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キンヤ

大野城の出城とされる西ノ城 (2024/01/07 訪問)

東ノ城に続きまして、西ノ城を投稿させて頂きます。
西ノ城は大野城の出城ともされ、別名 藤白城と呼ばれます。

東ノ城から向かうと岩盤を利用したような片堀切・土橋状を通ります。

山頂の主郭から南西に曲輪が連なっていますが木で見辛いです。

北側に堀切があり、土橋が付いてますが、後世の改変の可能性があるかもしれません。

南西側にクランクした横堀があり、西ノ城での見所でした。その更に南下に堀切があります。

東ノ城よりインパクトは弱いですが、東ノ城にはないクランクした横堀が見られ興味深いです。

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キンヤ

畝状竪堀が見所の紀伊守護本拠の山城 (2024/01/07 訪問)

南北朝時代に紀伊守護山名氏が築城したとされ、南北朝合一後は紀伊守護畠山氏の本拠になったとされます。
1460〜1466年頃に畠山政長が守護本拠を広城へ移したと伝えられますが、その後も畠山氏が1568年まで使用したともされます。

東ノ城と西ノ城から成る一城別郭の大規模な山城で、東西に長い尾根上に築かれています。

まずは東ノ城を投稿させて頂きます。

東側の本城は、3段の曲輪で整備されており、1番上の主郭に城址碑が建てられています。
ここは発掘調査がされており、礎石・石列等が検出され、出土遺物は土師器の皿等が出土したそうです。
北西下に堀切があります。

その西側下の曲輪群は、中ノ曲輪とも呼ばれ、東側と中央の二つの堀切で区切られています。
堀切の間の曲輪の北側には土塁があり、南下の厩の段では石積が見られました。

中ノ曲輪の中央の堀切は大野城の中で最も大きく、南下へ竪堀が長く続き圧巻です。
その竪堀から西へ向けた中ノ曲輪の南斜面で、大小8条程の竪堀が連続しています。
和歌山県北部では珍しい畝状竪堀群で1番の見所と思います。
この南斜面で石積を4箇所で見つけることができました。
中には自然や後世のように見える箇所もありますが、事前リサーチより多くの石積があり驚きました。
中ノ曲輪は、本城よりも堅固な造りで、思っていた以上に見応えありました。

最後に本城の東側下の曲輪に行き、竪堀が1条、尾根に長い土塁がありました。

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しんちゃん

年末滑り込み訪問 (2023/12/31 訪問)

広島城は九か国112万石の大名となった毛利輝元によって天正17年に普請がなされました。中州に城を築く工事は大変な苦労を伴うものだったらしく川を堰き止め、島を普請するところから始めなければならなかったようです。
関ヶ原の合戦の後、福島正則が入り城下の整備に尽力しますが幕府から石垣の無断修理を咎められ(いいがかりに近い)信濃国高井郡および越後国魚沼郡4万5000石に減封されたうえ正則の死後、遺体を勝手に火葬にしたとして改易されてしまいます。(酷すぎる)

大晦日の夕暮れ滑り込みに近いかたちで訪問してきました。天守が閉まっているのは知っていますが山口に行く前に寄っておきたかったのです。大晦日で護国神社の前は屋台の準備で忙しそう。屋台のオッサンの顔が恐いです。さすがは本場ですね(何の?)
二の丸周辺を散策し表御門を拝見。この日はこれで退散しました。この後、大晦日の夜と元日はすごい人だかりになるのでしょうね。

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波多野義景 (2024/01/18 訪問)

 秦野駅からバスに乗り東農協前バス停下車、徒歩約5分で城址碑のある場所へ行くことができます。

神奈川中世城郭図鑑には発掘調査から城址碑の建っている台地を城跡と見なすことは困難になっていると書いてありました。

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小城小次郎

在地勢力狩野氏とともに (2023/04/23 訪問)

一向一揆に追われて加賀を逃れた狩野氏が越中で構えた拠点らしい。神保氏や上杉氏に仕えた狩野氏はいつの頃にか飯久保を離れ、飯久保城もそのまま歴史の闇に消えた。今は地元の方が草刈りや遊歩道整備を行ってくれている。

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松田康隆 (2024/01/18 訪問)

 説明板まで行きましたが、時間もなくそこで退却しました。

皆様の投稿を拝見していると富士山が見えたのですね。まったく気づきませんでした。

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松田城の支城 (2024/01/18 訪問)

 松田氏が松田城の支城として築城したとされていますが、よくわかっていないようです。以前は全山耕地化されていたとのことで、どこが遺構なのかわかりません。そう考えると遺構か否かわかりませんが、2本の見事な竪堀状の地形があります。

 大雄山駅からバスに乗り柄沢バス停下車。バス停から徒歩10分くらいで行くことができます。

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しんちゃん

高山右近ゆかりの城 (2023/12/30 訪問)

豊臣秀吉が織田信長の後継として天下を手中に収めつつあった天正13年(1585)の国替えによって明石与四郎則実に代わって高山右近重友に明石郡が与えられました。重友は明石城(枝吉城)に入城し船上城の築城に取り掛かります。
重友は敬虔なキリシタンだったので秀吉により明石郡を追放され、加賀の前田家に茶道指南役として招かれ、金沢城の修築や富山城・高岡城の築城にも尽力したとのことです。その後、慶長19(1614)キリシタン追放の際マニラに追放され翌年63歳で死去したとのことです。
関ヶ原の合戦後に池田輝政が播磨に入り、輝政の八男で家老職の池田左近利政に船上城があずけられ、慶長13年(1608)からは輝政の甥で筆頭家老の池田出羽守由之に明石4万石とともに預けられました。元和元年(1615)大阪城が落城し支城としての役目を終え、その後の一国一城令で廃城となったようです。
船上城は周囲を宅地に囲まれた畑地らしき場所にありますが、本丸の跡に小さな社が祭られていて住宅の間の細い隙間から道がつづいています。

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しんちゃん

鎌倉地味な所めぐり (2019/01/06 訪問)

鎌倉の鶴岡八幡宮の周辺には「鎌倉殿の十三人」登場人物ゆかりの地がいくつもありますが、基本的に大き目の顕彰碑みたいな石碑が建っているだけで、はっきり言って超地味です。
「武士の鑑」とまで言われた畠山重忠は元久2年(1205)菅谷館を出て130騎ほどで鎌倉に向かう途中で北条義時率いる大軍と戦闘になり討死します。義時はその後重忠追討を命じた父・時政を糾弾します。
若宮大路幕府は嘉禎2年(1236)~元弘3年(1333)に将軍の御所が置かれたところです。
宇都宮辻子幕府は宇都宮小路に置かれた将軍の御所で嘉禄元年(1225)~嘉禎2年(1236)の間使用されました。
鎌倉幕府の御所の履歴は 大蔵幕府⇒宇都宮辻子幕府⇒若宮大路幕府となるようです。
上杉朝宗は足利氏満・満兼に仕え、出家後は禅助と号しました。人々は「犬懸の管領」と言ったそうです。その子の氏憲は足利持氏の執事となり出家して禅秀と号しました。しかし持氏と不仲になり持氏の叔父・満隆と謀って兵を挙げますが敗れて、鶴岡別当坊にて自害したとあります。
畠山重忠邸跡‥神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目2-9
北条執権邸旧跡‥鎌倉市小町3
若宮大路幕府旧跡‥鎌倉市雪ノ下1-11
宇都宮辻子幕府旧跡‥鎌倉市小町2丁目
日蓮上人辻説法の跡‥鎌倉市小町2丁目22−13−7
文覚上人屋敷跡‥神奈川県鎌倉市雪ノ下4
上杉朝宗および氏憲邸跡‥鎌倉市浄明寺1丁目10−3

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しんちゃん

櫓は消失したが今も石垣が津和野の街を見守る。 (2019/05/04 訪問)

津和野城の歴史は古く鎌倉時代の吉見氏の築城に始まり長く吉見氏の時代が続きました。歴史が長い割には長閑であったのですが、陶晴賢が大内義隆を滅ぼした際には義隆の姉が吉見正頼の妻であった関係から、正頼は兵を挙げて長門に攻め込んだそうです。晴賢は大内義長を奉じて津和野城を攻めますが、津和野城は下瀬山城とも連携してこれをよく防いだとのことです。毛利氏が挙兵した際に晴賢と正頼は和睦を結びますが、晴賢が厳島の合戦で滅んだ後、毛利氏と合流して大内義長を自害に追い込んだそうです。
吉見氏は関ヶ原の合戦で城を追われてしまいますが、長く津和野の町を見守ってきた津和野城は健在で明治7年、地元の人に惜しまれながら櫓は入札され解体されたそうです。今だったらクラウドファンディングとやらで何とかなりそうな気がしますが。

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赤い城

整備された城址公園 (2024/01/12 訪問)

阪急池田駅から徒歩で10分ちょっと。
池田城址公園として整備されています。
この日は西門から登城、模擬天守前にはジュウガツザクラが咲いてました。
冬に咲くサクラも趣きがあります。
公園は庭園風に整備され、地元の方の散歩コースになっているようです。
本丸には虎口や土塁が残ります。
南門から下に下りると堀跡が散策路となっています。
なかなか深いです。
本丸に戻り東門から退出、こちらが大手のようですね。
所用前の立ち寄りだったので駆け足での登城となりました。
近くにはカップヌードルミュージアムもあるのでまた来たときには行きたいです。

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しんちゃん

千姫事件のいわくつき。素晴らしき天空の城。 (2019/05/04 訪問)

津和野城は標高367mの山上に築かれ南方に周囲を囲うように流れる津和野川が天然の堀の役目を果たしています。弘安4年(1281)の二度目の元軍の来襲ののち、弘安5年に鎌倉幕府は吉見頼行に対し西石見の海岸防備を命じます。頼行は任務を遂行の途中に当地を本城を築くのに最適と定め永仁3年(1295)築城にとりかかったとのことです。吉見氏14代広行の時代に慶長5年・関ヶ原の合戦に毛利輝元に従い西軍として参戦し、西軍の敗走後に吉見氏は当地を追われたとのことです。関ヶ原の合戦の功績で坂崎出羽守成正が3万石で入りますが、例の千姫事件で滅んでしまいます。
翌元和3年(1617)亀井政矩が4万3千石で入り明治まで続いたそうです。
津和野城には10年前に訪れましたがリフトは休みで登城道は通行禁止になっていたのでやむをえず断念しました。4年前に再度来訪し、ようやく本願を果たすことができました。リフトを使えば城域まですぐに到達でき主要部の石垣を十分堪能することができます。

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しんちゃん

鎌倉市ぶらぶら (2019/01/06 訪問)

鎌倉市周辺を歩いてみると歴史的な遺構がたくさんありました。鶴岡八幡宮より北側は鎌倉五山など宗教的な建物が豊富で江戸時代にも観光地としてにぎわったようです。鎌倉幕府に関する遺構は鶴岡八幡宮の周辺に多く、大蔵幕府跡やその東御門、源頼朝・大江広元の墓や北条義時の墓(お堂)の跡である法華堂跡が存在します。
法華堂跡には宝治合戦(1247)で自害した三浦一族を葬ったやぐら(洞穴)があります。法華堂跡の周辺には大江広元の墓の他、源氏の血筋を自称する島津忠久の墓もあります。法華堂の南側やや西よりに800mほど行った先には建武の新制で一族と共に自害した北条高時の腹切りやぐらがありました。
大蔵幕府は大蔵御所とも言われ治承4年(1180)から承久元年(1219)まで鎌倉将軍の御座所として使われた居館で源頼朝の居館でもありました。1225年まで使われたという見方もあるようです。

大蔵御所‥鎌倉市雪ノ下3丁目6-26
源頼朝墓・法華堂跡‥鎌倉市西御門2丁目5
大蔵幕府東御門旧跡碑‥鎌倉市西御門2丁目8-10

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しんちゃん

英国の報復を恐れ急遽築造した台場。 (2019/05/02 訪問)

橋津台場は鳥取藩によって築かれた台場の一つで国の史跡に指定されています。文久3年(1863)大阪の天保山砲台を警備していた鳥取藩の警備隊が英国船を攻撃するという事件が勃発したそうです。鳥取藩は報復を恐れて急遽、大誠村瀬戸の竹信潤太郎に相談して農民の協力を得て文久3年中に藩内に八か所の台場を築いたとあります。(現地案内板より)
現在は波に浸食を受け一部が失われていますが形状的には由良台場に似ているそうです。訪問した時にはすでに日暮れが近く、夕焼けは綺麗なのですが写真が暗いです。

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しんちゃん

写真が余ったのでもう一稿。 (2019/05/02 訪問)

太閤ヶ平陣の写真が余っていたのでもう一稿。太閤ヶ平陣は鳥取城一城を落とすのにはあまりにも規模が大きいので毛利攻めの本拠地の一つとして転用する目的で築かれたのではないかと現地の案内板には書かれています。規模はだいぶ違いますが秀吉が三木城を攻めるときに築いた本陣にも構造が少し似ていますね。なんにせよ防御より攻めを重視した攻撃の為の城と言った雰囲気が良く出ていると思います。基本的に織田信長も武田信玄も上杉謙信も自分たちの領土で戦をするなんてことは全く考えていないと思うんですね。
戦国を代表する大名たちの本城が未完成だったり守りが甘かったりすることは結構あって、その真逆にいるのが北条氏だと思います。

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POYO58

本丸、稲荷曲輪探訪 (2024/11/04 訪問)

二の丸と本丸をつなぐ石垣の橋を渡ると巽櫓に到着します。たぶん巽櫓は残念ながら入れないです。巽櫓から坤櫓にかけて長い復元土塀が建っています。坤櫓は入ることができますが2階には行けません。でも現存建造物なのでなかなか貴重です。
スタンプは坤櫓の前の受付で押すことができます。坤櫓の入城は無料です。これもなかなかいいですね。
一軒櫓がこの城の見どころかと思われがちですが、実は櫓に匹敵するほど見どころ満点なものがまだあります。
それが明石城の石垣なのですが、明石城の石垣はほとんどが高いもので算木積みの綺麗な石垣となっています。特に天守台は天守がたった経歴はないようですが、さすが家康の城、かなりの大規模さです。
本丸から見ノ門跡を通って稲荷曲輪まで行くと高石垣が立ちはだかっています。稲荷曲輪からは天守台を見ることができ、魅力を目の当たりにできます。稲荷曲輪の南側まで来ると坤櫓が見え、天守台とセットで撮るのがおすすめです。
さて次で明石城の最後を締めます。 続く

朝田さんの投稿の内容に同感しましたね。最近の日本は本当に地震が多いんですね。私は2000年代に生まれていますが、生涯十数年の中で3回も大きな地震がありました。特に熊本地震は私も経験してものすごく大変でした。
地震については本当に日々地道に対策していくべきだと思います。避難リュックは準備したほうが良さそうです。

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朝田 辰兵衛

特別な思いの1.17~震災の日~ (2023/06/13 訪問)

阪神淡路大震災から29年…。震災の日が訪れました。日本列島は地震大国とわかっていても,1月1日の能登半島地震に嗚咽をおぼえました。越後でも新潟県中越地震,新潟県中越沖地震。そして,東日本大震災,熊本地震と,日本の日常が一瞬で壊滅。
個人的には,阪神淡路大震災の哀しみが一番深いです。伊丹の友人を失いました…。伊丹は駅舎がものの見事に崩れました。あの映像を見た衝撃は忘れられません。私は,JR新長田駅前の鉄人28号モニュメントで,阪神淡路大震災を回顧しています。新快速で通過しても,そのうしろ姿をとらえることができます。
能登半島地震も復興にあたり,なにかシンボル的存在が欲しいです。輪島の永井豪博物館も焼失してしまった様子ですので,デビルマンの巨大モニュメントなんかがあったらいいな…と。

にのまるさん,小倉におられたんですね…。あの映像と出火原因は,糸魚川火災とダブりました。糸魚川は年末でしたが…。完全に能登半島地震と羽田空港の航空機事故に飲まれてしまいましたね。九州から遠い江戸,武蔵や越後などでは「何ソレ?」って人が多い気がします。ゆっくりとメンタルの回復に努めてください。

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ぴーかる

湖北西部最大級の見応えある山城 (2023/12/02 訪問)

【清水山城】
<駐車場他>新旭森林スポーツ公園無料駐車場に駐車しました。管理事務所で城跡のパンフレットもらえます。
<交通手段>車

<見所>城館跡・堀切・主郭竪堀・主郭礎石建物跡・畝状竪堀群
<感想>現地説明板によると清水山城は1235年に佐々木信綱の二男高信が高島郡田中郷の地頭に任じられた頃に築城されたようです。その一族は鎌倉時代から戦国時代まで活躍し7族に分かれます。清水山城はその惣領家である佐々木越中氏が城主であったようです。

 スポーツ公園奥の<35.357236, 136.024478>にあるゲートを開けて入ります。まっすぐ進んで地蔵山石仏のある近くにもパンフレットのBOXがあります。城跡は大きく中腹にある城館跡と山頂一帯を山の形状に沿った造りの山城部分とに分けられます。まず城館跡に行きました。
 城館跡も西側と東側に分けられて中心にアリの背という谷ないし堀切で仕切っています。東館跡の多くは曲輪跡毎に売却されているようで個人所有者の名前の古い看板が置かれていますが建物は建っておらず、方形の曲輪と土塁遺構がしっかり残っています。西館跡が城館の主要部分だったようで、中心に幅5m程の大手道跡があります。西館跡は傾斜地なので高低差のある曲輪群が広がっていて所々に石垣が残っています。麓から主郭前まで重機を通した道で西館跡を縦断しているので、遺構を潰しているのが勿体ないです。
 西館跡から城跡までは当時は細い尾根筋、堀切2条ほどだったようですが現在は上記の道が通されています。城跡は主郭を中心に南西方向尾根に2郭・3郭があり堀切で仕切っています。2郭~3郭の堀切が巨大な高低差のある堀切で降りるロープが降ろしてありアスレチック気分が味わえます。3郭の奥にも緩傾斜の堀切(私には竪堀群に見えました)があり、2郭3郭一帯は見応えあります。主郭北側背後に大堀切があり北尾根曲輪群となっています。その北側に畝状竪堀群があり東側傾斜地は藪化していますが西側傾斜地は見応えある竪堀群が見られます。
 主郭は主郭部分だけを高い切岸にして周囲を竪堀数条で防御しています。曲輪の形状は山をそのまま水平に切った形をしていて、いびつで虎口1か所、西北部に礎石建物跡が残ります。南西方向の琵琶湖側が開けて眺望がとてもいいです。
 国史跡に選ばれるだけある大城跡、もう1城行こうと急ぎぎみで見てしまっても3時間程かかり次に行けませんでした。半日は時間を取ったほうがいいでしょう。百・続百名城に負けていない見応えある城跡でした。

<満足度>◆◆◆

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チェブ

続くって、凄い事。 (2023/12/06 訪問)

昨日 投稿した「高津戸城」からの帰り道、近くを通るので「彦部屋敷」に寄り道しました。

1561年に彦部 信勝さんが屋敷を構えたのが始まりのようです。現在の「彦部屋敷」は江戸時代の建築物です。
信勝さんは、13代足利 義輝将軍の側近でした。
信勝さん、情勢を探る為に関東に来ました。
将軍が殺害され、この時 父と兄も討死しました。
信勝さんは桐生の地に留まり彦部家の当主になりました。
素敵な古民家だなぁ、なんて軽い気持ちで観てしまった事を恥ずかしく思います。
この日は平日の夕方、開いてません。現在も子孫の方がお住まいとの事で、遠くからパチッとして退陣しました。

昨今の少子化問題や跡継ぎ不足で、伝統が途絶えてしまったニュースを目にします。
彦部家が今も続いているって、本当に素晴らしい事だと思いました。
大きな銀杏は、どれくらいの彦部家の歴史を見たのだろと思った「彦部屋敷」攻めでした。

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2022/12/02 訪問)

東京駅から大手門徒歩10分
東京駅から楠公レストハウスまで徒歩10分(百名城スタンプ 10:00-15:30)
 ※スタンプは他に和田倉休憩所、北の丸休憩所にも設置

※春と秋の坂下門から乾門への通り抜け公開時期なら長屋門や道灌堀の傍を通れます
※東御苑は、富士見櫓、富士見多門櫓、天守台(三代目)や石垣、番所が見学でき、時期的には新緑や紅葉がおすすめ
※北の丸は田安門、清水門などの門めぐりがおすすめ

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