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夏の雪だるま

伊達・最上の境目の城 (2018/06/09 訪問)

山形県白鷹町の鮎貝城です。1396年横越氏が築城、鮎貝氏を称したとされます。鮎貝氏は米沢地方から勢力を拡大した伊達氏に従属、同じ藤原氏の出であったことから、伊達一門に加えられたとされます。1587年、時の当主鮎貝宗信は、最上義光と縁戚関係を結び伊達政宗に対して謀反の気配を示し、それに反対する宗信の父宗重から一報を受けた政宗は、鮎貝城へ電光石火の急襲を行ったため鮎貝城は落城、城下も灰燼に帰したとされます。城主宗信は山形へ逃れ、一時、城は破棄されますが、その後、領国境の強化のため改修されたとされます。伊達氏が国替えとなると、蒲生氏・上杉氏時代には、境目の城として拡張整備を繰り返されたとされますが、詳しくはわかっていません。江戸時代に入ると、一国一城令により廃城となり、、御役屋と呼ばれる屋敷が本丸背後に建てられ、上杉氏家臣本庄氏が領主として鮎貝を治めています。城は、最上川の左岸段丘上に築かれ、現在の鮎貝八幡宮が二の丸、その北西側に本丸、本丸の北・西・南に三の丸が配され、各丸は水堀で囲まれていたとされ、麓の城下も水堀で囲む外城とした総構だったと言われます。現在、城跡は二の丸跡の鮎貝八幡宮に土塁や北側に水堀が残り、本丸跡は住宅地や果樹園となり、本丸跡の看板が設置されています。また、三の丸は住宅地となり、堀跡が一部残っています。

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小野寺・最上攻防の城 (2018/05/12 訪問)

秋田県湯沢市の北部の皆瀬川左岸にある丘の先端部標高110mに位置する、本丸・二の丸・三の丸を配する東西250m南北180m規模の岩崎城です。城西側の羽州街道と皆瀬川の監視を目的とした湯沢城の支城とされます。築城年代は定かでありませんが、戦国時代秋田県南を領した小野寺氏の庶流岩崎氏が城主でした。1590年奥州仕置で雄勝郡は山形の最上義光の領土とされますが、小野寺氏は雄勝郡の支配を継続したため、最上義光は、1593年より雄勝郡侵攻を開始、国境の諸城を攻略、1595年雄勝郡の重要拠点である湯沢城を最上軍6千の兵で攻撃、激戦のうえ落城させると、岩崎城を6百の兵で夜襲。岩崎城は援軍も無く守兵2百と手薄であったため落城。最上氏家臣原田氏が城主となます。1602年佐竹氏が移封となると佐竹氏の城となりますが、1615年一国一城令により廃城となっています。1868年岩崎城址南麓に佐竹支藩2万石が陣屋を構えて岩崎藩を置きますが、1871年わずか3年で廃藩置県により廃藩となっています。城跡は現在、千年公園として藤棚などを整備、5月には藤祭が開催されています。本丸東側の堀をJR奥羽本線が走り、二の丸東端櫓台跡に高辻神社、三の丸に玉子井戸・能恵姫像があります。三の丸の下にある帯郭の八幡神社拝殿の唐破風が陣屋殿舎からの移築と伝えられ、その奥に水神神社と鹿島様の藁像があります。

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関ヶ原後の戦いの城 (2017/10/28 訪問)

田県横手市の吉田城です。戦国時代に秋田県南を領した小野寺景道が築城、隠居後入城したと伝えられています。城は、四方100メートルほどの平城で、横手盆地平野部のほぼ中央に位置し城の西側を大戸川流れる地に、東西南北に高さ2m程の土塁を廻らし、その4つの隅には物見櫓を配し、周囲に幅10m程の水堀があったとされます。景道は父を家臣大和田等の謀反により失い、山形庄内の大宝寺氏(武藤氏)に保護されたのち、大宝寺氏や由利諸将の支援を受け大和田らを滅ぼし、横手城を本拠に領土を秋田県南・由利地方・山形の真室川地方まで拡大、小野寺氏の最盛期を築き上げ、上洛し織田信長に会見後、家督を次男義道に譲って隠居したとされます。景道が亡くなると末子陳道が城主となり1600年関ヶ原の戦いの時、小野寺氏は山形の最上義光に奪われた秋田雄勝郡の領地奪還のため最上氏を攻撃、このため関ヶ原の戦いが終わると、最上氏や周辺大名1万余の軍勢から小野寺領西部の重要拠点大森城が攻撃を受け、同時に、大森城10km東の吉田城へ3千の軍が攻めてきます。これに対し、城主陳道は吉田城の兵5百、横手城からの援兵5百、北8kmの黒川城の5百の兵計15百で、迎え撃ち撃退したとされます。しかし、小野寺氏は反徳川とみなされ改易、陳道は南部氏をたより家臣となったとされ、佐竹氏が秋田に領地替えとなると、佐竹家臣茂木氏が城主となるも1615年廃城となっています。現在城跡は一部南側が墓地となり破壊されていますが、その他土塁が良好な形で残っています。

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小野寺・最上の攻防の城 (2016/05/08 訪問)

秋田県南部の湯沢市にある湯沢城です。鎌倉時代後期秋田県雄勝郡に入部した小野寺氏稲庭城の支城として築かれ、のちに小野寺氏は雄勝・平鹿二郡を領する戦国大名に成長してます。しかし、1593年山形最上氏の雄勝郡侵攻が始まり、国境の八口内城など数城が最上氏に攻略され、さらに、1595年雄勝郡の小野寺方の重要拠点である湯沢城周辺の小野寺方の西馬音内城主など5城主が最上氏に従属、しかし、湯沢城主小野寺孫七郎兄弟は従わなかったため最上氏は主将楯岡満茂、先鋒鮭延秀綱の兵6千で湯沢城を攻撃。湯沢城には小野寺孫七郎兄弟が兵8百で籠城。小野寺本軍の援軍は来ず、多勢に無勢で落城必須と知った城主孫七郎は妻子を殺害、残った兵3百と城から突撃。最上軍に多大の被害を与えますが残兵50名となり燃え盛る城へ引き返し切腹したとされます。以後最上氏家臣楯岡満茂が湯沢城主となり小野寺領侵攻の前進基地となります。関ヶ原の戦い後、佐竹氏が秋田に転封となり湯沢城には佐竹南家が城代となり城と城下町を整備します。しかし、1620年一国一城令により廃城。城山麓に館をたてこの地を治めたとされます。城は、湯沢市街地の市役所向かい側の標高230mの古舘山に築かれた山城で本丸、二ノ丸、馬場郭からなり東西400m南北650mの規模といわれ、現在は中央公園となっています。

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小野寺氏の西の重要拠点 (2016/05/08 訪問)

秋田県羽後町の西馬音内城です。湯沢市の西方に広がる田園地域を西馬音内街道で西に進むと羽後町西馬音内の街があります。日本三大盆踊りの一つ西馬音内盆踊りが有名なところです。街を西にはずれて平地が尽きる所にある出羽山地の丘陵に築かれたのが西馬音内城です。稲庭城の小野寺氏の支城として1277年築かれています。日本海側の由利地方の押さえとして重要な城であり小野寺一族が城主として配されていました。戦国時代の城主小野寺茂道は由利郡の矢島城主大井満安と縁戚を結んでいましたが、1592年大井氏が仁賀保氏以下の由利諸将との戦いに敗れ茂道のもとに落ち延びてきましたが、これに小野寺氏当主の横手城主義道が反乱の疑惑をもち兵がさしむけてきました。茂道はこれと一戦を辞さぬ覚悟でしたが、大井満安は一族と戦わなければならない茂道の苦渋を察して自害したとされます。このことにより、茂道は義道に反感を持つようになり以後、義道からの出兵命令にも応ぜず、山形最上氏が雄勝郡に攻めて来るや、最上氏に従属。しかし、小野寺氏が最上氏に奪われた湯沢城奪還に動くと小野寺方にもどっています。その後、関ヶ原の戦いの後、小野寺氏は徳川側の最上氏と敵対したため最上氏や周辺大名の本格的な攻撃にさらされます。このため西馬音内城主茂道は1601年みずから城に火を放ち、戦わずして庄内地方へ落ち延びたとされます。城は、廃校となった元西小学校裏山にあり、由利郡の東由利と矢島からの街道が眼下で落ち合う交通の要衝で標高172mの平野に突き出た丘陵部に東西100m南北50mの本丸、一段低く東西40m南北150mの二ノ丸、外側に複数の郭を配し総面積23ha程の規模を有していたとされます。北は西馬音内川があり東西は急峻な崖で、南は空堀で防御された要害で、焼け残った城門が城跡の向かいにある西蔵寺に移設され山門として残っています。

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五城目の城下町を築いた城 (2016/05/02 訪問)

秋田県五城目町の砂沢城(五城目城)です。1588年湊安東道季と桧山安東実季の湊合戦後、この地域を領していた三浦氏が滅亡、そり代わりにこの地を治めることとなった藤原秀盛が砂沢城を築城したとされます。城は東西200m南北80m程の規模で湖東平野の北東部、現在の五城目町の役場の北方の半独立丘陵の森山山頂に本丸を配し、本丸から延びる東西尾根部に3から4段の郭を配した山城で、南麓に城主居館が構えられ城下町を整備し、現在の五城目の街並みと朝市の基礎を築いたとされます。1602年安東氏の常陸移封に伴い廃城となっています。現在は、本丸に模擬天守閣が展示館として建てられ、内部には木材関係と歴史の展示がされ無料で観覧でき町民の憩いの場となっています。
城麓にも駐車場がありますが、本丸まで自動車道があり天守閣下に駐車場があります。

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夏の雪だるま

戸沢氏重臣 (2016/04/24 訪問)

角館城から南西20㎞にある大仙市南外にある楢岡城です。角館戸沢氏の重臣で5千8百石を領していたと言われる小笠原氏が城主です。小笠原氏はもともと楢岡城から約30㎞南の平鹿郡の増田城主でしたが、県南の雄、小野寺氏に攻められ、南外に落ちてきたもので、その当時この地の城主だった佐原氏の城を1458年奪い、小野寺氏に対抗するため角館の戸沢氏と関係を重ね臣下となったものです。小笠原氏はその後、この地の楢岡氏を名乗っています。1529年戸沢氏当主秀盛が亡くなり、わずか5歳の道盛が家督を継いだおり、叔父の忠盛が角館城を奪う事態が発生、楢岡氏は角館城から逃れた道盛を助け忠盛から角館城を取り戻したとされます。また、1543年横手城の小野寺氏が角館城攻略に出たおりには、開城に傾いた戸沢家臣団を道盛の生母と共に説得、戸沢氏の危機を救ったといわれます。伝承では、1556年跡継ぎの男子がなかった楢岡氏は、武田信玄に敗れた信濃国の守護小笠原長時が各地を放浪してたおり、同じ小笠原一族として長時の当時3歳の子供を養子にもらい、その後娘婿とし光兼と名乗らせ世継ぎとしたと言われています。記録にある小笠原長時の3人の子供ではないため、伝承が正しいとすれば長時に仕えた下女に生ませた子供ではないかと思われます。小笠原長時は会津芦名氏の食客となっていたおり、家臣の妻に手を出し殺害され68歳で亡くなったとの話もあり、ありうることと思われます。城は雄物川支流楢岡川の左岸丘陵の標高50mに本丸、二ノ丸、三之丸を配し、東西250m南北350mの規模を有していたとされます。楢岡氏の菩提寺であった常泉寺が城の入口にあります。城は関ヶ原の戦いの後、戸沢氏が角館から常陸国に移封となり、楢岡氏も戸沢氏に従い1601年廃城となったとされます。

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BUGTI

天正伊賀の乱の契機となった城 (2019/01/19 訪問)

丸山という小高い山のあちこちに郭を配置した城だったという。藪が多くて見通しが悪いので堀や土塁がはっきりとは確認できなかった。天守台と呼ばれるところに立派な城址碑が立っていた。天守台付近には栗石のような石や、比較的大きな石も残っていたので、やはり石垣で固められた城だったのではないかと思う。

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BUGTI

北畠信雄の城館跡 (2019/01/19 訪問)

桜町中将とは信長の次男で北畠氏を継いだ信雄のこと。滝川氏城のすぐ近くにあり、同じく伊賀平定戦のために作られた城だけあって、滝川氏城をひと回りコンパクトにした感じの城となっている。植林されていて見通しは悪いが、おかげで素晴らしい遺構が残っている。南側には虎口が開いているが、それ以外は高い土塁と深い堀で守られていることが良くわかる素晴らしい城である。

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BUGTI

南伊賀支配の拠点城 (2019/01/19 訪問)

単郭式城郭では三重県最大というだけあって、郭内は広い。昔通りがかったときには地区の運動会をやってました。方形の高い土塁がしっかり残っており、その外側の堀も藪の中に見え隠れしています。南の虎口には馬出のような郭もあり、伊賀平定のために相当の兵力を動員していたことがわかります。

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たかりん

ヤンチャな天守とマジメな石垣 (2019/01/13 訪問)

天守は見るからにふざけており、最下層には通り抜けの穴まで開いている斬新(笑)な形、当然模擬天守です。まあここまでやれば、さすがに戦国時代から建っていたと勘違いする人も少ない(ゼロではない…)と思うので潔ささえ感じます。しかし建造は昭和3年(1928年)で現状では日本最古の模擬天守だそうで、それなりに風格を感じます。ただし、今は諸事情により中には入れない構造です。山麓には江戸時代に政庁として機能した平城部分もあり、堀、石垣の郭内に資料館や裁判所等が建っていました。資料館では徳島藩領だった淡路国がなぜ明治維新後、兵庫県に転じたのか、その悲しい歴史がわかります。さて、このヤンチャな天守に反して山上に残る数多くの石垣は至ってマジメです(笑)。主に脇坂氏自体のものとのことですが、本丸ほか周辺の曲輪に思った以上に大規模で素晴らしい石垣遺構があり、あまり期待してなかった分、驚かされました。山上へは徒歩でもいけますが、車であれば山頂主郭部に徒歩5分のところまで近づける駐車場もあり、サクッと回れると思います。

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BUGTI

道三の隠居城 (2019/01/12 訪問)

平地のなかでこの山だけこんもりしているので、拠点にするには都合がよかったのだろうか。そんなに大きくはない山で、堀や土塁が残っているが、この規模ではそんなに多くの兵で防御することは難しいと感じた。まさに隠居城にはふさわしいかもしれない。

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BUGTI

小牧長久手、関ヶ原の合戦に巻き込まれた城 (2019/01/12 訪問)

いくたびかの戦乱により廃城となり、今や場所もはっきりしていない。小牧・長久手や関ヶ原といった大きな戦いで攻められた城だが、今は静かな住宅地となり、お城地蔵が街を見守っていました。

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BUGTI

旗本徳山氏の陣屋跡 (2019/01/12 訪問)

旗本の陣屋跡でこれだけの公園として残ったことがうれしい。位置は違うが門を復元したり、建物配置を示したりしてあるので、歴史価値を感じることができます。

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BUGTI

いまだに発見がある信長の城 (2019/01/12 訪問)

久しぶりに登城しました。ロープウェイで登れるのでお手軽です。樹木が切り払われて、石垣が良く見えるようになっている今がお勧めです。麓の信長館も含め、まだまだ発掘や整備が進められているので、これからも楽しみです。

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チェブ

戦国バーベキュー? (2019/01/19 訪問)

午後2時頃から「津久井城」城攻めを開始しました。
秀吉さんの北条家征伐の時、本多 忠勝公達に攻められ落城です。
現在、津久井城=城山は県立公園になっています。
津久井湖観光センターに車を止めて出陣できます。
ただ、ガーデンテラスがありバーベキューもできるみたいなので、駐車場は季節により混むかもしれませんね。
下から津久井城の山を見れば、かなり登るのは分かっていました。
私にとっては険しい城攻めでした。
荒川登山道からひたすら飯綱曲輪までは横道もなく遺構も分かりません。途中、宝ヶ池があります。この辺りから曲輪等々が確認できます。
戻って来て公園マップを見つけました。
観光センターから私が通った荒川登山道は「ちょっと険しいコース」でした。「らくらくコース」の登り口もあります。
さっき、ぴぽぽさんの投稿にお城Expoとありました。我が家にもパンフレットありました!下調べしてから城攻めしたら、もっと楽しめたのに!
ぴぽぽさん、同じ日に「津久井城」攻めしていたんですね!私は男坂方面、くさり場で白旗をあげて行けませんでしたよー。

ちなみに観光センターの看板に戦国バーベキューとありました。
戦国バーベキュー?
どんなバーベキューでしょうか?

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夏の雪だるま

境目の城 (2017/10/01 訪問)

福島県須賀川市の長沼城です。南北朝時代長沼氏が築城したと伝えられます。戦国時代須賀川二階堂氏の支城として城代須賀氏が置かれていましたが、1566年会津蘆名氏の侵攻を受け、長沼城は蘆名氏に奪われ、二階堂氏は蘆名氏に降伏、長男盛隆を人質に差し出したとされ、長沼城は蘆名氏家臣新国貞道が入城。その後も長沼城は、境目の城としてたびたび伊達・佐竹氏などの攻撃を受けています。1589年蘆名氏が伊達政宗に敗れ滅亡した後、新国氏は伊達氏に仕えています。その後1590年豊臣秀吉の命により奥州に国替となった蒲生氏郷の支配下に移り、蒲生郷安が入城。この時、奥州仕置きのため奥州入りした豊臣秀吉が長沼城に宿営しています。1598年会津が上杉景勝の領地となると、信濃国の長沼城より島津忠直が入城。1600年関ヶ原の戦いでは長沼城が会津と白河を結ぶ白河城後方の重要な位置にあったことから上杉氏による改修が行われたとされます。関ヶ原の戦いの後1601年蒲生秀行の領地となり、蒲生郷治、玉井数馬介が城主となるも、1615年一国一城令により廃城となっています。城は、会津と福島中通を結ぶ交通の要衝にあり、長沼町の長沼小学校北側の南北二つの丘陵を利用し、頂上に本丸、西側の一段低い場所に二の丸、本丸と二の丸を取り囲む帯曲輪の東西に、一段低い三の丸が配置され、東西300m南北200mの規模とされ、ほとんどが土塁で作られていますが、本丸北西に石垣上に三重の櫓が建てられていたとされます。遺構としては、本丸跡の稲荷神社社殿裏手に石垣の一部や土塁などが残ります。現在、城跡は本丸跡、東三の丸跡が公園となり、長沼小学校北側に駐車場があり、城説明板のところに案内図などが入った箱があります。

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女城主の城 (2017/10/01 訪問)

福島県須賀川市の須賀川城です。1399年鎌倉公方足利満兼が奥羽支配のため遣わした足利満貞の配下であった二階堂行続が築城したとされます。戦国時代に入ると二階堂氏は会津蘆名氏と戦うも圧力に屈し長男盛隆を人質に差し出し、のちに蘆名氏当主が亡くなると盛隆が蘆名氏当主となっています。1581年城主の二階堂盛義が死去すると、盛義未亡人で伊達政宗叔母の大乗院が城主となり、城代須田盛秀が実務を代行。1589年蘆名氏が伊達政宗に摺上原の戦いで敗れ滅亡すると、二階堂家では、佐竹氏との同盟を進める城代須田盛秀と伊達氏との連携を主張する保土原行藤が対立する中、伊達氏が降伏を迫ったことに家臣・領民が怒り松明をともして集まり抗戦の意思を示したため城主大乗院は伊達氏への降伏を拒否。 1589年政宗が須賀川城西方の山王山城に万余の軍勢を率い対陣すると、城内の守谷氏が伊達政宗に内応、城へ火を放ったため須賀川・佐竹氏の兵2600の守る須賀川城は落城。その後、戦で亡くなった人々の霊を弔うため日本三大火祭りの一つ「須賀川松明あかし」が行われるようになったと伝えられます。城主の大乗院は佐竹家へ落ち延び、伊達政宗の一族石川昭光が入城。 しかし、1590年豊臣秀吉の奥州仕置によって会津とともに須賀川近辺は蒲生氏郷領となり、その後、1598年上杉領、1601年蒲生領、1627年加藤領となった後、廃城となっています。城は、釈迦堂川の氾濫原を見下ろす約20mの台地上に中央に本丸、東に二の丸、北に三の丸があり、これらの周囲を水濠が囲み、南の大手に家臣居住区、西には長禄寺や諏訪明神などの寺社を配置、北は職人や奉公人の町並、南東には守備のため有力武将の館を配置したとされます。現在城跡は、須賀川市役所北側に位置し、市街化のため遺構はほとんど残っておらず、本丸跡に二階堂神社、神炊館神社に外濠跡、長松院に土塁と空堀跡が僅かに残る程度です。市立博物館に城関係の展示がされています。

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戊辰戦争炎上城 (2016/08/20 訪問)

福島県棚倉町の棚倉城です。豊臣秀吉から鎮西一の剛勇と評された初代藩主立花宗茂氏に替わり1622年5万石で入封した丹羽長重がこの地にあった山城の赤館に入城したもの、不便なため、幕府に新城を築くことを願い出て、1625年築城をはじめ1627年棚倉城を完成させています。城は久慈川左岸に築かれ本丸の周囲に二の丸、その北側に三の丸を配し、それぞれを水堀で囲んだ平城で、東西300m南北400mの規模とされます。丹羽氏は1627年白河に転封となり、その後も藩主が次々と替わり、1866年阿部氏が最後の藩主となり幕末を迎えています。戊辰戦争では奥羽列藩同盟に加担し、1868年6月24日各地へ出兵し手薄となった棚倉城へ新政府軍の板垣退助率いる880名が攻撃を行い1日で炎上落城しています。城は現在本丸が亀ケ城公園として土塁や水堀が残り、二の丸、三の丸は市街地化され遺構は残っていません。亀ケ城の由来は濠に大亀が棲み姿を見せると藩主が転封になるという言い伝えによります。城の北1kmには六代藩主太田氏が創建した長久寺に寄進し移築された丹羽氏築城時の城門が残っています。また、城近くに川越市の時の鐘を模した時の鐘ポケットパークが建てられ、歴代領主の説明板があります。

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震災復興城 (2015/11/01 訪問)

みちのくの玄関口にあたる福島県白河市の百名城の一つ小峰城です。奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝が、この地を結城氏に与え1340年城を築いたと言われています。以来戦国期までこの地方を領していましたが、豊臣秀吉により領地没収、蒲生、上杉などの領地となったあと、1627年丹羽氏が10万石でこの地に封じられ、本丸、二の丸、三の丸を配した城に大々的に改修、城下町も整備したとされます。その後、丹羽氏は二本松に移され、譜代大名が相次いで当地に封じられています。1867年最後の領主の阿部氏が棚倉へ移封されたのちは、幕領となり、城は二本松藩丹羽氏の管理となっています。戊辰戦争では、奥羽列藩同盟軍2500名が守備する小峰城を新政府軍700名が攻撃、新政府軍は兵力は劣るものの圧倒的な火力と巧みな戦術により5時間余りの激闘の末落城させています。城は石垣などを残すだけでしたが、平成3年に本丸の三重櫓が、平成6年に前御門が史料に基づいて復元されています。平成23年に発生した東日本大震災により石垣が崩壊、本丸への立ち入り禁止となり、修復工事が行われ平成27年春から入城可能となりましたが、完全修復は数年かかる予定です。
小峰城は、阿武隈川と谷津田川に挟まれた小峰ケ丘の丘陵に築かれ、本丸、帯曲輪、竹の丸、二の丸、三の丸を配し、二の丸まで全域にわたって石垣で形成される東北地方では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城、若松城と共に東北三名城の一つに数えられています。

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