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しんちゃん

妄想戦記関ヶ原・小早川秀秋の章 毛利〇〇〇トリオの巻 ※ (2024/03/10 訪問)

最近、小早川秀秋のことばかり考えています。この若者が何を考えてここに来たのか、考えていたら妄想が止まらなくなってしまいました。ここからは妄想戦記関ヶ原で行かせていただこうと思います。私見や主観を通り越した、かなりぶっ飛んだ内容になりますのでご容赦くださいませ。

主郭に立って全面を俯瞰すると関ヶ原一帯が良く見渡せます。今は樹木が生えているので大谷吉継陣や南宮山の毛利輝元の陣は見えませんが、かつては良く見渡せたことでしょう。小早川に陣地をぶんどられた伊藤某が樹木の伐採を行ってくれていたはずです。
ここは東軍を攻めるにしても西軍を攻めるにしても絶好の配置。それだけではなく南宮山の毛利の動向も伺えたはずです。少なくとも毛利の陣からは松尾山の小早川の陣の動向が良く確認できたはずです。それが重要なことだと思うのです。
それにしても陣地を得るためだけに味方を追い出してまで布陣するでしょうか。一つ間違えば内乱になりかねません。なりふり構わずこの場所に陣取っただけの重要な理由があるはずです。実は小早川は内府に味方する振りをしながら、ここに内府の首を取りに来たのです。とはいえ‥条件を満たせばの話です。彼にとってのこの合戦での百点満点の回答は内府に味方し西軍を討ち果たし、彼に褒めてもらうことではありません。内府の首を小早川の軍勢が挙げ、後の自らの天下人への踏み台を築くためです。
そのために遠方よりわざわざ15675名もの兵士を引き連れてきているわけです。この数は大身の毛利の軍勢とほぼ変わりません。この陣地は家康の首を取るのに最も適した陣地でもあるわけです。秀頼の誕生によって一度その手からすり抜けた天下に近づくためには自ら家康の首を取る必要があったわけです。彼の心の中の隅にあった天下への渇望がここに来てより大きくなったのではないでしょうか。しかしそのことを監視の奥平貞治に気づかれるわけにはいきません。
さて、関ヶ原合戦よーいどんです。一番槍を横取りされた福島正則が怒っています。それはさておき今、西軍を小早川が攻めれば東軍は間違いなく勝利するでしょう。でも彼は動きません、家康が天下を取るのがイヤなのです。毛利が東軍に調略を受けているのは小早川も承知していたとは思いますが、毛利が動いてくれなければ家康の首は取れません。今、強引に攻めれば万一、家康の首を取れたとしても数で勝る東軍に袋叩きに会うでしょう。秀忠の3万8000の軍が来ていない以上、毛利と小早川で挟撃すれば勝てる公算が高いです。
小早川はギリギリまで動かない決断をします。小早川隊が動かないのは南宮山から良く見えるはずです。霧が出ていたとしても標高の高い峰同志、間に遮るものはないはず。小早川が動かないということは東軍の調略がうまくいっていないということを示しています。
毛利が東軍を攻撃すれば小早川も呼応すると考えるのが妥当でしょう。「ユー動いちゃいなよ!」「内府を挟み撃ちにしちゃおうぜ!」
このメッセージは毛利に届いているでしょうか? 
小早川は自分が毛利だったら東軍を攻撃するだろうと考えていたはずです。

※ 

でも秀秋の送ったメッセージは大御所家康公にはバチバチに届いているようです。戦場でこの御方の目をごまかせるわけが有りません。
どうする秀秋?

松尾山城攻略に戻りますが、思ったより雪が積もっていて、よく滑る。しかも周囲の斜面が切岸のようで危ない。「やべえぜ‥」帰ろうかな‥と思いますが、もう少し頑張ってみたい。西の郭の北西の尾根先に出ますがここでは無いようです。とりあえず別の場所に移動します。

※ ちょっと思うところがあって修正
  従来の二次資料に基づく関ヶ原観を主体に、話を小早川側に極端に寄せて膨らませていますが、近年論議されている一次資料による新設を考慮すると解釈が全く異なってくるので少し表現を控えました。

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しんちゃん

宅地に土塁と堀が残る。播磨守護・赤松氏の守護所 (2023/12/30 訪問)

坂本城は室町時代の播磨国の守護所で14世紀~15世紀の初めに赤松氏によって築かれたとされています。現在では宅地に飲み込まれていますが堀と土塁が部分的に残り市指定史跡として保存されています。
発掘調査の結果、周囲に堀と土塁をめぐらせた170m四方の規模だったことが解ってきています。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱によって赤松満祐が一時的に籠り追討軍の山名宗全と戦ったそうです。赤松氏は一旦滅びますが、後に再興し、勢力を伸ばした山名氏とこの地で攻防を繰り返したそうです。

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しんちゃん

東本願寺名古屋別院 襟を正して参ろう (2024/03/02 訪問)

古渡城は現在の東本願寺名古屋別院のあたりに築かれていたそうです。天文11年(1542)ごろ織田信長の父・信秀によって東の今川方に対抗するために築かれたと有ります。東西140m、南北100mの平城で周囲に二重の堀が巡らされていたそうです。
この日はお城EXPO・in・愛知を訪問した帰りだったので南門は閉まっていましたが、東側が解放されていたので中に入ることが出来ました。南門から入って左、西隅あたりに城址碑と案内板が有ります。
東本願寺名古屋別院に東にある下茶屋公園は旧東本願寺別院・新御殿の後庭とされていて、作庭は天保のころに遡るようです。この周辺もかつての古渡城の跡地に含まれているような記述もありました。

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ぴーかる

大好き要素盛り沢山の城跡 (2024/01/27 訪問)

【大給城】
<駐車場他>大給城址駐車場
<交通手段>車

<見所>堀切・巨岩・石垣・虎口跡・水手曲輪・主郭
<感想>日帰り松平郷の旅1城目。サブタイトルはトヨタ車以外でトヨタ市の城跡攻めたるぞ!旅。
 第11回 日本100名城、続日本100名城に負けない名城の大給城にいきました。
 夜明け前に到着し、持参した兵糧(朝食)を食して明るくなった7:00過ぎから登城しました。松平乗元墓所に参詣し墓所の東奥にある巨石に乗って暫し楽しむ。反対方向の城跡に進んで城跡の東側から入ります。城跡はおおまかに東西に伸びる尾根を削平して尾根上に主郭・副郭・腰曲輪を置いて、尾根の南北に帯曲輪、北斜面に水手曲輪を配置し、南斜面に居館曲輪を置いています。城の東と西端を巨大堀切で城を仕切っています。水手曲輪2基は特集の記事でダムのような石垣とありましたが、これはもうダムといってもいいスケールの見応えで圧巻です。古代山城の城門跡(大野城跡)の石垣遺構のようにも似ています。
 主郭は記事通り東西に広く、仕切り石垣で東西を仕切っていますが北虎口と繋がっている感じです。南虎口には方形の石垣の櫓跡があります。主郭北側壁は全面石垣ですがかなり土を被って見えづらい。算木積み未発達の隅角石積み見応えありです。
 巨岩は水手曲輪の西側と主郭の西側から多く点在しています。主郭の西下段に巨石に囲まれた削平地があり巨岩壁に囲まれ圧倒されそうです。
 特集では東端を区切る堀切が城内一大きいとありましたが、実際見て、主郭に西側を区切る堀切の方が巨大と感じました。大堀切へは南の居館跡の北西隅の通路から入れます。主郭西側の巨岩群がそのまま堀切まであって、城跡側の堀面全体が巨岩壁になっています。マイベスト堀切でした。
 何故続百名城に入れなかったのだろう。私的にはごめんなさい、愛知県続百名城の古宮城より断然に見応えがありました。

<満足度>◆◆◆

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しんちゃん

織田氏と一向宗徒との確執 7月上旬にはハスの花が咲く (2024/03/10 訪問)

小木江城は織田信長が長島の一向宗徒と戦うために弟の信興に築かせた城です。元亀元年(1570)9月より石山本願寺と信長の間で石山合戦が勃発し、長島城を落とした一向宗徒は11月16日に小木江城を襲撃し21日に落城、信興は死に追い込まれます。
「信長記」には櫓に上がって自害したとされており、地元では城外で討死したと伝わっているようです。遺構は特に残っておらず城の鎮守の富岡神社のみが残っています。信長と一向宗の長い戦いはこの後、10年にわたって続きました。
近くの道の駅の開発が進んでいるようですが、周囲は森川花はす田となっていて7月上旬には見事な花を咲かせてくれそうです。

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しんちゃん

半兵衛の従兄弟・竹中源助重利 (2024/03/10 訪問)

長松城は荒崎小学校の周辺に築かれていたようです。初代城主は竹中源助重利で竹中半兵衛重治の従兄弟であり氏族として半兵衛を支える立場にあったようです。重利は重治に長松3000石を分知されて、この地に城を築きました。重利は後に秀吉に仕え従五位下・伊豆守に叙任され豊後高田に1万石を与えられて移ったそうです。
駆け足訪問のため校門周辺部しか訪れていません。

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イオ

惣構めぐり(惣構中部~南部) (2023/12/23 訪問)

(続き)

岸の砦から惣構の西縁を南にたどると、伊丹小学校の東側が一段高くなっていて石垣が続いています。遺構ではなさそうですが、惣構の雰囲気は感じました。伊丹小学校前交差点が昆陽口で、砦があったとも考えられるようですが、それらしい痕跡は見付けられませんでした(南側の道祖神のあたり?)。道祖神脇から狭い路地に入ると右手が一段下がっていて惣構の縁を歩いていることがわかります。路地沿いのところどころに石垣が見られますが、これも遺構ではなさそうです(たぶん)。路地を抜けると三軒寺前広場があり、その名の通り三軒の立派な寺院が並んでいます。往時に寺町として設けられたんでしょうか。

三軒寺前広場から南に4分ほど歩くと、中西新八郎と宮脇平四郎らが守った上臈塚砦に至ります。古墳を利用した砦で、伊丹シティホテル跡地から墨染寺にかけて築かれていましたが、遺構はもとより石碑も説明板もありません。墨染寺には砦の名のもとになった女郎塚と荒木村重の墓があるようですが、どちらも見落としてしまいました…。

上臈塚砦から県道に出て南下すると、県道東側のマンション西辺(南本町一丁目バス停付近)に石垣と水路が続き、説明板が立てられています。これこそ惣構の遺構なのでは!? と勇んで発掘調査の説明板を読んでみると、現在見られる石垣と水路のラインは江戸後期に伊丹郷町を拡張した時のもので、有岡城の惣構はマンション敷地の中央部で確認されたんだとか。伊丹郷町の遺構だとしても有岡城の遺構ではないんですね。残念…。県道を少し戻って今度は東へ。有岡公園を抜けた先の水路が大溝跡で、遺構かどうかはわかりませんが高さのある石垣が続いていました。大溝を南にたどると惣構の南東縁に出ます。有岡小学校付近の高低差もなかなかのものがありました。

有岡小学校からさらに南に進んで、野村丹後らが守った惣構南端の鵯塚砦跡に到着。鵯塚と呼ばれる古墳を利用した砦で、鵯塚がある民家と隣のマンション敷地にかけて築かれていたようですが、石碑も説明板も見当たらず敷地内は立入不可のため、ひよどり広場から写真を撮り砦跡西辺の堀の名残と思しき水路の石垣を確認して、惣構めぐり完了です。

織豊期に廃城になっているだけに惣構の遺構はほとんど見られませんでしたが、惣構をほぼ一周してみて、規模の大きさと高低差を上手く活用した堅固な造りを体感できたのは収穫でした。伊丹郷町としての見どころはいろいろとありましたし、街歩きとして楽しませてもらいました。
 

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todo94

大人の休日俱楽部パスを使って城カードゲット (2024/01/27 訪問)

大人の休日俱楽部パスが使える貴重な土日、降雪のリスクを承知の上で東北へと足を伸ばしました。しっかり天守台にまで登った後は、安達太良山が良く見える搦手門跡や、二本松少年隊顕彰碑のある新城館をめぐり、城カード売り場のにほんまつ城報館隣接の藩校敬学館跡も確認することができました。にほんまつ城報館の影絵仕立ての二本松少年隊の展示は、ドラマやアニメより趣深くて個人的には好みです。

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赤い城

阿波九城のひとつ (2024/03/03 訪問)

脇町のうだつの町並みを歩いた後、秋葉神社から登城路を登っていきました。
案内板が立つところが二郭と三郭の間の堀切のようです。
そこから二郭を右に見ながら進むと土橋があり、広い堀切が。
奥の方は竹藪ですが冬なので結構見やすかったです。
主郭虎口から主郭へ、皆さんの投稿にある井戸跡も発見できました。
一部に柵?もあり、誤って落ちることはなさそうでね。
主郭から先ほどの堀切を見下ろすと竹藪の中にもう1本土橋が。
もちろん渡って再度二郭へ、櫓台のような土塁が残っていました。
主郭の先には深く短い堀底道もありました。
主郭先端部から落ちる竪堀を見学して下山しました。

戦国時代には三好長慶が改修、その後蜂須賀家政が徳島城の支城とし阿波九城の一つとなりました。

藪漕ぎを想定していましたが冬だからか意外と歩けました。

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しんちゃん

酒毒のはなし (2024/03/13 訪問)

酒は百薬の長と言いますが、飲みすぎると毒になる。昔から酒におぼれる人は後を絶たず、酒の飲み過ぎで体を壊したり死んじゃったり、20代くらいで亡くなった方もいたりしますが、それ「一服」盛られてる可能性もあるんですね。
鴆(ちん)毒というものが有って、古代中国で鴆という空想上の鳥の羽を酒に浸せば猛毒の酒になると言われ、始皇帝の実父と呼ばれる呂不韋はこの鴆酒をあおって自害したとされています。
日本でも古来より毒による暗殺は横行していて大河ドラマでもいくつか描写が有りましたね。「麒麟が来る」で斎藤道三が娘婿である土岐頼純を毒殺するシーンは道三の狂気がよく出ていて好きです。これくらいイカれていないと戦国大名は務まらないんでしょうか?
「鎌倉殿の十三人」のラストも衝撃的でした。主人公が姉に毒消しを捨てられて、もだえ苦しんで死ぬ‥こんなラストシーンはこれまでの大河では見たことが有りません。実に爽快‥いや、悲しい最期でした。
例の「鴆毒」は日本でも良く使われていて、松永久秀が足利義栄に使用したり、「土佐物語」で鴆毒を井戸に放り込んだら、その水を飲んだ兵士たちが次々と気絶したという逸話があるようです。鴆毒の正体は最も有名な毒物で古今東西、多くの人の命を奪ってきたアレです。水溶性で無味・無色・無臭であり、量を調整することで早期に殺害したり、時間をかけて病に見せかけて殺害したりと多様な使い方が出来たようです。昔は司法解剖など無かったので酒の飲み過ぎで死んだり、若くして肝硬変で死んだりした人物はこの「鴆酒」で殺害された可能性もあると思います。毛利元就は家族が酒の害で早死にしていたため本人は酒を飲みませんでしたが、案外毒殺を怖れてのことだったかも知れません。昔は酒を飲むのもけっこう命がけだったようです。

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しんちゃん

関ヶ原の合戦 小早川秀秋の巻 内府殿への恩などオッパッピーですわ (2024/03/10 訪問)

以下の文章には関ヶ原の合戦における私見(個人的感想)を多分に含んでおります。あくまで「しんちゃん」流の関ヶ原になるので宜しくお願いします。
松尾山城の続きです。
主郭からは関ヶ原が良く眺望できます。東軍を攻めるにしても西軍の背後を突くにしてもここは最高の立地条件です。強引に伊藤盛正から陣地をぶんどった甲斐があったというものでしょう(彼には気の毒ですが)。小早川秀秋に関しては豊臣秀吉から冷たく扱われ徳川家康に恩義を感じており早くから東軍に通じていたとか、いろいろ言われていますが、この大一番においてはそんなことは些細なことだと思います。
彼にしてみれば、おそらくそんなの関係ねえのオッパッピーでしょう。より良い条件で勝利できる側に着くだけです。彼にとっては、刻一刻と変化する状況の中でそれを見極める必要があったのでしょう。大御所家康に恩義はあれど勝機が無ければ見捨てるだけです。毛利(吉川)が東軍を攻めれば迷わず東軍を襲う気でいたと思います。松尾山に布陣した段階では、まだどちらの味方でも無かったのでしょう。
小早川秀秋公は若干18歳前後とは思えないほどの行動力と判断力としたたかさ(狡猾さ)を持っていたと思います。加えて慎重さも持ち合わせているので大御所家康にとっては手ごわい相手だったと思います。
吉川広家は西軍には勝機が無いと考えていたようですが、3万8千(一説には)の徳川秀忠の軍勢が到着しなかったことで、状況は一変したと思います。徳川家康の本隊3万を除けば、残りは敵も味方もほぼ豊臣恩顧の武将たちです。いわば全員オッパッピーで(ガチ勢を除いて)、東軍にも西軍にも命がけで尽くすだけの義理は無いわけです。持ちろん負け側に付いたら全てを失うので本気で戦いはしますが、いつ何が起きても不思議は無いと思います。毛利と小早川が東軍を挟撃すれば西軍の勝利の確率は高かったでしょう。

主郭の周囲には土塁が良く残っており四方は急峻な切岸になっており直接降りていくのは危険です。北側と北西部の遺構を見るためには一度南に戻って西の郭への分岐を進んでいく必要があります。思ったより雪が残っていて足元が滑って危ないです。ストックと登山用の靴で来ているのですが、着脱式のアイゼンも持って来るべきでした。
今回の目的の一つに縄張図に出ていない、小早川が合戦に備えて急遽整備した遺構を確認したかったというのがあります。目指すは大谷刑部の陣の方向に向かって伸びる尾根です。小早川が手を入れるとしたら、そこでしょう。

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しんちゃん

もろこしうどん  (2024/03/12 訪問)

もろこしうどんは岡崎のソウルフードです。大正庵釜春本店が元祖と言われ、おかざきめしの中でも特に高い人気を誇ります。久々に食べたくなったので寄って見ました。うん、とろみがしっかり付いていておいしい。溶き卵とコーンのおいしさがしっかり伝わってくる。
うどんとの相性もばっちりです。税込1100円はけっして高くは無いですね。なによりとろみが強くコーンがいっぱい入っているので、汁を飲むというよりは食べる感覚で、最後までおいしくいただけます。
腹もちも十分で、もろこしうどん一杯で十分お腹は満たすことができます。定期的に食べたくなる味で、第二駐車場までいつもお客さんの車でいっぱいです。
岡崎城・大樹寺と寄ったら、もろこしうどんか八町味噌を使った料理を召し上がっていくと良いでしょう。

大正庵釜春本店‥愛知県岡崎市中岡崎町6-9

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sukotako3

行ってまいりました (2024/03/13 訪問)

カツカツのスケジュールですが 天守まで行ってきた

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にのまる

馬事公苑に。

江戸城36見附めぐりに精を出していた頃に訪れた「日比谷セントラルビル」。
虎ノ門に近いこの辺りはかつては外濠に面しており、昭和40年のビル工事の際に発掘された石垣石が屋外展示されています。
折敷に三文字(臼杵の稲葉氏)など、普請を割り当てられた九州の大名の刻印石も見られ、都会のビルの片隅に江戸城の痕跡が大切にされていることにとても驚き、感動しました。
そこでもっと驚いたのが、『世田谷の馬事公苑には昭和39年のオリンピック(馬術競技)開催の記念碑として石垣の原型が残されております。』という説明プレートの文字。
馬事公苑は自宅から徒歩圏です。区民祭りやホースショーに出かけたことはあるのですが石垣の存在はまったく知らなかったので、この一文は衝撃でした。灯台下暗し。
これは見に行かなければ!とすぐに出かけたのですが……、

馬事公苑は2020東京オリンピックでも馬術競技の会場となっていて、2017年から工事のため休園中でした。白いフェンスで周囲をガードされ、中の様子はまったくわかりません。為す術もなくとぼとぼと引き返すしかありませんでした。。。

コロナ禍のためオリンピックは1年延期、また終了後のリニューアル工事に約2年かかるということで、馬事公苑の休園は7年間も続きました。
すぐそこにあるはずの石垣が見られないというのはなかなかもどかしかったです。

……と言いつつすっかりその存在を忘れていたのですが、昨年秋ついにリニューアルオープンしたということで行ってきました。

江戸城の石があるのは武蔵野自然林の区域ですが、まずはすっかりきれいになった園内を散策することにしました。
すると「はらっぱ広場」の入り口に矢穴のある石発見!
矢穴石=江戸城の石とは限らないと思いつつも、場所が場所だけにもしかして?と気になります。
弦巻門近くの「彩のこみち」に行ってみると、今度はたくさんの石のオブジェがあるのが見えました。
この形、大きさ、色。何よりひとつひとつの石から醸し出されるオーラが……江戸城っぽい。
どきどきしながら近づいてみると、お馴染みの矢穴や刻印のオンパレード。折敷に三文字の刻印に、江戸城外濠の石だと確信しました。

でもなぜここにばらばらに置かれているの?
記念碑として「石垣の原型が残されている」はずなのに……。
まさか(;゚Д゚)

急いで武蔵野自然林に向かいます。(ちなみに苑内通路は“馬優先”です。)
石垣、ちゃんとありました!
ただ、このたびの公苑整備に際し、
<これまで触れることのできなかった石垣をより身近な存在とすべく一度解体して誰もが登れるオリンピックテラスとして再構築しました>(現地説明板)
とあり、以前のものより低くなったようで、スロープや階段、ベンチが設置されていました。
それでも江戸城の遺構をしっかりと感じることができましたし、並べて嵌め込まれた新旧2枚のプレートに、未来へ継承していくための再構築なのだということがわかってホッとしました。

「彩のこみち」に置かれていた矢穴石や刻印石は以前の石垣を解体したあとのものではないかと思います。「はらっぱ広場」の矢穴石もおそらくそうです。
となると、ほかにもあるのではないか?という気がしてきたので、また折を見て探検してきたいと思います。
江戸城の石垣→オリンピックの馬術会場と繋がる理由や、刻印の詳細、発掘場所等については写真⑨をご参照ください。

今に残る江戸城の痕跡。可能な限り拾いあげていけたらと思っています。
出会いと発見を求めて今日もまた、足の向くまま気の向くまま、そこらじゅうをてくてくと歩いてきます(‘◇’)ゞ

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イオ

惣構めぐり(伊丹郷町~惣構北部) (2023/12/23 訪問)

(続き)

有岡城の惣構は河岸段丘の高低差を利用して築かれ、南北1.7km・東西0.8kmと南北に細長い形状です。有岡城が廃城となった後、城下町の大半は江戸前期に五摂家筆頭・近衛家の領地となり、主に酒造業により繁栄しました(伊丹郷町)。

JR・伊丹駅から西にのびる伊丹酒蔵通り沿いには、発掘調査で検出した伊丹郷町の大溝と呼ばれる石組みの水路が再現されています。在見られる大溝は城郭遺構ではありませんが、有岡城の内郭と外郭を区画する堀跡に築かれているようです。伊丹酒蔵通りをもう少し西に進んだ有馬道東側でも有岡城の堀跡が確認されていて、説明板が立てられていました。

伊丹酒蔵通りの一筋北には江戸前期築の旧岡田家住宅(国重文)があり、店舗や酒蔵、釜屋・洗い場などが公開されています(無料)。隣の旧石橋家住宅(県文化財)はクラフトショップとして営業していますが、こちらも立派な町屋でした。両町屋に北接する市立伊丹ミュージアムには有岡城についての常設展示(無料)もあるようなので見学する予定でいましたが、当日はすっかり忘れて素通りしてしまいました。またの機会があれば今度こそは…。

町屋を離れると惣構の外縁部に向かいます。有馬道は北部の北之口から池田や有馬へと続き、北之口には砦が設けられていたとも云われます。北之口砦跡は児童遊園地になっていて砦跡を示すものはありませんが、脇の小道(有馬道?)を下りて行くとなかなかの高低差があり、ここが惣構の縁であることを実感しました。

惣構の縁を西にたどって渡辺勘大夫が守ったとされる岸の砦へ。猪名野神社が砦跡と推定され、参道に岸の砦跡の説明板があり、境内の北西辺には土塁が遺っています。説明板によれば堀跡もあるようですが、見付けられませんでした。岸の砦からは惣構の西縁をたどって南に向かいます(続く)。
 

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todo94

19年ぶりの門司港レトロ (2024/01/14 訪問)

大分からの帰路、小倉で途中下車し、門司港駅にアクセス。駅から徒歩で攻城しました。にのまるさんの故郷にほど近いこの城、漸く攻城がかないました。砲台が築かれ遺構はほとんど破壊されてしまっているようですが、わずかに残る石垣を確認できて満足です。山頂からばかりでなく、途中、いくつかの箇所で関門橋を望めるスポットがあり、吊り橋好きの私としてはこれも萌えポイントでした。門司港レトロでは、旧門司税関に立ち寄り、歩行者専用のはね橋・ブルーウイングもじが開くところも見届けることができました。

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天守無しがアツい

カープの由来は広島城 (2024/03/10 訪問)

(2回目の訪問、2007年)
広電で紙屋町東にて下車。そこから10分ほど歩いて広島城を目指した。炎天下をひたすら歩き、広い敷地内を本丸向かって進み、そして本丸に入城した

城の展示はどこもそうは変わらないと思うが、毛利氏が栄えていた頃の広島を中心に展示がなされていた。当時の鎧に刀剣、槍、それに広島出身の思想家、医学に通じた者など広島が生んだ偉人は結構いるようだ。

「広島城に仕えた家臣」が城について解説するという映像展示もあり、楽しめながら理解できるものだった。兜、鎧を実際に着用できるイベントもあり、着てみると結構重かった。全部つけると20kgはありそうで、行軍がいかに大変かが分かるような気がする

武家屋敷に庶民の家を再現したものもあり、畳に襖、小さな木製テーブルとまさに和風。どちらも生活は質素だったようで御飯に汁物、おかず一品が普通の食事だったそうだ

現代のように肉を食うことはまず無かっただろうし、冷房設備も皆無なため、「夜寝る時は寝苦しかったんじゃないかな?」と思えた。そう気付くと今の生活は便利に思えるから、文明の進化には感謝せざるを得ない

最上階の1つ下の階には「鯉城とカープ」というテーマで、この広島城とカープ(広島東洋カープ)につながる展示がなされていた

そもそもチーム名が何故そうなったかというと、広島城の発掘にて鯉の銅像が発見されたように、この街にて鯉は広島のシンボルとして見られており、広島にプロ球団が誕生した時も鯉以外にふさわしいチーム名がないということで「広島カープ」になったそうだ

チームが発足した時の新聞コピー(何回かユニフォームは刷新されているので)各代のカープユニフォーム、(カープの優勝)記念碑といった名物を紹介した地図などが展示されていた。

カープ=鯉ということは承知だが、カープの由来は広島城にあったことは初めて知った自分。広島城は別名鯉城とも呼ばれており、その名をいただいたカープは地元市民に親しまれる存在となっていったと言えよう

最上階には展望室があり、椅子に座って飲み物を飲んだり外の景色を眺めたりしながらくつろいだ。外から見える周辺の街並みは緑が多くて綺麗だったが、5Fビルから見下ろす感覚で、下を見ると怖かった。「これくらい見たから次に行くか」と思い、記念メダルを買った後また暑い外を歩いた

(3回目の訪問、2024年)
(HP)https://www.rijo-castle.jp/

広島城には2007年にも訪問したことあるのですが、当時は御城印のシステムが無く、つまり未入手でした。その補完並びに久々の見物という意味合いで3回目の入城(ちなみに1回目は小学生の時なのですが、当時つけていた日記帳を紛失してしまい、内容もほぼ覚えてないので割愛😅)

まず(1枚目の)門を潜ります。それから右手に扉があり、どうやらそこから門内の通路を見学できるようです。けれど時間に余裕の無かった私はそこは諦めて本丸へと向かいました🏯

本丸は大人500円。午後に他用を控えてる関係で、展示物をじっくりとは見ずにサクッと見て回ることにしました

2枚目は歴代藩主を務めた毛利家の人々を描いた巻物。毛利元就〜輝元の代において中国地方一帯を治める大大名に成り上がった。輝元は112万石を所有していたわけですが(家康に次ぐ多さかな)、関ヶ原の戦いに敗れて石高を大きく減らし、長門国と周防国だけに…拠点は萩に

巻物の中に敬親(たかちか)の顔もあります。彼は吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎がいた時の藩主。松陰の山鹿流講義を褒め称えたり、晋作を四国連合艦隊との講和会議における大使に任命したのも敬親と思われます

そして…お約束の御城印…2階の売店で扱っていました。広島城(スタンダードタイプ)、鯉城(カープバージョン)、そしてしろうニャ(ご当地キャラ?)…他に金色の1000円タイプもありましたが、1枚300円の3種類(広島城、鯉城、しろうニャ)を選びました

3枚目がそれを収納した様子。写ってるのは広島城と鯉城のみですが、しろうニャもその後ろにちゃんと収めてますのでご安心ください。「袋はいらない…そのまま手渡しでOK」と店員に口にすると、「何ていい人なんでしょう😂」とリアクションされました…別にそんなことないのに…余計な袋は資源の無駄になるし、かさばってゴミになるだけだから断ってる

余談ですが、この御城印の撮影って実は結構難しいんですよね…御城印帳に入れた状態だと、どうしても本体が閉まろうとして動いてしまう。だから手で押さえながらの撮影。もしかしたら、帳にはしまわずに、御城印だけ並べて撮影のほうがいいのかな?

4階には(4枚目の)「刀の重さを体験しましょう」というコーナーがあり、私も振ってみました。するとそこそこの重量があり、ただ持つだけならともかく、これを振るって敵と斬りあう…となると、やはりムズイのではないかと思います⚔️

重さは1kgちょっと…バットより重いそうです。ここで使用されてるのは模造刀。あくまでレプリカですが、重さは本物と同じだそう。そう言えばウチにも鎌倉で買った模造刀あったな…🗡️ 品質保持のため箱にしまいっぱなしだけど、今度また握ってみようかな

最上階ではWi-Fiの通りが良かったため、そこで歩数計アプリのゲージ消費、買い物アプリの記録をつけました。そしてそこからの景色を手短に見てから急ぎめに階段を降りて天守を後にしました…

2-3分後…「やべ、そう言えば天守撮り忘れてた。そんなに写真撮らない自分でも、さすがに天守撮らないのは心残り…仕方ない。戻って1枚撮ろう😅」と考えて店主の前まで戻り、撮影したのが5枚目。とりあえず撮り逃さないでよかった

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しんちゃん

関ヶ原の合戦のキーパーソン (2024/03/10 訪問)

松尾山城は標高293.1mの松尾山の山頂部一帯に築かれています。古くからある山城を、関ヶ原の合戦に備えて石田三成が大垣城主の伊藤盛正に改修と守りを依頼していたのですが、合戦前日の慶長5年9月14日(西暦1,600年10月21日)に小早川秀秋が盛正を追い出して陣取ったということです。
この小早川秀秋という武将、なんと天正10年生まれだそうです。あの織田信長が亡くなった年に生まれたんです。びっくりですよね。
明智光秀同様に肖像画で損をしているところがあって、なんとなく気弱そうな顔をしています。
関ヶ原の合戦の際にはまだ18歳前後です。2年前の蔚山城の戦いでは若干16歳で援軍の主将として参加して多くの明軍を討ち取ったという史料もあるようですが、寛文12年(1672)に儒学者の堀正意によってまとめられた『朝鮮征ばつ記(朝鮮物語)』に由来があるようで信憑性には欠けるようです。とはいえ愛刀兼光で曲者を袈裟切りに両断(あまりの切れ味に曲者は対岸まで泳ぎ付いてから絶命)したという逸話もあるくらいなので武勇には人並み以上のものがあったと考えても良いでしょう(そう思いたい)。

話を松尾山城に戻しますが「城郭放浪記」さんに南のほうが登りやすいと記載があったのでそちらから登りました。入口も南側に付いていて、枡形の虎口から城域に入ると大きな竪堀が東に付いています。さらに北上すると右手にトイレのある郭、左手に馬出状の郭があります。さらに北上すると左手には西の郭に向かう道があり、正面には南側に枡形虎口を備えた主郭が待ち受けています。小早川の旗指物が風にはためいています。違い鎌のデザインがかっこいいですが確かに鎌の刃は内側を向いてますね。

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しんちゃん

物見に登れば信長気分になれる‥かも (2024/03/09 訪問)

善照寺砦は今川方の鳴海城に備えて、織田信長が永禄2年(1559)に築いた三砦(丹下砦、善照寺砦、中嶋砦)の一つです。翌年今川義元本隊を急襲する際、信長はこの砦の下に兵を集結させたそうです。公園内に意味深な展望台みたいな遊具があるので登ってみたところ、遠くにおけはざま山が見えました。現代の物見やぐらといったところですね。こういった気の利いたサービスはうれしいですね。
信長気分、味わえたでしょうか?

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しんちゃん

名塚砦 稲生原(いのうがはら)古戦場跡 織田家中掌握の地 (2024/03/09 訪問)

名古屋市西区名塚町にある名塚砦は白山神社一帯にあったとされています。織田信長の弟・信行を支持する林道勝、柴田勝家らに対抗するために、織田信長がこの砦を築き佐久間重盛に守らせたとされます。名塚砦から200mほど南にある稲生原古戦場跡で林・柴田ら信行方の軍勢1700と信長方700の軍勢の間で合戦となり、信長本人(柴田勢を一喝)の活躍もあり敵方を敗走させたと有ります。古戦場跡には供養塔と庚申塚があり合戦の使者を弔っているとのことです。

名塚砦跡‥名古屋市西区名塚町4
稲生原古戦場跡‥名古屋市西区名塚町1

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