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🏯🐈おーちゃん

桜の季節に (2024/04/06 訪問)

前に来たときは真冬だったでしゅからね
最盛期ということで人だらけ
イベント事でいろんな音がして楽しかったでしゅよ

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あっちゃん

桜と小牧山城 (2024/04/06 訪問)

石垣や土塁など見応えがありました。お城は歴史資料館になっていて、小牧長久手の戦いの経緯がよくわかりました。

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あっちゃん

春の犬山城 (2024/04/06 訪問)

桜がきれいでした。犬山祭も間近で見られて最高でした。天守は高所恐怖症には、ゾワーとしました。

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ぴーかる

筑紫氏館跡 (2024/02/11 訪問)

【筑紫氏館】
<駐車場他>山の貝方駐車場数十台分あり。
<交通手段>車

<見所>石積跡
<感想>1泊2日久留米・佐賀の旅8城目。国史跡勝尾城筑紫氏遺跡の館跡、館跡は北西方向に伸びる谷の最奥部にあります。遺跡群の説明板は<33.391139, 130.478926>に設置されています。遺跡群は山城数城を含む広大な範囲がありますが、現在見れる館跡の範囲は小さいです。狭い谷を段状にして上方の段には現在でも少し石垣跡が見られます。勝尾城登城口でもあるのでここから登城しました。
 上記説明板から駐車場に行く道路幅が1台分しかなく、対向車をかわす場所も少ないためご注意を。

<満足度>◆◆◇

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チェブ

黒い鳥だまり。 (2024/02/10 訪問)

1つでも『行った』をポチっとしたいが為に「木田余城」に寄りました。
皆さんの投稿で、「木田余城」の石碑がJRの敷地内にあり、入る事が困難なようなので、木田余城の説明板を目的地にセットし向かいました。

到着した「木田余城」はJRの車庫(?)と蓮根畑の間の道路沿いに、説明板がありました。
車は、説明板の近くに停めました。地下道に続く道は通行禁止の看板があります。
信太 範宗さんが「木田余城」を築城したそうです。
この日に訪れたお城の城主の皆様、はじめましてのお名前ばかりです。

遺構はありませんが、夕方の広い蓮根畑が寂しげで眺めていると、なにやらポコポコした黒いのが集合していました。しかも、たくさんの蓮根畑の1ヵ所だけにです。
黒い鳥達がお休みしてました。
きだまりは、くろだまりでした( ´∀`)

今日は、お城の日
100名城かるた、想像を越えて面白い かるたになりましたね。応援しましたよ。

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カズサン

【遠江飯田古城】静岡県森町 西に南北土塁が残って居ます (2024/04/04 訪問)

 遠江飯田城跡を探訪の後飯田古城跡に創建されてる崇信寺に参拝して西側の土塁を見学観察させて頂きました。

 住所:静岡県周智郡森町飯田3052
 駐車場:静岡県周智郡森町飯田3052、10台位は余裕の駐車可能。
 参考資料:余湖図コレクション、グーグルマップ、案内解説板による。

 9年前に訪ねて居り写真も撮影して居ましたが、パソコンに登録して居なく城びとにも当時の写真では飯田城、飯田古城とも投稿して居なく、今回の飯田城、飯田古城が初投稿と成ります。
 門前東に桜の大木が有り満開の輝き、山門を潜り本堂で参拝、西側に廻り南北の伸びる土塁を眺める、土塁に上がる道を通り土塁上へ西側は崖に成っている、北側は土塁上に墓地と成って墓石が並んでいる。
 山門前に「飯田古城と崇信寺」解説板が有る。
 飯田城の以前には崇信寺の場所に館が在り、古城として区別している、
 
 この後に東に直線で1.7km程の所にグーグルマップ史跡名勝マーク「大日の一本桜」が有り寄ってみました、茶畑の中に有りましたが案内板など無くスマホで史跡マークと見比べて確認。
 住所:静岡県袋井市宇刈3112-1(34°48'28"N 137°56'33"E h=50m)

 飯田城跡・飯田古城跡と大日の一本桜とこの後向かう吉岡大塚古墳との間には市境にヤマハリゾート葛城ゴルフ俱楽部が南北に広がっています。
 走行道中、宇刈川の桜並木、山々、家々の桜が満開で車窓花見の状態で眺める事が出来ました、勿論慎重運転で走行。
  

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todo94

京阪の城めぐり⑧ (2024/02/24 訪問)

この日の城めぐりの締めは三津屋城。堀城から徒歩にてアプローチしました。光専寺山門前に説明板があります。本堂の右手の建物は保育園で光専寺の境内には立ち入ることはできません。

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しんちゃん

関ヶ原は多くの謎でいっぱい。とりあえず一回りしますか。 (2024/03/30 訪問)

先稿でも書きましたが、関ヶ原の戦いに関しては一次史料から二次史料まで大変な数の史料が存在しているんですね。定説とされている二次史料の代表的なものと言えば太田牛一が記した「内府公軍記」だと思います。「内府公軍記」は合戦の翌年には原本が完成し、家康公に献上されたとあるので案外信用できないわけでもなさそうですが、正徳3年(1713)に書かれたとされる「関原軍記大成」はだいぶ脚色がされてそう‥。近年発表されている一次史料による新説だと開始時間から陣立て、小早川秀秋の裏切りのタイミングまでだいぶ定説と(あえて旧説とは呼ばない)異なっているようです。とりあえず自分が気になっている箇所をまとめると

① 関ヶ原の合戦前日、9月14日に両軍の総大将、徳川家康と毛利輝元の間に和睦は成ったのか?
② 南宮山に毛利の大軍は収容できたのか?
③ 吉川広家に野心はあったのか?
④ 合戦の開始時間と終了の時間はいつなのか?
⑤ 小早川秀秋は開戦と同時に大谷隊を攻撃したのか?
⑥ 石田三成の陣は山中(地名)にあったのか?

とりあえずこんな所ですね。①に関しては私見を後の投稿で述べたいと思います。②に関しては自分の目である程度確認してきました。
②に関しては後の投稿で詳細を述べたいと思います。
⑥に関しては山中周辺を散策して見るしかなさそうです。城びと目線でということで、まずは散策して自分の目で見て考える‥というやつですね。

東首塚‥ 関ヶ原町関ヶ原(古戦場記念館より南に250m)
松平忠吉・井伊直政陣跡‥ 首塚のすぐ近く

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カズサン

9年振り桜の頃探訪 (2024/04/04 訪問)

 9年振り桜の頃に探訪しました、今回は飯田城跡より東に約2.2km程の所に発掘調査(H19~H26)されて、整備工事が6年がかり昨年度完了公開された「吉岡大塚古墳」見学目的で寄りました。

 駐車場:崇信寺駐車場10台は可能(静岡県周智郡森町飯田3052)東側、崇信寺南のジャリ道を案内指示板に従い南進約300m程の飯田城谷堀跡近くまで進行可能、3,4台駐車可能、軽四、小型車。
 参考資料:余湖図コレクション、グーグルマップに依る。

 崇信寺参拝して南のジャリ道を案内指示板に従って南進約300m程で飯田城の東土塁上に大看板が桜に添われて立っている、素晴らしい景観です、谷堀跡、東腰曲輪、登城を上がっていくと本曲輪口標柱、登ると広い本曲輪、一段南に2,3m程下がって二の曲輪が控えてる、結構草が深い、東土塁に登り「遠州飯田城想定図」をじっくりと眺める、往時の規模が脳裏に浮かんでくる、東土塁上を歩き物見曲輪へ、祠と飯田城跡碑、解説板が立っている、物見曲輪より本曲輪、二の曲輪を眺める、西側にも土塁があるのか?草深く前日の雨上がりで露を含んでおり眺めるだけ。
 こじんまりした良い中世城館跡です。

 城主山内氏は鎌倉期に当地の地頭職として本拠地の備前より赴き当初は天方城、時代は降って応永の頃1400年頃天方郷から飯田郷へ移り飯田城(飯田古城)を築く、時代の趨勢から要害性の高い居城の必要性から飯田城(新城)を築いた。
 今川義元が桶狭間で討たれ、徳川氏遠州侵攻後も今川氏に忠誠を貫き徳川と戦い討たれる。(解説板要約抜粋)
 

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しんちゃん

信長伝説はここから始まる。 (2024/03/30 訪問)

清洲城は五条川の西岸に築かれていました。応永12年(1405)に尾張・越前・遠江に三国の守護である管領・斯波義重によって築かれたとされています。尾張守護所である下津城が焼失した後は正式に尾張守護所となり、かつてはここが尾張の中心でした。尾張下四郡を支配する守護代・織田大和家の居城であり、織田大和家は織田信秀・信長親子の主筋にも当たりました。尾張守護・斯波義統が織田大和家・信友に殺される事件が起き、義統の子義銀に頼られた信長が大義名分を得て主筋である信友を討ちました。清洲城はこの時点で信長の城となり、大改修を受けたようです。今の縄張り(といってもだいぶ改変されてしまってはいる)は天正10年(1582)に入った織田信雄によるものと見られ、本丸には天守と馬出しを備えていたようです。
現在の本丸跡は東海道新幹線と東海道本線により分断され南側は清洲公園になっており、北側は清洲古城跡公園と清洲総合福祉センターになっています。福祉センター駐車場の手前に本丸の石垣が一部残っており、ほとんど遺構が残っていない清洲城で、この石垣は大変貴重なものです。二の丸跡(推測)には模擬天守が建っていて大手橋を渡って訪れることが出来ます。本格的な城郭遺構とはほど遠いですが、入場料も300円と安く、清洲を代表する観光地でもありますので、気楽に訪れると良いと思います。

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しんちゃん

昨日の友は今日の敵。戦国あるある (2024/03/30 訪問)

大高城は丘陵上に築かれた東西約106m、南北約32mの平山城で、永正年間(1504~21)に花井備中守によって築かれたと案内板に記してあります。桶狭間の合戦の際には今川方の鵜殿長照が守将を務めており、織田方に包囲されますが松平元康が兵糧の運び入れに成功しています。元康は桶狭間の合戦で今川義元が討たれると今川から離反し、上之郷城に籠る鵜殿長照を攻めます。長照にすれば、かつての恩人に討ち取られてしまったわけですが、この時に松平の人質になった兄弟二人は紆余曲折を経て、家康の家臣になりますが、弟の氏次は関ヶ原の合戦の前哨戦の伏見城の戦いで討死を遂げています。兄の氏長は1700石の旗本となり養子の氏信が家督を継いでいます。

大高城は本丸が二層構造になっているようで、一段高い場所に城山八幡社が祀られており社の土盛りが土塁を連想させます。南西の二の丸との間には大きな空堀があり土橋がかかっています。二の丸の北西側にも同規模の郭があり、今頃は桜がいい感じに咲いているだろうと思います。そのまま城址の北側をヘリを歩きながら東に進むと元の登城道に戻ってきます。

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イオ

TDLで城めぐり? (2024/03/26 訪問)

昨夏にユニバーサルスタジオジャパンのクッパ城とホグワーツ城の投稿をしましたが、今回は東京ディズニーランドのシンデレラ城とビーストキャッスルです。言わずと知れた「シンデレラ」と「美女と野獣」に登場する城ですね。シンデレラ城は今回は外から眺めるだけでしたが、ビーストキャッスルでの「美女と野獣“魔法のものがたり”」は、さすがにTDL内の最新アトラクションだけあって大いに見応えがあり、直前にDVDを観てから行ったこともあって、なお一層物語の中に入り込んだ感覚がありました。

この日は春の嵐で全身ずぶ濡れになって寒さに震えるわ、強風で折りたたみ傘の骨が折れるわと散々な天候でしたが、それでも充分以上に楽しめてしまうあたりやっぱりディズニーランドはいいなぁ、と。

翌日は打って変わっての穏やかな晴天のもと、ディズニーシーを満喫。ただ、平日ながら春休みでもあり大変な人出で、タワー・オブ・テラーには乗れたものの、ソアリンもセンター・オブ・ジ・アースも乗れずじまいで、帰ってくるなり家族から再訪を求められています……やれやれ(笑)


※ 日本100名城かるた、いよいよ始動ですね。かるた大会開催のためにも、もちろん私も応援させていただきます!
 

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todo94

京阪の城めぐり⑦ (2024/02/24 訪問)

柴島城からの転戦です。阪急のターミナル駅・十三駅に降り立つのは生まれて初めてです。武田薬品大阪体育館の先(線路沿い)の門脇に説明板がありました。イオさんの投稿を拝見して東横インの前にある地蔵尊にも、三津屋城攻城後に足を伸ばすことができました。既に暗くなってきていたので十三にて晩酌と相成りました。

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しんちゃん

岐阜関ケ原古戦場記念館 シアターは迫力満載(予約制) (2024/03/31 訪問)

岐阜関ケ原古戦場記念館は関ケ原町関ケ原894-5に建てられている記念館です。内容は関ヶ原の合戦の展示に特化しており、館長は歴史学者の小和田哲男氏、アンバサダーは女優の竹下景子さんが勤めています。5階は展望室になっており周辺の関ヶ原の戦場跡を俯瞰できます。北側には徳川家康最後の陣が隣接しており、この記念館の敷地そのものが陣跡にあたるようです。2階は展示室になっており関ヶ原の合戦に関する展示や、武将たちの精巧に再現された甲冑の展示などを見ることが出来ます。
一番の目玉は1階のシアターで大迫力の関ヶ原の合戦のアニメーション映像を見ることが出来ます。最も迫力があった場面は島津義弘が島津の退き口で突っ込んでくる所で周囲の敵兵を蹴散らしながら去っていく姿は迫力満点でした。映像内容は基本的に従来の定説そのまんまです。これでいいのだって感じですね。
隣の建物には売店と食堂があり、皆さん推しの武将のグッズを買っていっているようです。私は食堂で小早川秀秋の酔いどれパフェをいただきました。小早川らしくブランデーソースが入っているようなのですが私は車で来ているので、チョコレートソースに変更してもらいました。まだまだネタキャラ的な存在で三成ファンや吉継ファンからは恨みを買っていそうですが、ジワジワと評価も変わって行ってくれれば良いと思っております。去年の大河ではうろたえている様子も無く、けっこう格好良かったのではないでしょうか。

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しんちゃん

織田信長生誕の地という説もあり (2024/03/10 訪問)

勝幡城は織田信定が永正元年に築城したと伝えられています。東西約100m、南北約140mの平城で二重に堀を巡らし、さらにその外側四方に総構の堀があったそうです。信定の子、信秀(信長の父)は清洲城の三奉行の一家「織田弾正忠家」として勇名をはせ、尾張に勢力を伸ばし、西三河にまで進出していきました。織田氏はここから商業地・津島を治め経済力を蓄えており、近年では織田信長の生誕地と考えられているようです。

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ぴーかる

姉川城 (2024/02/11 訪問)

【姉川城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡前<33.292969, 130.349604>の道路脇に停めれます。
<交通手段>車

<見所>水濠
<感想>1泊2日久留米・佐賀の旅7城目。国史跡である姉川城は1360年に菊池武安によって築城されたようです。後に菊池氏の後裔の姉川氏が入り、戦国時代には少弐氏⇒龍造寺氏に属します。姉川氏は龍造寺氏から加増転封を受けて、その後の姉川城の詳細は不明となります。
 城びとポイントが城跡の主要部主郭になっていて周囲を堀で囲んでいます。中心地が現在でも少し盛り上がっていて、土壇のようにも見えます。国史跡ではありますが、先に行った直鳥城より島内部に住宅が多く建っていて、道路以外には自由に散策できない感じになっています。ここも直鳥城と同じように水鳥たちの楽園になっていました。

<満足度>◆◆◇

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朝田 辰兵衛

【Makuake】通知設定が完了しました… (2024/02/23 訪問)

“【Makuake】通知設定が完了しました”と,Makuake運営担当からメールが届きました。
しかし,プロジェクト開始日は「城の日」。すでに攻城予定を入れているので,夜になっちゃいますが…。
ということで,CFの通知設定完了です。
あれっ,宣伝画像の読み札差し変わってるゾ…。
これは,スタッフから私に対するメッセージ性を感じます。
こういう投稿を欲しがっていたでしょ…???

戸祭城はバーターのバーターです。この一手はたぶん読まれていたと思いますので,早出しします。
「戸祭城 標柱1本 ポチひとつ」
久々のお城川柳ですが,ある城の上五を変えただけ。
見つけるのに難儀するかな…と思っていたら,すんなりでした。

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4月6日10時~ 「日本100名城かるた」のクラファンが始まります!⇒始まりました!!

記事でもお知らせしましたが、4月6日10時~ 「日本100名城かるた」のクラファンが始まります!
皆さまのご協力で制作したかるた。ぜひぜひ、商品化したいと思っています。
応援よろしくお願いいたします!

お城の沼にハマる!マニアックで激ムズ!?日本城郭協会公認「日本100名城かるた」
https://www.makuake.com/project/oshiro_karuta/

(4月6日追記)
受付開始しました!!
皆さまと大かるた大会、やりたいです!!!

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楯岩城の四季 (2024/03/29 訪問)

ソメイヨシノに先立ち、山桜が山々に花を咲かせてました。山桜に加えて、楯岩城の四季の写真を選んで載せます。自分ちの畑から見る楯岩城です。西側は平地からすっくと山が立ち上がり、山体の容積感も適度で、こどもの頃から、とても好きな景観です。しかしながら、地元民のわりには歴史はよく把握してません(^^; 目下の関心事は、竜野城の赤松氏が、姫路城の黒田官兵衛を攻めに行った際、楯岩城の北麓の峠を越え、そのすぐ先の青山古戦場で戦いがあったとのことなのですが、その時、楯岩城赤松氏はどうしていたのか、という点です。

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todo94

京阪の城めぐり⑥ (2024/02/24 訪問)

新庄城からの転戦です。この城も難読ですね。知らなければ「くにじま」とは読めません。阪急柴島駅から徒歩にてアプローチしましたが、駅の方も難読駅名クイズにできそうです。普門寺城で想定外の長時間滞在となってしまったため、ここは、城址碑のみチェックのタッチアンドゴーとなりました。

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