あやめ園を散策 (2024/06/08 訪問)
東北歴史博物館で開催中だった「世界遺産大シルクロード展」も9日までということで、多賀城市を訪問しました。開催期間末も近かったせいかなかなかの混みようでした。
ついでに多賀城跡に程近い多賀城あやめ園を訪問。こちらは6月15日から21日まで「あやめ祭り」を開催予定で、少し時期が早かったのですが綺麗に咲いていて楽しめました。
今年は多賀城創建1300年の年にあたり、この春に国宝指定が決まった「多賀城碑」(壺碑)や、来年4月の完工に向けて工事中の南門・築地塀にも。整備の進む多賀城附近は見所も多いですね。
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2024/06/09 20:42
朝田 辰兵衛さん、ありがとうございます。 「日新館」の巻き。 (2015/05/05 訪問)
カルタの悔しい思いを『中野 竹子殉節地』になぞりました。
『中野竹子殉節地』から車で15分位で「日新館」に到着します。こちらで、今の気持ちを表します。
「日新館」は会津の藩校です。
朝田 辰兵衛さん、ありがとうございます。
まさしく私も、上総のお城攻めで6時間以上歩きました。
以前【私の兵糧丸】で投稿したトレッキングシューズでです。
私は車ばかりで、皆さんのように公共交通機関でお城攻めをしたく、張り切ってしまいました。
体力がなく、筋力をつけようと、いきなり歩いたのと、歩き方が爪先から着いて親指で地を掴むように歩いているのが原因です。
取れた爪の下には、新しい爪が、、、。
孵化したカブトムシみたいな丸まっている爪でした。
今は無理せずに籠城してます。
『ならぬことは ならぬものです』
掟にあります。
膝は相変わらず少し痛いです。慣れてきたのかもしれません。
『ならぬことは ならぬものです』
ならぬと言われても、これくらいならなー。
会津藩の掟にそむいても、お城攻めをしたいのです。
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2024/06/09 19:49
チャシってこんなに美しかったんだ (2024/05/13 訪問)
突然道道143号線が砂利に変わった。スマホは圏外、時間は8時過ぎ、朝から小雨が降っている。少し考えたあと山間に沿って峠に向かって登って行く道路を進んで行った。のび太君さながら半べそになりそうになるがドラえもんはいない。クラクションを頻繁に鳴らせながら進んで行くと「すべる」と書かれた道路標識が目に入る。標識にひとりツッコミもできる余裕もない程の時間を過ごしながら進んで行く。「道道だから大丈夫」と思っていた昨日までの自分はいない。
白樺の合間を歩いていくと小さいながらも草原がある。少し多めの木立が見えてきた。その光景はまるでどこか外国の様。バイク用の裾の長い合羽を引きずりながら寄っていく。立木と地面の起伏が「俺を見ろ」と言っているかの様に感じる程の圧倒感があった。雨のおかげで一帯は光って見える。砂利道で四苦八苦した事も最高の状態で見る為の演出だったかのではないだろうか。チャシってこんなに美しかったんだ。こちらも初見の勝利です。
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2024/06/09 17:51
チェブさんへ~歩き続けて足の指黒くなる,爪取れる…~ (2024/04/13 訪問)
以前のチェブさんの投稿で,「歩き続けて足の指黒くなる,爪取れる…」とありましたが,私も経験あります。ちょっと調べるのに時間がかかりましたが,ご容赦ください。
2019年7月12日,初九州,初福岡県の攻城時のことです。西鉄太宰府駅から徒歩開始。岩屋城,大野城と巡り,再び西鉄太宰府駅に戻るのがイヤだったので,山越え(もみじ谷越え)して,水城を散策。西鉄都府楼前駅に戻り,ホテルを予約してある天神まで。約6時間半歩き続けました。4万歩超え。実は,大野城散策中に右足の靴紐が切れました。必然的に足の指先に力を入れる形で負荷をかけ過ぎたようです。この時,右足の人差し指の爪が少し長かったのが一因となり,結果して「歩き続けて足の指黒くなる,爪取れる…」となりました。
対処は放置プレイ。なるべく指に負荷をかけない歩き方で。約8ヶ月後,自然治癒力で回復の実感がありました。さらに2ヶ月して,完全復活しました。人間の再生能力を実感したワンシーンとなりました。ご参考になさってください。
さて,清水城ですが,todo94さんの投稿にもあるとおり,チェブさんのようにマイカー攻城の方におススメの城です。外堀のすぐそばに駐車場があり,内堀までのまっすぐな散策道(大手道)が舗装されています。内堀から本丸までは「ちょいダウンして,ちょいアップ」。ここで達成感を満喫できるでしょう。
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2024/06/09 16:06
大府のチョコ城もあなどれない (2024/06/09 訪問)
知多の城攻め(リピート)の前に吉川城に寄って来ましただ。国道沿いに城址碑があって、姫街道さんの投稿に熊野神社にも土塁があるって書いてあったから、裏手に回ってみたら、土塁に堀切まであるじゃねえだか。おら、びっくりしただんべ。
ひょっとして、こっちが本丸でないかい? びっくりしたもんで「田吾作しんちゃん」になってしまっただ。
はいはい‥田吾作さんお疲れ様。ちょっとびっくりしすぎですよ。でもたしかに熊野神社は本丸の構造をしてますね。土塁の付き方が神社の土塁とは少し異なります。周囲を土塁がめぐり、東側には櫓台のような箇所があり、周囲を見渡せます。北側には堀切があり、水の手の池が有りますね。ひょっとするかもしれませんね。
神社の張り紙を見ると、末社御嶽神社の石には花井城主の正妻様がお鎮まりになっておられたと‥吉川城の花井勘八郎さんの奥様のようです。じゃあ、やっぱりここが本丸でよいだべか?
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2024/06/09 15:57
暴れ川 (2016/06/09 訪問)
利根川の氾濫をどう抑えるかは、徳川家康の関東入府以来、大きな課題のひとつでした。前橋城(現在の群馬県庁あたり)は天然の要害でしたが、激流に侵食されて修復を重ねたのち、1769年に廃城。現在は石垣、土塁、堀のそれぞれ一部が遺構として確認できます。
破却後100年ほど、前橋領は川越藩の分領として陣屋支配となりましたが、幕末になって城の再築という例外措置がとられます。おもな背景に横浜開港をきっかけとした生糸産業の隆盛と、それに伴う奇跡のような財政再建があったとか。
9代150年にわたり前橋を治めた酒井家にあって、大老にまで上り詰めたのが4代「下馬将軍」忠清。徳川四代・家綱期に権勢を振るった専制政治家と評されがちですが、なかには失脚後の風説から流布した、真偽不明のエピソードも含まれているとの指摘もあります。
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2024/06/09 14:52
鈴岡城 (2024/04/20 訪問)
【鈴岡城】
<駐車場他>鈴岡城址公園駐車場
<交通手段>車
<見所>堀切・曲輪
<感想>日帰り伊那郡河岸段丘平山城の旅1城目。現地説明板によると鈴岡城の始まりは不明な点が多いですが、南北朝時代に小笠原宗政が築いたとされます。15世紀後半に政秀が在城してからは鈴岡小笠原家は伊賀良庄と信濃守護職を巡り松尾小笠原家と争いました。1493年と1554年に松尾小笠原家に攻められ落城しました。落城した時の城主小笠原長時の兄は信濃小笠原家の当主(林城:国史跡小笠原氏城跡)で、武田晴信に攻略され、兄と共に摂津の三好長慶の客将となります。その後城は松尾小笠原家の支城となり、1590年に廃城となりました。
現地は公園化されていまが、遊具は二の丸跡の一部にあるだけで、各々の曲輪には芝生が植えられ非常に見やすく、散策しやすい城跡です。各々の曲輪を仕切る堀切は幅広で深く、見応えがあります。出丸跡から鈴岡小笠原氏と敵対していた松尾小笠原氏の松尾城が谷を挟んで近くに見えます。あまりの近さに当時の緊迫感が伝わってきます。城は谷で分け隔ててはいますが、当時の領地はどのように分けていたのであろうか?領民はたまったものではなかったでしょう。
<満足度>◆◆◇
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2024/06/09 13:38
軽い登山気分 (2024/06/07 訪問)
前回は富士見台から太鼓曲輪まで足を伸ばしたが、小宮曲輪を飛ばしていた。今回は小宮曲輪だけはと出かけた。旧道は新道に比べ幅狭だがしっかりしている。柵門跡近くで旧道が新道の尾根に近づくと、尾根下に石垣が見え出す。柵門跡から更に登り小さな高丸、巻いて東斜面に出れば一番の展望が得られる。開けた平地に東屋が建ち、上の段の中曲輪に綺麗になった八王子神社が建つ。東屋の背後から小宮曲輪へ、夏草が多い狭い道を登れば石が散乱する虎口風な場所になる。東に向かい狛犬があり、参道らしいが奥に社殿はない。草が多く全体像がわかりにくい。
小宮曲輪・本丸・松木曲輪と回って詰城へ向かう。井戸跡の坎井(カンセイ)はブルーシートに覆われている。下れば堀切の底に出て、登り尾根歩きになる。詰城まで小さなピークが3ヶ所あるが、2つ目辺りから石が散乱しだし、足元斜面に張り付いた石もある。公式HPに詰城南尾根石塁と載っている。北尾根石塁が分かり易そうだが、草が枯れた頃に訪問したい。引き返し御主殿跡と御主殿の滝を見学する。
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