岐阜市鏡島にあったという城です。城びとには未登録の城址です。遺構はありませんが、石碑と説明板が立っていました。近くには城主であった石川駿河守光清によって祀られたといわれる稲荷神社がありますが、この神社から南側一帯が城域であったようです。由来は室町末期に斉藤帯刀左衛門が築城し石川駿河守が長く居城したが、岐阜稲葉城落城の折廃城になったように説明板には書かれていますが、諸説あるようです。
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2024/07/13 22:23
2024/07/13 22:07
柳堤の材料になったお城 (2024/03/27 訪問)
JR水戸駅北口から水戸城の南側を通る国道51号を進み、常磐線と桜川を渡り、川に沿って東に進んだ路地に入ったところにある水戸市竹隈市民センターの東側に城址碑があります。
慶安4年(1651)に千波湖に築かれた柳堤(りょうじょう)の築造の際に、武熊城跡から採土が行われ、城跡は消滅してしまい、遺構は残っていません。
城に関する地名については一部残っていて、石碑から北東に少し行ったところに「搦手橋」という桜川にかかる橋が現在も存在しています。
また国道51号近くの柵町児童公園には、柳堤の石碑があります。武熊城の土で築造された柳堤も、大正から昭和初期にかけての千波湖の東側の埋め立てで失われてしまったようです。ですが柳堤の名前は、こちらも桜川にかかる橋の名前としては現在も残っています。
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2024/07/13 19:20
閑話:霧多布岬とモンキーパンチ
北の大地の海岸線は岬の宝庫です。一番行きたかったのは宗谷岬でも納沙布岬でもなく霧多布岬でした。
霧多布岬は浜中町にあります。浜中町といえばモンキーパンチと峰不二子の出身地です。そこ目当てなのでアニメファンの言うところの聖地巡礼見たいなものです。多くの我々年代の憧れの女性像は小学生時代に刻まれた峰不二子によって造られたと言っても過言ではないのでは無いでしょうか?
浜中町総合文化センター内にモンキーパンチコレクションがあるのですが改修工事の為に休館中でした。霧多布温泉ゆうゆには浜中町限定グッズがあるので二人の孫にルパン土産を買い、勢いで自分用に不二子ちゃんバスタオルを購入しましたが帰宅後にこっぱずかしくなり娘に渡す羽目になりました。
町内にはルパン三世通りがあり仮想店舗がありましたので撮影する事が出来ます。ルパン三世好きや不二子ちゃん推しの方、近くに行かれたら立ち寄ってみたら如何でしょう、総合文化センターは秋には再開されるようです。
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2024/07/13 19:10
下関あるある「福岡バック」の途中下車で🚉 (2024/06/20 訪問)
東日本や北日本などから下関へ向かう時,ひとまず✈福岡空港へ飛び,地下鉄で博多駅へ。博多駅から下関駅(新下関駅)へ戻って向かうことを「福岡バック」や「北Qバック」などと呼称し,下関あるあるとなっているそうです。
新潟市内からは,新潟空港へ行き✈福岡空港へ。昼前には博多駅ホーム上に立つことができます。
1年前は土砂降りだったので,途中下車しませんでしたが,気になっていたのが若松城でした。にのまるさんの投稿で紹介されていた「戸畑図書館前の記念石」。これを確認して,いざ若戸大橋へ向かえば感慨もひとしおだろうと…。
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2024/07/13 17:48
2024/07/13 17:36
きれいな公園です (2023/06/25 訪問)
とてもきれいに整備された駐車場もあり、天気も良くてとてもいい写真が撮れました。もちろん車いすでも一周できますよ。
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2024/07/13 10:33
多武木神社 (2024/06/24 訪問)
近江未踏の城廻り、浅小井城を目指して曳山とイ草の館を目指して、多武木神社を訪ねる。
駐車場:曳山とイ草の館(35°08'36"N 136°06'51"E h=90m)
参考資料:城びと皆さんの投稿
月曜日で曳山とイ草の館は休館、広い駐車場です、駐車場から東に100m程進むと、小さな鳥居が見えてそこが目的の多武木神社・浅小井城跡、参拝して、皆さんの投稿にあった額入り由緒を撮影、遺構周辺良く分からず民家も有り、退散しました。
集落の道は狭く交通には要注意です。
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2024/07/13 10:02
チョイ寄り天下布武活動中 (2024/06/24 訪問)
今回の近江未踏の城廻りで後藤館から伊庭御殿の移動中、安土城前の県道2号線を通りましたので、寄らなくてはと大手門跡山麓周りを訪ねました。
駐車場:安土城大手門前の無料駐車場。
発掘復元された大手門周りの石垣、曲輪を再確認して、大手道手前の摠見寺受付・安土城登城ゲートまで行き、大手道の石段を遠目で確認して望遠で撮影。
大手道手前の西側上段郭と下段郭で天下布武君が夫々芝刈り活動中、天下布武幟旗を立てて小型の自動草刈り機(家庭用ルンバの芝刈り版かな?)が活躍し奇麗に郭の芝を刈っていた、雄々しい姿にさらに感動。
城なび館を覗いていたら、九州から日帰りで安土城は済ませ、観音寺城の登城と百名城スタンプを求めてる方が観音寺城への訪ね方を店の方に相談されて居り、私もチャッカリ輪に入り会話、結局はタクシーで登られることに、今日中に九州に帰ればいいとの事、新幹線で日帰りできる便利さを痛感。
感動は芝を刈ってる天下布武君です❣
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2024/07/13 09:42
山賊焼き食べそびれた!! (2024/07/10 訪問)
岩国城から楽しみでお店へダッシュ%&¥みょーに空いてるな?ガ~ン全店休日
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2024/07/13 09:27
美味しく頂きました (2024/07/08 訪問)
美味しい割子そばが食べたくてネット検索@@あれれ~店休や営業時間終了。困っていたらぶらっと観光案内所で城内にあるちどり茶屋を教えて貰いました。
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2024/07/13 09:23
深い空堀に感動! (2024/06/30 訪問)
佐久・小諸の旅二日目。前夜は北国街道の宿場だった小諸の夜の街もちょいと気になっていたのですが、今回は家内が一緒の旅、小諸城址にほど近いホテルに宿泊し、信州の地酒を吞みすぎて早々とダウン(笑)
天気が気になり、先ずは小諸城に初登城。この城の起源は長享元年(1487)に大井氏が築いた鍋蓋城とのこと。その後天文23年(1554)に佐久を制圧した武田氏により拡張整備されます。天正19年(1591)に秀吉の寵臣千石秀久が小諸に配されると、城は石垣造り、金箔瓦の三層天守を置く織豊系城郭に大改造され、現在残る姿になったということです。
城址は現在「懐古園」として公園化されており、本丸跡に懐古神社、小諸城ゆかりの武具や古文書を展示する徴古館、藤村記念館、動物園や遊園地があり、この地を訪れる観光客のみならず、春夏秋冬、多くの市民が利用する場所となっています。
城地が城下町より低い位置にあることから「穴城」の異名を持つ小諸城、この城の顔ともいえる三の門から登城。二の丸、南丸、北丸を経て黒門橋、黒門跡へ。本丸、天守台から水の手展望台、富士見展望台と、城址をくまなく確認できました。特に秀久の時代に築かれた野面積の天守台石垣と自然地形を利用した紅葉谷と地獄谷の空堀には感動しました。
数年前に松本城や上田城を訪問していながら果たせなかった小諸攻城ですがやっと思いを遂げることができました。
残念だったことは攻城後ゆっくり旧街道沿いの街並み散策を考えていたのですが、小雨となり三の丸附近だけとなったこと。また城館訪問とは関係ないのですが、小諸は「寅さん」を演じた俳優、渥美清と関係深く「寅さん会館」があると聞いていたのですが、現在は閉館していたことでした。
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2024/07/12 21:27
城び斗の拳 (2024/02/23 訪問)
※ 今回の投稿は少々御見苦しい箇所が御座います。あらかじめご了承お願いします ❀❀❀
十市城は水田の中の約70m四方の微高地の畑地が中心とされ、外郭を含めた大きさは約430m×550mとされています。大和四家・十市氏によって築かれたとされ、居館が拡充して平城になったと想定されています。同じ大和四家で比較すると箸尾氏(箸尾城)とほぼ同じ規模で筒井氏(筒井城)より、やや大きかたったと想定されています。
今は城址碑しか残っておらず、往時の姿は想像に任せるしかありません。ちょこ城ですね。
私は「ちょこ城」の中でも城址碑や石碑しかない城を「あたた系」と呼んだりもします。何でって‥お墓みたいだから。
お前はすでに死んでいるってね(不謹慎!)‥‥おや?
十市城「あたたたた!」
しんしんちゃん「なにっ!?」
十市城「奥義 死んだふり狸拳!」
しんしんちゃん「ひっ ひでぶっ!」 どかーん
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
大変です! しんしんちゃんが十市城に倒されてしまいました。 マジっすか?
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2024/07/12 20:40
西尾城 (2024/05/11 訪問)
【西尾城】
<駐車場他>西尾市歴史公園駐車場30台分程あり。
<交通手段>車
<見所>屏風折れ土塀・復元天守台・復元建造物・水堀
<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅12城目。現地で貰えるリーフレットによると西尾城は承久の乱の戦功により三河国の守護に任じられた足利義氏(吉良氏)が築城した西条城が始まりと伝えられます。戦国時代末には酒井正親・重忠、田中吉政と城主が代わり、関ヶ原の戦いの後には本多康俊が2万石の西尾藩主として入ります。1638年に太田資宗が総構えの体制を企画し、井伊直之が工事を継いで完成します。1764年より大給松平氏が6万石で入城し明治まで存続します。
現地は本丸跡と二の丸跡の一部が残されており二の丸跡に復元建造・構造物の鍮石門・丑寅櫓・屏風折れ土塀・天守台があり、移築した旧近衛邸があります。どれも見応えがあり、下見板張りがいい感じです。本丸⇔二の丸の間の水堀は遺構が良く残されています。復元の本丸丑寅櫓は16:30を過ぎていたため入城出来なく残念でした。無料資料館の展示物も充実していて、もっと時間を取ればよかったと後悔しました。
<満足度>◆◆◇
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2024/07/12 20:17
2024/07/12 19:57
2024/07/12 19:23
神島 三島由紀夫ゆかりの地 (2022/10/30 訪問)
三島由紀夫氏が神島へ訪れた1953年、当時の漁協の組合長だった寺田宗一さんが宿を提供したそうです。寺田さん夫婦は新婚一か月だったそうですが、そこへ三島氏がおしかけ一緒に食事を取るなどして、すっかり打ち解けたようです。運よく管理人の方がいらっしゃれば寺田家の中を案内していただくことが可能です。私は島をひとしきり回ってきてもう一度、訪れてみたらタイミング良く中を見学することが出来ました。5枚目の写真の手前の部屋に宿泊していたようで、左の窓から神島の海や街並みを眺めていたに違いないと思います。
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2024/07/12 19:04
高山右近の治績が残る「奇跡」 (2024/01/13 訪問)
高山右近が城下町もろとも整備したと言われ明石城の前身的存在。寛永年間に焼失した明石城の「初代」巽櫓には船上城天守の遺材が用いられたとも。本丸の痕跡が残るのは奇跡と思うが近寄り難いので隣の公園から垣間見ることに。
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2024/07/12 18:43
またの名を「岩沼要害」。 (2024/05/05 訪問)
「鵜ヶ崎城」は平安時代中期、歌人の源 重之さんが築城したのが始まりのようです。
戦国の世になると、伊達家 家臣の泉田 重光さんの居城になります。
江戸時代、一国一城令で21の要害の1つ「岩沼要害」として活躍しました。
「鵜ヶ崎城」は児童公園でした。車を公園入口近くに路駐しました。
住宅街の高台にある「鵜ヶ崎城」はグリーンのフェンスに囲まれた公園。小さい子が遊ぶのに安全です。
公園が郭になるのか、もう1段高い所があるようです。
親子連れで遊んでいて、1人ヅカヅカ入ってしまったら不審がられると思い退陣しました。
歌人の方が暮らした この場所で、どんな歌が歌われたのでしょう。
親子連れの笑い声で、戦よりも日常の生活を想像してしまう「鵜ヶ崎城」攻めでした。
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2024/07/12 16:30
お兄ちゃんの悲哀 (2024/07/06 訪問)
歴史好きには真田推しが多い。小勢力でありながら、戦国の世を大胆に突き進んだ印象が強いからでしょうか。それにしても、あれだけ徳川と事を構えておきながら後世に家名をつなげたのはなぜか。それは偏にこの男の忍耐のおかげかもしれません。
真田信之ーー。絶大な人気を誇る真田信繁(幸村)の兄で、父は戦国一喰えない男との呼び声が高い昌幸。関ヶ原前夜、家名を残すために信之だけが東軍の徳川に臣従したエピソードはこの親子を語る上で外せませんね。
そんな信之が約9万石で松城(後の松代城。長野市)に入るのは1622年。父祖の地である上田(長野県上田市)から引き剥がされた格好でしょうか。というのも上田は真田家発祥の地であると同時に、徳川にとっては思い出したくもない惨敗の地。それが原因で関ヶ原に遅参したと言われる2代・秀忠の意図が透けて見えるような気もします。
それはともかく、松代は名城。本丸はかつて武田信玄が北信濃攻略の拠点とした海津城の主郭をほぼ踏襲して築かれたと推定されます。城の北側を流れる千曲川を自然の要害とした梯郭式の平城で、武田流築城術の特徴である丸馬出とその外側の三日月堀が近世以降も取り込まれています。信玄と上杉謙信の宿命の地・川中島からも程近く、両者にとって最大の激戦となった「八幡原の戦い」(1561)は、海津城の存在が発端だったといいます。
たしかに北の要害に違いありませんが、真田が治めた頃の松代はすでに安定期の城。少なくとも遺構からはそういった印象を受けます。現存する石垣の中で最も高く、最も古い様相(16世紀末。算木積未発達)なのが戌亥隅櫓台。天守台相当の規模ですが、天守はなかったと推定されます。
その後、廃藩まで約250年間、真田氏10代が松代藩主を務めます。信之は子孫安泰のための礎を見事に築きますが、一方で華々しく散った弟の陰に隠れることが少なくありません。すでに高齢となったお兄ちゃんが上田からの移封を内心どう捉え、そして耐えたのか。2つの城を歩き比べながら思いを馳せるのも一興かもしれません。
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2024/07/12 14:05
【近江 伊庭御殿】滋賀県東近江市 徳川将軍家御茶屋御殿 (2024/06/24 訪問)
滋賀県に4つ在る徳川将軍家御茶屋御殿の一つ、彦根城と永原御殿の中間地に成ります、今回の近江未踏の城廻り入れて登城しました。
住所:滋賀県東近江市能登川町、グーグルマップの公園マーク「御殿地広場」に当たります。
駐車場:特に無し、御殿地広場の入口に路駐(35°10'22"N 136°09'33"E h=100m)、1、2台可能。
参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。
御殿地広場は通りの東側に有り、南側入り口に鎖チェーンが張って有り立入禁止、その脇に浅い石垣が残っており案内板が立っている、更に北側東脇に残存石垣がクランクに北方向西面は樹木で囲まれてる。
南に御茶之水址として井戸が残って居る。
案内板によると。
江戸期の初め徳川家康、秀忠、家光らが将軍宣下や大坂夏、冬の陣、寛永3年の後水尾天皇二条城行幸に際して、通行した際の食事や休息に利用。
広場には入れず、周辺の石垣と案内板、御茶之水址の井戸の確認位でした。
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