かしわらじょう

柏原城

三重県名張市

別名 : 滝野城
旧国名 : 伊賀

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櫓台?裾の残存石垣
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カズサン

伊賀未踏の城廻りⅠ 潅木伐採され空堀を確認 (2021/04/11 訪問)

 前日伊勢未踏の城廻り10城を終えて早朝名阪国道から伊賀の国入り、今回は織田信長対以伊賀土豪衆との伊賀の乱で舞台と成った丸山城探訪を以前から考えて居りましたがNHKBSプレミアムで英雄達の選択で伊賀の乱、城郭が取り上げられ柏原城を認識し丸山城と周辺の城合わせて7城を一挙に探訪巡りました。
 先ず情報とガイドは城郭放浪記さん古城盛衰記さんでカーナビの目的地、概要を押さえました。

 駐車場:柏原城近くの勝手神社(三重県名張市赤目町柏原464)の裏手に神社専用駐車場が在り利用10台位は可能か?
 案内:名阪国道、国道165号線、県道567号線経由ナビ目的地勝手神社裏へ、集落の道は狭い。
 
 城郭ルート:神社から要所要所に案内指示板が在り何となく山陰で城と分かります舗装道路から畦道に入ると眼前に案内板と杉林、水堀水路を渡り登城路に祠、マムシ注意の看板ドキッとしますが、所々マムシ注意の看板多し、マムシの出ない時期がお薦め、南西虎口、方形の本曲輪、内部は杉が切られ見通し好、周囲に土塁高し、北東側の土塁は櫓台か?幅広、裾に石垣が散見される、北東側土塁に登り、本曲輪と外の堀を覗く、北西隅に井戸がある。
 虎口から南西外の土塁と水堀?水溜まり?の確認、第一外周の堀も確認南西側、戻って虎口か北西の堀を外土塁を歩き一周する潅木が伐採され歩ける但し切株が鋭く登山靴安全靴お薦め、堀と本曲輪の高土塁も確認、北側、東側2条の土塁堀を確認、南西に進み先に見た水堀辺りから南西に3条の堀を確認、段々浅く成ってる。
 見応えは在りますが樹木、小竹藪で鬱蒼としてます、終わって登城前に散歩されてる老婦人に訪ね聞き及んだこの近く道路開発時に発見された墓石が柏原城水路前に在るのでそこも見学されるとと言われ、登城畦道一本南東に五輪の墓石、墓石が整然と並び祀られてる往時の物なのかは分からない、案内板も無し。

 歴史:天正9年(1581年)織田信長の第二次伊賀征伐織田軍3万数千人対伊賀土豪1600余人の伊賀征伐最後の戦い、最後までよく立て籠もり織田の大軍と奮戦した由緒ある城郭。(案内板、赤目まちづくり委員会の抜粋)
 ただ実感として柏原城に1600余人も入れるのだろうかと思ってしまいますが?

 伊勢から伊賀に入ると標高が高いのかまだ山桜、枝垂れ桜も見られ若葉が芽吹きだし萌黄色の美しさ天気も良く花や若葉が陽に輝き美しい伊賀の山野を五感で体験できました、良い時期の城廻りでした。

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イオ

天正伊賀の乱最終決戦地 (2019/12/01 訪問)

戦国末期に滝野氏が築城し、第二次天正伊賀の乱では各地から立て籠もった伊賀衆と織田軍の最終決戦地となりました。山崎の戦いの後にも、織田方の隙をついて伊賀衆が柏原城を奪って籠城するなど、抵抗の象徴のような城です。

この地域特有の四方土塁で囲まれた単郭方形の城郭で、主郭の南側の虎口や北西隅の櫓台には石組みで補強した跡が見られ、東隅にはお滝女郎化粧井戸と呼ばれる石組みの井戸があります。主郭を取り巻く二重の横堀はかなりの深さがあり、北西隅や南西隅には落とし穴と思われる窪地も見られます。また、主郭の南東には堀切も一条設けられています。

桜町中将城に続いての登城でしたが、雑木が伐採されるなどよく整備されていて、遺構も遜色ありませんし、大いに見応えがあるものの、これまでの投稿にあるとおり「マムシ注意」の看板があちこちにあるため、12月の登城とはいえ、やはりどんどん藪に分け入っていく勇気(蛮勇?)は持てませんでした。

それにしても、この日にめぐった城の歴史を振り返ってみると、北畠(織田)信雄が伊勢と伊賀を支配する課程をたどっていることに気付きました(そういうつもりはなかったんですが)。北畠氏を滅亡(多気北畠氏城館と霧山城)させて伊勢を掌握し、丸山城の修築が天正伊賀の乱の引き金となり、伊賀制圧のために滝川氏城と桜町中将城を築き、最終決戦の地となった柏原城を攻略して伊賀を支配する…。
これまで信雄については、重臣から織田氏の跡目を継ぐに値しないとみなされた残念な人物というイメージでしたが、少なくとも伊勢や伊賀の歴史と城については、多大な影響を与えた人物だったんだな、と。
 

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ぴーかる

伊賀柏原城址(滝野城) (2019/09/16 訪問)

【柏原城】
<駐車場他>勝手神社P 周辺の道は狭いが近辺に行くと電柱に勝手神社の矢印看板がある。
<交通手段>車

<見所>曲輪・横堀
<感想>日帰り伊賀攻城の旅1城目。最初にお盆休みに購入し損ねた高取城の御城印を夢創館にて購入し、またまた道の駅大宇陀にて美味しかった農産物と新米を購入、一度行きたかった女人高野室生寺を拝観したのち、国道165号線を上りながらの攻城1城目。
 この城は第二次伊賀天正の乱の時伊賀衆の残存が集まって最後に立て籠もって戦った城です。城跡は単郭式の丘城で現在は3方は二重の横堀、西側は田んぼの用水路があるので、かつては小川を利用した水堀があったかもしれない。池の遺構も見受けられた。
 私はまず勝手神社に駐車させてもらい、お参り、神社正面鳥居横に添付写真の城跡碑があった。勝手神社から東に田んぼを挟んで城跡がある。現在の虎口もそのまま東側から主郭に入るが、虎口には何の細工もしておらず土塁を切ったような感じなので当時はここが虎口かどうかは分からない。主郭はそこそこ広く、取巻く土塁は2~3m程の高さ。1重目の横堀は深くて特に南側は5~6m程はあって見応えある。南側から山の方に登っていくので、特に深くしたのであろう。2重目の横堀は浅く数十㎝程だがしっかり残っている。案内板に東に堀切があるそうだが2重目の横堀から藪がきつくてマムシ注意なので行けなかった。
 しっかりと土塁と堀が残る遺構で見応えがあった。検索時誰も未投稿だったので行ってみても損はない城跡です。案内板に伊賀衆千六百人が籠って激戦したとあったので、信長軍に囲まれ最後まで戦った伊賀者魂を感じられた。

<満足度>◆◆◆

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マムシ注意 (2019/09/27 訪問)

 天正伊賀乱決戦之地です。主郭は高い土塁に囲まれ、東隅には「お滝女郎化粧井戸」という井戸が残っています。主郭の周囲には二重空堀を認め、東の尾根には堀切が設けられています。遺構はかなりいい状態にあり、ゆっくり散策したかったが藪になっている所もあり、また「マムシ注意」の立て札があり自然と急ぎ足になり、少し未練は残ったが早々に撤退しました。

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城郭情報

分類・構造 連郭式平山城
築城主 滝野氏
築城年 永禄年間(1558〜1570)
主な城主 滝野氏、百地氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、堀切、井戸
再建造物 石碑、説明板
住所 三重県名張市赤目町柏原字滝野
問い合わせ先 名張市企画財政部広報対話室
問い合わせ先電話番号 0595-63-7402