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赤い城

都留市内を見渡せる (2023/01/15 訪問)

初めて乗った富士急行、谷村町駅で降りて徒歩10分。
城山と呼ばれる山が城址です。
登城口を目指して歩くと川棚口登城口の小さな案内板。
ここから登ることにしました。
小さな神社を経てさらに登ると内堀に着きます。
この堀、主郭を囲んでおりかなり深いです。
堀底には城壁から崩れた石も転がっていました。
さらに西側を進むと竪堀と縦土塁、その先には大澤櫓台へと続き、土橋と竪堀で隔てられています。
ここが一番の見どころでしょうか。
引き返し主郭へ。
主郭北側には少し石垣も見られます。
主郭からは都留市内を一望、気持ちいい!
帰りは本来の大手道を降りて行きました。
こちらは公園として整備。
二の丸、三の丸、うねった虎口など見どころもありました。
規模はそうでもないですが、歩きやすく見どころも多い良い城でした。

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小城小次郎

つい最近まで現役の行政機関だった場所 (2022/08/18 訪問)

町の中で川が南北(上下)に分かれる分水嶺上の不思議な町に、天領5万石を管轄する代官所があった。石見大森代官所の出張陣屋、更には府中市役所支所として、実に300年余の間、町の行政を支えた場所でもある。

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T-Shionoya

関東管領の城へ その1 平井城 (2022/12/03 訪問)

昨年12月初旬は関東管領の城、群馬県藤岡市の平井城へ。

秩父山地北麓の緩やかに傾斜した扇状地の扇頂部。
鮎川の断崖を天然の要害とした城。
地域的には、上野国の統治だけでなく武蔵国ともネットワークを取りやすかったでしょうか。

一説では関東管領上杉憲実が鎌倉公方と室町幕府の板挟みにあっていた1438年頃、鎌倉からの退却に伴い築いたとのこと。
以後、小田原北条氏の侵攻により越後へ退き始める1552年まで、山内上杉氏の居城でした。

現在は、城域のほとんどが民家と農地になっており、断片的な本丸のみが土塁と空堀を復元した関東管領平井城址公園。
崖際の本丸は時代に応じて改変されたらしく、二ノ丸とは逆の崖側に虎口を配置している点がおもしろいところ。鉢形城の二の曲輪西側虎口や新府城の搦手虎口が思い起こされました。
また歩いていると声を掛けられ、二ノ丸西堀の名残を教えて頂きました。子供の頃は魚を釣ったのだとか。

総曲輪まで歩きまわり、滞在時間は約1時間半。
こんな平井城訪問が、私の城巡りの137城目となりました。

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姫街道

水の手曲輪に注目! (2023/01/07 訪問)

今日は水の手曲輪を中心に撮影。階層的であり、強固な作り。砂防ダムのようだ。これだけ規模の大きな水の手曲輪は三河・遠江には見当たらない。勿論、本丸の石垣や虎口など見所満載。巨石が城の一部だったのは間違いないが、どんな役割をしていたかを想像するのが楽しい!

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姫街道

諏訪湖を見下ろす技巧的な城 (2023/01/12 訪問)

初登城。諏訪湖から始まる天竜川の起点にそびえ立つ城。諏訪湖を一望できる素晴らしい立地。尾根側を土塁で巻いた二の丸を背後にひかえ、土塁で囲まれた主曲輪が諏訪湖に向かって開らくように配置され、それに対して技巧的で大規模な虎口が付く。重要拠点でありながらも比高はそれほど高くないがために技巧的になっていったのだろうか。

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姫街道

美しい山城シルエット (2023/01/11 訪問)

二回目の登城になるが、今回は下草が枯れていて本当に見やすかった。特に遠景。階層的曲輪間に堀切+竪堀+土塁が整然と作られている姿がわかる。城外周を歩いても15分程度だから、得した気分だ。城内も整備が行き届き素晴らしい。三の曲輪と二の曲輪間にある、「武者隠し土塁」が一押しだ。

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ぴーかる

要害山城 (2023/01/08 訪問)

【続百名城56城目】
<駐車場他>要害山登山口駐車場
<交通手段>車

<見所>土塁・虎口・曲輪
<感想>新春1泊2日甲府盆地の旅3城目。2日目の朝一に登城しました。登山道はかつての大手道のままだったようで、登城口付近に門跡の石積み、登山道には土留めの石積みが随所に見られます。大手虎口の手前に竪堀があります。虎口石積遺構は武田氏館跡に見たものと酷似していたので詰城の方にも同じような建造物があったことを思わせる。曲輪は城跡内部の大手道を中心に左右に大きく山を囲むように広がり段状になっています。大手虎口や主郭手前の虎口は枡形になっており見応え十分です。主郭は土塁囲みで最奥の土塁がひときわ高くなっています。主郭土塁も石積みであったようでほんの一部石積みが残されています。主郭背後には大堀切、搦手側は尾根上の折れ曲り虎口や堀切土橋の土留めの石積みが見応えあります。甲斐武田氏も堅固な詰め城を持っていたことを認識しました。予習をせずに来たので予想外の見応えに大満足です。

<満足度>★★★

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朝田 辰兵衛

給湯器凍結しました。 (2022/12/17 訪問)

最強寒波の到来で,みなさんは生活に支障をきたしてはおられないでしょうか…?
私事で恐縮ですが,先週の水曜日から金曜日の間,給湯器が凍結しました。
知人は自宅内で水道管が破裂して,生活スペースが3分の1に縮小しました。私なんかはまだかわいい方なんだな…と。
みなさんのご無事をお祈り申し上げます。

さて,相模線第3弾は,海老名城。ここで日没となりましたが,ららぽーと海老名がきらびやかにライトアップし,方向を見誤ることはありませんでした。しかし,海老名城は墓地内。この時間帯の攻城は,あまり気持ちのイイものではありませんでした。

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赤い城

天神山城 茨城県日立市 (2023/01/09 訪問)

周辺に駐車場は無く、大窪城から歩いて行きます。
案内板に沿って民家の脇の道を登ると墓地があり、さらに案内板があります。
進むと二郭の土橋があり、さっそく堀底へ降りて行きます。
この時季なので歩けますがやや藪となっています。
二郭を周回し、主郭にぶつかっていました。
この部分は横矢掛りとなっています。
主郭にも土橋がかかっていました。
主郭には説明板も立っています。
2つの郭で成り、周囲を堀が囲む常陸らしい城でした。
愛宕山も行って大久保三城制覇したかったのですが時間切れ。
また今度機会があれば。

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橋吉

安祥松平氏発祥の地 (2023/01/15 訪問)

現在は、安祥城址公園として整備されています。

本丸跡と二の丸跡が残されています。
本丸は、大乗寺の境内となっています。

二の丸跡には八幡社が置かれています。

三の丸跡には、安祥公民館,安城市歴史博物館,埋蔵文化財センター・市民ギャラリーがあり、そこに駐車できますが、遺構は見られません。

安城市歴史博物館の常設展は安城の歴史が展示されています。
わずかではありますが、安祥城についての展示と解説VTRを見ることができます。

見学所要時間:40分(博物館の常設展見学も合わせて)

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チェブ

現在進行形のお城。 (2023/01/03 訪問)

「藤岡城」は住宅と田畑の中に、ポツンとありました。

932年、平将門さんが花岡館を築城したのが始まりのようです。
一端は廃城しましたが、足利氏が再興しました。
秀吉さんが活躍した時代には、小田原征伐で落城します。

車1台が、通れるか?と、不安なくらい細い道です。
途中に「藤岡城」の案内柱がありました。
ナビで通り抜けできるか確認し、前進します。
本丸跡に『三所神社』がお祀りしてました。そちらに「藤岡城」の説明板があります。
この説明板の文章が、『~なります。~します。』とやさしい感じです。
『ここで○○がありました。』の過去形でない表現。「藤岡城」が伝承の中で語り継がれてきたお城で、地元の方々が守ってきた感じが伝わります。

調べてみたら、近年「藤岡城」の再検討が進められているそうです。
石垣があって天守が残って、どんな歴史があったのか分かっているお城も、もちろんですが、、、。
地元の方々が大切にしている「藤岡城」のような未知のお城も、同じくらい素晴らしいです。

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侍ホリタン

八上城攻略のために築かれた名城を訪ねて (2022/06/04 訪問)

標高537mに築かれた山城で、明智光秀公の第二次丹波攻めの際の八上城攻略のために築かれました。
駐車場は追入神社手前を右折して500m先、さらに150m先にもあります。 登山口は追入神社前から篠山方面数百m先にあります。 山頂からは黒井城、八上城を見ることができ、この城が八上城攻略のために築城されたことがよくわかります。御城印は篠山城大書院にて販売されています。

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牛若丸

2023年登城始め (2023/01/26 訪問)

昨日訪れました。雪景色の仙台城とてもキレイでした。
山城なので、行きはバスで登城し帰りに下りながら見学すると楽です。
ちなみに騎馬像は昨年の地震のために壊れて修復中でした。

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森可成 (2023/01/28 訪問)

 久しぶりに金山城(岐阜県)に行って来ました。ただ昨日に降った雪が残っていて、この城の見どころのひとつである石垣が明瞭には見えない所がありました。大手から登城して搦手へ降りて米蔵を経由して帰って来ました。

 名鉄明智駅よりコミュニティバスYAOバスで城戸坂下車して約10分で第1駐車場に行くことができます。

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塩河公園 (2023/01/28 訪問)

 塩河公園から登城しますが、わかりにくい場所に入口があります。ネットで事前情報を得ていないとわからなかったと思います。入口はわかりにくいですが、進み始めると道が明瞭になり鉄塔が建っている場所を経由して城域に行くことができます。尾根に突き当り左右へ道がありますが、まずは左側へ行ってみました。石積みで作られていたかもしれない虎口のような地形がありました。先へ進むといくつか曲輪と思われる地形があり堀切もありました。下を見ると尾根にも削平地があり曲輪だったと思われます。一つを降りてみると畝状竪堀と思われる地形がありました。戻ってくる時に降り口を通り過ぎてしまい、登り口から右の曲輪も探訪することになりました。一部の尾根には連続した堀切があります。ただ「ニッポン城めぐり」さんの口コミ情報を見ると北側のやせ尾根にある何本もの堀切は「岐阜県中世城館跡総合調査報告書」によると自然地形との見解が示されているそうです。その後もしばらく道に迷ってしまいましたが、おかげで遺構かなと思われる場所を見ることができました。縄張り図が入手できていないので何とも言えませんが、意外と城域は広く遺構はあるのかもしれません。その後は何とか降り口を見つけて下山することができました。道に迷わなければ歩きやすいと思います。事前に得られる情報が少なく後回しにしていた城址ですが、思い切って行って来ました。残っている雪と堆積した落ち葉に少しだけ苦労しましたが、それなりに楽しめました。

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赤い城

大窪城 茨城県日立市 (2023/01/09 訪問)

佐竹氏家臣、大窪氏の大久保三城の一つで暇修館の裏手にあります。
暇修館に駐車場があり、石碑と説明板も立っています。
進むと土塁があり、外側には深い空堀が存在していました。
やはり佐竹の城、かなり掘っています。
主郭の西側を守る感じで長さもあります。
その外側にも堀があり、一部二重となっていました。
その外側は畑になっていて私有地、気をつけましょう。
近くの天神山城、愛宕山城と合わせて大久保三城。
このあと天神山城へと転戦しましたが愛宕山城は時間切れで撤退しました。

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松本恵司

札座を見たい人は2023年中にお越しください。解体されてしまう可能性が高いので。 (2022/12/07 訪問)

この建物は札座(ふだざ)といいます。1822年、旗本浅野家が札切手(藩札)発行にともなって建築したものです。私は文化財的価値があると思い保存運動をしていますが、建物の老朽化が進み来年には解体される可能性が高くなっています。見学したい方は、2023年のうちにお越しください。若狭野陣屋の御殿屋敷はこの建物の北側にありました(現在、神社の前の広場になっているところ)。札座の石垣の西の坂道を登ると鳥居があります。そこに陣屋門がありました。鳥居をくぐったところが若狭野陣屋の中心です。
若狭野陣屋を紹介する動画です。https://youtu.be/Dzt6T13pyjU
なお、陣屋門は相生市那波野の西法寺に移築されています。

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岩崎城

土塁清掃

昨年実施した空堀清掃に続き、今年は…土塁!を綺麗にします。
(主なエリアは主郭と馬出)

土塁に溜まった落ち葉の除去や草木の剪定などを行い、土塁を清掃。
また、普段立ち入ることができない土塁エリアにおいて
当館学芸員が簡単な解説も行います。

【募集期間】2月26日(日)~3月10日(金)

【開催日時】3月11日(土)13:00~16:00(予定)雨天中止

【募集人数】 先着30名 

【参加費】 1000円(保険や処分費など含む)

【会場】 岩崎城址公園

【参加資格】 どなたでも

【申込方法】 期日までに当館へ電話にてお申し込みください。

・お問い合わせ
岩崎城歴史記念館
0561-73-8825 9:00~17:00 月曜休館

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南山城 (2023/01/22 訪問)

淀山城を拠点とする波波伯部氏は、篠山盆地の東へり平地部北側にある淀山城に対して、一族が、東側、南側に城を構えました。淀山城から、それぞれの城の登城口まで5百〜8百mです。
がっつりと山城であった東山城から南山城に向かいます。道案内がないので登城口は見つけにくいです。東山城から、小川沿いに西に進み、大仙寺を目指してください。大仙寺前の橋を渡って左手に、説明板があります。登城口です。
東山城は山頂に縄張りされていましたが、南山城は山頂から降りてきた尾根の高まりに縄張りされています。砦程度の規模ですが、しっかり遺構が確認できます。このあたりの山は凝灰岩質で、地面に適当な大きさの石が露出していて、本郭には礎石趾や石垣趾?の石があります。東山城同様、地元の方によってよく整備されています。

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トク

⑮【関ケ原の26人 】(8)小西行長 (小西行長陣跡) (2022/10/25 訪問)

(8人目)「小西行長」の続きです。
「小西行長陣跡」を訪れてきました。

小西行長は6,000の兵をもって宇喜多秀家と並び、先鋒(西軍最前線=開戦地の碑の位置)に陣を敷きます。田中吉政、筒井定次らと交えますが、その後、井伊直政などが加わり宇喜多軍が総崩れとなると行長の軍も持ちこたえる事ができませんでした。

その後は伊吹山中を逃げ回ります。しかし、キリシタンであるがゆえ自害できません。結局、山中をさまよったあげく竹中重門に捕らえられます。そして、京都六条河原にて石田三成・安国寺恵瓊とともに斬首の刑となりました(享年42)。

秀吉死後、行長は家康に近づいていたようです。朝鮮での敗戦は自分のせいではない事を理解してもらいたかったのかもしれません。しかし結局は家康が武断派の方をかばったため西軍につきました。やはり、三成との友情や、以前に仕えた宇喜多とのつながりを最後は大切にしたのではないでしょうか?

私は小西行長の事を知れば知る程、彼の国際交渉能力には驚きました。あの時代に、相手の明や朝鮮の事、ましてや言葉や文化や習慣などまるでわからないにもかかわらず、短期間で戦をしながらかつ積極的に和平交渉を行い、明の使節を秀吉に謁見させるまでにまとめ上げています。しかも明の使節には日本の朝鮮半島からの撤退をもって和睦するとまで妥協させ、交渉成功まであと一歩までこぎつけたにもかかわらず、秀吉は朝鮮領土の南半分の割譲に固執したため交渉は最後の最後で決裂、行長の苦労は泡と消えてしまいました(😩~)。もう少し時間的に余裕があり、武断派からの妨害もなければ、もっと完璧に交渉をまとめ上げる事ができたのかもしれません。

常に先を見据えて平和を願い、交渉に奔走したにもかかわらず、それが誰からも理解されず、結局は最後は大悪人にされたまま斬首にされ、生涯を閉じてしまった小西行長。私は彼が今の時代に生きたなら、きっと相当優秀な人物として活躍できたのではないかと思いました。しかし生まれた時代が悪かったのか、さぞかし無念であったろうとやはり私は思ってしまいました。

次は、(9人目)へ続きます。
 

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