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とばつびしゃもん

トリーデなるとが立つ城 (2023/07/17 訪問)

勝瑞城から車で約40分。妙見山公園駐車場に駐車し登城開始。
阿波九城の一つ。城址には妙見神社があり、市の防災拠点でシンボルでもある模擬天守「トリーデなると」が立つ。天守館内は無料で入館できるが城址に関する資料展示はなく、最上階からは鳴門市内と紀伊水道を一望。妙見神社の社殿奥には遺構らしき石垣が確認できる。40分ほど滞在。
涼をとろうと道の駅「くるくるなると」に立ち寄り、お目当ての金時いもソフトを目指すも激しい行列ができていたので回避。すだちのかき氷を食べてさっぱりし阿波遠征から撤収。

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しんちゃん

南側の城域は柵の向こうは立ち入ることが出来ない。 (2023/12/31 訪問)

寺山城は谷大川の南側の山の先端部の丘陵を利用して築かれています。残念ですが、近くに駐車場らしきものは見当たりません。どこに停めたかは企業秘密です。登城道の近くに案内板があり城址に道が続いています。中腹あたりまで来たら南北に尾根が伸びていて北側の小高くなっている箇所が主郭と見られています。主郭には土塁が残り、下段には腰郭が配されています。先ほど来た中腹に戻り今度は南を目指します。
城郭大系には南にも主郭と同じくらいの郭が有るとされていますが柵で塞がれ立ち入りはできません。しかし柵より手前側に段々の扁平地や堀切が残っていました。
寺山城は石井氏によって築かれ、桓武平氏の出である名越太郎が元弘年間(1331~1334)に志芳荘に移り住み石井氏の祖となったとされています。石井氏は天野氏との間で毛利氏によって領土替えが行われため、内村を転出し安芸国内の替りに与えられた領土に移っていったということです。

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じゅんじん

夕方の浜松城 (2023/12/01 訪問)

仕事の打ち合わせ後に行きました。

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小城小次郎

畠山・上杉・織田が用いた駐車場付きの有難いお城 (2023/04/23 訪問)

能登畠山氏が越中に越境して築いたのが始まりで上杉方も織田方も活用した。結果、群郭式の態を保ちながら主郭周辺だけ石垣を用いた典型的な織豊系のお城となった。長い道のどんづまりに駐車場があって車で楽に行けるのが有難い。

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しんちゃん

日御碕灯台 東洋一美しい灯台 (2019/05/04 訪問)

出雲日御碕灯台は島根県出雲市の日御碕に建てられています。明治33年(1900)に建造がなされ時代に合わせて耐震補強がされてきました。日本でも指折りの灯台で高さは日本一(46.65m)海面からの灯火標高は63.3mを誇ります。東洋一とも言われる美しさは健在で有り難いことに入場料を払えば展望所まで登ることができ、そこからの眺めは壮観です。
周囲は断崖絶壁で手すりも無く非常に危険ですが、それがまたこの灯台の美しさを引き立てているのも事実だと思います。内部には資料展示室も併設されていて日御碕灯台についての歴史や役割を学ぶことが出来ます。ちなみに灯台内は土足禁止になっています。

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いのさん

波切城訪問 (2024/01/17 訪問)

伊勢神宮への初詣が午前中に終わったので、足を伸ばしてやって来ました。公園として整備されていますが、遺構は分かりませんでした。しかし、立地は凄いです。

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neko_neko

冬は天気がいいと富士山や南アルプスがよく見えます

冬は天気がいいと富士山や南アルプスがよく見えます

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しんちゃん

大友宗麟の居城。 (2023/01/09 訪問)

臼杵城はかつて臼杵湾に面した丹生島に築かれていました(今は陸でつながっています)。大友宗麟は大内氏に取って替り勢力を伸ばした毛利氏と激しく争いました。永禄4年(1561)門司での戦いで敗れ、北部豊前での戦いで大敗し、毛利氏へ対抗するために急遽この城を築城したとされています。
臼木丹生島に攻め込むためには陸路では六ヶ迫峠や津久見峠を越えなくてはならず、東は湾に面し西は臼杵川が流れているので防御の点でも申し分なかったそうです。臼杵城は宗麟の隠居城とされましたが、剃髪して休庵宗麟と名乗ってはいるものの実際にはまだ三十半ばで、実権は宗麟が握っていたため大友館に対するもう一つの本拠としての意味合いもありそうです。
城址は東が本丸跡で西が二の丸跡とされているようです。現在は公園化されていて様々なモニュメントで飾られ、天守櫓跡に面して空堀遺構が残っています。
※本丸周辺の写真は2014年1月の写真を流用しています。

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天守無しがアツい

武田義信 (2023/01/14 訪問)

(武田神社HP)http://www.takedajinja.or.jp/

武田神社…甲府駅からバスで10分程度の場所にあり、ここにはかつて「躑躅ヶ崎館」という武田氏の居城がありました

本殿にて参拝…ある程度長い列ができており、二礼二拍手一礼のお参りこそ済ませたのですが、正面から本殿を撮ろうとすると人が写ってしまいよろしくない…と感じたので、人気のない角度から撮影してみました(画像1枚目)

お参りしてから授与所にて、まず御朱印を求めました。事前に調べたところ直書きは300円と安いがデザインがシンプルで寂しい…書き置きは500円と少し高めだが信玄のイラストが入っており何か惹きつけられる…😍

なので文句無しに後者を注文…立ち姿と座り姿があり、これも後者を選びました(2枚目)。立ち姿はちょっとナヨナヨしく見えるのに対し、座り姿はどっしり構えていて戦国武将のイメージに相応しかったからかな👹

ここはかつて武田氏の居城…ということで、(今は神社にも関わらず)何とここにも御城印の販売が…逃さずにそれを購入しました(3枚目左)今は「信玄公御神忌四百五十年」の限定版となっており、つまり没年が1573年なので(今年は2024年…2024-1573=451…リリースは2023年…ちょうど450年の時だが翌年4月まで販売と書いてあったので451年と計算上なってもセーフ)そう印字されてるわけです🧐

それから宝物館を見学。中は撮影が一切禁止になっているので、ガチで目に焼き付けるだけ…展示品の主なものは信玄の肖像画数枚…肌が浅黒く頭が禿げていて髭を生やしたもの(これは別人説あった気もする)、白い毛のフサフサした兜を被り赤い上着を羽織って目のギョロリとした肖像、武田二十四将の絵…

解説文を読んで一目瞭然なのは、どれも本人の死後に描かれたもの…特に武田二十四将は江戸時代中期だそうです…つまり没後150年後あたり?😅 「信玄のオッサンちょっとイカつく描いちゃえ😁 じゃあ山本勘助はこんな感じぃ?」という具合に、本人たちを見てもない人間が信玄およびその家来をイメージで描いただけ…だから描かれてる顔に信憑性はまるでなし

勝頼の肖像画は目が小さく細め…でも彼は(「どうする家康」でも描かれていたように)日々レスリングのような投げ合いを家臣たちとおこなっており、鍛錬を積んで武勇に長けていたそうです(肖像画および私の中のイメージとかなり違う😅) 彼の代に武田の領土は最大となり決して暗君ではなかった…けれど長篠の戦いから何かおかしくなり、その7年後に再び信長軍と戦うも家臣の裏切りにあい、天目山にて側室や息子と一緒に自害💀💀💀

その首級は京で晒された…とも(解説文に)ありました。他には甲冑、鎖帷子、法螺貝(当時の伝達手段)、武田女子の短刀(いざとなればこれで自害)

信玄年表を見る中で、信玄の長男義信(1538-67)が気になりました

(武田義信wikipedia)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E7%BE%A9%E4%BF%A1

父がまだ十代の時に生まれた長男…有力大名の娘と結婚…戦で活躍となかなか腕は立つ…謀反の嫌疑をかけられ、最期は若くして自害…という点で、松平信康と運命似てます👼

ちなみに武田の家系は現代にまで残ってますが、それは信玄の次男(信親)の系統であることも館内の展示にありました。彼は盲目のため後継者から外されたのですが、返ってそれが塞翁が馬的な結果になったようです(後継者となった勝頼は妻子と共に自害して果てたので)

宝物館は16時で閉館。それからバスの時間まで武田の屋敷跡(4枚目)を見物。画像内の四角く黒ずんでいる場所に建物があったそうです。神社の敷地外にも当時は屋敷があり、堀で周りを囲んだ城でもあった

けれど武田家滅亡後から現在までの間にやがて屋敷は無くなり更地に…近年では宅地開発により史跡も幾分か削られつつあるそうです。ここは市民および武田氏愛好家(?)により保存されることとなった、せめてもの遺構なのでしょう…少し離れた場所に天守の土台のような石垣が見えて、そこに登ってる人もいたのですが時間に余裕が無かったので、バス停まで引き返し甲府駅に戻りました🚌

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とばつびしゃもん

細川・三好氏の阿波拠点の城 (2023/07/17 訪問)

徳島城から車で約30分。勝瑞館跡の専用駐車場へ駐車し、勝瑞城館跡展示室へ入館。
小さな展示室ですが三好氏の資料や映像、出土品が展示されています。とても暑い日で冷房の効いた館内にゆっくり滞在し、勝端城館と三好氏の歴史を学習できました。展示室で続日本100名城スタンプポン。
発掘調査された館跡を一回りし、県道を渡った向かいにある見性寺へ。長宗我部氏との戦いに備え築いた防御施設の曲輪と考えられ、数少ない遺構の土塁が確認できる。あわせて1時間弱見学して次の城へ。

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う~ちゃんママ

久しぶりに小峰城 (2024/01/20 訪問)

久しぶりに小峰城に行ってきました。

もしかしたら夏以来。(8月)
笛も吹けたし満足です。

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しんちゃん

山上の城は総石垣で築かれている。 (2023/01/09 訪問)

佐伯城は慶長11年(1606)に築かれました。毛利高政による築城とされ「一日三人切り捨て」と言われる、かなり荒っぽい工事だったようです。山上に本丸が築かれ、北側に北の丸、南側に二の丸・西の丸と連なっています。山上の城は総石垣で築かれており本丸には三重の天守が建っていましたが後に焼失したようです。
三代目の高尚から三の丸の居館に居住するようになり山上の城は一時期荒廃したそうです。佐伯城の南には潮入川と番匠川が流れ、東には白坪川(中川の支流?)が流れ、その先は湾になっていたようです。今でも城の周囲を複数の川や湾、山地が囲んでおり守りに適した立地だということが伺えます。
麓の三の丸には石垣と三の丸櫓門(大分県有形文化財)が残っています。敷地内には毛利家御居間も保存されていて、そこからほど近い船頭町11-9には三の丸御殿の玄関・広間・書院の部分が移築され住吉御殿と呼ばれており、現在は地元の公民館として利用されているようです。
※山上の写真は2014年1月の物を流用しています。

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しんちゃん

会津若松城冬景色 (2014/02/04 訪問)

せっかくなので会津若松城の口コミも‥10年近く前になりますが、雪が降った後でお堀の水も凍っていました。干飯櫓や鉄門の上に雪が残っていたので天守の屋根の赤瓦にも積雪があったのではと思います。西大手門から訪問するのが一般的と思われ先は枡形になっていたようです。今では駐車場として使われているようですね。かつての天守は郷土博物館になっていて続櫓から二度折れ曲がって干飯櫓に続いています。折れ曲がった部分の下には鉄門が設けられていて天守の展望台から良く見えます。
会津若松城の本来の天守は戊辰戦争でボロボロになってしまいました。木造の美しい天守が失われてしまったのは残念ですが近世城郭としては実戦を経験した数少ない城で(北海道・東北は案外多い)天守としての寿命を全うしたのだと思う他はなさそうです。

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しんちゃん

白黒の世界 (2014/02/04 訪問)

せっかく「かるた」を投稿したので、ついでに口コミの投稿もやっちゃいます。写真が古くて申し訳ござらぬ。
皆様の「かるた」もお待ちしております。麓にあるのが居館で「白旗が峰」にあるのが天守曲輪と天守台ですね。麓からの比高は120mくらいあるようです。ちょっとした小山ですね。この日は結構な積雪で天守台や天守曲輪にもけっこう積もっていましたね。これはこれで情緒が有るのですが城跡の詳細が少しわかりづらい。まさに白黒の世界です。いずれまた訪問してゆっくり散策してみたいと思います。

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刑部

山県昌景が城主の城 (2023/11/04 訪問)

好きな武将のひとり山県昌景が城主だった時もある丸子城! この日夕暮れが近く険しい山城を登るのは困難、ここまで来たのに断念はしたくない!
入り口付近で年配の人が今から登ったら暗くなるから無理だよな〜と話していたが私はがむしゃらに登り各曲輪を足早で訪問、何とか暗くなる前に山から降りることが出来ました! ん〜まだまだ若い‼︎
山城なのでそれなりに遺構を見ることができ大変満足でした。

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けむん

主郭部分は比較的楽に見学出来ます (2024/01/20 訪問)

巨大な山城ですので全域を回るのは多分かなり大変だと思いますが、番所まで車で登れますので、主郭部分だけならば最上郭の山王丸まで見学しても、それ程苦労しないで見学出来ました。

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けむん

往復2時間程度でした (2024/01/20 訪問)

44ガードから入り、北郭から本郭まで行って、43ガードへ降りて来ましたが、雨模様ということもあり見学時間をあわせて2時間位でした。44ガードからの道はなだらかで登りやすかったです。道自体の整備は、43ガードの方が良いと思いました。

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ヒロケン

蒲生氏郷公が築いた名城 (2024/01/05 訪問)

松阪城は、標高約38mの独立した丘陵に築かれた平山城で、城の北側を流れる阪内川を防御ラインとした要害の地に立地しています。丘陵を切り通しで南北に分断し、中核部である北丘、城の鎮守神を祀る南丘、両丘の周りを三の丸、三の丸の周囲を土塁・堀で固めていました。松阪城の中核部北丘には、本丸を中心として、東側に二の丸、南側に隠居丸、西側にきたい丸を配し、それらの曲輪の周囲を石垣巡らせています。天守は3層の望楼型天守で敵見櫓と繋がった連立式天守であったと云われています(現存する天守・櫓はありません。)

城を築いたのは、豊臣秀吉公から南伊勢12万石を拝領された蒲生氏郷公で、四五百森と言われた小高い丘で城造りを始め、3年の月日をかけ松阪城を完成させています。その後、氏郷公は会津若松へ国替えとなり、服部氏・古田氏と入れ替わり、徳川家康公の子・頼宣公が紀州藩主となった際に、紀州藩の伊勢国領支配となり、明治維新を迎えています。

松阪城には、三度目の訪問で松阪市駐車場に駐車。この城の見所は、何と言っても石垣(*^▽^*)、城内には松阪市立歴史民俗資料館(国登録有形文化財)・100名城スタンプ設置個所の本居宣長記念館・本居宣長旧宅(国指定特別史跡)・桜松閣(国登録有形文化財)などがありますが、石垣好きの自分にとっては石垣(。・ω・。)ノ♡です。
月見櫓跡から下を覗くとお尻がモゾモゾするくらい、また、天守台跡の古墳時代の石棺が転用石として使われているのは、前から知っていましたが、他の石垣が凄すぎて夢中となり、ついつい忘れてしまい画像がなかったので、収めてきました。

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とばつびしゃもん

舌石が見られる城 (2023/07/17 訪問)

二度目の登城。前夜に夜襲をかけ、ライトアップされた鷲の門など公園を一回り。
翌朝ホテルから直接登城。山城部分を攻めた後、全国的に類例が少ない、屏風折塀の支柱石である舌石を線路の高架橋から見学。下城橋、鷲の門、数寄屋橋を通って撤退。
残念ながら時間がなく徳島城博物館はスルーして勝端城へ向かう。

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しんちゃん

【かるた】二本松城の読み札 (2014/02/04 訪問)

雪積る 天守曲輪は 真白にぞ

ゆきつもる てんしゅくるわは ましろにぞ

積雪の日は完全に白と黒の世界です。でもやっぱり天気の良い日に心ゆくまで散策したい。
再訪が楽しみです。

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