青森県弘前市にある百名城の一つ弘前城です。弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、江戸時代に建造された天守や櫓などが現存しています。天守石垣が膨らみ修復が必要なことから、2015年一般参加の曳家作業により天守の移動が行われ、2016年から本格的な修復工事が始まり完成は2025年の予定です。
津軽藩初代為信が1603年に築城開始し2代藩主信枚が1611年に完成させています。城は、津軽平野の中央部岩木川右岸の標高15mの段丘に本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭からなる平山城で、城域は東西612m、南北947mに及びました。5万石弱の石高に対して非常に立派なものとなっています。
城は現在、ほぼ全域が弘前公園となっており、東北地方で江戸時代の唯一現存する天守閣など、これだけの遺稿が残っているのは全国的にも珍しく国の史跡に指定されています。
津軽は元々南部領でしたが、南部氏に従っていた大浦城主津軽為信は南部氏津軽郡代南部高信が城主を務める大仏ケ鼻城(石川城)を1571年突如兵を刳り出し攻撃、油断していた南部高信の大仏ケ鼻城は落城、城主高信は討ち死にしています。
当時、南部氏は当主晴政と婿養子の信直の間で実子晴継が生まれたことから跡目相続の対立が起こり、その後、晴政や跡を継いだ実子の晴継が病死し、信直が南部当主となりますが、これに不満をもつ一族の九戸氏らとの争いが続いたため動けず、この間に南部方の城を次々と為信は攻略、一城主から為信は津軽統一を果たすとともに、豊臣秀吉より朱印状を受け独立を果たしております。このため、津軽氏と南部氏の間には遺恨が残ることとなります。
1808年津軽藩は、実収は変わらないものの格式を上げるため石高の高直しにより10万石となり、南部藩8万石より格上となったことから、津軽藩を臣下筋と考え格下と思っていた南部藩士の反感を買うこととなり、南部藩士らの津軽藩主暗殺計画が立てられます。しかし、密告により津軽藩は参勤交代のルートを変更し藩主暗殺が未遂となる騒動も起こっています。
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