とても1回では紹介しきれなかったので、画像を追加投稿しちゃいます。
お許し下さいませ…。
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2019/01/21 02:25
2019/01/21 01:40
扇の勾配健在! (2019/01/04 訪問)
年末年始九州巡りの最後は熊本城でした。この日から市役所が通常業務だったので、最初に14階の展望フロアに行きました。
城内は立ち入り禁止のところが多く、今なお崩れたままの石垣や長塀に地震の恐怖を思い知らされ、呑気に見学しながら写真を撮っている自分に罪悪感さえ感じてしまいました。が、加藤神社への初詣参拝者も多く、訪問前夜に大きな地震があったにも関わらず新春の穏やかで元気な雰囲気に溢れており、自粛しなくてもいいんだ!と逆に元気をもらいました。現地で登録したかった復興城主にもなってきました。
痛々しい姿の写真も「がんばれー!」の気持ちを込めてUPします。※10枚目のみ2013年のものです。
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2019/01/21 01:22
祝、築城400年!! (2019/01/20 訪問)
…ということで、久しぶりに訪れてじっくり見学してきました。
天守の代用とされた坤櫓の二階、三階の特別公開という非常にレアな機会に恵まれた(←予約制)ということで、今日という日を楽しみにしていたのです。
しかし、本日は朝から雨。
予報では昼前には止むとのことだったが、午前11時過ぎに現地に着いても、降ったり止んだりでかなり不安定。
原則的に雨天は公開中止、ガイドの方の解説のみと聞いていたので、太鼓門跡から武蔵の庭園、二の丸を経て、密かな期待を抱きながらダメ元で本丸へ。
そしたら…開いてました!
荒天だったり状況にもよるようですが、今日みたいに天候が微妙な時は靴の水気を取った上で靴カバーで対処されてました。明石観光協会の方々にホント感謝です!
もう内部に入れただけでも感激なんですが、三階からの眺めにもう感無量でしたね。なかなか見られない角度から天守台を眺めたりして、全ての眺めがスペシャルでした。
この後は明石城跡を隅々まで探索し、明石文化博物館で太鼓門に置かれていた太鼓と城主ゆかりの甲冑と城のジオラマを観て(竹久夢二展もついでに観てきましたが、こちらもとても良かったですよ。)、高家寺で本堂と小笠原忠政の正室の御位牌と修正会前書(前藩主小笠原忠政が次藩主松平康直に寺の保護を依頼した書状)を拝観し、さらに柿本神社の参拝、お隣の月照寺で明石城から移築された山門(伏見城から明石城居屋敷曲輪切手門として移築されたもの)を拝観して、本日はフィニッシュとしました。
高家寺、柿本神社、月照寺で御朱印もいただけたので、自分的にはいろいろ大満足でした。
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2019/01/21 00:16
2019/01/20 23:13
御主殿跡 (2019/01/20 訪問)
数年前に仕事の息抜きに本丸跡に登っていたので、今日は御主殿跡を見に行きました。
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2019/01/20 22:48
2019/01/20 22:43
歴史ウォーク⑥ (2019/03/24 訪問)
厳密には三木城ではないのですが、みき歴史資料館の主催で南西側の付城群を回るイベントが開催されます。当然、学芸員さんによる解説つきです
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2019/01/20 22:38
2019/01/20 22:38
2019/01/20 21:51
ここ気に入った! (2019/01/13 訪問)
初めて行きましたが、即気に入りました。
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2019/01/20 21:45
興国寺通り (2019/01/13 訪問)
通りが良く見えました。
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2019/01/20 21:32
高通児童公園 (2019/01/19 訪問)
藤堂高虎の孫、藤堂高通が初代藩主となった久居藩の陣屋跡です。本来の陣屋は隣接する久居中学校とこの公園を含めた広大なものでした。マイナーな話ですが十二代藩主藤堂高兌公は宗家津藩十代藩主となったのち藩政改革に取り組み、倹約、藩校設立、産業振興を行い改革を成功させ領民にも慕われたという上杉鷹山もかくやという名君です。
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2019/01/20 21:28
大門街道を監視する城 (2017/02/04 訪問)
城跡へは東側と西側からアクセス可能で、西側からは獣避けゲートを開けて100mほど行ったカーブ部分に登城口があり今回は西から。
尾根部分に出ると左側に鳥居がありここから山頂まで登っていく、途中には石仏や不動明王像があり信仰の山であったようだ。城域に入ると浅い堀切と段郭・細長い二郭と三郭があり、堀切を挟んで主郭がある。
主郭は土塁と石柱に囲まれていていかにもという雰囲気で、東側には堀切を挟んで物見となる郭があり、こちらからは大門街道がよく見え街道監視の役割を果たしたのがよくわかる。北側は二重堀切と後郭を配置して城域は終わっている。
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2019/01/20 21:14
続日本100名城154 (2019/01/19 訪問)
続日本100名城に選ばれて全国区の知名度になりましたが県内では桜の名勝として有名です。
南朝北畠氏による築城にはじまり、北畠氏に養子に入った織田信雄の居城でもありました。
信雄以降は田丸氏、稲葉氏、藤堂家の支配ののち江戸時代には紀州藩領となり家老久野氏が代々治めていました
近くに伊勢神宮、山田奉行所、斎宮があり、徳川家にとっても重要拠点の一つだったと思われます
無骨で迫力のある野面積みの石垣が見事でした
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2019/01/20 21:01
戦争の傷跡 (2014/10/03 訪問)
東金駅から徒歩10分程で東金城登城口があると調べがついていたのですが、その肝心の登城口がどう探してもみあたらず・・・しかし東金高校脇に東金城・東金御殿の解説があって・・・(・`ω´・;)ゞ?
結局徳川家譜代の酒井氏の菩提寺となっている本漸寺と東金高校の間・ちょっと奥まったところに登城口ありました。
(登城口を私有地と間違わんばかりに覆っていて、しかも案内が無い為にかなり不親切ですw)
一応土塁・堀・堀切等の遺構がありましたが、数は少なかったです。
まだ藪が厳しい時期だったので、もしかしたら隠れていたのかもですが・・・
ちなみに奥まで進んだのですが、主郭と思われる場所が見つからず、途中で道が無くなってしまった感じでした。
やはり藪で道が塞がれていたのか、もしくは主郭自体失われていたのか、はたまた主郭までの道が崩落したのか・・・
代わりに近代の戦争に関係すると思われる防空壕のような横穴やコンクリートで塞がれた場所とかが城域にいくつも見つかったのが印象的です。
お城初心者の時期に訪問した場所は再訪して新たな発見する場所も多いですが、東金城に関しては再発見出来るような気がしません。。。それだけ当時ちゃんと見学したのに肝心な場所がなかった感があるので(汗)
でも行かねばならないんでしょうなぁ(ー△ー;)
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2019/01/20 19:40
2019/01/20 17:53
2019/01/20 17:49
戦国武将集結 (2019/01/04 訪問)
石垣山城は「石垣山」と呼ばれる箱根からの派生する山上にあります。関白豊臣秀吉が天正18年の小田原合戦の際に築いた陣城で「家忠日記に石かけの御城」とあることから、「石垣山城」と呼ばれています。秀吉が一夜のうちに城が出現したように見せかけたとの伝承から「石垣山一夜城」とも呼ばれていますが、実際には聚楽第や大阪城に勝るとも劣らない普請工事であっとことを秀吉自身が書状にしたためており、秀吉入城までに3ヶ月の築城期間を要した関東唯一の豊臣秀吉の城郭です。
今も穴太衆により築かれた野面積み石垣が本丸や南曲輪などの各所に残り、谷を石塁で塞いで井戸とした井戸曲輪の姿は圧巻です。
小田原合戦の折、この石垣山城に日本全国の戦国武将達が集結し、どの様な思いを巡らし、どの様に戦ったのか妄想しているだけで、時間があっという間に過ぎてしまいました|゚Д゚))) この石垣山のどこかで小田原征伐に遅れた伊達政宗が白装束で豊臣秀吉と対面したのでしょうか( '-'* )?
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2019/01/20 17:44
2019/01/20 17:36
石碑は立派 (2019/01/19 訪問)
セブンイレブンの直ぐ横に城址の石碑がありました。
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