福島県須賀川市の須賀川城です。1399年鎌倉公方足利満兼が奥羽支配のため遣わした足利満貞の配下であった二階堂行続が築城したとされます。戦国時代に入ると二階堂氏は会津蘆名氏と戦うも圧力に屈し長男盛隆を人質に差し出し、のちに蘆名氏当主が亡くなると盛隆が蘆名氏当主となっています。1581年城主の二階堂盛義が死去すると、盛義未亡人で伊達政宗叔母の大乗院が城主となり、城代須田盛秀が実務を代行。1589年蘆名氏が伊達政宗に摺上原の戦いで敗れ滅亡すると、二階堂家では、佐竹氏との同盟を進める城代須田盛秀と伊達氏との連携を主張する保土原行藤が対立する中、伊達氏が降伏を迫ったことに家臣・領民が怒り松明をともして集まり抗戦の意思を示したため城主大乗院は伊達氏への降伏を拒否。 1589年政宗が須賀川城西方の山王山城に万余の軍勢を率い対陣すると、城内の守谷氏が伊達政宗に内応、城へ火を放ったため須賀川・佐竹氏の兵2600の守る須賀川城は落城。その後、戦で亡くなった人々の霊を弔うため日本三大火祭りの一つ「須賀川松明あかし」が行われるようになったと伝えられます。城主の大乗院は佐竹家へ落ち延び、伊達政宗の一族石川昭光が入城。 しかし、1590年豊臣秀吉の奥州仕置によって会津とともに須賀川近辺は蒲生氏郷領となり、その後、1598年上杉領、1601年蒲生領、1627年加藤領となった後、廃城となっています。城は、釈迦堂川の氾濫原を見下ろす約20mの台地上に中央に本丸、東に二の丸、北に三の丸があり、これらの周囲を水濠が囲み、南の大手に家臣居住区、西には長禄寺や諏訪明神などの寺社を配置、北は職人や奉公人の町並、南東には守備のため有力武将の館を配置したとされます。現在城跡は、須賀川市役所北側に位置し、市街化のため遺構はほとんど残っておらず、本丸跡に二階堂神社、神炊館神社に外濠跡、長松院に土塁と空堀跡が僅かに残る程度です。市立博物館に城関係の展示がされています。
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