山形県白鷹町の鮎貝城です。1396年横越氏が築城、鮎貝氏を称したとされます。鮎貝氏は米沢地方から勢力を拡大した伊達氏に従属、同じ藤原氏の出であったことから、伊達一門に加えられたとされます。1587年、時の当主鮎貝宗信は、最上義光と縁戚関係を結び伊達政宗に対して謀反の気配を示し、それに反対する宗信の父宗重から一報を受けた政宗は、鮎貝城へ電光石火の急襲を行ったため鮎貝城は落城、城下も灰燼に帰したとされます。城主宗信は山形へ逃れ、一時、城は破棄されますが、その後、領国境の強化のため改修されたとされます。伊達氏が国替えとなると、蒲生氏・上杉氏時代には、境目の城として拡張整備を繰り返されたとされますが、詳しくはわかっていません。江戸時代に入ると、一国一城令により廃城となり、、御役屋と呼ばれる屋敷が本丸背後に建てられ、上杉氏家臣本庄氏が領主として鮎貝を治めています。城は、最上川の左岸段丘上に築かれ、現在の鮎貝八幡宮が二の丸、その北西側に本丸、本丸の北・西・南に三の丸が配され、各丸は水堀で囲まれていたとされ、麓の城下も水堀で囲む外城とした総構だったと言われます。現在、城跡は二の丸跡の鮎貝八幡宮に土塁や北側に水堀が残り、本丸跡は住宅地や果樹園となり、本丸跡の看板が設置されています。また、三の丸は住宅地となり、堀跡が一部残っています。
+ 続きを読む