かねいしじょう

金石城

長崎県対馬市


旧国名 : 対馬

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①	金石城櫓門(右上は清水山城三ノ丸)
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トク

【対馬4城を巡る】(2)金石城 (2025/03/22 訪問)

(2城目)は金石城です。

金石城は、平安時代からこの地を治める宗氏の金石屋形が前身で、天守はありませんでしたが、櫓門を天守の代用としていたようで、その櫓門が現在再建されています(写真①②)。庭園も残っていました(写真③)。また隣接する萬松院には宗氏代々の墓所もありました(写真④⑤)。

宗氏は室町時代から朝鮮との橋渡し役を担ってきましたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵で19代「宗義智」(写真⑥)は清水山城築城の労役を課せられます。そして出兵により朝鮮との関係は最悪となりました。しかし江戸時代に入り、対馬藩を立藩した義智に対して徳川家康は、「悪化した朝鮮との関係を修復せよ」命じます。それは容易な事ではありません。義智は偽文書まで捏造して幕府に嘘の報告をしながら、一方では捕虜の釈放などを条件に粘り強く交渉し、何とか国交を回復しました。いやすごい努力だと思います。

そして1607年第1回目の「朝鮮通信使」がやって来た時、ここで大きな問題が! 来日した使節は何と予想を上回る500名。幕府側からの迎入使節も500名程。金石城はこの大人数の接待をするにはあまりにも手狭で、また港から城まで近く全員が上陸し行列ができないという事態になってしまったのです。

そして1659年1661年と二度に渡る大火で金石城と城下は甚大な被害を受けます。22代「宗義真」は大規模な復興に取り組み、3km内陸の桟原の地に、この際使節も受け入れられるような城を築城しようと、藩主館や行政機関なども全て移し、大規模な接待施設も作りました。金石城もその後再建され、使節を接待する幕府側の迎入者の宿泊所などに使われたようです。庭園には1811年幕府大使の小笠原大膳(小倉藩主)が宿泊したとの記録も残されています(写真⑧)。

朝鮮通信使の歴史を知るのは韓国人にはとても人気があるツアーのようです。金石城は韓国人の団体客がとても多く、何台ものバスがたて続けに来ては、ぞろぞろと降りてきました(写真⑨)。ホテルも私以外の客はほぼ韓国人でした。チェックイン時に「オソオセオ~(いらっしゃいませ)」とあいさつされたので、思わず「私は日本人です」(🤔?・・笑)。いやまさに国境の街、いたるところ何から何まで、必ずハングル文字のふりがながついています。

次は(桟原城)まで歩きます。
 

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とばつびしゃもん

日朝外交の舞台の城 (2024/03/09 訪問)

対馬初上陸。レンタカーで観光情報館ふれあい処つしまへ。パンフ収集と翌日攻城予定の金田城の続日本100名城スタンプポン。案内所の方から勧められた周辺4施設対象の「対馬の歴史探訪パスポート」を購入。情報館前に車を駐車し、歩いて各施設と金石城へ。
最初に対馬博物館で対馬の歴史(宗氏の国書偽造事件は興味深い)を学んだ後、大手門から金石城登城開始。
大手門には珍しい2階建て櫓門があり、特徴的な石垣の積み方とともに目を引く。手前にはかつて遮蔽物があり桝形虎口になっていたそうだがその遺構は見られない。櫓門を通って城内右手には御台所門跡が見られる。先に進むと金石城庭園、その出口には搦手門櫓台が残る。
20分ほどで攻城を終え、搦手の先にある萬松院へ。日本3大墓地の一つに挙げられる宗氏の墓所がある。
昼食に対馬グルメの対州そばを食べて腹ごしらえをし、清水山城へ向かう。

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/02/15 訪問)

長崎県の城制覇2日目の行程
※前日、対馬の厳原にあるホテル泊
※清水山城、金田城とともに登城

※対馬への交通手段は、長崎空港-対馬空港の往復航空機と対馬内ホテル宿泊がついて22,000円のフリープランツアー(長崎空港トラベルサービス)を利用、お得感がありました
※対馬内移動は、観光タクシー半額キャンペーンがあったので、7時間貸切ました

7:00頃から8:00 清水山城を登城
8:00頃から8:45 金石城を登城
        ※清水山登城口から徒歩5分程度
8:45頃から9:00  観光情報館ふれあい処つしま(8:45-17:39)にて金田城スタンプをゲット

※ここから観光タクシー利用
9:00-9:30 厳原から金田城登山口へ移動
      金田城(続百名城)散策
       ※登山口から山頂まで50分(健脚ではないです)
       ※山頂付近に明治以降の砲台跡などがあります
12:45-13:00 タクシー移動、昼食
14:00-15:00 姫神山砲台跡散策
       ※明治以降の戦争遺構。砲台跡や弾薬庫跡があります
15:00-15:30 タクシー移動
       万関展望台
        ※対馬を東西に通れるように掘削した海峡に架かる橋近くの展望台
15:45-16:00 タクシー移動、温泉施設へ(観光タクシー終了)

※観光タクシーは時間内なら行先や滞在時間は融通が利きます

20:00対馬空港発の航空機で長崎に戻り、諫早泊

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)2日目:金石城 (2022/06/06 訪問)

清水山城の登山口から櫓門(34.203513、129.287121)に着きました。
まずは金石城攻城の為、櫓門(34.203513、129.287121)見学と旧金石城庭園(朝早いので閉まってます)の外周を歩きました。
時間のある方はこちらも見学してみてください。写真は別途、つぶやきで投稿する予定です。
①萬松院(34.204332、129.284506)➡開館時間(8:00~17:00)歴代藩主の墓等があります。
②対馬歴史民俗資料館前(34.203556、129.288129)➡開館時間(9:30~17:00)
③対馬藩お船江跡:細道入口付近(34.186637、129.282669)に路駐しました。

1528年(享禄元年)宗将盛によって築かれました。
1526年(大永6年)対馬島主15代宗将盛は、池の屋形を築いて居所としましたが、1528年(享禄元年)豆酘郡主の一族が謀叛を起こし池の屋形は焼失しました。
この乱の後に将盛が新たに築いたのが金石城の前身である金石屋形です。
その後、代々宗氏の居城でしたが、20代宗義智のとき、豊臣秀吉による朝鮮の役が勃発し、金石城の北に聳える清水山に清水山城が築かれ、金石城もまた近世城館として改修されました。
1678年(延宝6年)22代宗義真のとき桟原城を築いて居城を移しましたが、その後も金石城は存続していました。

金石城は東の櫓門跡、西の搦手門跡、旧金石城庭園などがあります。
東の櫓門は大正期まで現存していましたが、今は復元されたものだそうです。庭園は貴重な遺跡として国指定名勝となっていますが、朝早いので閉まってました。
金石城の西側には萬松院があり、その北の山腹に対馬藩宗家墓所がありますが、朝早いので閉まってました。
攻城時間は15分くらいでした。レンタカー会社が開くので、そちらに立ち寄り、それから次の攻城先=金田城に向かいます。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 宗将盛
築城年 享禄元年(1528)
主な城主 宗氏
遺構 曲輪、石垣、枡形
指定文化財 国史跡(金石城跡)、国名勝(旧金石城庭園)
再建造物 石碑、説明板、大手門[金石城]
住所 長崎県対馬市厳原町今屋敷
問い合わせ先 対馬市教育委員会文化財課
問い合わせ先電話番号 0920-54-2341