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イオ

根古地城(岐阜県養老郡養老町根古地) (2023/02/04 訪問)

根古地城(城びと未登録)は、徳永寿昌の子・徳永昌重の城と伝わりますが、詳細は不明です。天照寺が城跡とされるものの、遺構はもとより石碑も説明板もなく、わずかに微高地に城の名残を感じるくらいです。

天照寺は宝暦治水工事に携わった薩摩藩士と関わりが深かったそうで、墓地には3名の義歿者墓があり、境内の薩摩義士資料館には義士の位牌や過去帳、埋葬に用いられた甕(復元)などが展示されている……ようですが、訪問時は閉まっていたため未確認です。天照寺から北西に徒歩5分には根古地薩摩工事義没者の墓があり、慰霊堂にはこの地に埋葬された24名の遺骨と位牌が安置されています。また、天照寺の南東約1kmには、宝暦治水工事の総奉行を務めた平田靱負の役館跡が大巻薩摩工事役館跡として史跡指定されており、平田靱負をはじめ治水工事で命を落とした義士の顕彰供養堂や平田靱負の像が建てられています。

…根古地城にかこつけた宝暦治水史跡めぐりになっていますが、「その時歴史が動いた」の宝暦治水の回を観て、涙で画面が見えなくなるほどに感動した者としては、平田靱負最期の地を訪れるのは十数年来の念願であり、平田靱負翁像を仰いでも、説明板を読んでも、辞世の碑を見ても万感胸に迫るものがありました。とどめは駐車場に設けられた桜島が描かれた「薩摩義士へ感謝をこめて」の碑。故郷の桜島を再び目にすることも叶わず病に斃れ、抗議の切腹をした彼らがどんな思いだったか…。けれど、彼らの義挙がこの地の多くの人々の生命と生活を救ってきたからこそ、260年あまりを経た今も顕彰され続けているのだと考えると、彼らを義士と呼ばずして何と呼ぶ、との思いを新たにしました。
 

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赤松氏の城 (2023/03/04 訪問)

 眼下に山陽道を望む播磨守護である赤松氏の城です。巨石が楯のように並んでいることから、その名がついたといわれています。若王子神社より登城しました。登城路はよく整備されていて歩きやすかったですね。主郭にはテレビ塔が立っていましたが、そのための管理道路もあります。工事等により変わっている場所もあるとは思いますが、曲輪や竪堀等を見ることができます。ぴーかるさんも述べらていますが、主郭南にある段曲輪の石積みが一番の見どころだと思います。足元が不安定ですが、何となく先人が歩いた痕跡があり下の方まで行くことができました。この場所以外にも所々に石積みがあります。メインのコースを外れて尾根等を散策すると石積みや虎口があったのではないかと思われる場所がありました。

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播磨守護所 (2023/03/04 訪問)

播磨の守護赤松氏の守護所がありました。JR姫路駅前よりバスに乗り西坂バス停下車。徒歩約5分の場所に石碑、案内板と土塁があります。

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ぴーかる

今田城 (2023/02/11 訪問)

【今田城】
<駐車場他>こぶしの名水前に専用駐車場3台程度あり。
<交通手段>車

<見所>虎口
<感想>1泊2日安芸高田の山城攻めの旅3城目。現地案内板によると今田城は山県氏の一族今田氏の居城で戦国時代に今田氏没落後は吉川経高が継承します。吉川元春の統治時代は日山城の支城の役割をします。麓に石垣が残る館跡があります。2022年12月に来訪時は夕刻だったので館跡のみだった。今回は山城の方を攻略した。3郭ほどしかない小さな山城で虎口までは比較的簡単に着きます。虎口は全面に石垣跡が残り、虎口中にも石列が残っていて虎口らしい雰囲気が残っています。3郭~2郭への切岸は高く見応えあります。主郭は小さく、東側の曲輪壁しか整備しておらず他方向は藪化しています。竪堀も一部あるみたいですが分かりませんでした。遺構は少なめです。

<満足度>◆◆◇

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肉球

三溪園・神奈川県横浜市 (2023/01/18 訪問)

横浜本牧にある三溪園には紀州徳川家別邸の岩出御殿とされる臨春閣が大阪市内より移築。
二条城内に造られ稲葉正則江戸屋敷へ移築され東京都新宿区の華族二条家へ移築その後三溪園へ移築された聴秋閣。
伏見城控えの間とされ京都宇治の三室戸寺金蔵院へ移築その後こちらへ移築された月華殿。
こちらは工事中で期間は2023年度なっており終了にはまだ時間がかかりそうです。
織田有楽作と言われ京都宇治の三室戸寺から月華殿から一緒に移築された春草廬。こちらはお城にあったものではない様です。
入園料700円です。

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すけきよ堂

西岡衆の物集女宗入の城 (2023/03/04 訪問)

駐車場なし。
物集女城公園を目標に、南の道の行き止まりから土塁と主郭が見れます。ただし、城内は立ち入り禁止です。
来年は、物集女宗入の没後450回忌でイベントがあるそうです。

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チェブ

中曽根さんと、勝っタネ!くん。 (2023/02/04 訪問)

*本日の「中曽根城」、脱線しますのでご注意願います。

「中曽根城」と聞いて、中曽根 元内閣総理大臣しか連想できません。日本中の中曽根さん、すいません。
東京都足立区、住宅街の中に「中曽根城」の城址『中曽根神社』で?? を連発しました。

この辺は路駐できる道路は、ありません。
火事になったら消防車とか入れるのかな?と、心配するくらいの道幅です。離れたコインパーキングから歩くと、町中華屋さんの良いにおいがしました。(お昼時だったのでお腹すきました。)

『中曽根神社』に「中曽根城」の説明板がありました。
室町時代に、千葉 勝胤さんが築城したそうです。
千葉 勝胤さんを調べると、続100名城の「本佐倉城」の城主を勤めた方でした。「本佐倉城」がある 酒々井町では勝胤さんが、ゆるキャラとして活躍中(?)です。
その名も『勝っタネ!くん』、、、微妙です。

『中曽根神社』には、銅像がありました。千葉氏ではなく、、、『永遠なる少女』、、、?です。
勇ましい、千葉氏の銅像の方が良い気がします(笑)
『中曽根神社』をぐるっと1周。
写真③の建物の屋根に狛犬が、網に包まれてました。
上を見上げて、またしても?です。

『曽根』を調べると、河川の氾濫などで伸びた高地や自然堤防を指すそうです。
そんな『中』に築いたから『中曽根城』と、名付けたのでしょうか?
因みに『中曽根』の御名前は長野県が発祥なんだそうです。

調べれば調べるほど遠くなる「中曽根城」でした。

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イオ

今尾城(岐阜県海津市平田町今尾) (2023/02/04 訪問)

今尾城(城びと未登録)は、室町中期に美濃守護代・斉藤利国家臣の中島重長が築いたのがはじまりとされ、中島氏、高木氏の後は再三城主が入れ替わって、関ケ原の戦いの際には東軍に与した市橋長勝の居城となっていました。江戸初期に市橋長勝の伯耆国・八橋移封にともなって廃城となりましたが、幕府領を経て尾張藩付家老・竹腰正信が入って城跡に陣屋を設け、竹腰氏が明治まで続きました。

今尾小学校が本丸跡(陣屋跡)で、学校前の駐車場に車を駐めて登城開始。校門を入ってすぐの左手に「今尾城と竹腰氏」の説明板、右手に「今尾城跡(関ケ原の戦い)」の説明板があり、校舎前の植え込みには石碑も建てられているようですが、ちょうど少年野球の集合時間で多くの子ども達が集まっていたので、奥に入るのは差し控えました。校門の両脇には堀の名残と思しき水路がめぐり、グラウンドの南東隅で北に折れて続いています。

小学校から南東に徒歩3分の西願寺には今尾城の城門のひとつが移築されており、門前に説明板が立てられています。また、西願寺の裏手をめぐる水路は外堀の名残でしょうか。
 

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にのまる

濃い。深い。新しい。楽しい! (2023/01/06 訪問)

年末年始8泊9日の帰省&城めぐり旅。
福岡3・山口6・島根1・高知3・徳島3・香川1とまわった最終日の帰京の途次、8年ぶりに岡山城を訪れました。新幹線への乗り換えのために都合がよかったというのがいちばんの理由ですが、新たな出会いや発見がいくつもあり、今回行くことができて本当によかったです。

岡山駅のコインロッカーにキャリーバッグを預けて徒歩で向かいました。
道中にも城下町の痕跡がいくつもあり、なかでも内堀跡の歩道のうねりは感動ものでした。
また、西の丸跡の古い石垣や空襲の焼け跡の残る石山門跡、池田光政公隠居所跡である内山下小学校、現存の西手櫓などいくつも見学ポイントがあり、この界隈だけでもかなり見ごたえがありました。西手櫓石垣の前は建物で隠れないように駐車場にしてくれているのではないかと思うととてもうれしく、ありがたかったです。

本丸へは二の丸桜門、目安橋を渡り内下馬門から入りました。
巨石の配された堂々とした構えの門は平和な時代の観光客の立場であっても威圧感を感じます。巨石のひとつに小さなプレートが嵌め込まれていたので近づいてみると、昭和9年の室戸台風による洪水被害の浸水線でした。観光名所として多くの人が訪れるお城ですが、いくつもの苦難を乗り越えてきた時代があったことに思いを致しました。

表書院跡や月見櫓、天守のある本段へ行く前に、石垣を眺めながら一周しました。
修復工事中の石垣に、形あるものを将来にわたって維持していくためにはコストもかかるし匠の技の継承も不可欠だと気づきました。
小早川秀秋が築き池田忠継が改修した石垣、池田忠雄が築いた石垣、宇喜多秀家が築き小早川秀秋が継ぎ足した石垣など、解説を読み見上げながら歩いていると、想像や書籍やドラマ映像の中の歴史上の人物が実在した人物として身近に感じられてきました。

2時間くらい費やし充分に満足したところでいよいよリニューアル天守へ。
ここまで楽しい世界に生まれ変わっているとは!!
よくぞここまで……、驚きでした。
博物館でありドラマ館。エンタメと学習機能が両立しています。それでいて天守の魅力が少しも削がれていません。

戦国の世と戦時の災禍を伝える現存石垣と2基の櫓。新しいかたちで歴史を刻み始めた天守。長旅の最後に素敵なお城に寄ることができて良い思い出ができました。

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TMN97

掛川城 (2023/03/03 訪問)

掛川城、改修工事中…
御城印で 普請中 の限定版がありました。

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TMN97

諏訪原城址 (2023/03/03 訪問)

諏訪原城址

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TMN97

横須賀城址 (2023/03/03 訪問)

横須賀城址

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TMN97

相良城 (2023/03/03 訪問)

相良城

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TMN97

小山城 (2023/03/03 訪問)

小山城

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ぴーかる

若き毛利元就の居城 (2023/02/11 訪問)

【猿掛城】
<駐車場他>毛利弘元公墓所前に3台程度あり。<34.680291, 132.660487>から教善寺内に入って行きます。
<交通手段>車

<見所>堀切・櫓台
<感想>1泊2日安芸高田の山城攻めの旅2城目。猿掛城の築城年は定かではないが、毛利氏の吉田郡山城の支城として、1500年に嫡男の毛利興元に家督を譲った毛利弘元が幼い次男の毛利元就を連れて隠居するために入城したか築城した城です。毛利弘元はこの城で没し、毛利元就はこの城で元服し多治比毛利氏として分家となります。1523年に元就が宗家を継いで吉田郡山城に入ったのちの城の詳細は詳細は不明ですが戦国末期まで使用されたと思われます。
 登城口は駐車場から教善寺へ行った所に案内があります。登り始めてすぐ寺屋敷跡の連郭が数段あります。そこから主郭の腰曲輪までは特に遺構はありません。主郭は長方形の長い曲輪で北東端に土の櫓台が残っています。主郭北東端から先は高い切岸下に腰曲輪が2段あり、その先は山化しています。主郭南西端から先は深い堀切があり降りるのに一苦労します。堀切先が連続堀切が数条あり尾根曲輪が続いています。行き着いた先に物見曲輪があります。進入口の2か所を堀切で仕切っています。
 主郭に登って来た道の教善寺へ降りることはできませんという案内札があったので来た道を戻らず、物見曲輪から毛利弘元公墓所へ着くルートで下山しました。このルートは途中道がロストしていますので注意を。教善寺の北西側に出丸跡があります。

<満足度>◆◆◆

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小城小次郎

オフ会の「しめ」の城 (2022/11/03 訪問)

過去の写真をひっくり返しても夕闇の写真しかないのは、市街地の中にあって現存建物を持つ近世城郭がオフ会の「しめ」の場所になりやすいからなのだろう。そういう意味では土浦城も似たような境遇にあるような。

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トク

春の吉野ヶ里遺跡 (2023/03/03 訪問)

春の陽気に誘われて、吉野ヶ里遺跡を訪れてきました。
神埼駅を降り、卑弥呼の銅像前から歴史公園へ向かう道には、菜の花が咲いていました。

歴史公園内は思ったより広く、竪穴式住居、物見櫓、祭殿、墳丘墓などが再現され、出土品なども展示されていて、ゆっくり歩いて見て回っていたら2時間もかかってしまいました。でもだんだん自分も弥生人になったようなタイムスリップしたような感じがして結構楽しめました。

園内のレストランで吉野ヶ里の弥生人が食したという定食があったので食べてみました(写真⑩)。古代米(赤米)のおにぎりに有明海で採れたあさりの貝汁とむつごろうの燻製などでした。
(はたして卑弥呼も食べたのだろうか?🤔)
 

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姫街道

鳥瞰図を見ながら巡ると楽しい (2023/03/03 訪問)

整備や変革が進み、どう見学しようか迷っていたら、大きな城内に鳥瞰図看板があり、それをもとに城巡りを楽しんだ。高石垣がある本丸ばかりに意識がいくが、何気に土塁と水堀が巡る3の丸が良かった。

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トク

㉗【関ケ原の26人】(14)池田輝政 (吉田城はなぜ後堅固?) (2023/02/10 訪問)

(14人目)池田輝政「吉田城」の続きです。
なぜ輝政は後堅固にしたのでしょうか? 私は鉄櫓下の豊川沿いの腰曲輪に立ち考えてみました。

ここから見上げると石垣は結構高いですね~、高さ12.7mあるそうです(写真①)。当時はさらにこの上に塀があったと考えられるので、トータル20m近くあった事になります。さらに近づけば櫓や狭間などから鉄砲で一斉攻撃されるので、ちょっとここから攻めるのはまず無理ですね。豊川に高石垣と鉄櫓、吉田城は確かに後堅固(完璧)です!

(ここで私はある理由が思い浮かびました😯!)
輝政の父の池田恒興は、小牧長久手の戦いの時、夜陰にまぎれ木曾川を渡り、まさかの背後から犬山城を攻め落とし落城させました。犬山城は背後に木曽川その上の断崖絶壁の上に築かれています。敵もまさかここから攻めてくるとは思わなかったので手薄だったのでしょう。輝政も後々その事をおそらく聞き、またここも川から本丸までが近いので、「意外とここは弱点(盲点)になるかもしれない!」と思ったのではないでしょうか?(これはあくまで私の推測ですが・・)。

(でも待てよ🤔? 私はそこで新たに2つ目の疑問が?)
輝政の父の恒興は、犬山城攻めの直後に長久手で輝政の兄(元助)とともに討死しました。つまり輝政にとって家康は父と兄の仇(かたき)です。そして秀吉から吉田城を与えられ、田中吉政と同様に家康との戦を想定し、このように城郭を整備していたものと思われます。その一方で、家康の次女「督姫」を自分の正室に迎えています。そして最終的には東軍につきました。(え~!父や兄の仇の娘と結婚?)(その一方で着々と舅(しゅうと)と戦をする準備?)(でも結局は東軍に?)何かこれって矛盾が多すぎませんか?

池田輝政という男は一体何を考えていたのでしょうか?
次は(姫路城)に続きます。
 

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イオ

松ノ木城(岐阜県海津市海津町松木) (2023/02/04 訪問)

松ノ木城(城びと未登録)は、築城時期など詳細は不明ながら織田信長・信孝らに仕えた吉村氏の城で、賤ヶ岳の戦いの後は徳永寿昌の居城となりましたが、関ケ原の戦いでは東軍として今尾城の市橋長勝らと福束城や高須城、駒野城、津屋城を攻略し、戦後は高須城に居城を移したことにより松ノ木城は廃城になったようです。

所在地もはっきりしないようなので、比定地のひとつとされる御靈神社を訪れました。明瞭な遺構はもとより石碑も説明板も何もありませんが、参道脇の駐車スペースに車を駐めて周囲を歩いてみると、参道脇の水田は水堀か泥田だったのかもとか、神社境内は水田の中の微高地だったり、境内の北側には空堀や土塁っぽい地形があったり、南側の池は水堀の名残? などと、痕跡と思えなくもない地形が見られました。…といっても、そもそも比定地のひとつでしかないので、全くの見当違いなのかもしれませんけど(笑)
 

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