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しんちゃん

関ヶ原ツイート・歴史に正解なし? 諸説乱立!関ヶ原はもはや何でもアリの状態 (2024/03/30 訪問)

近年関ヶ原に関しては一次史料に基づくとされる様々な新説が出てきて激しい論争が行われています。どうしても関ヶ原というと司馬遼太郎氏の「関ヶ原」のイメージが強く、私の関ヶ原に関する心象も大きく影響を受けてます。面白いのだから仕方ないんですけどね。
実際歴史って虚構混じっているのを百も承知で楽しんでる節もありまして、タイムマシンでも無いと本当の所はわからないんですね。などと言っていても仕方が無いので、私は従来の説に基づく関ヶ原の史跡をなぞりながら、時として白峰氏らによる新説も考慮して、城びと目線で関ヶ原をゆっくり回っていきたいと思います。
まあ江戸時代の二次史料といっても一概に否定できるものでもなく、一次史料だからと言って内容が異なる物もあるので、すべてをうのみにするわけにはいかないです。史料の組み合わせによる可能性はココイチのカレーの組み合わせぐらい多そうです。ココイチかあ‥さしづめ従来の定説は定番のロースカツカレーと野菜のミックスと言ったところですかね。おいしそう‥
でも海の幸カレーとイカのミックスもたまりませんな。関ヶ原は戦国から続く戦いの世の集大成といえる場所で、城びとの城は少ないですが、結局ここに行きつくんですね。

開戦地‥関ヶ原町関ヶ原1871 無料駐車場・トイレあり
北天満山・小西行長陣‥開戦地の近く

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小城小次郎

難読城名だと思う (2023/06/17 訪問)

植物によほど興味があるか漢字によほど詳しくない限りまず読めない難読城名だと思うが、城内には本当に楪(ゆずりは)の木が沢山あるらしい。日没近かったので登城を断念したが実は日没後でも暫く歩けるほど登城路は綺麗なのだとか。

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シェル

百間堀跡&北ノ庄城跡編 (2024/02/25 訪問)

 福井城の本丸跡を見学後、御本城橋を渡り、内堀沿いに東へ進み、本丸巽櫓跡の堀を挟んで南側の駐車場の所にある福井城の百間堀の石垣を見学。
 百間堀は、かなり広大な水堀であったようで、福井駅から福井県庁へまっすぐ伸びる道の所には説明板と、当時の堀岸に合わせて、笏谷石が道路に敷かれていました。駅前中央通りには、百間堀の石垣がガラス越しに見ることができる場所もあります。(残念ながら見学した時は雨天であったため、ガラスが曇っていて何も見えませんでした。)
 駅前中央通りの百間堀遺構から徒歩5分ほど南に進むと、柴田公園、柴田神社があります。この周辺が柴田勝家時代の北ノ庄城の跡といわれており、柴田勝家像、お市の方像、浅井三姉妹像が設置され、柴田勝家時代の石垣も一部が公園内に露出展示されていました。
 また江戸時代以降の福井城三の丸南の曲輪の遺構も公園内に残っており、柴田勝家像前の福井城の日向門跡の礎石をはじめ、江戸時代の福井城の石垣が残っていました。

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朝田 辰兵衛

飛山城のバーターで… (2024/02/23 訪問)

飛山城は宇都宮城の支城ですが,個人的には飛山城のバーターで宇都宮城です。東側には清明館があり,水堀と石垣がありますが,北東部をしっかり隅欠していて「お~っ」と唸ってしまいました。

かるたは次の告知が気になります。CF成功するかな…。常連だけでは目標額が高すぎるような気がする…。どういう計算なのか知りたいんだけど,シークレットなんだろうな…。

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yoda 1253

また来たい (2024/03/30 訪問)

中ノ御門と太鼓御門を復元建築中でした。さらに二ノ丸三階櫓の復元も決定しており完成が楽しみ

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しんちゃん

桶狭間の戦いの初戦にて全滅 (2024/03/30 訪問)

鷲津砦は今川方に奪取された大高城を牽制するために永禄2年に織田信長によって築かれました。丘陵上に築かれており、東西25m、南北27mの規模が有ったようです。永禄3年(1560)5月19日、桶狭間の戦いの初戦にて飯尾定宗らが籠りましたが、今川方の重臣朝比奈泰能に攻められ全滅したそうです。
周囲は市街地で、0系新幹線のような怪しいクマが存在する鷲津砦公園より砦への道が続いています。地味な砦跡ですが、歴史的な意義は大きく大高城、丸根砦とともに国の史跡に指定されています。

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しんちゃん

佐久間盛重以下、全員討死 (2024/03/30 訪問)

丸根砦は大高城が今川方の手に落ちた後、織田信長によって永禄2年(1559)に築かれました。鳴海から延びる丘陵の先端部に築かれており、桶狭間の戦いの時には佐久間盛重が守将を務めていました。その際に松平元康率いる今川軍に攻められ全滅したそうです。
佐久間盛重は佐久間信盛と同族で、もともとは信長の弟・織田信行に仕えていましたが、信長と信行が対立した際に信長に味方し、名塚砦に入って稲生の戦いで信行方の橋本十蔵を討ち取ったとのことです。

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にのまる

府中競馬場日本庭園に移築石を見に行きました。

いつでも行けると思いきや、馬券を販売している土日しか日本庭園にも入れないようなので、電話で確認してから行きました。

競馬場に入ったのは初めてです。馬🏇目的で行くことは今後もないと思いますが、お散歩する分にはきれいで広々、ゆったりした環境でした。

『江戸城の石』はパドックのちょうど裏側あたりにありました。
最初に目に入ったのは石灯籠です。四代家綱公の供養のために諸大名から上野寛永寺に寄進されたものが当地に譲渡されたのだそうです。
ここから二段に積まれた石垣がスタートします。かなりの長さがあり、見ごたえも充分です。
馬事公苑(世田谷区)の移築石と同じく、昭和40年に日本中央競馬会本部ビル工事の際に発見された江戸城外郭(虎の門の東)の石で、矢穴や刻印石もたくさんです。外堀時代とは配列も違うでしょうから、これらの刻印や矢穴を見せてくれるように築いたのだろうなと思うとまさに江戸城の石垣展示場、眼福でした。

ただ、説明板には〈臼杵城主稲葉一通〉〈延岡城主有馬直純〉〈佐伯城主毛利髙直〉の記号があると書かれていたのですが、毛利氏の矢筈は、絶対これだと確信が持てるものは見つけられませんでした。

最寄駅は京王線の「府中競馬正門前」ですが、「東府中」や「府中」からも徒歩圏です。府中市のコミュニティバス「ちゅうバス」を使うと<調布飛行場のお台場の石>と容易にセット訪問できます。
帰りはJR線の「府中本町」を利用しました。“フジビューウォーク”を通るので富士山を眺められるかと期待したのですが曇天のせいか黄砂のせいか、残念ながら心の目を持ってしても見ることはできませんでした(>_<)


…かるた新情報がΣ੧(❛□❛✿)

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海賊の城 (2024/03/30 訪問)

呉市の大和ミュージアム、鉄のクジラ館を訪問するのに合わせて、城跡をものいろ👀 倉橋島の丸子山城が城びとに登録されてました。下調べすると、大薮とあるのと整備されているとあるのと。
実態は、昭和63年に県指定遺跡になって整備されたあと、激しく薮化しておりました。イバラ、つるも繁茂しているので手強いです。藪を越えても本丸はフェンスに囲われています。本丸進入は断念。
本丸の北〜西を中心に低い石垣が多段に巡ります。本丸背後の尾根を掘り切っています。
城びと先達が、入口が分かりにくい、とレポートされていてので、城に近づいたと思われた辺りのお宅で道を尋ねました。今回は、google mapが良い線をいってました。
「火山から派生した尾根の先端に築城されている」と紹介する記事あり、はてな?でしたが、「火山(ひやま)」であり、山頂が花崗岩の巨石の特徴的な山でした。海からの目印にも良いかも。
城主の多賀谷氏は、伊予から進出した(細川氏に追われたとも)水軍(海賊)。丸子山は海に近い標高50mの丘城です。倉橋島は、潮待ち港、また遣唐使船を作った場所だということで、海路の重要ポイントだったようです。

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イタさん

大倉砦 山梨県上野原市 (2024/04/02 訪問)

要害山と呼ばれる大倉砦跡。山頂の案内板に詳細は載っていない。甲斐・相模・武蔵の国境の砦とされ、地域最大の規模を誇る史跡で戦国時代末期の築城と推測、と記載がある。

ハイキングコースになっている要害山東の大曽根地区から。鶴川に架かる鏡渡橋(キョウドバシ)辺りからは三角錐に見える。幅狭な生活道路の終点に山神社が建つ。社殿裏からが山道になり登りがきつくなる。山頂手前から遺構が現れる。幾つかの堀跡はかなり浅くなっている。土塁は主郭の土塁と、最西の土塁が分かる高さで残る。

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イタさん

中央高速と住宅地に変貌 (2024/04/02 訪問)

ハイキング帰りの途中に上野原城跡に寄ってみました。諸先人方の内容から遺構の無いのは承知だったが、本当に見当たらなかった。かろうじて神社境内に案内があるので分かる。図では距離感が掴めなかったですが、東側に整地し建てたと思うが、一段低くスーパーがあり、その東側と奥は一段高くなり台地に見え、境辺りは当時の谷だったのかと勝手に想像しました。

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トク

「福岡城さくらまつり」と「幻の天守閣」 (2024/04/02 訪問)

「福岡城さくらまつり」が開催されている、満開の桜咲く福岡城を訪れてきました。1月に梅の花が例年より2週間早く咲いたので、このまま行くと桜もどうなるか心配でしたが、結局は私の心配をよそに、昨年より1週間程遅い開花となってしまいました。

私の好きな散策スポット、下之橋御門と伝潮見櫓(写真①⑥)の登城口から入り、大天守台の西側には現存する多聞櫓(写真②)、その周辺には黒田長政公が築いた野面積の石垣が今でも数多く残り、その石垣と桜とのコントラスト(写真③④⑤)を楽しみながら散策しました。

期間中、大天守台の上に夜間限定で「幻の天守閣」をLEDでライトアップして浮かび上がらせるというイベントが開催されています(写真⑦⑧⑨)。この日は平日にもかかわらず、大変多くの方々がこのイベントを訪れていました。見た目は日本人っぽい外国人の方々がとても多く、聞こえてくるのは韓国語や中国語ばかり。ここはいったいどこの国?といった感じでした。福岡は外国人観光客が今とても多いです。

そのせいか、このイベントを機に、また福岡城天守論争が再熱しています。インバウンド観光の目玉として一日でも早く模擬天守または復元的天守という形で天守を建てたいという福岡市と、天守が確かにあった事を示す明確な根拠となる資料とそれに基づく忠実な再現整備計画がない限り認めないという文化庁。「福岡市VS文化庁」の熱いバトルがいよいよ本格的に始まりそうです。しかし現時点では両者の隔たりがあまりにも大きく、簡単に決着がつきそうな気配は全くありません。今後どのような展開になって行くのか、注目しながらこの行方を見守って行きたいと思います。 地元新聞にも詳しく取り上げられた記事があるので、興味のある方は読まれて下さい(写真⑩)。
 

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天守無しがアツい

今は旧城寺 (2024/04/02 訪問)

(URL)https://kojodan.jp/castle/1242/#section-access-info

榎下城(えのしたじょう)…横浜市緑区にあった丘城。恩田川の南の舌状台地上に位置する。現在は旧城寺の境内で本堂裏手の高まりを本丸とし、南側の虎口の土塁と東側・西側にそれぞれ空堀跡を残す。近世の軍記物などでは上杉憲直を武州榎下城主と記し、憲直は永享十年(一四三八)の永享の乱で鎌倉公方足利持氏に味方して称名寺(金沢区)で自害したという。戦国期には北条氏家臣の山田右京進が居城したと伝わるが詳細は不明である

横浜市歴史博物館のミュージアムショップに、(榎下城など)数ヶ所の横浜市内にある城跡の御城印が販売されており、その全てを購入。それから一ヶ所ずつ…その城跡を巡ることにしました(^∇^)

中山駅から15-20分ほど歩いて、細い藪の道を抜けると城内…というか境内へ。そう…ここは城跡と言っても現在はお寺なのです。旧城寺という場所…どうやら私は反対側から来てしまったようで、入口としての役割を果たしてる門(1枚目)まで回り、まずそこを撮影してからお地蔵さんに参拝

2枚目がここの案内板…上記の城に関する説明文は、御城印に同封されてる説明書に書いてありそれを見ながら入力したのですが、それとほぼ同じ内容が画像右の黄色いプレートにも書かれてます。

本堂裏の小高い丘が土塁の跡…空堀も少し残ってるとも書かれていた気がしますが(ソースは他の案内板もしくはURL)、見た目における城の痕跡を示すのは、この案内板なだけがします

3枚目は本堂の裏手にある記念碑。辺りは墓地となっており、その左側にある階段を上った先にあります。城が機能していた頃(室町時代)ではなく、昭和に建てられたもの…だそうです

この近くには弓道場もあり、そこを少しチラ見してみたら…何と人がいて…しかも稽古中でした…🎯 お疲れ様です(^∇^)

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todo94

京阪の城めぐり⑤ (2024/02/24 訪問)

普門寺城からの転戦です。イオさんが訪れた時には山門が閉ざされていたとのことですが、私は山門の修復工事にあたってしまいました。駐車場の脇から写真撮影をさせていただきました。

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しんちゃん

実は歴戦の城。 昭和が懐かしい‥ (2024/03/30 訪問)

竹ヶ鼻城は応仁年間(1467~1469)の築城とされています。小牧・長久手の戦いでは羽柴秀吉の水攻めにより開城したとされています。当時の城主は不破広綱とされています。関ヶ原の合戦では織田秀信の重臣・杉浦重勝が城主を務め8月22日に東軍に包囲され降伏を勧められるも拒否し、大身槍を奮って奮闘し城に火を放って自害したと有ります。翌日には岐阜城は陥落し、織田信秀は高野山に送られた後、慶長10年5月27日(1605.7.13)に高野山から下山させられ山麓にて死去と伝わります。享年は25とされ自害とも伝わっています。怪しすぎますね。
本丸と二の丸の中間あたりに城郭風の歴史民俗資料館及び映画資料館が立っています。定期的に昭和の名作映画を上映しているようです。入館料は300円くらいなので格安です。メチャうらやましい‥。昭和の時代はメチャクチャでしたが、歪んだ綺麗ごとをむりやり押し付けられる今の時代は正直息苦しくてたまりません。たまらなく昭和の時代が懐かしくなったりするのも齢をとってきたせいなのでしょうか。多少理不尽であろうと範を通そうとするものがいなくなってしまったのは残念ではあります。

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しんちゃん

名古屋藩といわれたこともありました。(尾張藩) (2024/03/30 訪問)

八神城は毛利氏の城とされています。現在は土塁の一部とされているものが残り、城址碑が立っています。真福寺には八神城の城門が移築されています。毛利氏は土岐氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏と仕え江戸時代には尾張徳川家に仕えていたようです。案内板には名古屋藩と書かれています。まあ、そんなに間違っても無いですね。今でも名古屋県とか言われますからね。

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ぴーかる

直鳥城 (2024/02/11 訪問)

【直鳥城】
<駐車場他>直鳥クリーク公園駐車場
<交通手段>車

<見所>水濠
<感想>1泊2日久留米・佐賀の旅6城目。現地説明板によると、この地は弥生時代から人々が定住を始め、中世には現在に近い形の集落が形成されていたそうです。直鳥城は永正年間(1504~1520年)に犬塚家久によって築城され、要塞化された環濠集落として発展していったそうです。犬塚氏は当初大友氏に味方します。3代目城主犬塚鎮家は鎌田江城に居住し龍造寺氏を攻めますが、逆に1571年、龍造寺隆信に鎌田江城を攻め取られ逃げ落ち、直鳥城は打ち捨てられたようです。
 城跡の主要部中心地は広い曲輪になっていて現在は貸畑地になっています。畑地以外の曲輪跡は藪化している所が多く、現地説明板には竹藪化している場所には土塁が残っているそうですが、濠を隔てては見えません。奈良県の環濠集落は見ましたが、中世平城でこれ程水濠と曲輪が明瞭に残っている遺構は初めて見るし、初めて見るこれまでと違った城郭構造に興奮しました。いびつな形がまたいい感じ。水壕と藪化した場所は現在は水鳥たちの楽園になっています。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

多くの将兵が討死。 (2024/03/30 訪問)

加賀野井城は田んぼの端っこに、ぽつんと標柱と案内板が立っています。下の土盛りは土塁の跡でしょうか?
案内板によると、天正年間(1573~1591)には加賀野井弥八郎秀望が織田信雄の臣下となり、四百十五貫文(1万石)を領して城主となったそうです。小牧・長久手の戦いの後、天正13年5月豊臣十万の大軍の攻撃を受けたそうです。織田信雄の援軍2千も一緒に籠城しましたが、防ぎきれず講和を申し入れるも受け入れてもらえなかったので、5日に夜陰に乗じて大手より打って出るも、多くの城兵が討死し城主秀望は関東に逃れ落城したとのことです。
この場合城主が切腹を申し入れれば降伏は受け入れてもらえたかもしれませんが、自分がやれと言われると、なんとも言えませんな。やだやだ。

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しんちゃん

南北朝のころの城 (2024/03/30 訪問)

日比津城は南北朝の時代に築かれたとされ、大円寺北隣一帯が城址とされています。小ぶりだが堅固な城で、堀は水で満たされ、正門と裏門の橋の橋板はいつでも取り外せるようになっていたそうです。城主は野尻氏で境内に残る二つの石塔の左の五輪塔地輪には「貞治4年(1365)」「三月十八日」、右の宝篋印塔の基部には「為道誓禅門」「一周忌故也」「応永十七年(1410)二月十二日」と刻まれているそうです。中央に立つ石碑には「日比津城主碑誌」の文字がはっきりと刻まれています。

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しんちゃん

城主・簗田政綱は桶狭間合戦で活躍。 (2024/03/30 訪問)

九之坪城は「ふれあいの家」の周辺に築かれていたようで、駐車場に立派な城址碑が立っています。尾張国守護斯波氏の家臣・簗田政綱は斯波氏の衰退後は織田信長に仕え、九之坪城を与えられたと案内板には書かれています。
桶狭間の戦いでは大きな功績を挙げ、「太閤記」には、この合戦の功で三千貫の知行と沓掛城を与えられたとされているようです。それ以外の合戦でどれだけの功績を挙げたのかはわかっていません。

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