⑮【関ケ原の26人 】(8)小西行長 (小西行長陣跡)
(2022/10/25 訪問)
(8人目)「小西行長」の続きです。
「小西行長陣跡」を訪れてきました。
小西行長は6,000の兵をもって宇喜多秀家と並び、先鋒(西軍最前線=開戦地の碑の位置)に陣を敷きます。田中吉政、筒井定次らと交えますが、その後、井伊直政などが加わり宇喜多軍が総崩れとなると行長の軍も持ちこたえる事ができませんでした。
その後は伊吹山中を逃げ回ります。しかし、キリシタンであるがゆえ自害できません。結局、山中をさまよったあげく竹中重門に捕らえられます。そして、京都六条河原にて石田三成・安国寺恵瓊とともに斬首の刑となりました(享年42)。
秀吉死後、行長は家康に近づいていたようです。朝鮮での敗戦は自分のせいではない事を理解してもらいたかったのかもしれません。しかし結局は家康が武断派の方をかばったため西軍につきました。やはり、三成との友情や、以前に仕えた宇喜多とのつながりを最後は大切にしたのではないでしょうか?
私は小西行長の事を知れば知る程、彼の国際交渉能力には驚きました。あの時代に、相手の明や朝鮮の事、ましてや言葉や文化や習慣などまるでわからないにもかかわらず、短期間で戦をしながらかつ積極的に和平交渉を行い、明の使節を秀吉に謁見させるまでにまとめ上げています。しかも明の使節には日本の朝鮮半島からの撤退をもって和睦するとまで妥協させ、交渉成功まであと一歩までこぎつけたにもかかわらず、秀吉は朝鮮領土の南半分の割譲に固執したため交渉は最後の最後で決裂、行長の苦労は泡と消えてしまいました(😩~)。もう少し時間的に余裕があり、武断派からの妨害もなければ、もっと完璧に交渉をまとめ上げる事ができたのかもしれません。
常に先を見据えて平和を願い、交渉に奔走したにもかかわらず、それが誰からも理解されず、結局は最後は大悪人にされたまま斬首にされ、生涯を閉じてしまった小西行長。私は彼が今の時代に生きたなら、きっと相当優秀な人物として活躍できたのではないかと思いました。しかし生まれた時代が悪かったのか、さぞかし無念であったろうとやはり私は思ってしまいました。
次は、(9人目)へ続きます。
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