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スミヤキ

蛇にまつわる都市・城と言えば… (2025/01/09 訪問)

2025年巳年がスタートしました。
「巳(み)」は、豊穣や金運を司る神様として祀られてきた蛇を意味し、古くから信仰の対象とされてきました。
縁起の良い蛇と言えば、国の天然記念物「岩国のシロヘビ」が、有名ですよね。新年早々、シロヘビのご利益にあずかりに、また百名城スタンプ98城目になる岩国城を登城してきました。

岩国城は、関ヶ原の戦いの後に吉川広家が、山陽道を眼下に見渡せる横山山頂に総石垣の城郭、桃山風南蛮造りという珍しい天守を1608年に完成させます。徳川幕府の一国一城令により、わずか7年で山上の城郭は、破城処理が施された歴史があります。
以後、1962年(昭和37年)に天守が再建、翌年には、山上の城跡と麓を結ぶロープウェイが開通し、現在は錦帯橋と並び岩国観光のシンボルになっています。
復元された旧天守台、現存している石垣や破城痕跡がわかる石垣群、大釣井、大空堀跡など高い築城技術を持つ毛利吉川家の見所満載のお城です。
山上天守からの瀬戸内海、城下を見下ろす絶景、ロープウェイ山麓駅隣の岩国シロヘビの館の「シロヘビ様」も忘れずに。

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イオ

つぶやきあれこれ

最強寒波

先週からこの冬最強の寒波が来ると言われていましたが、新潟や北陸をはじめ相当な大雪のようで、大変な思いをされている皆さまにお見舞い申し上げます。また、先月の弘前城二の丸未申櫓の破損のような被害が発生しませんことを…。それにしても、昨夏は大変な猛暑で温暖化が進んでるのかなぁ…と思っていましたが、冬は冬で観測史上最高の積雪とか、どーなってるんだ地球。

転送したら写真全滅だった件

リムル様…じゃない、ぴーかるさんのSDカードアクセス不可とは比べものにならないわずかな損害ですが、写真が全滅したために、一度行けば充分というような城に三度も行く羽目になったのが何とも…。とはいえ、消えたのは近場に加えて質量ともに大した写真ではなかったのでまだしもながら、これがそう滅多には行けない遠方の城だったり、撮りためている姫路城の写真だったらと考えると……恐ろしいことです。機器の不具合や人為的なミスはあるものと想定して備えないといけないな、と改めて。

「無双の剛の者」へ

私も投稿の中で「ニッポン城めぐり」に触れることがよくありますが、しんちゃんさんも順調にハマっておられるようで何よりです。武将を登用するための石高を得ようと尾張や美濃や近江をポチ攻めしまくっていたら、獲得した石高の倍以上の石高を要する武将たちを発見、より一層石高貧乏になったというのは私も経験しています(笑) ところで、異名「無双の剛の者」を獲得されたとのことで、ここはぜひ「日本一の兵」を目指していただきたいものです(現在8位…ですよね?)。真田推しとして私もかつて獲得を目指しましたがあえなく敗れ去り、ある程度攻略が進んだ今となってはもう無理かな…と諦めていますので。
 

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しんちゃん

新田氏の庶流・里見氏 (2025/02/02 訪問)

新田義重の子、義俊が新田氏の所領である里見郷に築いたのが里見城の始まりとされています。城山稲荷の周辺は古城と呼ばれ、外曲輪とされていますが藪化しています。南側から回り込んでいくと本城にたどり着き、案内板もあります。
里見地区の伝承では新田義貞は幼少の頃、里見の地で育ち、幼名を里見小五郎と称していたと案内板に記載があります。

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しんちゃん

阿内城 (2025/02/02 訪問)

阿内城は宿阿内城とも呼ばれ、本丸の周辺は畑地になっているようです。道沿いの民家の北側にあった土塁のような土盛りの写真も載せさせていただきます。

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しんちゃん

北新波砦史跡公園 (2025/02/02 訪問)

北新波砦は北新波砦史跡公園として整備され、土塁が復元されています。周囲を巡っているのは堀跡でしょうか。こじんまりとした史跡ですが、雰囲気は十分味わえます。一辺75mほどの方形の居館跡の様な城郭ですが南側には突出部があります。箕輪城主長野氏に関係のある城郭とされ、支城のようなものだとされています。

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朝田 辰兵衛

城域の西側がエグられてる気がしたので… (2025/01/11 訪問)

2025年の攻城は,ハリポタ城からスタート。リバーゲートから石神井川を眺望し,ハリポタのモニュメント確認で戻ろうかな…と。
しかし,マップを眺めると,城域の西側に住宅地が造成されてエグられてる気がしました。
そこで,公園内を西へと移動し,石川橋へ。ここからあらためて石神井川を眺望。そして,向山公園へと。「意外に登るなぁ…」と思っていたら,向山公園自体がすり鉢状地形を改変したように思えました。「もしかして向山公園は登城口あるいは荷揚げ場か…❓」と想像を巡らせました。また,向山公園には,近くにあった道標の石碑が移されて設置されていました。人も物も行き交い,往時の賑わいを伝えているように思いました。
こういう想像をしながらの散策が結構スキです。

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dougen

2017.11.5登城 (2017/11/05 訪問)

城山公園として整備され、石垣や復元門などがあります。

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dougen

2017.11.5登城 (2017/11/05 訪問)

往時を偲ぶ、曲輪や土塁、水濠など残っています。

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石垣めぐり (2025/02/06 訪問)

 高石垣は迫力があり宇喜多氏、小早川氏、池田氏それぞれの石垣が残っていて楽しませてくれます。

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しんちゃん

土合館 (2024/09/16 訪問)

土合館は八丁目城と縁の深い城館で、八丁目城の支城とも見られ、本城である八丁目城が西館と呼ばれ、土合館は東館と呼ばれます。実際には八丁目城に劣らぬ規模と縄張りを持っており、八丁目城と合わせて奥州街道の守りを担っていたと思われます。
現在は土合館公園となっており、紫陽花の名所でもあり主郭には神社が祭られています。周囲に郭が残り、土塁も各所に残っています。北西の出丸らしき郭には観音様(?)が祭られ周囲を見渡すことが出来ます。八丁目城主の清野遠江守の父・備前守の隠居城ともされ、伊達家の内乱の末、敵対する伊達晴宗が勝利したため八丁目城と共に落城したと思われます。

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宇喜多直家 (2025/02/06 訪問)

 久しぶりの岡山城です。2022年11月3日に天守閣がリニューアルオープンしてからは初めての登城となります。天守閣内は岡山市出身の磯田道史先生が監修された展示となっていていました。最近登城したと思っていたのですが、記録を見ると前回の登城は平成の頃でした。
 旭川の西の丘陵地にあり、南北朝時代には石山城と呼ばれていた砦が存在していました。戦国時代には金光宗高の居城となっていましたが、1570年(元亀1)これを宇喜多直家が滅ぼし居城としています。息子の秀家が豊臣秀吉の全面的協力のもと新城の築城と城下町を整備しました。天守の石垣や1階の平面が不等辺五角形をしているという興味深い設計となっていますが、土台になった岡山の丘の地盤にあわせたためといわれています。戦災で焼失したのは残念ですが、外観は戦前のとおりに復元されています。梟雄として有名な宇喜多直家ですが、没落した身からのし上がった器量は尋常ではなく経済の重要性も理解した人物であったと思っています。宇喜多直家、秀家父子を大河ドラマにしようという運動もあるようです。

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しんちゃん

総社長尾氏 (2025/02/02 訪問)

蒼海城は上野国府跡の周辺に築かれていたとされます。現在は開発が進んで、雰囲気はだいぶ変わってしまったのではないでしょうか。長尾氏らしき武者のレリーフのある神社の近くに「御陵神社と長尾氏由緒」と表題のついた案内板があります。
永享元年(1429)上野国守護代・総社長尾氏の長尾忠房によって築かれたとされています。

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しんちゃん

松陰先生寓奇処 静岡県下田市 (2025/02/01 訪問)

唐人お吉が身を投げたお吉ヶ淵から南西に程なく行ったところに温泉情緒漂う街並みがあり、そこに松陰先生寓奇処があります。
嘉永7年(1854)3月18日、米国のペリー一行を負って吉田松陰・金子重輔は下田に到着し岡村屋に宿泊しました。当時皮膚病を患っていた松陰は温泉での治療のために蓮台寺を訪れ、地元の医師・村山行馬郎と知り合い、しばらく村山邸にごやっかいになったとのことです。
二階の松陰先生隠れの間も見学することが出来、ここで米艦にいかにして便乗してやろうか思案を巡らしている松陰さんの姿を想像しました。付近には松陰先生湯治場の看板がかかった家屋があります。

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しんちゃん

対面石八幡神社 (2025/02/01 訪問)

静岡県清水町の八幡神社には源頼朝と義経が対面を果たした際に腰かけたとされる対面石があります。治承4年(1180)10月、富士川の合戦の為に頼朝は出陣し、この地で奥州より駆けつけてきた義経と涙ながらに対面を果たしたとのことです。
近くの智方神社には後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王の御陵があります。なぜ鎌倉から離れたこの地に?とは思いますが神妙にお参りしてきました。

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しんちゃん

付加価値古戦場 (2024/09/16 訪問)

瀬戸川館跡は現状公園で案内板と「史跡伊達成実陣地瀬戸川館趾」の石碑が立っています。城址としては見るべきところは、ほとんどありませんが天正13年11月17日に伊達政宗と佐竹・蘆名らの連合軍が戦った人取橋合戦の際に伊達成実の陣地になっています。

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ぴーかる

転送したら写真全滅だった件

 イオさんの投稿を拝読して写真全滅になってしまった事、心中わたしもよく分かります。超へこみますよね。
 私は撮影したSDカードを原始的なのですがパソコンを通して大容量のUSBにコピーして編集しています。昨年和歌山の投稿の時からパソコンの調子が悪く、城廻りを終えて、帰宅後に写真を転送編集しようとSDカードを挿した瞬間、パソコン表示に「デバイスが・・・・」と出て、SDカードを害して中の写真がアクセス出来なくなってしまって、結局全滅の憂き目に。昨年夏に和歌山の時と、実は年末の将軍山城の2日目、先日鳥取県の市場城・会下城他に行った時の合計3回全滅してしまって、これはもう無理~となり、先週パソコンを買い換えました。
 近場だったらまだ再訪できますが、百・続百名城の残りが遠方ばかりとなったので、これで写真消えたらマジ泣く(>_<)ってなります。
予期せぬ不具合、操作ミス、気を付けたいです。

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チェブ

空堀散歩。 (2025/01/04 訪問)

「臼井城」の後、印旛沼を渡り「師戸城」へ。
「師戸城」は「臼井城」の支城です。
「臼井城」は近くのお寺を案内したナビ。「師戸城」は『千葉県立印旛沼公園』の入口で案内を終了しました。
公園入口から駐車場への坂道は、土塁横を登っているような雰囲気です。
1月4日、誰もいないかと思ったら駐車場の半分位、埋まってました。
駐車場から右方向に進みます。
途中、土塁だーと方向変換。もう、縄張り関係なく歩く通常進軍。
途中、橋から空堀を眺めると、堀底が散策路として整備されているのを見ました。では、堀底を歩こうと堀底入口(?)を探します。

印旛沼が見えます。グーグルで印旛沼を見たら不自然な形です。
眺めていても不自然な形は確認できません。
昔の人は空から見ていないのに『琵琶湖』が琵琶の形をしていると、なぜ分かったのだろう?
小さな印旛沼の形も分からないのに。
家族連れが遊んでいて、おばちゃん1人、仁王立ちで印旛沼を眺めていたら怖かろうと思い移動。

堀底入口(?)を見つけ、土塁上からの攻撃を想像しながら、右左に交わしながら進軍しました。

駐車場には自販機もあります。
真冬なのに、冷たい飲み物を選ぶほど、静かにはしゃいでしまった「師戸城」攻めでした。

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栃木西方城

パネル展示「西方城跡」を開催します!! (2025/02/06 訪問)

 令和7年(2025)年2月6日(木)~3月16日(日)の期間、栃木市文化課文化財係による道の駅にしかたキララ館にてパネル展示「西方城跡」を開催します!!西方城跡の魅力がぎゅっ!とつまったパネル展や西方城跡の解説動画もあわせたわかりやすい展示となっております。
 道の駅にしかたにお越しの際はぜひお立ち寄りくださいね♬♪お待ちしております!!

主催:栃木市文化課文化財係
日時:令和7年2月6日(木)~3月16日(日)
会場:道の駅にしかたキララ館(栃木県栃木市西方町元369-1)
入館無料

お問い合わせ
栃木市文化課文化財係
〒328-8686
栃木市万町9-25栃木市役所4階 文化課
TEL:0282-21-2497 FAX:0282-21-2690
栃木市文化課H.P
https://www.city.tochigi.lg.jp/soshiki/57/

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イオ

三度目の正直…ならず (2024/11/23 訪問)

龍泉寺城は嶽山城とも呼ばれ、南北朝期に楠木正成が楠木七城のひとつとして築いた城で、室町中期には畠山義就が籠って嶽山城の戦いの舞台となり、その後も畠山氏の内紛の際に活用されましたが、戦国前期には廃城となったようです。

嶽山の頂部が城跡とされますが、地表面に城郭遺構は無く発掘調査でも検出せず、ホテル裏手のテニスコート脇の藪を抜けたところに石碑と説明板が立てられているのみです。

嶽山の南東中腹には城名のもとになった龍泉寺があり、往時は根小屋的に活用されていたものと思われます。城としてはあまり見るところがないので龍泉寺を見学してみましたが、推古天皇の命により蘇我馬子が創建したと伝わる古刹で、鎌倉期には23の坊院を擁し隆盛を誇るも、城に組み入れられたため南北朝期から戦国期の戦乱に巻き込まれて伽藍の大半を失い、現在は国重文の八脚門と国名勝の庭園がかつての威容を伝えるのみ…とのことで、確かにちょっと寂れた雰囲気がありました。

ところで、実は龍泉寺城は3度目の登城で(またかよ…)、2年前に最初に登城した時は、テニスに興じる人たちの不審者を見るような視線に耐え切れずテニスコート脇の藪に突入できませんでした。せめてニッポン城めぐりのリア攻め記録だけでも…とポチしてみると、テニスコートの奥ではなく北西方向に位置情報が設定されています(城びとの位置情報も同様です)。北西方向に何があるんだ? と思って行ってみると、バンガローが建ち並ぶキャンプ場の奥に広大な嶽山展望所が開けていました。嶽山に立て籠もった畠山軍が練兵場としたと伝わる千畳敷跡でしょうか。展望所の名の通り大阪平野を一望できる場所でもありました。千畳敷(たぶん)は思わぬ収穫でしたが、やはり石碑と説明板を確認しないままでは…ということで再訪を決定。

再訪したのは昨年1月、前回の反省を踏まえてテニスコートの脇でなく西側から山中を突っ切るようにして石碑と説明板に到達。それだけでは物足りないので龍泉寺も散策して、さあ投稿! と思ったら、仁王山城と同じく初回登城時の写真が全て消えていました…。展望所(千畳敷)の写真も撮り直したいし、どうせ近くの仁王山城にも行くんだから、とこちらも3度目の登城を決意。

3度目のこの日はテニス客はいなかったのでテニスコート脇から藪を突破して石碑と説明板を再確認し、本題の展望所に向かったところ、キャンプ場に差し掛かったところに立入禁止の表示が…。2年前はこんなのあったっけ? と思って周囲を見回すと、展望所へと続く道もロープで閉ざされています。…あぁ、なんてこったい。このためだけに来たというのに。立入禁止では再訪しても仕方ないので展望所の写真抜きで投稿しますが、龍泉寺城は三度目の正直ならずでした。
 

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赤い城

土佐七雄のひとり、本山氏の居城 (2025/01/26 訪問)

十二所神社の鳥居脇に案内板があり、ここから登ります。
墓地を過ぎ進んでいくと遊歩道に合流します。
途中竪堀を見あげながら整備された遊歩道を登ると削平地に到着、発掘調査も行われているようです。
この曲輪群には後世、森林測候所が設置されたり、太平洋戦争後の射的場として転用されるなど石垣は当時の遺構では無いようです。

頂上部には三段の曲輪が連なっています。
見晴らしも良く、主郭には石碑が立っています。
主郭背後は急峻な切岸となっていて大堀切とされます。
ここから西側に竪堀が落ちています。
さらにここから南側に少し進んでいくと浅い堀切が残り、この辺りまでが城域のようです。

本山氏は一時、長宗我部氏の岡豊城を落城させるなど勢力を伸ばしましたが、その後は長宗我部氏の傘下に入りました。
本山城は江戸時代には天守も構築され、近世城郭として続きましたが、一国一城令で廃城となりました。

本山町の市街地には平時の居館であった本山土居もあります。
江戸時代には藩主の宿泊所として利用され、石垣が残っています。

【見どころ】
 ・主郭背後の急峻な切岸
 ・西に落ちる竪堀
 ・南側尾根の浅い堀切
 ・主郭付近の石積
 ・主郭部からの眺望

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