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赤い城

三国境目の城 (2023/01/22 訪問)

駿河、甲斐、相模の境目の城で武田氏と北条氏による争奪戦が繰り広げられた城です。
現在は民家と農耕地になっていますが見学は可能。
石碑の前にスペースがあり、車を停めさせて頂きました。
石碑の背後には三日月堀があり、さらに進んで行きます。
番犬に吠えられながら馬出を見学、さらに二の丸へと進みます。
二の丸手前には深い堀がありますが藪でした。
二の丸の先にも馬出があり、周囲を空堀が囲んでいます。
この堀もかなり深く掘られています。
本丸へと土橋がかかり、本丸からは富士山が望めます。
雲もとれて雄大な姿を拝むことができました。
この日の目的はほぼ達成でしたがもっと大きな姿が見たく、河口湖まで足をのばしてしまいました。

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todo94

新年2日目の攻城②【上野松山城】(群馬県高崎市(旧榛名町)) (2023/01/02 訪問)

鷹留城への登城ルートが分からずさまよっているうちに偶然見つけてしまいました。群馬県にも松山城があるとは思ってもみませんでした。武蔵松山城城主の嫡子・上田信善による築城で、上田氏の本城に因んでの命名だとのことです。主郭には金比羅神社が鎮座しています。城びと未登録の城ですが、郭の見栄えが良く訪れる価値はある城のように感じました。城びと登録の城の中には「なんだかなあ」という城が結構あるので、こういう城をカバーしていないのは少しもったいない感じがします。

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トク

⑱【関ケ原の26人 】(9)宇喜多秀家 (宇喜多秀家陣跡) (2022/10/30 訪問)

(9人目)「宇喜多秀家」の続きです。
関ケ原の「宇喜多秀家陣跡」を訪れてきました。

宇喜多秀家は、西軍副将を務め、西軍最大勢力17,000の軍勢を有していました。そして先鋒として、東軍の先鋒「福島正則」と対峙します。東軍には井伊直政・松平忠吉が加わり、西軍には小西行長が加わり、一進一退を繰り広げます。しかし、背後の大谷吉継が崩れると、宇喜多隊・小西隊も総崩れとなりました。

宇喜多秀家は、伊吹山中から京都に隠れたあと、島津氏を頼り薩摩まで逃げ延びます。そして3年後、秀家が生きている事を知った家康と秀忠は身柄を要求。当時の当主の島津忠恒(義久から家督を継いだ義弘の子)は助命を条件に引き渡します。そして八丈島へ流罪となりました。なぜ死罪にならなかったのか不思議でしたが、よく考えてみればもうその時は関ケ原から3年も経ち、徳川政権も安定してきた矢先なので、今さら死罪にするのは返って徳川の印象を悪くしかねないと思い、このような寛大な措置をとったのかもしれません(逆に言えば秀家は逃げ延びた甲斐があったという事でしょうか?🤔)。

宇喜多秀家の陣は、南天満山の麓の杉木立の奥にある天満神社の中のひっそりとした所にありました。秀家の忠義心は、この時の豊臣家臣の中では群を抜いていたようです。よって、三成のためや自分の損得と言うような私利私欲はなく、むしろ「家康の好きにさせるは豊臣の為にあらず」という五大老としてのプライドと、「純粋に豊臣を守りたい」という思いの方が強かったように思います。

そして結局、秀家は流罪先の八丈島で84才まで長生きし、関ケ原の大名の中では最も長生きした大名になりました(何か皮肉なものですね~🤔)。 時はすでに5代将軍徳川綱吉の時代、元禄文化が栄え庶民は娯楽を楽しみ、江戸は最も平和な時を迎えていました。

次は、(10人目)へ続きます。
 

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侍ホリタン

秀吉公が陣を敷いた場所に建てられた名城を訪ねて (2022/07/02 訪問)

平成に入ってから犬山城をモデルにして建てられた模擬天守です。現在の名称は「河原城」として親しまれてますが、ここにははかつて「丸山城」という山城があり、豊臣秀吉公が鳥取城の兵糧攻めをした時に陣を敷いた場所です。
通常使用されてきた登城口が土砂崩落のため通行止めになっています。期間は令和4年9月15日までとなっていました。 河原城に行くには1キロ程先の河原市民プール前の道を進んで行く事になります。詳細は鳥取市のHPより確認して下さい。迂回路は見通しの悪い所ありますが、道幅は十分あります。 河原城の最上階からは鳥取城跡がある久松山が確認できます。山頂の石垣もバッチリ見えます。

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侍ホリタン

鳥取藩32万石の名城を訪ねて (2022/07/02 訪問)

織田信長公より「堅固な名城」と評され羽柴秀吉公の兵糧攻めの舞台となりました。この戦いは毛利方吉川経家公の徹底抗戦により日本十大籠城戦の一つに数えられています。戦い後は秀吉公の側近宮部継潤公が入城、石垣や天守を築き近代城郭に改修しました。江戸時代の鳥取藩誕生に伴い池田光仲公を藩祖とする鳥取池田家12代の居城として明治時代まで続くことになります。
土日祝は最寄りの県庁北駐車場が終日無料開放されています。 2022年7月2日現在、大手門入り口付近で復元工事中のため通り抜けできません。城内に入るには県立博物館方面へ迂回する必要があります。 天守台跡がある山頂からは鳥取市内、大山、鳥取砂丘、日本海の展望が楽しめます。

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にのまる

後編 (2023/01/02 訪問)

【西門跡】
搦手(旧大手)へ誘われる緩い下り道は深い叢中に埋もれてしまっているかに見えましたが、苔むした野面積みはその重要さを物語るに充分な存在感を放っています。城内を振り向くと立ちはだかる天守台。櫓門越しに聳え立つ三重天守の姿はさぞ壮観だったろうと想像できます。落雷による天守焼失後に再建されなかったのは喪失の悲しみを二度と味わいたくなかったからではないかとの思いがよぎりました。

【南門跡】
三の丸の突端。瓦片もたくさん落ちていました。右に折れる自然歩道を覗いてみると超絶狭くてびっくり。城内でいちばんヒリヒリするところでした。ここも地震で崩れたりなんかがあったのでしょうか?
この先にあるらしい南出丸と中荒城(城びと未登録)。ダイエティシャンさん、ぴーかるさん、朝田 辰兵衛さんの合作・連作のごときご投稿を読むと行ってみたい気持ちと熊遭遇の恐怖が錯綜します。いつか行ける日が来るかなぁ……。

【中世山城の三重堀切】
見学可能なところは大体見たかなと思ったところで出丸に戻り下山です。リフトの往復券を購入していましたが自然歩道から徒歩で下りました。下り始めて間もなく「織部丸東方の中世山城の遺構」の説明板。三重堀切があるというので目を凝らしてみるとボコボコが三つ連なって見えるところが(^o^)/山中に残る遥か吉見氏時代の遺構。近寄ることはできず遠目に見るだけでしたが、それだけに時空の隔たりを肌で感じました。
出丸から太皷谷稲成神社まで下りは15分くらいでした。

【大手道】
当初、往復リフトの予定で大手道から登ろうという気持ちは1ミリもなかったのですが、興味本位で少し足を踏み入れてみました。正面に見えるかっこいい石積みの先、どうなっているのかなぁ?

【城下町散歩】
西周旧宅、郷土館、藩校養老館、多胡家表門、町役場、カトリック教会などを見ながら駅に戻りました。

【DLやまぐち号】
お正月バージョンのDL津和野稲成号で帰路につきました。乗車券は18きっぷが使えるので座席指定券530円をプラスするだけで観光列車の旅が楽しめました。
でも実は狙ったわけではなくて、“帰るにはこれに乗るしかない”というのが本当のところなのでした^^;

<おわり>

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シェル

公園の外側に注目!! (2023/02/03 訪問)

JR水戸線 結城駅方面から車で移動。
結城小学校を過ぎ、坂を下り城跡歴史公園の北側に駐車場がありました。
駐車場から、あじさい坂を登り、城跡歴史公園へ
公園には、遺構はほぼないですが、公園を出て南西側には空堀が残っていました。 
また公園を出て南に進み、三日月橋より南側にも空堀と土橋が残っています。
駅と城跡の途中にある結城蔵美館では、復元された御手杵の槍や結城の歴史の展示が行われており、御城印も販売されています。(結城氏版と水野氏版の2種類 各300円)

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POYO58

続日本100名城スタンプ巡りNo.7 吉田城 (2023/01/29 訪問)

遺構★★★★☆ 石垣(腰巻石垣、高石垣)、堀切、枡形虎口、土塁、雁木など
浜松城を終え、吉田城に行きました。吉田城はもともと今川氏と徳川家康が争った場所なのですが、最終的には家康が勝利し、酒井忠次に領地を与えられます。その後、池田輝政が愛知で生まれ、輝政は初めて城主となります。その城が吉田城でした。現在の吉田城は池田輝政の遺構であるそうです。

三の丸には鏡石を使った虎口が設けられていて三の丸と二の丸を土塁が囲んでいます。三の丸には太鼓櫓台が残っています。(土塁)
二の丸にはかつて御殿が置かれていたようです。二の丸と本丸は大きな堀切で仕切ってあり、堅固になっています。また堀切には一部石垣が使われていて、腰巻石垣も採用されていました。
本丸は4つの櫓で囲まれていたようです。本丸へ入れる門はたった3つで、周りが櫓と土塀で囲まれていたのでだいぶ攻めにくかったと思います。
本丸北側には枡形虎口の北御多門があり、それを通ると、腰曲輪に入ります。腰曲輪には高石垣と川手櫓跡、石垣の刻印が見れます。また、腰曲輪は大き豊川に面していて、貿易をしていたのではないかなと思います。

ざっと説明しましたが、いかがでしょうか?詳しい投稿は後日行います。吉田城は結構すごいところです。行ってみる価値は絶対ある!

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ぴーかる

白山城 (2023/01/08 訪問)

【白山城】
<駐車場他>白山神社境内<35.699575, 138.425644>地点より西方向に進み、突き当りにゲートがあります。ゲート内側に城跡説明板があります。車ごと中に入って進みます。行き着いた所が白山神社で境内に4台程度駐車出来ます。
<交通手段>車

<見所>竪堀・堀切
<感想>新春1泊2日甲府盆地の旅5城目。白山城は「甲斐国志」によれば、甲斐源氏の祖源清光の子である武田信義が要害として築城したとされる。信義ののちは武田家一門の一条氏、その支族の武川衆の青木氏、山寺氏が守ったが江戸時代寛文年間に廃城となったとされます。
 以前より行ってみたい城マイリストに入っていたので、未踏の甲斐国山城ですので熊を恐れつつも、神社まで車で行けるので行ってみました。神社から急斜面ではありますが予想外に10分程度で南面の竪堀が表れ城跡に着けます。城跡は南北に5~6程度曲輪が連なる連郭で、主に麓側の東斜面に竪堀を多く配置しています。竪堀は表面観察で識別できますが中にはかなり薄くなっている堀もあります。連郭の各曲輪間は深い堀切で仕切り見応えがあります。主郭は土居囲み、二の丸の西側、大堀切を越えてさらに西へ進むと尾根がだんだん狭くなって、ついに添付写真(分かりにくいですが)の超細尾根両サイド絶壁に出ます。尾根幅が50㎝程しかなく絶壁高さ数十mはあるのでまさに最恐でした。でもついつい渡ってしまうのが本能か、皆さまは危険なのでやめておいて下さい。一応私が散策した時には熊が居た形跡は無かったです。北・南砦狼煙台跡は時間が無く行けませんでした。なかなかいい城跡でした。

<満足度>◆◆◇

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トク

⑰【関ケ原の26人 】(9)宇喜多秀家 (岡山城の石垣) (2023/01/19 訪問)

岡山城の続きです。
関ケ原から話がちょっとそれてすいませんが、岡山城の石垣も大変よかったのでお伝えします。岡山城にはいろいろな石垣があるんですね~(私は前回訪問時は気づかず今回初めて知りました)。天守だけでなく石垣も十分楽しめるお城です。

1番目、まず入口にある「鏡石」です(写真①:わ!大きい😯)。 高さ4.1m幅3.4mあるそうです。これは犬島という所(離島)から運んできたそうです。威厳を示すには十分ですね。

2番目はこの部分「中の段南西部の石垣」です(写真②:ちょうど工事中だったのですいません)。右の緩い傾斜で自然な感じで積まれているのが小早川秀秋の石垣、左の傾斜がきつく切込接で造られているのが池田忠雄の石垣だそうです(対称的ですね~)。

3番目はこの部分(写真③)「大納戸櫓下の石垣」です。ここには天守に次ぐ三重四階の櫓があったそうです。小早川が築き池田氏が改修、上に行くほど傾斜が急になっています(技術の進歩にともなった改修というわけですね)。

4番目は「不明門(あかずのもん)下の石垣」です。右は宇喜多時代の石垣で、土台の岩盤の上に自然石をうま~く積み上げてます。何だか踏ん張っているように見えておもしろいです(写真④⑤:がんばれ~!😠)。左は池田時代に改修された石垣です。

5番目はここです(写真⑥)。表書院の発掘調査をしていたら、その地中から宇喜多秀家の石垣が出てきたそうです。江戸時代の池田氏はこの石垣を地中に埋めて、この上に表書院(藩士の仕事場所)を造っていたという事ですね。

6番目はここ(写真⑦)「月見櫓下の石垣」です。現存する月見櫓とともに池田忠雄時代に造られたものです。よく見ると矢穴や刻印があちこちに見られました。

7番目は「礎石」です(写真⑧)。天守をコンクリートで再建する時に、以前発掘で見つかった礎石を同じ間隔でここに並べて残しているそうです。

8番目は「本段東側の高石垣」です(写真⑨)。左が宇喜多秀家の石垣で、真ん中を境に右が小早川秀秋の石垣です(どこが境目でしょうか? わかりますか?)。宇喜多の石垣に小早川が継ぎ足したようです。宇喜多の石垣は大きめの石を丁寧に積み上げている感じがするのですが、小早川の石垣は時間がなかったのか、自然の小さめの石を加工せずそのまま短時間で積み上げた感じです。何か両者の性格の違いが表れたようでおもしろいです😊。

最後9番目はこの石垣です(写真⑩)。天守北面下ちょうど不等辺五角形の私の好きなふくらみの部分です。石垣を全体的によく見て下さい。 何となく少しうっすらと赤く感じませんか? ならばそれはなぜだかわかりますか? これは昭和20年に岡山城は空襲で焼失し、天守もその時に焼け落ちました。その時の燃えた痕跡で今でも少し赤い色が残っているそうです。何か悲しい痕跡ですね😩。

次は(宇喜多秀家陣跡)を歩きます。
 

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赤い城

富士山が見たくて (2023/01/22 訪問)

中川城朝駆けの後登城しました。
この日は無性に富士山が見たくなり西への攻城です。
相模と駿河の境の城、足柄峠に位置します。
駐車場もあり、石碑のところから階段を登ると主郭です。
お目当ての富士山は残念ながら山頂に少し雲がかかっていました。
主郭と二郭の間の堀切、さらに御殿場方面に下りて行きます。
五郭の周囲には深い堀底道があり、ここから遊歩道を登って引き返しました。
各曲輪の間には堀切も切られ、見どころは満載。
蔵屋敷跡は立入禁止になっていました。
ここでは富士山は今一つでしたが、このあとのドライブ中には晴れて雄大な姿を見せてくれました。
いいことありそうな気にさせてくれます。

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Yu-1

都内から行きやすいお城 (2023/01/21 訪問)

里見八犬伝で有名になった聖地巡礼の元祖。
江戸時代後期から現代まで日本が誇る「長編小説」モデルのお城
お城近辺にも戦後を感じる事ができる建物などが沢山ある。
江戸後期〜戦後好きにはいい観光タウンは「館山城」から始まる。

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モト

言わずと知れた素晴らしい国宝天守 (2023/01/12 訪問)

もう説明不要の素晴らしい天守でした。
何回目かの登城でしたが、何度見ても見惚れてしまいます。
今は夜にレーザーマッピングをやっていて幻想的な城を演出してました。
昨晩はそれを見て新たな魅力にうっとりしたところでしたが、やはり明るいところで見る天守は素晴らしいです。
どちらもそれぞれ魅力があり両方大満足でした。

次はレーザーマッピングの松本城もお届けできたらと思ってます。

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todo94

新年2日目の攻城 (2023/01/02 訪問)

高崎に帰省してチェックしておきたかったのが箕輪城の木橋。残念ながら工事のため通行止めで三の丸側から橋の中ほどまでしか渡れませんでした。それでもかつては樹木が生い茂っていた堀底を歩けるようになるなど、新たな散策ルートがとても増えていて楽しむことができました。駐車場は虎韜門跡前を利用しましたが、此処の道を挟んだ向かい側に白川口埋門跡がありその説明板の中にこの後、向かう予定の鷹留城に関する記述があって嬉しくなってしまいました。

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みぃ

琵琶湖一望の山の上 (2023/01/17 訪問)

八幡山のロープウェイで上がって行くと、琵琶湖と伊吹山など眺めがとても良いところにある。安土城落城の後、豊臣秀次が築城した。
本丸を山頂に、二の丸、北の丸、西の丸、出丸などがあり、それぞれ眺めが良く、遠く雪山が見え、それば伊吹山だそう。
お城が廃城になり、山頂部の本丸跡に、秀次菩提寺の村雲御所瑞龍寺が京都より移築された。菊の紋が印象的。
御城印は、瑞龍寺で購入。
2月からGWごろまで、豊臣家のお雛様を展示するそうだ。

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徳川の城 (2024/02/02 訪問)

 外堀を一周しました後、内堀周辺と本丸等を散策しました。冬だと葉も落ちて遺構が見やすいです。天守閣も行きましたが、冬の平日で空いているか思っていましたが予想以上に観光客が来ていましたね。豊臣氏の頃の大阪城はどのような城であったか気になります。

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外堀 (2023/02/02 訪問)

 久しぶりに登城しました。この城の魅力は高石垣と水堀だと思っています。外堀から見る風景が好きでぐるりと一周しました。

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常宣寺 (2023/02/02 訪問)

 石山本願寺が築いたとされる51の出城のひとつと伝わっています。常宣寺が推定地です。大阪市顕彰史跡パネルが設置されています。

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善福寺 (2023/02/02 訪問)

 石山本願寺の51の出城のひとつと伝わっています。善福寺付近が推定地です。以前は大阪市顕彰史跡パネルが設置されていたようですが、行ったときは山門付近にはありませんでした。

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POYO58

続日本100名城No.6 浜松城 2年ぶりの攻城 (2023/01/29 訪問)

遺構★★★☆☆ 石垣、曲輪、井戸、武者走り 復元:天守門と天守
久しぶりの投稿です。
さて予言していた通り、浜松城に行って参りました。あ、カズさん。ごめんなさい大河ドラマ館行きませんでした。とにかく混み過ぎ…電車の都合で30分待ちは無理だったので、岡崎城の大河ドラマ館に行きました。
浜松城は、徳川家康によって築城されました。しかし、今残っているのは7割くらいが堀尾吉晴の遺構かな。二俣城や鳥羽山城と石垣が似ていました。ただ二の丸にはどうやら家康の遺構が残っているそうですね。
おそらくですけど浜松城に行かれた人のほとんどは天守が見どころだと思っていらっしゃると思いますが、天守を除いても見どころはたくさんあります。

武者走り
かつて本丸にきた敵兵を城兵が武者走りの上から鉄砲で集中攻撃をしていた場所ですね。本丸をぐるっと囲っていて土台が高石垣なので敵兵が簡単に登ることもできません。

八幡櫓台、富士見櫓台
今は石垣が残っています。八幡櫓台は天守の隣側に立っていたため、見逃す人多いのではないでしょうか?富士見櫓台は今も富士山を眺めることができます。またここからみた天守も綺麗ですよ。富士見櫓は最近の調査で玉石が使われていたことが明らかになっています。

また天守の地下一階には井戸が展示されています。築城当時からずっと残っていたもののようです。また浜松城の天守については謎が多く、未だ解明されていません。
天守がリニューアルして黒瓦から金瓦に変わっています。天守も観察してみてください。

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