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チェブ

土岐 頼芸さんの点と点。 (2024/01/03 訪問)

「岐阜城」の後に「鷺山城」に転戦しました。
1185年~1190年頃、常陸の佐竹氏が築いたのが「鷺山城」の始まりのようです。
ほー、常陸?
室町時代になると、土岐氏が美濃国守護になり「鷺山城」に頼芸さんが居城しました。
その後、斎藤 道三さんに頼芸さんが追放されます。
道三さん、「稲葉山城」を譲って「鷺山城」で隠居しました。

東京の端っこは、北条家の縁のお城が多いのですが、斎藤 道三さんのビッグネームにテンションが上がります。「鷺山城」は帰蝶さんが信長さんに輿入れしたお城です。ドラマや書籍のいろんなシーンが思い出されます。

以前、追放され逃げて来た、土岐 頼芸さんの「江戸崎城」に行きました。茨城県稲敷でした。
ほー、またもや常陸。

「鷺山城」、『鷺山公園』には駐車場がありません。駐車できるかな?と空き地には『駐車禁止』とあります。
公園は整備され、階段が上へと続いています。
と、ここで退陣。
相方の具合が悪くなり、ホテルへ。
「岐阜城」もヘロヘロだったので、100名城スタンプを押し退陣しました。
因みに頼芸さんは、まだ美濃国守護がお兄さんだった頃、「稲葉山城」から見下ろす事ができる「鷺山城」へ入れられたんだとか。
この私たちのトホホ具合を、頼芸さんはどのように見ているだろうと思った「鷺山城」入口攻めでした。

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しんちゃん

綾・国際クラフトの城。 (2014/01/11 訪問)

古の写真をほじくり返していたらこんな城が出てきました。築城時期は1331~1334年頃と見られ細川義門による築城とされています。義門の息子義遠は綾氏を称し後に伊東氏の配下に入り伊東四十八城の一つと目されるようになりました。ちょっとイケてる模擬天守のある場所が本丸と見られ北西に郭が連なって間を堀切が仕切っていたようです。再現された大手門のあるあたりが二の丸のようで綾・国際クラフトの城に関わる施設が建っていて陶芸や織物など様々な工芸体験ができるようです。
良い感じにかつての城跡が活用されていて綾氏のご先祖様もあの世でご満足されているのではないでしょうか。

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しんちゃん

日向三高城 (2014/01/11 訪問)

月山日和城は別名「高城」といい高城と穆佐城(これも高城)と合わせて日向三高城と呼ばれていたそうです。築城時期は不明ですが肝付兼重による築城と伝えられます。戦国には島津氏・伊東氏・北郷氏・伊集院氏と次々と城主が変わりますが元和元年(1615)の一国一城令によって廃城になったとのことです。模擬天守の建つ池の城の他、6つの曲輪を持ち空堀で区切られますが、予備知識なしで訪問したので池の城しか見ていません。正直次はいつ訪問できるかわからないので、えいやで登録してしまいます。ご容赦を‥

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とばつびしゃもん

灯台が立つ城 (2023/07/16 訪問)

登城前、讃洲井筒屋敷で続日本100名城スタンプポン。讃洲井筒屋敷では城址資料の展示を見学するとともにパンフレットを入手し、引田ぶりの漬け丼でお腹を満たしていざ城址へ。
登城口前にある専用駐車場に車を駐車し登城開始。当時の登城道とは異なる遊歩道。いきなりの急登を20分弱進むと本丸分岐点へ到達し、そこから左回りで攻城。本丸を通って遊歩道を上り下りし、化粧池を経由して引田鼻灯台へ。穏やかな瀬戸内海のブルーが眼下に広がる。
東の丸を通って分岐点を右手に進み北二の丸では見どころの石垣が見られる。北曲輪まで行ってUターンし大手門の石垣を見る。南二の丸を経由して本丸へ戻り登城口へ下る。
城内は木々が生い茂っているが遊歩道は整備されている。約90分の攻城。

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枡形ともき

玄宮園

玄宮園と彦根城に行ってきました。
玄宮園からよく天守閣が見えました。

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しんちゃん

山陰グルメ 砂場コーヒー&出雲のウニ丼 (2019/05/02 訪問)

ちょっぴり地味な印象のある山陰地方、鳥取県と島根県ですが見所はたくさんあるし良い城もいっぱいあります。おいしいものもあるんですね。鳥取県の知事が「スタバ(スターバックス)は無いけどスナバはある」と発言したのが「すなば珈琲」爆誕のきっかけらしいです。某有名タレント様の発言も影響があるみたいですね。写真使用の許可をいただくと同時に近況をお伺いしたのですがコロナ明けの人手不足が続いていて水木ロード店の店主さんもお忙しいようです。遠く三河から応援してます。
島根県の日御碕は神社や灯台が有名ですが海の幸も豊富にあります。私はウニ丼とサザエのつぼ焼きを頂きました。昔は海と言えば日本海側がメジャーだったんですね。マ〇コ様、鳥取県には砂だけでなくて良い城跡やすなば珈琲がありますよ。

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イタさん

広大な城址公園 (2024/01/17 訪問)

主郭部は荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれ、交通の要衝で上野・甲斐・信濃方面を押さえる地点でした。文明8年(1476)関東管領・山内上杉氏の家臣、長尾景春が築城したと伝えられ、後に藤田泰邦に入婿した、北条氏康の四男氏邦が整備拡充した。天正18年の小田原攻めでは、重要な支城として、前田・上杉等の軍に包囲され、一月余りの籠城戦後、氏邦は6月14日に城兵の助命を条件に開城しました・・・と案内板に記されている。

3年前に外曲輪の南、馬出付近を見ていなかったため再訪。鉢形城歴史館~外曲輪北東の馬出付近~深沢川~笹曲輪~本曲輪~二の曲輪~三の曲輪~諏訪曲輪~伝逸見曲輪~伝大光寺曲輪~鉢形城歴史館を大急ぎで見て回る。弁天池の東一帯は作業中(穴があき、補修中だそう)で入れなかった。歴史館(入館料200円)には、当時はこのような門かな、と思わせる矢倉門が出迎える。壁には細かく、成り立ち・北条氏などの説明が掛けてある。奥に城跡の立体模型が飾られている。更に先には計画展示室に土器等が展示されている。

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まっちゃん88

よみがえる まぼろしの名城 「鹿沼城」展(2024.1)

上記開催される様です。
https://www.city.kanuma.tochigi.jp/0528/info-0000007608-1.html

https://www.city.kanuma.tochigi.jp/0684/info-0000009343-1.html

1月27日に鹿沼城フェスタ2024も開催されます。

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登城道レポート (2023/01/06 訪問)

城びと先人の投稿を見て、行きたい城にノミネート。期待に違わず、コンパクトながら、堅い守りを感じさせる土の城でした。比高はありませんが、急傾斜の地形。舌状台地の根本側を守る広い堀や出丸(天王丸)。
先人の投稿で予習すると、アプローチは、3通り。私と前後して訪問された、とある煩悩の登城目録さんは、南西の大手道から行かれたのでしょうか。南麓の民家の私道みたいなところを抜けて行きます。田んぼの畦道は鹿、猪対策の柵が張り巡らされて、通れません。大手道登城道は整備、維持されてます。2019年11月に訪問された、ぴーかるさんは、国道沿いの駐車スペース、説明板の脇からの登城道を使われたようです。当時は、きれいに伐採されていると投稿されています。説明板に、「能勢地黄城築城400年記念事業2015.4」とあり、このときに、大手道とは別に、国道からアプローチしやすい道を作られたのかと思われます。2023年12月に訪問された、屠岸賈さんは、駐車スペースからの道は「薮藪で覆われ通行不可。少し北に歩き、Pみちくさの奥の小径に行くと、切通の脇から簡単に登れます」とレポートされてます。該車道から、天王丸に取りつくことができます。今回、登りは、駐車スペース脇から、行ってみました。冬場ながら、すすき等が生えて道が薄くなっています。丸太の土どめをたよりに進みますが、崩れ気味。本丸下の帯郭の道痕が薄くなっているところをわりと長く横移動させるので、ちと不安になります。最後に切岸を登って、三の丸にでます。下山は、大手道を使いました。大手道及び城域は、下草もなく、見学しやすいです。二ノ丸の小さなお社の木札が倒れてたので戻しておきました。

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ぴーかる

豊田城 (2023/12/17 訪問)

【豊田城】
<駐車場他>駐車場はなし。<34.606285, 135.848891>の倉庫前に停めました。
<交通手段>車

<見所>横堀・空堀・堀切
<感想>現地説明板によると豊田城の築城年は定かではありませんが、興福寺大乗院方の衆徒である豊田氏が築城し居城としました。豊田氏は越智氏、筒井氏の有力豪族に属していましたが1570年には松永久秀の傘下になっています。
 豊田城跡へは県道51号線から石神神宮への方向版のある農道に入ります。まっすぐ直線に進むと藪に埋もれた登城口と城跡説明板があります。登城口に豊田城0.5㎞とありますが実際は300m程で南郭に入り、登山道もありますので比較的登りやすいです。
 主郭・副郭を含む主要部と南郭は曲輪を横堀で囲んだ構造になっており、堀が深くて見応えあります。現地縄張り図では簡単に描かれすぎていて単純な感じになっていますが、堀、堀切が複雑に入り込んで、南郭~主要部、東郭からその東の尾根曲輪を含んだ全体が城跡部分になっていて城跡全体ではそこそこ大きい。南郭内部は藪化、南郭から主郭方向への道が藪化してしまっていて、藪が身長より上に茂っています。南郭虎口から左手北東方向に主郭土塁が見えますので目測で藪を突き抜けるとなんとかなります。
 主要部は広い副郭の削平地の北西部3分の1程の広さで1段高くした主郭があります。主郭全体と副郭北側は藪化して落ちたら危険なので奥に進みませんでした。主要部南側西側下は深い横堀になっており西に竪堀となって落ちています。西側下段は半分腰曲輪、半分が掘になっています。北側はその北側尾根と分断する堀切になっていて東側の堀と合流して北東方向に竪堀となって落ちています。
 東郭の更に東方向の尾根方向は尾根曲輪が続いていてピークの所に大堀切があります。水場は見つけられなかったので水場から続く堀がこれにあたるかと思われます。
 城跡は藪化・倒木が多いものの、入り組んだ深い堀に圧倒されます。いい城跡でした。

<満足度>◆◆◆

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シェル

迫力満点の土塁と空堀 (2023/10/21 訪問)

 JR常磐線 龍ヶ崎市駅(旧佐貫駅)から国道6号を進み、徒歩40分ほどで到着しました。
 隣の牛久駅からコミュニティバスが運行されており、大手門跡の石碑前の「城中北」のバス停で下車し、そこから馬出跡(説明板)までは徒歩10分ほど。
 北の馬出跡から登城。馬出跡の所に説明板があります。そこから南へ進むと、すぐ深い空堀を見ることができます!!
 空堀、土塁はかなりの規模で、土橋や虎口などの遺構もかなり残っています。
 中でもⅡ郭、Ⅰ郭の土塁と深い空堀は、かなり迫力があり、見ごたえたっぷりでした!!
 また竹藪も適度に伐採されていて、そこまで藪になっておらず、遺構はとても見やすかったです。
 東林寺城を経由後の帰りに北にある牛久城の大手門跡も見学しました。こちらには、大手門跡の石碑と説明板があります。

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しんちゃん

不思議な生態系が保たれている山上の猫の楽園 (2023/12/31 訪問)

仁保城は昔は広島湾に浮かぶ島に築かれた山城であり、広島湾北部を制圧する拠点であったと見られています。明応4年(1495)に白井光胤が武田元信から仁保島近海における海上諸公事の徴収権を安堵されており、すでに軍事的な拠点が築かれていた可能性はあるようです。やがて広島湾周辺の権益を求めて争いが勃発し、仁保城は大内氏の支配下に入り厳島の合戦前、天文23年に毛利氏の支配下に置かれました。
現在はテレビ塔が置かれている関係で山上まで車道が通り多くの人が訪れているようです。本丸跡には展望台が置かれ周囲の眺望は良好です。本丸の南のもう一つの頂部にはテレビ塔が築かれ、ここが二の丸跡のようです。階段に複数の猫がいました。この周辺やたらと野良ネコが多かったですね。猫の邪魔をしたくないのでテレビ塔までは登っていません。
二の丸周辺で猫にエサをあげている人達がいました。ここを訪れている人たちの何割かは猫にエサをやりに来ている人たちのようです。他にもお気に入りの猫にエサを挙げている人が何人かいました。十匹くらい猫を見た気がします。おそらくもっと多いですね。
周囲にエサ場などなさそうなので彼らは訪れる人の持ってくる食料で生き繋いでているのだと思います。カラスもいたと思います。子猫や弱っている猫を狙っているのでしょうか。不思議なバランスでこの山上の猫の楽園は保たれているような気がします。
通りすがりの城びとは深入りはせず、その場を去るのでありました。

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しんちゃん

加古川評定と賤ヶ岳の七本槍 (2023/12/30 訪問)

加古川城の歴史は古く、寿永3年(1184)糟谷有季が印南郡南条郷を与えられ、その時に加古川城を築いたと考えられています。鎌倉時代には播磨の守護所であったとされ糟谷氏は守護代の職にあったのではないかと考えられています。同族と思われる糟谷氏は六波羅検断職にありましたが六波羅探題の滅亡に際して一族共に近江・蓮華寺で自害してしまいます。播磨の糟谷氏は行き残ったものが赤松氏に仕えたとされています。
天正5年(1577)羽柴秀吉が毛利討伐の議を「糟谷の館」で開いたとされ、これが加古川城とされています。12代当主の糟谷武則は秀吉に味方し加古川城は三木城攻めの重要な拠点になったようです。武則は後に賤ヶ岳の戦いで武功を挙げ七本槍の一人とされ加古川城主として3万5000石を与えられています。
城跡は現在称名寺の境内になっており、お城の櫓のようなイケてるお堂が建っています。門前の溝がお堀に見えて仕方がないです。

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朝田 辰兵衛

2023年のラストは,ココの🗻 (2023/12/18 訪問)

2023年のラストは,小磯城から富士山を眺望。攻城するにあたり,にのまるさんの投稿を参考にしました。旧島崎藤村邸,旧吉田茂邸をコースに組み入れました。しかしながら,月曜日は休館日。外から眺めるだけにとどまりました…<泣>。

そうそう,赤い城さん,先日は多摩川南部情報ありがとうございました。小沢城はGW前半に予定しています。「おざわじょう」も「こさわじょう」も…<笑>。この2つは,少々雨が降っても決行予定です。
赤い城さんの投稿で,神奈川県でワクワク感が膨らんでいる城があります。「七沢城」です。山ビルを恐れて(赤い城さん以外)リハ病院前だけで終わっていますね…。鎌刃城だって山ビル出ますから,やたら警戒しすぎているんじゃないかなって思います。七沢城も,天候に左右される城ですが,赤い城さんとは違うルートを計画しています。
神奈川県は,たぶん三浦半島残しになるかと思います。
東京都のアレは,神奈川県を攻めている中,小田原あたりで天候を伺い,チャンス思いきや「熱海港」から海路で向かおうかと…。
「じゃあラストはどこだ?」ってなりますが,ハ●ポタ城かそれ以外かで悩んでいます。

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しんちゃん

鎌倉宮 ワイルドな皇子(ヒーロー)・護良親王ゆかりの地 (2019/01/06 訪問)

護良親王は後醍醐天皇の第三皇子として生まれました。(第一皇子の説もあり)幼いころに仏門に入り、持ち前のカリスマ性もあって20歳で天台座主の地位に付いたとされています。親王の別名・大塔宮の由来はここから来ています。
建武の新政では父・後醍醐天皇を盟友・楠正成と共に助け大いに活躍しました。正成は千早城、親王は吉野山(吉野城)での戦いが有名で、親王は忠臣・村上義光の犠牲で辛くも生き延び高野山に向かいます。足利尊氏、新田義貞の活躍で鎌倉幕府は滅びますがそれまで天皇側が持ちこたえることが出来たのは親王と正成の奮闘によるものが大きいと思います。
護良親王は討幕後に征夷代将軍に就任しますが足利尊氏と対立を深め、やがては父である後醍醐天皇との仲もギクシャクしてしまいます。
天皇の后の入れ知恵とする説もありますが(昔の日本人は悪女説が好き)親王は征夷代将軍の任を解かれ身柄を拘束され、あろうことか鎌倉の足利直義の監視下に置かれます。私見ですがこれでは親王があまりにも気の毒ですね。
北条高時の子・足利時行らによる中先代の乱が起き、彼らに護良親王が奉じられるのを怖れた足利氏によって親王は殺害されてしまいます。結果的に親王の死によって後醍醐天皇の勢力は大きくそがれることになってしまいました。ダメパパすぎますね。(いっちゃいましたね)
親王が幽閉された東光寺跡は鎌倉宮となり親王を祀ります。
鎌倉には護良親王ゆかりの場所がいくつもありますが
護良親王幽閉所(再現土牢)(鎌倉宮)
護良親王処刑の地(鎌倉宮)
護良親王御首塚(鎌倉宮)
護良親王墓(胴塚)‥現在立ち入り不可
こんなのばっかりなんですね。

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イタさん

畑内に大きな土塁 (2024/01/16 訪問)

案内板に、粕川と鏑木川に挟まれた地形で秀郷流藤原氏の流れをくむ赤堀氏の居城で、南北350メートル、東西170メートルの規模をもつ。本丸は80メートル四方あり、南北に虎口を設ける。虎口は喰違いとなっている。周囲は高さ4メートル程の土塁があったとされ、北から東にかけてよく残る・・・と載る。

道路から狭い道を入れば奥に畑が見え、その先に高い土塁が見える。畑と民家の境には堀跡と思える窪みが見られる。北の喰違虎口先は土橋だったのか、左右の堀は浅くなっている。更に先は畑と民家になっている。土塁は北から東だけでなく西にも一辺分の土塁が見えるが、北虎口の土塁とは繋がらず、主郭の外、粕川沿いのものらしい。

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イタさん

雪景色の堀など (2024/01/16 訪問)

 桐生市のHPに、山上城は藤原秀郷の流れをくむ、山上五郎高綱によって築城され、子孫も代々この地域を領し、関東管領・上杉氏の頃は東上州で重きをなしたと伝えられる。しかし、北条・武田・上杉などの群雄割拠時代のなかで、16世紀終末ころに廃城になる。
 城の構造は、並郭構造で北から笹郭・北郭・本丸・二の丸・三の丸・南郭と南に並ぶ。南郭には物見台の跡が残っている。南北650メートル、東西220メートルと細長く、平坦な郭構造ではなく、丘城ともいわれています。周囲は自然の要害である蕨沢川と谷によって守られていた・・・と載っている。

櫓風建屋にも駐車場があるが、先に常光寺手前に広い駐車場がある。思いがけない雪となり、雪と寒さで端まで見学ができなかった。曲輪内の土塁は確認出来ないが、曲輪を隔てる空堀・土塁はよく残る。南の公園(三の丸)・二の丸・本丸には遊具が設けられているが、多くは壊れた物が多い。晴れの日と違い墨絵のような景色も美しい。

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小城小次郎

駐車場完備 (2023/04/23 訪問)

飯久保城の1kmほど西にあって、飯久保城とワンセットで飯久保の田園地帯を守るような立地になっている。登城口には駐車場もあってハイキングコースになっていて、むしろ飯久保城よりも歩きやすいかも(遺構は薄いけど)。

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todo94

まずは下館 (2023/12/10 訪問)

筑西市下館に泊をとっての朝駆けです。藤原秀郷が平将門の乱平定に向けて築城した下館、中館、上館の3点セット。この後、中館の伊佐城、上館の久下田城もめぐりました。城山八幡神社に城址碑と説明板があります。神社前の道路の表示も見えやすくてgoodです。

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さえこ

お墓参り (1980/03/23 訪問)

姫路の奥のお墓参り帰りに、姫路城は寄った

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