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Tokyobay

「目的なしの勉強」に励みたいとの思いを強くする (2024/01/15 訪問)

念願の適塾訪問。予想はしていたが高層ビルの谷間にある異空間に存在。「ついに来たか」という感じ。1階の教室や展示を見て急階段を上り2階へ。まず目に入るのが、刀痕が刻まれた大きな柱で、血気盛んな若者たちの情熱が伝わってくる。そして、ここが『福翁自伝』に出てくる所謂「大部屋」かと思うと非常に感慨深く、しばし座り込み思いに浸る。自分が今居るこの場所で、大村益次郎や橋本佐内や福沢諭吉らが寝食し、勉学に励んだのかと想像すると、感動で全身が震えて止まらなくなる。
福澤は適塾時代を振り返り「目的なしの勉強」を提唱しているが、自分も気持ちを新たに「目的なしの勉強」に一層励みたいとの思いを強くする。適塾の大部屋でとても幸せな時間を過ごさせてもらった。まさにこれが歴史探訪の醍醐味である。

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しんちゃん

石山寺 紫式部ゆかりの寺で、珍しい岩盤の上に建つ。 (2015/06/21 訪問)

古い写真で申し訳ないんですけども石山寺の投稿をさせていただきます。石山寺の歴史は古く聖武天皇の発願によって天平19年(747)良弁(金鐘行者)により創建されたとあります。紫式部が寛弘元年(1004)に参篭したさいに8月15日の名月の晩に「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされ、本堂の「紫式部源氏の間」には伊藤久重氏による紫式部の御所人形が飾ってあります。
天然記念物の石山寺硅灰石の巨大な岩盤の上に建っていて、これが石山寺の名称の元になっています。本堂の南側は懸造になっていて国宝に指定されており、日本三塔の一つとされている多宝塔も国宝に指定されています。
硅灰石とは不純物を含んだ石灰石やチャートの層に、花崗岩などが入り込んだ影響でできた(接触変成作用)ケイ酸カルシウムを主体とする鉱物のことらしく、古来より大切にされ、1922年に国の天然記念物に指定されています。以前から名古屋城で使われている花崗岩に興味はありましたが、淡路を旅して砂岩などの堆積岩にも興味がわいてきました。石の世界もなかなかに奥が深く、まだ知りたいことの1/10も理解していません。でも石の種類によって切り出し方から加工方法、積み方に至るまで全く変わって来るので、避けて通ることはできません。天下普請の城を除けば石垣の石は基本的に現地調達なので、それらを踏まえて城めぐりに少しづつ生かしていくことが出来ると良いと考えています。
名古屋のお城EXPOで三浦先生の講義で「信長の石垣革命」といった講義がありました。私としては花崗岩の扱いに長けた技能集団と織田信長・明智光秀らの出会いが全国の石垣のレベルを飛躍的に引き上げたのだと思っております。信長公はシステムを造りだす天賦の才を持っていて、それを支える明智光秀らの才能も並々ならぬものがあったと思います。

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シェル

大谷吉継の居城&天狗党終焉の地 (2024/02/24 訪問)

 北陸新幹線延伸前に初の北陸訪問!!福井県へ行ってまいりました!!
 まず北陸最初の城攻めは敦賀からスタート!!
 冬季期間は玄蓄尾城の続日本100名城のスタンプが敦賀市役所に設置されているため、押印したのちに、敦賀城跡に立ち寄りました。
 敦賀市役所から徒歩10分ほどで、来迎寺に着きました。JR敦賀駅から来迎寺までは徒歩30分。真願寺までは徒歩25分ほどです。
 来迎寺では、敦賀城中門が境内東側に移築されています。
 中門の移築されている来迎寺の西側には、わが地元の茨城ゆかりの水戸藩天狗党の武田耕雲斎等の墓がありました。天狗党は筑波山(茨城)で挙兵し、尊王攘夷の志を朝廷に直訴すべく、京を目指して進軍。敦賀で降伏し、幕府に引き渡された後、来迎寺で300名以上が処刑されたということです。墓の西側の広場には、降伏後に天狗党が収容された鯡蔵の移築が行われていました。
続いて笙の川を渡り、真願寺へ移動。真願寺周辺が敦賀城の跡とされており、真願寺境内に城址碑と礎石がありました。
そこから5分ほど歩いた敦賀西小学校の所に、敦賀城、敦賀奉行所・代官所、敦賀県庁の説明碑が置かれていました。
説明碑から徒歩5分ほどの所には、敦賀城主であった大谷吉継ゆかりの八幡神社もあります。

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ぴーかる

生野城 (2024/01/13 訪問)

【生野城】
<駐車場他>琵琶の丸公園駐車場5台分程度あり。
<交通手段>車

<見所>石垣跡・石列・曲輪切岸
<感想>生野銀山には若い頃2度行ったことがあるので今回は見送りました。
 登城口の琵琶の丸公園から城跡までが長い登山で45分かかりましたので2㎞程はあるかと思います。冬場でも飲み物あったほうがよいかと。琵琶の丸公園の山頂展望東屋の手前から山に入ります。中間地点に池のある出曲輪のような削平地があります。城跡は主郭を中心に北・西・南の三方の尾根に曲輪が連段となっています。主郭から北はぐんと下がって曲輪が3段あり、1段目の曲輪北側端に櫓跡の土壇が残っています。主郭から西も曲輪が3段あり3段目がぐんと下がった位置にあります。主郭から南はすぐ下に1段だけ小さめの曲輪があります。
 主郭は比較的小さい円形で中心に巨石が置いてあり、磐座と思われます。主郭の曲輪壁北側に石垣跡が見られます。また西側の連段の曲輪壁に石垣跡、曲輪内部に石列が見られます。
 尾根を削平したオーソドックスな山城の造りですが、苦労して登り着いた城跡、迫力ある曲輪壁切岸に見応えを感じました。城跡にある説明板は日焼けして完全に文字が消えてしまっています。琵琶の丸公園にある縄張り図の西端にある大手曲輪のような場所には行ってません(道も気付かなかった。藪化、ロストしていたかも)。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

足立美術館 国内トップクラスの庭園を誇る (2019/05/03 訪問)

足立美術館は島根県安来市にあります。120点にもおよぶ横山大観の作品を収蔵し、世界が認めた日本一と言われる庭園があるそうです。
米国の日本庭園専門雑誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』が行っている日本庭園ランキングで連続日本一になっており、ミシュランでも三ツ星の評価を受けているようです。
正直に言うと、国内に凄い庭園は他にも有ります。たしかに世界が認めたと言われるだけの凄い庭園ではありますが、アメリカ人に日本の文化や伝統がわかってたまりますかって気持ちは有りますね。わび、さびとかわかんないでしょ。外国人が認めたから日本一というよりは日本人が認めた庭園こそが日本一で然るべきですね。
ちょっと挑戦的な文章になってしまいましたが足立美術館には全く落ち度は有りません。展示内容も庭園も国内トップクラスです。島根を訪れたら是非訪れてほしい観光地の一つです。ちなみに庭園の撮影とSNSへの掲載は自由です。美術館に直接許可を得ています。

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にのまる

つづき (2024/01/07 訪問)

逆井城でぜひ見たかったのが関宿城の移築門です。
関宿城訪問から6年越しの願望がようやく叶いました。
朱塗りの薬医門は現在の関宿城の印象と重ね合わせるのは難しかったけれど、奥にある庭園や主殿と融和した佇まいで、この場所こそが終の居場所であるという落ち着きと安心感がありました。

主殿の広々とした二間には日本建築の伝統美がちりばめられています。襖を開けて畳の上で伸び~っとすると心まで解き放たれた気分になり、縁側に腰掛けて眺める枯山水は雑念だらけの心を鎮めてくれました。
暫しの休憩のあと建具を元どおりに閉め、園内散策へと繰り出しました。

馬出と鐘掘池から続く大堀の力強さがとても印象的です。堀を辿っていくと西仁連川に注いでいたのも感動的でした。復元された櫓門や木橋も当時の雰囲気を伝えるのにとても効果的。逆井城の復元建物は根拠のある模擬なのがうれしいです。途切れた堀を想像で繋いでみたりしつつ北出口から西外堀をぐるっとまわりました。

再び現れた井楼矢倉。こちらからだと平櫓~二階櫓の眺めが一段とよかったです。沼地であった二重堀を確と記憶に刻み終了としました。
見学時間は約1時間30分でした。
桜まつり・バーベキュー・ゲートボール場というキーワードに、訪城前は遊び場的要素の強いところなのかなと思っていましたが、実際に行ってみると遺構も中世城郭の再現度も素晴らしく、城の時代を肌で感じることができました。
<おわり>

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朝田 辰兵衛

真田のネームバリューが引き寄せた… (2024/02/11 訪問)

真田のネームバリューに引き寄せられました。東海大学前駅より,徒歩約20分で天徳寺到着。ここより北側の墓地方向に突き出したエリアまでが城域だったのかな…と思いました。西側の堀と思えるところは真田与一公園に改変された様子。東側は面影を伝えていると思われますが,墓地の拡張が計画されれば改変され,フラット化されることと思います。

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刑部

二条城 (2024/03/06 訪問)

二条城は西方城の麓にある城址、藤田氏の居城です。
何故、廃城だった西方城を改築せず新たに麓に築城したのでしょうね?今でも西方城址は遺構が残ってるのだから当時は相当残っていて改築は容易だったと思いますが・・・。ここも良く遺構が遺されてますのでこれから西方城址に行く方は是非ここにも一緒に寄ってください! 駐車場は同じで手前に二条城の登城口があります。主郭部は石積みも見られます。

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カズサン

追手口登城路 (2024/03/01 訪問)

 「追手門跡と着到櫓跡」のつづきです。

 未踏だった見張台を探訪しようと高天神城南口駐車場に駐めて追手登城口より登城を開始、高天神城初回登城が平成26年(2014年)11月27日で追手登城路を使用、2回目が昨年令和5年5月25日で搦手登城路で断崖の登城路を満喫して居ります。
 
 追手口登城路は南口駐車場に案内図、想像図が有りこれからの登城のワクワク感を沸き立たせてくれます、高天神社鳥居を潜り進行、高天神城跡標柱も脇に立ち50~60m程で追手門跡、縄張図付きの解説板有り、着到櫓跡の曲輪切岸が高く追手門を護っている、着到櫓跡から三の丸跡への階段を登り、三の丸虎口の手前に今は通行不可の二の丸・高天神社と三の丸・本丸の分岐点、登って三の丸虎口、三の丸虎口から本丸方向への階段を登って行くと本丸の南東にある御前曲輪の南東端切岸、南側の切岸を観察し、本丸への登城階段、本丸南側の高い切岸を観察し、本丸北西虎口・的場曲輪への登城階段を見て進むと搦手側からの登城路と繋がる踊場へ、井戸曲輪へ繋がる灯籠の在る階段へ鐘曲輪を経て井戸曲輪井戸跡へ到着。

 今回見張台をやっと観察探訪、細い尾根道、ぞっとする北堀切を覗き未踏の見張台を実態体験、3回登城で一応高天神城の遺構を廻りました。スギ花粉の中、目の痒さ、鼻水の苦行探訪でも満足です。

 この後は高天神城見張台だけでは時間が余るので高天神城に関係する砦などを廻りました、後ほど投稿致します。
 高天神城見張台、東峰遺構4編投稿長々とご覧いただきありがとうございました。
  
 

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栃木西方城

西方城跡総合調査報告書が完成しました!!! (2024/03/06 訪問)

 西方城跡と二条城跡について、平成30年度から考古学や文献史学などの幅広い分野での総合調査を実施し、その成果を報告書にまとめました。
内容として大きな点では、お城の時期として、西方氏、結城氏、藤田氏があること、西方城跡と二条城跡が結城氏の段階で同じ時期に使われていた可能性が考えられました。また、お城の東側の平地部には城下町があった可能性も考えられました。
 また古文書の中に「にしかたによきちゃうすあり」と書かれていて、発掘調査でも石積みから茶臼が出土していたことが面白いなと思っています。ぜひ見ていただけると幸いです。
 今回の調査では、各関係諸機関の方々に多くのご指導をいただきこの報告書を発刊することができました。また、この調査にあたり地域の方々のあたたかいご声援に心から感謝いたします。
今後ともさらなるご支援をお願いいたします。城びとの皆さま、城びとの情報を見てくださった皆さま!ぜひ、現地の西方城にも訪れてみてくださいね!
お待ちしておりますm( * _ _)m

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todo94

実家に最も近い城 (2024/01/02 訪問)

城びとに登録されている城のうち、実家に最も近い城です。ここまで未訪だったとはなんともお恥ずかしい。長野氏関係の遺跡のようで、中世城館のような佇まいですが、虎口など防御はなかなか固そうです。上毛三山の一つ、わがふるさと高崎の山・榛名山をきれいに望むことができます。

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Tokyobay

近代日本の国家体制の方向性を決定づけた大阪会議 (2024/01/15 訪問)

1875年に大阪会議が開催された「花外楼」はビルとなって現在も営業中。「大阪会議体制」は短期間で崩壊してしまったが、成果として「漸次立憲政体樹立の詔書」が発せられた意義は大きく、近代日本の国家体制の方向性を決定づけたと言っても過言ではない。一説には下野組による第二次薩長連合が結成され、更なるクーデターが起きるのを恐れた大久保・伊藤・井上が仕組んだという話もあるようで、結果的には西郷は孤立するような形になってしまったようにも思えるが果たして。尚、「花外楼」の隣ビルには関係者5名のレリーフがあるようだが、全く気が付かずに見落とし。事前によく調べておくべきだった。
そしてスグ近くの旧大阪証券取引所へ。真ん前に立つ五代友厚は大阪会議にも関与していたようで、日銀大阪支店近辺にあった五代の邸宅で事前交渉が行われていたようである。その日銀大阪支店や大阪市中央公会堂や大阪市役所等々の官庁街を見学。なぜかミャクミャクが寝っ転がっていて、可愛くて面白い。街全体は万博PRで盛り上がっているようには思えたが、万博も先行き不透明でどうなるんだろうかと。

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にのまる

念願叶い。 (2024/01/07 訪問)

早朝に出発してからの2城目、ちょうど正午に到着しました。
澄みきった空の下に突如出現した立派な櫓や土塀。
長年訪れたいと思いながらアクセスの問題で実現できないでいたので感慨も一入です。同行させていただいた城友(鉄友^^;)さん方、ありがとうございました。

大堀に架かる木橋を渡り井楼矢倉へ直行しました。
縄張りを確認するには高いところに登るのがいちばんです。見た目はスースーした櫓ですが、補強材や筋交いが入れられ安心して登れました。
城外から見てもインパクトの強かった土塀ですが、上から覗くと整然と並ぶ控え柱と狭間が裏方として城を支えている様子がダイレクトに伝わってきました。
「土塁と堀」の遺構でも城の時代を感じることができますが、失われた部分の想像には限界があります。最近ではARやVRで城の世界に飛び込むことも可能ですが、空気や風や匂いまで感じることは難しいです。
この高い櫓の上からの光景は城を訪ねる旅の目的と楽しみと学びとを十分すぎるほど満たしてくれ、建造物復元のありがたさを強く感じました。

続いて二階櫓へ。城のアイコンをシンボルとして据えたような外観に親しみを覚えます。自由に出入りできるのも復元であればこそで、一見シンプルに見える中に施された細工が楽しく、先ほどの井楼矢倉と共に、観光用の展望台ではないのだよという主張を感じました。
<つづく>

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いのさん

天守台と山里口御門だけではもったいない? (2024/03/04 訪問)

北陸新幹線金沢~敦賀間開業間近(福井駅構内などは最後の追い込み状態でした)で、福井方面で青春18切符が使えるのが最後と、丸岡城へ行った帰り、電車までの時間があったので、6年?ぶりに福井城に寄ってきました(前回は時間の関係でお花見だけ)。本丸石垣外面は福井地震(1948)の被害なのか、経年によるものなのか、孕みやズレが多く、今後の保全が心配されてしまいます。復元された山里口御門は修繕工事なのか通路上をテントで覆われて撮影断念。小天守台は福井地震のために沈下した状態なので閉鎖状態。これも一種の震災遺構。能登半島地震もあり、こうした震災遺構の広報も必要では。案内板(木札)がありましたが、経年劣化で割れたり、変色で読み取るのが難しい状態。こうしたモノの維持もある種大変なのか?天守台北面の石垣もズレが大きく、心配な状態ですが、積石同士の隙間が大きいので、ある意味、積石の奥行きが積んである状態で目視、確認できる貴重なものかと。本丸の東側以外の3面で大規模な雁木が残っていました。東側は雁木はありませんが、石垣裏の土塁が確認できます(下部は議事堂などの整備で改変されていると思います)。ただし、議事堂の裏手で公用自転車置き場になっているので、県職員とすれ違ったりするので、注意?が必要です。小天守東側の階段の途中に「石垣に残る塀の痕跡と刻印」の案内板(写真7枚目)がありましたが、北不明御門跡の石垣北面にも同じような刻みや穴がありました(写真8枚目)。瓦御門跡の石垣上には登れる部分がありました。瓦御門の櫓台の天端石には写真(9枚目)のような彫込みがありました。私のこれまでの少ない経験では見たことありませんでした。櫓の木土台を水平に据えるためのものなのでしょうか?専門家ではないので分かりません。こうしたものの案内もあるとうれしいのですが。瓦御門石垣の下部にも彫込みや穴があり(10枚目)、門の柱などを建て込むための彫込みなのでしょうか。他にも、ほぞ穴みたいなものも見られました。県庁舎や県警本部の建物がある所なので、特に裏手の部分をウロウロするにはやや勇気がいりますが、天守台と、御廊下橋以外も色々見るところがあると思いました。

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しんちゃん

面白い遺構が残るが、山城大好きな人じゃないとかなり厳しい。 (2024/01/03 訪問)

寺原城の続きです。ほぼ直登で主郭北側までたどり着きました。山の東側には思わせぶりな扁平地が数多く見られましたが、杉の木の植林で近代に扁平された可能性が高そうですね。しかし主郭に近づくにつれ破城の際に散乱したとみられる石が多く見られるようになって来ます。このあたりは郭の可能性がありますね。
主郭北側の堀の周辺に巨石が散乱していますが、一定の整合性を持って配置してあるようにも見えます。枡形のようにも見えますね。間を通れるんですよ。なかなか興味ぶかいポイントではあります。
主郭西側から南に回り込んでいきますが、主郭の切り立った側面に石積みのような箇所が多く見られます。西側下には石積みの壁が存在します。通路のようにも見えますね。主郭の斜面は切り立っていて、ここからの直登は危険です。私は直登の際には常に滑り落ちた場合のことを想定しているので、大きなけがをするような箇所は登らないようにしています。登城できる場所を探している途中で主郭の西側に矢穴石を発見しました。ここで見られるとは思っていませんでした。戦国期に改修を受けている良い証拠になります。
主郭南に獣道のような筋が見えます。ここがかつての登城道のなれのはてでしょうか?ここしかないので気を付けて登ります。主郭への道は途絶えて久しいようですね。県の史跡のはずですが訪れる人は殆どいないようです。南の腰郭を経て主郭に登りつめます。
主郭はそれほど広くは無いですが隅部を石垣で補強してありますね。登るときもそうですが、降りるときも気を遣います。鹿のうんコが大量にまとまって落ちているので、うかつに突っ込んだら大惨事になるので、お尻を使って滑り降りる技は封印です。ストックをうまく使って降りていきます。
城びとの山城マスターの皆さんなら自己責任でなんとか攻略できるとは思いますが、正直 万人向きではないですね。
面白い遺構がちらほら見られますので、もっとわかりやすい登城道を整備していただきたいものです。案内板も欲しいですよね。

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しんちゃん

福島藩の飛地に築かれた陣屋 (2024/03/02 訪問)

重原陣屋は浄福寺のあたりに築かれていたようです。案内板によれば寛政の一揆によって仮谷藩は幕府から村替えの処分を受けて、重原村・野田村・小垣江村などの18の村を奥州の福原領・幕府領の一部と交換することになり、福島藩は陣屋を置いて郡代により、ここの飛地を治めたとのことです。
浄福寺の脇には重原陣屋の石碑と、福島領の西の端から移築された従是東福嶋領の石碑が建っています。

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しんちゃん

気賀の関所 姫街道を監視するための関所 (2024/03/03 訪問)

気賀の関所は浜松市北区細江町に築かれていました。東海道の新居関所に対する、姫街道(本坂通)の往来を監視するための関所です。現在の関所は1990年に再現された物で、本番所や冠木門、町木戸門、向井番所や遠見番所が再現され、遠見番所には実際に登って周囲を見渡すことが出来ます。
幕府の旗本・気賀近藤氏が12代にわたり関所を管理していましたが、享保15年(1730)に伊勢神宮へのお陰参りが流行した際には、関所破りが横行し、関所はお手上げの状態だったようです。

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チェブ

出島村で迷う。 (2024/02/10 訪問)

小田氏の家臣 戸崎氏の「戸崎城」は、1573年佐竹氏により落城しました。1595年、佐竹氏が秋田へ移封し「戸崎城」は廃城したようです。

「戸崎城」の説明板の前に駐車スペースがあります。
ちょっと登り坂を、グインと突っ込み 停めた、が正解です。
説明板左手に本丸方面に続く道があります。進むと見事な本丸ファームが広がってました。
説明板の縄張り図に、堀跡があります。間違ってなければ写真③です。

「戸崎城」から霞ヶ浦方面に向かうと『茨城県霞ヶ浦 環境科学センター』があります。
その近くのカーブミラーに『出島村』とありました。
もしや、こんな所にキリスト教の布教を禁止する為の、出島があったのかも。と、調べてみたら『出島村』は1955年に近隣の村が合併し誕生したそうです。
現在は『かすみがうら市』です。

本丸と堀。自分で言うのも変ですが、何を写したか分からない「戸崎城」攻めでした。
毎度、申し訳ございません(^-^)v

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トク

「水郷柳川」日帰り散歩④(さげもんめぐり) (2024/03/04 訪問)

柳川で「柳川雛祭り:さげもんめぐり」が行われているので訪れてきました。昨年9月(①~③)以来の柳川訪問です。街の至る所にさげもんが吊るされていて、今の柳川はとても楽しく散策する事ができます。

さげもんとは、江戸末期頃から伝わるもので、女の子が生まれると初節句のお祝いに、古布に縁起物などを入れて吊るし、健康・無病息災・良縁を願ったというこの地方の風習だそうです。立花家の別邸「御花」(おはな)では、立花家に代々伝わる雛人形とさげもんが展示されていて、とてもきれいでした。

近くに北原白秋の生家もあるので訪れてきました。それから、田中吉政公が作った堀割り沿いをずっと歩いていると、川下り船がのんびりと横を通り、とてものどかな光景で、何だか癒されてしまいます。そしてそのまま、白秋が作った歌を口ずさみながら、柳川城の天守跡の方向へ向かって歩きました。

 この道は~♪
 いつか来た道~♬
 ああそうだよ~♪
 アカシアの 花が咲いてる~♬

次は、柳川城天守跡へ続きます。
そこで今回新たな発見が・・・
 

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カズサン

追手門跡と着到櫓跡 (2024/03/01 訪問)

 「三の丸ビューポイント富士山は霞んで頭だけ」のつづきです。

 追手門跡は高天神城南口駐車場から約50~60m程進んだ所に案内板と標柱が在ります、着到櫓跡は追手門跡の上部で追手門と手前の登城路に横矢が掛って厳重な護り、三の丸跡の南下です、着到櫓跡の曲輪は北、東に土塁か構えて東側南側西側と見通しが良く効いています。
 10年前の平成26年11月が初登城でしたが今回の登城では案内解説板は新しくなり詳しい解説と色彩豊かな縄張図が設置されていました大変役に立ちます。
 追手門下からは着到櫓曲輪の高切岸の威圧感が大変効いてるように見受けられました。

 続きます。
 

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