(2城目)は金石城です。
金石城は、平安時代からこの地を治める宗氏の金石屋形が前身で、天守はありませんでしたが、櫓門を天守の代用としていたようで、その櫓門が現在再建されています(写真①②)。庭園も残っていました(写真③)。また隣接する萬松院には宗氏代々の墓所もありました(写真④⑤)。
宗氏は室町時代から朝鮮との橋渡し役を担ってきましたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵で19代「宗義智」(写真⑥)は清水山城築城の労役を課せられます。そして出兵により朝鮮との関係は最悪となりました。しかし江戸時代に入り、対馬藩を立藩した義智に対して徳川家康は、「悪化した朝鮮との関係を修復せよ」命じます。それは容易な事ではありません。義智は偽文書まで捏造して幕府に嘘の報告をしながら、一方では捕虜の釈放などを条件に粘り強く交渉し、何とか国交を回復しました。いやすごい努力だと思います。
そして1607年第1回目の「朝鮮通信使」がやって来た時、ここで大きな問題が! 来日した使節は何と予想を上回る500名。幕府側からの迎入使節も500名程。金石城はこの大人数の接待をするにはあまりにも手狭で、また港から城まで近く全員が上陸し行列ができないという事態になってしまったのです。
そして1659年1661年と二度に渡る大火で金石城と城下は甚大な被害を受けます。22代「宗義真」は大規模な復興に取り組み、3km内陸の桟原の地に、この際使節も受け入れられるような城を築城しようと、藩主館や行政機関なども全て移し、大規模な接待施設も作りました。金石城もその後再建され、使節を接待する幕府側の迎入者の宿泊所などに使われたようです。庭園には1811年幕府大使の小笠原大膳(小倉藩主)が宿泊したとの記録も残されています(写真⑧)。
朝鮮通信使の歴史を知るのは韓国人にはとても人気があるツアーのようです。金石城は韓国人の団体客がとても多く、何台ものバスがたて続けに来ては、ぞろぞろと降りてきました(写真⑨)。ホテルも私以外の客はほぼ韓国人でした。チェックイン時に「オソオセオ~(いらっしゃいませ)」とあいさつされたので、思わず「私は日本人です」(🤔?・・笑)。いやまさに国境の街、いたるところ何から何まで、必ずハングル文字のふりがながついています。
次は(桟原城)まで歩きます。
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