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三浦の晃ちゃん

御城印だけ (2023/02/04 訪問)

着いたのが、夕方だったので、山頂までは、行きませんでした。御城印は、津久井湖観光センターというところでで、購入できます。また、城山公園のパークセンターには、詳しい展示があります。

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赤い城

清流柿田川 (2023/01/22 訪問)

柿田川公園が城跡で駐車場もあります(200円)。
柿田川の湧水群が有名で訪れる人も多いようです。
駐車場やお土産物屋さんがある部分が主郭で説明板が立っていました。
北側の庭園を通って公園部分に行くとここにも説明板があります。
遊歩道に沿って空堀も残っていました。
南側、貴船神社横にも堀が残り、駐車場から下の部分に二重の堀切を見ることができます。
駐車場側は通路となっています。
湧水群は第二展望台のみ見学、流石に天然記念物。
綺麗に透き通った感じでした。
湧水はお持ち帰りも可能です。

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高石垣が見たくて (2023/02/04 訪問)

 高石垣が見たくて久しぶりに登城しました。迫力ある石垣はいつ見ても楽しいですね。

模擬天守はあまり好きではありませんが、この天守閣は木造でもあり味があります。地元出身の衆議院議員、川崎克氏が私財を投じ「伊賀文化産業城」という名称の模擬天守を建設したということですが、このエピソードがおもしろいなと思っています。今では伊賀上野市を象徴する建物になっていると思います。

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天正伊賀の乱 (2023/02/04 訪問)

天正伊賀の乱のときに伊賀衆の拠点となった城のひとつで、本能寺の変の後にも伊賀を追われていた浪人たちが立て籠もったとされています。堀切や土塁を見ることができます。
 以前に伊賀に来た時に行こうと思っていましたが、登城口がわからず断念しました。城びとの「あ」さんや「YAICHI」さんの投稿を見て登城された方がいることを知り、また「東海の名城を歩く」にも掲載されていたので思い切って登城してきました。西蓮寺のお墓の北から登城しました。最初は倒木はあるものの道らしき場所があり、「意外と楽勝かも、、」と思いましたが、道はしばらくすると不明瞭になりなり登城路を探すのに少し難渋しました。甘かったですね。Google mapの位置情報を頼りに2つの池の間を抜け、主郭へ向かいました。思ったより藪でない場所が多かったです。城域に入ると藪は予想よりありませんでしたが、空堀には倒木などもあり少し残念でした。諸先輩方が登城された後に少しは手入れされたのかプレートも古いものも残っていましたが、新しいものが木に付けてありましたね。縄張り図とにらめっこしながら城域と思われる場所を行ったり来たりしましたが、今一つ把握できません。帰りは「ふるさと芭蕉の森公園」の方へ降りようとしましたが、道に迷ってしまい沼地へ出たりして難渋しました。結局、出てきた所は長田保育園でした。こちらからの道の方がわかりやすい気もしますが、、、。

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POYO58

日本100名城スタンプ巡りNo.5 岡崎城 (2023/01/29 訪問)

遺構★★★★☆
3回目の岡崎城です。
岡崎城は西郷氏が築き、松平氏、田中氏、本多氏へと城主を変えました。岡崎城は家康が有力ですが、今残っている遺構は田中氏と本多氏によるものだと推測できます。岡崎城は昔に建てられた城ではありますが、今は石垣や櫓台などの江戸時代を思い浮かべる城郭になっています。
岡崎城にも結構遺構が残っています。

清海堀
まずはこれ、本丸への行手を阻むように大きな堀切があります。曲線を描いているためとにかく攻めるのがめんどくさい。また家康がかつてここに土橋を築き、敵がきたらすぐに攻められるようにしたそうです。とは言っても慎重と言われる家康にとってこれは家康にはふさわしくない戦法ですね。

外堀の水堀
これもいいですね。岡崎城の石垣は野面積みがほとんどですが、外堀付近の石垣は算木積みや打ち込み接ぎが用いてあります。かつて櫓が建っていたそうですが、今はその面影を失っています。春になると桜が咲き誇り、綺麗ですよ。

清海堀以外の堀切
堀切は清海堀以外にもたくさん設けられています。とくにすごいのがUの形のように曲がった堀切。どうやって作ったの?って感じの凄さです。おそらく三日月堀に大きな土塁を築いてこのような形にしたのだとおもいます。また石垣が用いられ絶対登れないような感じ。

岡崎城は本当に行けばすぐ天守で攻めやすそうですが、そこにはだかる壁というものが大きく簡単には攻められません。岡崎城は戦国時代から徳川家康のために多くの人が改修を積み重ねながら城を守っていたそうです。その方たちの思いが伝わってくるお城でした。

大河ドラマ館行ってきました。いやすごかったです。行列だったんですけど思ったより早く行けました。中も結構変わっててびっくり‼️ドラマで使われた甲冑や再現映像など面白いものがたくさんありました。浜松城のはいけなくて残念でしたが、岡崎で楽しむことが出来ました。

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朝田 辰兵衛

長岡城二の丸で,冬の風物詩開幕! (2023/02/04 訪問)

長岡城二の丸の甘味&茶処『美松』。1959(昭和34)年2月4日創業。本日で64年となりました。毎年2月の創業月に「美松のサンキューまつり」を開催しています。シュークリーム1個39円(税抜)で,10個単位での販売です。税込で1箱420円となります。
今年は,鳥インフルエンザの蔓延で卵の単価が高騰し,開催が危ぶまれましたが,伝統を守ることを重視したとのこと。1日2万個限定で開催です。
数年前はJR長岡駅のほうまで長蛇の列ができていて話題になりました。土日は1時間待ちが当たり前です。
本日,ダメもとで行ってみたら,(雨天のせいか)駅まで列が続いていませんでした。並んでみたら,約35分で順番が回ってきました。無事に2箱購入できました。
興味のある方は,ぜひお越しください。

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赤い城

不思議な形の展望台 (2023/01/22 訪問)

北駐車場から登って行きました。
公園になっていて整備された登城路です。
途中斜面の下を覗くと何かありそう。
で、降りて見ました。
すると竪堀や土橋を発見。
冬ならではかと思います。
元の登城路へ戻り、本丸を目指します。
本丸は公園になっていて眺望も良い。
そして皆さん話題とされる展望台が、キノコですかね~。
西側へも進んで見ました。
八幡社の裏手に竪堀と横堀がありました。
やや藪ですが。
石も転がっており、良い感じで遺構が残っていました。
ここも国境の城、武田氏と北条氏による争奪戦があった城です。

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侍ホリタン

大和大納言と尊称された秀吉公の弟秀長公の居城を訪ねて (2022/07/11 訪問)

大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大大名となった豊臣秀吉公の弟秀長公の居城です。秀長公の跡を継いだ秀保公が没すると増田長盛公が城主となりました。長盛公改易後、一時廃城となりましたが水野勝成公入封時に徳川幕府による改修が行われ、以後譜代大名の居城として明治まで続きました。
駐車場は追手門前に6台程度駐車できる無料駐車場あります。行き方は市役所方面からの場合、郡山高校手前の堀沿の細い道を進んでいきます。 ただ台数少ないので満車時は「やまと郡山城ホール」駐車場を利用すると良いです。こちらは2時間無料です。

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侍ホリタン

藤堂高虎公が手掛けた高石垣が残る名城を訪ねて (2022/07/11 訪問)

現在の天守は昭和10年、地元の代議士川崎克氏の寄付により建てられた木造の模擬天守です。大和国から伊賀国へ移動となった筒井定次公が現在の天守の東側に三層の天守を築いたのが伊賀上野城の始まりです。筒井氏に代わり伊予宇和島城から移動してきた藤堂高虎公は大坂城の豊臣方に備えて本丸を西へ拡張、現在も残る高さ30mの高石垣を築きました。ただ新たに築いた5層の天守は竣工直前に暴風により倒壊、以後再建されることはありませんでした。
駐車場は上野市駅前にある24時間営業の駐車場を利用するのがおすすめです。1時間無料で30分毎に100円加算されます。上野公園まで徒歩5分程です。あと少し離れますが城北駐車場は平日無料で開放されています。

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小城小次郎

変わらない思い? (2022/09/18 訪問)

10年ぶりにサイトを更新してみたら、加筆したものと前回のものとがほぼ同じ内容・・・進歩がないのかぶれがないのか(笑)。こんなところまで武田が勢力を広げたのも脅威ならこの模擬天守がかわいいと思う気持ちも変わらない。

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赤い城

三国境目の城 (2023/01/22 訪問)

駿河、甲斐、相模の境目の城で武田氏と北条氏による争奪戦が繰り広げられた城です。
現在は民家と農耕地になっていますが見学は可能。
石碑の前にスペースがあり、車を停めさせて頂きました。
石碑の背後には三日月堀があり、さらに進んで行きます。
番犬に吠えられながら馬出を見学、さらに二の丸へと進みます。
二の丸手前には深い堀がありますが藪でした。
二の丸の先にも馬出があり、周囲を空堀が囲んでいます。
この堀もかなり深く掘られています。
本丸へと土橋がかかり、本丸からは富士山が望めます。
雲もとれて雄大な姿を拝むことができました。
この日の目的はほぼ達成でしたがもっと大きな姿が見たく、河口湖まで足をのばしてしまいました。

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todo94

新年2日目の攻城②【上野松山城】(群馬県高崎市(旧榛名町)) (2023/01/02 訪問)

鷹留城への登城ルートが分からずさまよっているうちに偶然見つけてしまいました。群馬県にも松山城があるとは思ってもみませんでした。武蔵松山城城主の嫡子・上田信善による築城で、上田氏の本城に因んでの命名だとのことです。主郭には金比羅神社が鎮座しています。城びと未登録の城ですが、郭の見栄えが良く訪れる価値はある城のように感じました。城びと登録の城の中には「なんだかなあ」という城が結構あるので、こういう城をカバーしていないのは少しもったいない感じがします。

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トク

⑱【関ケ原の26人 】(9)宇喜多秀家 (宇喜多秀家陣跡) (2022/10/30 訪問)

(9人目)「宇喜多秀家」の続きです。
関ケ原の「宇喜多秀家陣跡」を訪れてきました。

宇喜多秀家は、西軍副将を務め、西軍最大勢力17,000の軍勢を有していました。そして先鋒として、東軍の先鋒「福島正則」と対峙します。東軍には井伊直政・松平忠吉が加わり、西軍には小西行長が加わり、一進一退を繰り広げます。しかし、背後の大谷吉継が崩れると、宇喜多隊・小西隊も総崩れとなりました。

宇喜多秀家は、伊吹山中から京都に隠れたあと、島津氏を頼り薩摩まで逃げ延びます。そして3年後、秀家が生きている事を知った家康と秀忠は身柄を要求。当時の当主の島津忠恒(義久から家督を継いだ義弘の子)は助命を条件に引き渡します。そして八丈島へ流罪となりました。なぜ死罪にならなかったのか不思議でしたが、よく考えてみればもうその時は関ケ原から3年も経ち、徳川政権も安定してきた矢先なので、今さら死罪にするのは返って徳川の印象を悪くしかねないと思い、このような寛大な措置をとったのかもしれません(逆に言えば秀家は逃げ延びた甲斐があったという事でしょうか?🤔)。

宇喜多秀家の陣は、南天満山の麓の杉木立の奥にある天満神社の中のひっそりとした所にありました。秀家の忠義心は、この時の豊臣家臣の中では群を抜いていたようです。よって、三成のためや自分の損得と言うような私利私欲はなく、むしろ「家康の好きにさせるは豊臣の為にあらず」という五大老としてのプライドと、「純粋に豊臣を守りたい」という思いの方が強かったように思います。

そして結局、秀家は流罪先の八丈島で84才まで長生きし、関ケ原の大名の中では最も長生きした大名になりました(何か皮肉なものですね~🤔)。 時はすでに5代将軍徳川綱吉の時代、元禄文化が栄え庶民は娯楽を楽しみ、江戸は最も平和な時を迎えていました。

次は、(10人目)へ続きます。
 

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侍ホリタン

秀吉公が陣を敷いた場所に建てられた名城を訪ねて (2022/07/02 訪問)

平成に入ってから犬山城をモデルにして建てられた模擬天守です。現在の名称は「河原城」として親しまれてますが、ここにははかつて「丸山城」という山城があり、豊臣秀吉公が鳥取城の兵糧攻めをした時に陣を敷いた場所です。
通常使用されてきた登城口が土砂崩落のため通行止めになっています。期間は令和4年9月15日までとなっていました。 河原城に行くには1キロ程先の河原市民プール前の道を進んで行く事になります。詳細は鳥取市のHPより確認して下さい。迂回路は見通しの悪い所ありますが、道幅は十分あります。 河原城の最上階からは鳥取城跡がある久松山が確認できます。山頂の石垣もバッチリ見えます。

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侍ホリタン

鳥取藩32万石の名城を訪ねて (2022/07/02 訪問)

織田信長公より「堅固な名城」と評され羽柴秀吉公の兵糧攻めの舞台となりました。この戦いは毛利方吉川経家公の徹底抗戦により日本十大籠城戦の一つに数えられています。戦い後は秀吉公の側近宮部継潤公が入城、石垣や天守を築き近代城郭に改修しました。江戸時代の鳥取藩誕生に伴い池田光仲公を藩祖とする鳥取池田家12代の居城として明治時代まで続くことになります。
土日祝は最寄りの県庁北駐車場が終日無料開放されています。 2022年7月2日現在、大手門入り口付近で復元工事中のため通り抜けできません。城内に入るには県立博物館方面へ迂回する必要があります。 天守台跡がある山頂からは鳥取市内、大山、鳥取砂丘、日本海の展望が楽しめます。

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にのまる

後編 (2023/01/02 訪問)

【西門跡】
搦手(旧大手)へ誘われる緩い下り道は深い叢中に埋もれてしまっているかに見えましたが、苔むした野面積みはその重要さを物語るに充分な存在感を放っています。城内を振り向くと立ちはだかる天守台。櫓門越しに聳え立つ三重天守の姿はさぞ壮観だったろうと想像できます。落雷による天守焼失後に再建されなかったのは喪失の悲しみを二度と味わいたくなかったからではないかとの思いがよぎりました。

【南門跡】
三の丸の突端。瓦片もたくさん落ちていました。右に折れる自然歩道を覗いてみると超絶狭くてびっくり。城内でいちばんヒリヒリするところでした。ここも地震で崩れたりなんかがあったのでしょうか?
この先にあるらしい南出丸と中荒城(城びと未登録)。ダイエティシャンさん、ぴーかるさん、朝田 辰兵衛さんの合作・連作のごときご投稿を読むと行ってみたい気持ちと熊遭遇の恐怖が錯綜します。いつか行ける日が来るかなぁ……。

【中世山城の三重堀切】
見学可能なところは大体見たかなと思ったところで出丸に戻り下山です。リフトの往復券を購入していましたが自然歩道から徒歩で下りました。下り始めて間もなく「織部丸東方の中世山城の遺構」の説明板。三重堀切があるというので目を凝らしてみるとボコボコが三つ連なって見えるところが(^o^)/山中に残る遥か吉見氏時代の遺構。近寄ることはできず遠目に見るだけでしたが、それだけに時空の隔たりを肌で感じました。
出丸から太皷谷稲成神社まで下りは15分くらいでした。

【大手道】
当初、往復リフトの予定で大手道から登ろうという気持ちは1ミリもなかったのですが、興味本位で少し足を踏み入れてみました。正面に見えるかっこいい石積みの先、どうなっているのかなぁ?

【城下町散歩】
西周旧宅、郷土館、藩校養老館、多胡家表門、町役場、カトリック教会などを見ながら駅に戻りました。

【DLやまぐち号】
お正月バージョンのDL津和野稲成号で帰路につきました。乗車券は18きっぷが使えるので座席指定券530円をプラスするだけで観光列車の旅が楽しめました。
でも実は狙ったわけではなくて、“帰るにはこれに乗るしかない”というのが本当のところなのでした^^;

<おわり>

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シェル

公園の外側に注目!! (2023/02/03 訪問)

JR水戸線 結城駅方面から車で移動。
結城小学校を過ぎ、坂を下り城跡歴史公園の北側に駐車場がありました。
駐車場から、あじさい坂を登り、城跡歴史公園へ
公園には、遺構はほぼないですが、公園を出て南西側には空堀が残っていました。 
また公園を出て南に進み、三日月橋より南側にも空堀と土橋が残っています。
駅と城跡の途中にある結城蔵美館では、復元された御手杵の槍や結城の歴史の展示が行われており、御城印も販売されています。(結城氏版と水野氏版の2種類 各300円)

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POYO58

続日本100名城スタンプ巡りNo.7 吉田城 (2023/01/29 訪問)

遺構★★★★☆ 石垣(腰巻石垣、高石垣)、堀切、枡形虎口、土塁、雁木など
浜松城を終え、吉田城に行きました。吉田城はもともと今川氏と徳川家康が争った場所なのですが、最終的には家康が勝利し、酒井忠次に領地を与えられます。その後、池田輝政が愛知で生まれ、輝政は初めて城主となります。その城が吉田城でした。現在の吉田城は池田輝政の遺構であるそうです。

三の丸には鏡石を使った虎口が設けられていて三の丸と二の丸を土塁が囲んでいます。三の丸には太鼓櫓台が残っています。(土塁)
二の丸にはかつて御殿が置かれていたようです。二の丸と本丸は大きな堀切で仕切ってあり、堅固になっています。また堀切には一部石垣が使われていて、腰巻石垣も採用されていました。
本丸は4つの櫓で囲まれていたようです。本丸へ入れる門はたった3つで、周りが櫓と土塀で囲まれていたのでだいぶ攻めにくかったと思います。
本丸北側には枡形虎口の北御多門があり、それを通ると、腰曲輪に入ります。腰曲輪には高石垣と川手櫓跡、石垣の刻印が見れます。また、腰曲輪は大き豊川に面していて、貿易をしていたのではないかなと思います。

ざっと説明しましたが、いかがでしょうか?詳しい投稿は後日行います。吉田城は結構すごいところです。行ってみる価値は絶対ある!

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ぴーかる

白山城 (2023/01/08 訪問)

【白山城】
<駐車場他>白山神社境内<35.699575, 138.425644>地点より西方向に進み、突き当りにゲートがあります。ゲート内側に城跡説明板があります。車ごと中に入って進みます。行き着いた所が白山神社で境内に4台程度駐車出来ます。
<交通手段>車

<見所>竪堀・堀切
<感想>新春1泊2日甲府盆地の旅5城目。白山城は「甲斐国志」によれば、甲斐源氏の祖源清光の子である武田信義が要害として築城したとされる。信義ののちは武田家一門の一条氏、その支族の武川衆の青木氏、山寺氏が守ったが江戸時代寛文年間に廃城となったとされます。
 以前より行ってみたい城マイリストに入っていたので、未踏の甲斐国山城ですので熊を恐れつつも、神社まで車で行けるので行ってみました。神社から急斜面ではありますが予想外に10分程度で南面の竪堀が表れ城跡に着けます。城跡は南北に5~6程度曲輪が連なる連郭で、主に麓側の東斜面に竪堀を多く配置しています。竪堀は表面観察で識別できますが中にはかなり薄くなっている堀もあります。連郭の各曲輪間は深い堀切で仕切り見応えがあります。主郭は土居囲み、二の丸の西側、大堀切を越えてさらに西へ進むと尾根がだんだん狭くなって、ついに添付写真(分かりにくいですが)の超細尾根両サイド絶壁に出ます。尾根幅が50㎝程しかなく絶壁高さ数十mはあるのでまさに最恐でした。でもついつい渡ってしまうのが本能か、皆さまは危険なのでやめておいて下さい。一応私が散策した時には熊が居た形跡は無かったです。北・南砦狼煙台跡は時間が無く行けませんでした。なかなかいい城跡でした。

<満足度>◆◆◇

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トク

⑰【関ケ原の26人 】(9)宇喜多秀家 (岡山城の石垣) (2023/01/19 訪問)

岡山城の続きです。
関ケ原から話がちょっとそれてすいませんが、岡山城の石垣も大変よかったのでお伝えします。岡山城にはいろいろな石垣があるんですね~(私は前回訪問時は気づかず今回初めて知りました)。天守だけでなく石垣も十分楽しめるお城です。

1番目、まず入口にある「鏡石」です(写真①:わ!大きい😯)。 高さ4.1m幅3.4mあるそうです。これは犬島という所(離島)から運んできたそうです。威厳を示すには十分ですね。

2番目はこの部分「中の段南西部の石垣」です(写真②:ちょうど工事中だったのですいません)。右の緩い傾斜で自然な感じで積まれているのが小早川秀秋の石垣、左の傾斜がきつく切込接で造られているのが池田忠雄の石垣だそうです(対称的ですね~)。

3番目はこの部分(写真③)「大納戸櫓下の石垣」です。ここには天守に次ぐ三重四階の櫓があったそうです。小早川が築き池田氏が改修、上に行くほど傾斜が急になっています(技術の進歩にともなった改修というわけですね)。

4番目は「不明門(あかずのもん)下の石垣」です。右は宇喜多時代の石垣で、土台の岩盤の上に自然石をうま~く積み上げてます。何だか踏ん張っているように見えておもしろいです(写真④⑤:がんばれ~!😠)。左は池田時代に改修された石垣です。

5番目はここです(写真⑥)。表書院の発掘調査をしていたら、その地中から宇喜多秀家の石垣が出てきたそうです。江戸時代の池田氏はこの石垣を地中に埋めて、この上に表書院(藩士の仕事場所)を造っていたという事ですね。

6番目はここ(写真⑦)「月見櫓下の石垣」です。現存する月見櫓とともに池田忠雄時代に造られたものです。よく見ると矢穴や刻印があちこちに見られました。

7番目は「礎石」です(写真⑧)。天守をコンクリートで再建する時に、以前発掘で見つかった礎石を同じ間隔でここに並べて残しているそうです。

8番目は「本段東側の高石垣」です(写真⑨)。左が宇喜多秀家の石垣で、真ん中を境に右が小早川秀秋の石垣です(どこが境目でしょうか? わかりますか?)。宇喜多の石垣に小早川が継ぎ足したようです。宇喜多の石垣は大きめの石を丁寧に積み上げている感じがするのですが、小早川の石垣は時間がなかったのか、自然の小さめの石を加工せずそのまま短時間で積み上げた感じです。何か両者の性格の違いが表れたようでおもしろいです😊。

最後9番目はこの石垣です(写真⑩)。天守北面下ちょうど不等辺五角形の私の好きなふくらみの部分です。石垣を全体的によく見て下さい。 何となく少しうっすらと赤く感じませんか? ならばそれはなぜだかわかりますか? これは昭和20年に岡山城は空襲で焼失し、天守もその時に焼け落ちました。その時の燃えた痕跡で今でも少し赤い色が残っているそうです。何か悲しい痕跡ですね😩。

次は(宇喜多秀家陣跡)を歩きます。
 

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