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高山伊賀守秀頼 (2024/07/15 訪問)

 久しぶりの土岐市の高山城です。承久の乱の頃に土岐氏の一族である高山伊賀守秀頼が築城したとされています。戦国時代には単独で城の機能を果たしていますが、最初の頃は土岐氏の居館であった浅野館や大富館の詰城ではなかったかと思っています。主な場所は公園として整備されています。山の上の城址まで車で行くことができ以前に登城したときは車で山の上まで行ったのですが、今回はJR土岐市駅から徒歩にて登城しました。駅から20分くらいで行くことができます。一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪と石柱がありましたが、二の曲輪の石柱は草に隠れていました。堀切の石柱はありましたが、堀切は埋まってしまっています。縄張り図に描かれてはいませんが、帯曲輪のような削平地が所々ありました。当時のものか否かわかりません。
 出丸方面から武士の小道を下って御屋敷跡へ行こうしましたが、途中に鹿の排泄物に加えて猪の排泄物が二カ所にあり新しいそうであったことでびびってしまい、また藪になっている所もあり途中で引き返しました。
 前回の登城時に公園となっているという印象しかなかったので気軽に来ましたが、思ったより楽しく散策できました。

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AJ

五・七・五の宇宙 (2021/07/08 訪問)

江戸城おまけ。時間のある方はぶらぶらどうぞ。


かつてツイートは140字。一方、それより遥かに少ない17字に宇宙を読み込めると言われたら?それはもう怪しい勧誘にしか聞こえません(笑)

古池や蛙飛びこむ水のおと--。

みちのくに旅立つ3年前の1686年、松尾芭蕉がそのスタイルを確立したとされる一句。諸説ありますが、芭蕉は実際にカエルが古池に飛びこむのを見たわけではないのだとか(長谷川櫂「古池に蛙は飛びこんだか」)。

音を聞いてそう判断し、後段部分を先に詠む。じゃあ古池はというと、何らかの考えがあったにせよ、そこは想像の産物。堅苦しい言い方をすると、心の世界を展開した、ということになるようで。

とはいえ、大変なのは“信徒“のみなさん。あの芭蕉先生が言うんだから、きっとどこかに「古池」はあるはず。みんなで探そう!となります。キリスト教の聖杯、トロイの遺跡、邪馬台国探しに匹敵するかもしれない池探しは300年以上経った今も続いているとかいないとか。

というわけで、ここ東京は深川・芭蕉庵跡。隅田川に合流する小名木川の河口にかかる橋の近く。かつて江戸の東半分が水上都市だったと今なお実感できる格別の場所。

芭蕉はこの庵で古池の句を詠みました。そして、どうやらこの場所を提供したパトロン(日本橋の魚問屋)が敷地内に有していた生簀の跡こそがあの「古池」だったに違いないという推論が一人歩きし、「聖地」が誕生しています。分かりやすいことに、跡地には神社。さらに、近くの記念館では池に飛び込むカエルがプリントされたTシャツも売られています。

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カズサン

石垣造りの城郭だった様です (2024/06/24 訪問)

 滋賀県近江の未踏の城廻りで山崎山城を初登城しました。県道2号線宇曽川を西に渡り切った土手道を北進約250mを山裾に入り約100m超で山崎山城北麓専用駐車場へ到着。

 駐車場:北麓の専用駐車場(35°13'33"N 136°12'18"E h=110m)12~14台可能、トイレ無。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 駐車場は角パイプフェンスで囲まれ、登城口に山崎城跡案内解説板設置、登城口よりコンクリ丸太階段が九十九折で比高50mまで続いておりゆっくり登り約7分、頂上部は木々が空けて開放感があります、東虎口は石垣の残存が有り、案内板によると総石垣の造りだったのでしょうが、破城の影響で根石の2、3段が残ってる状態、頂上主郭部が北西に伸びて段付き郭の頂部に櫓台がある、虎口から堀切に落ち込んでいる。
 見晴らしは良く、遠く伊吹山を望めます。
 案内板によると、平成4年からの発掘調査で石垣造りの城と判明、平成10年より公園整備されて今日まで保存整備が行く届いています。
 駐車場から出るときは右側からの進入車に注意が必要です、右手が分かりにくく、出車時右手進入車にヒヤッとしました。

 歴史は案内板によると。
 山崎山城は、戦国時代には地元の領主の山崎氏の居城であり、天正10年4月対武田戦凱旋の帰り山崎に「御茶屋」を設けて山崎源太左衛門が信長を接待したと記録が残って居ます。
 この城は安土城と佐和山城の中間点で、しかも信長が整備した下街道(後の朝鮮通信使街道)を遮断する位置にあります。信長の近江支配の支城として石垣造りの城へと大改修され、信長と命運を共にしたと考えられます。とありました。
 

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todo94

ミラーレス一眼レフのデビューの地 (2024/07/13 訪問)

献血プラザ佐賀に献血の予定を入れてあったため、九州行きを取りやめることはしませんでしたが、この海の日の3連休の天気は雨予報でした。連休初日だけはなんとか天気が持ちそうだったので、予定を変更して城めぐりに勤しむことにしました。連休二日目の最後に行く予定だった赤司城を献血前に攻めてみました。赤司八幡宮の説明板はすぐに見つかりますが、城址碑は見つけるのが難しい場所でした。トクさんの投稿を拝見していなかったらスルーしていたと思います。貴重な情報、ありがとうございました。この城が新たに購入したミラーレス一眼レフのデビューの地となりました。

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T-Shionoya

小さくても立派な丸根城 (2024/03/09 訪問)

豊田市民文化会館で行われた千田先生の講演の後に立ち寄った愛知県豊田市の丸根城。

矢作川が川幅を狭める"鵜の首"東岸の比高15m程度の台地先端部に築かれた城。
主郭と北曲輪で構成され、更に館跡と推測される主郭北東部は土塁に囲まれていたとのこと。

築城時期や城主は不確かながら、松平氏一族の城と考えられている模様。
矢作川の水運を監視していたのかもしれません。

現在は桜などが植えられ、北曲輪に東屋が建つ小さな公園として整備された城跡。

訪問時はまず北曲輪周辺を、続いて主郭一帯をゆっくり散策。
特に北曲輪周囲は遺構の状態が良く、空堀や切岸の斜面は急峻。
その北曲輪は変形型の馬出のようで、主郭と北曲輪の間の堀は虎口から東への抜け道でしょうか。
また主郭の南西面は両隅が張り出しており、横矢が掛かる形状。

講演内容には登場しませんでしたが、小さくても立派な遺構を保つ、私の城郭巡りの178城目でした。

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朝田 辰兵衛

下関編 最終回~御裳川から門司城へ~ (2024/06/20 訪問)

下関でおぼえた地域情報が2つ。「サンデン交通」と「御裳川(みもすそがわ)」です。下関で走っているバスは「サンデン交通」。壇ノ浦古戦場や関門トンネル(人道)入口の最寄りバス停が「御裳川(みもすそがわ)」です。ここはしっかりチェックです。
関門トンネル(人道)の全長は780mしかありません。もっと長いのかと思っていました。ここをトレーニングがてら,走っておられる方もいました。欲を言えば,ファンが回っていないので空気が滞留して,モワーッとしていたことが気になりました…。
そもそも,御裳川からは近距離ということで,肉眼で門司城を見通すことができます。門司城にはドコモの中継所と送電鉄塔が建設されているので,それが目印になります。

にのまるさんへ。
まだまだ下関PRはほんのさわり程度だと思います。
新潟市をPRしていただいた御礼で,つむぎ出したというのが実情です…<苦笑>。
只見線ついでに新潟市へ来たのかな…と思っていたら,SLばんえつ物語への中継地点だったのですネ!
なかなか有意義な「鉄たび」だと思いますョ。

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零汰

しかりとした濠 (2024/05/15 訪問)

こちらのチャシは三方が谷に面していて、主張の強いしかりとした濠が残っており雑草も見当たらない見易い場所です。
難をいえばここに辿り着くのに砂利道で大変な事でしょうか。

PS:Ninjaさん。赤い鉄馬は城に良く映えますね。これからも投稿楽しみにしています。

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赤い城

駅近物件へ久しぶりの登城 (2024/06/29 訪問)

所用のため鴻巣へ、城へ行かないのもどうかと思い駅近物件へ久しぶりに行ってみることにしました。
鴻巣駅から徒歩で15分くらい、鴻巣高校のグラウンドに面しています。
まずは関東では普通の堀底道を歩きました。
懐かしい!

この時期なので下草も元気ですが怯まず進みます。
鴻巣高校側から郭内へ、櫓台の上に石碑が立ちます。
郭内は杉林で下草もなく快適、と思いきややっぱり蜘蛛の巣、これも仕方なし。

皆さんのレポート通り「伝」ではありますが源さんの館。
駅近なのに遺構がちゃんと残っています。
もはや誰が住んでいたかはどうでも良いか、とも思ってしまいました。

この後髪に蜘蛛の巣を貼り付けてることに気づかず都心を闊歩していたことは言うまでもありません。

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ぴーかる

桜井城 (2024/05/11 訪問)

【桜井城】
<駐車場他>2台分駐車できます。
<交通手段>車

<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅ラスト13城目。安城市観光協会のサイトによると「桜井城は1471年、松平信光の安城城進出により、松平氏の支配下に入ったと推定されている。安城松平家2代松平長忠の子である松平信定が養子に迎えられ、桜井松平家の初代となった。桜井松平家は信定の代から松平宗家を狙って安城松平家に敵対的であったが、4代目松平忠正が三河一向一揆で家康公に敗れ、以後は家康公に仕えた。」とあります。家康の関東移封により6代目松平家広もこれに従い廃城となったようです。
 現地は現在公園になっています。周囲より少し高くなっていて、城跡碑のある場所は土塁のようになっています。公園の隣に桜井松平墓所があります。城跡碑を撮影していると現地のおばあさんに話かけられて、三河弁の訛りで全く解せなかったので何度か聞きなおすと、やや標準語に直してもらい、ここに来て50年になるそうで、この城跡公園と周囲の側溝の掃除もしているそうです。改めて見ると土塁上も落葉が綺麗に掃除されているのに気づき、気持ちよく公園内の散策ができました。可愛い方で、気持ちよく散策できた事を伝えると手を振って見送ってくださいました。素敵な出会いで日帰り旅を終える事ができました。480㎞無事走破。

<満足度>◆◇◇

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「村田城」。 (2024/05/05 訪問)

「鵜ヶ崎城」攻めの後、宮城県の郷土料理 はらこ飯を求めて亘理町へ。
5月は はらこ飯ではなく、アサリ飯かホッキ飯がシーズンとのことです。
ホッキ飯でお腹を満たしました。
ホッキ貝はコリッでもなく、サクッでもない。フワッとした食感でした。
語彙力がないので伝わらないと思いますが、美味しいのは間違い無しです。
帰る前に、お土産探しをしようとドライブしていると大きな天守が見えました。近くに向かうと亘理町の郷土資料館でした。疲れていたので、再訪を誓い帰路につきます。
『道の駅 村田』と、道路標識。お土産と休憩を取る為に寄りました。
蔵が並ぶ町並みで、『道の駅 村田』は城山公園のお隣です。
、、、?城山公園?て事は、お城があったんだな。
と、道の駅の駐車場に車を置き、城攻め開始です。
『道の駅 村田』に併設されている『歴史みらい館』もあります。
『道の駅 村田』から下り写真③の『歴史のゲート』から城内に向かいます。城山は、いろんな所に彫刻作品がありました。
本丸に到着。「村田城」と大きな看板がありました。1段高い所に石碑があります。

下野国から小山氏が移住し館を築いたのが始まりなんだそうです。
伊達家の七男 宗高さんが居城しています。
宮城県 柴田郡 村田町 村田北塩内
に「村田城」はありますが、『道の駅 村田』を目指した方が確実に到着します。
この辺は、城びと未登録のお城が、たくさんありそうです。
『お城を探す』では「船岡城」が車で30分の距離にあります。
入城した『歴史のゲート』を上りました。『みらいのゲート』に到着します。もう、くたくたなので東京の端っこを目指します。

ホッキ飯や亘理町の郷土資料館の写真を写してない事が、先ほど判明しました。
ここぞ!と言う時に、写真まで頭が回らなかった「村田城」と1泊2日の弾丸城攻めでした。

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カズサン

【近江 越川城】滋賀県彦根市 肥田城の支城 (2024/06/24 訪問)

 肥田城探訪の折りグーグルマップで事前調査の中に、肥田城と宇曽川を挟んで東川沿いに越川城史跡マークが有り肥田城探訪中に寄ってみました。

 住所:滋賀県彦根市三津町、宇曽川の高橋渡北川沿い下約100mの小公園
 駐車場:肥田城跡小公園の駐車場利用。
 参考資料:グーグルマップに依る。

 肥田城跡より西町大通りより宇曽川に架かる高橋を渡り宇曽川の北側沿いの下に民家と隣接した小公園が有り、縁をツツジ生垣で囲み砂利整地に石を三石置いて「越川城跡」石碑、平成22年3月記が立っている。案内板は無い。こじんまりとした奇麗に整備されています、石碑だけですが自己主張してる様です。

 後日、日本城郭全集8京都・滋賀・三重編、滋賀県の城編で越川城が記載されていましたのでそれに依ると。
 越川城は、肥田城と宇曽川を隔てた北岸にあり、肥田城の支城として、田野瀬氏の臣久木氏が拠っていた。越川の名は肥田川の一部が川を越して築かれたところから生まれた(『愛智郡誌』)。
 
 

 

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龍造寺

伊是名城 (2024/05/25 訪問)

フェリーは運天港-仲田港まで1日2便。1便目に乗れば約2時間後の帰路便に乗船可能。限られた時間の為、
仲田港付近のレンタル原付(約2時間)2,000円をお借りし、伊是名城をゆっくり観光。
本丸跡と思われる山頂まで行くも切りだった斜面で過酷だったが絶景がを一望出来た。

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龍造寺

伊是名城 (2024/05/25 訪問)

フェリーは運天港-仲田港まで1日2便。1便目に乗れば約2時間後の帰路便に乗船可能。限られた時間の為、
仲田港付近のレンタル原付(約2時間)2,000円をお借りし、伊是名城をゆっくり観光。
本丸跡と思われる山頂まで行くも切りだった斜面で過酷だったが絶景がを一望出来た。

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カズサン

水攻め合戦の肥田城 (2024/06/24 訪問)

 近江未踏城廻りで肥田城を初登城しました、水田の中に城址小公園が有り案内板、石碑、駐車場が揃っており大変ありがたい。

 駐車場:グーグルマップの肥田城跡マーク地(35°12'05"N 136°12'27"N h=100)、肥田城跡小公園約1反くらいの広さ余裕有り。
 参考資料:城郭放浪記さん城びと投稿の皆さんグーグルマップに依る。

 グーグルマップの肥田城跡目標に合わせて到着、新しく小公園として整備されたらしく駐車場がよく整備されている、北西奥に山王祠が祀られている。また大きな自然丸石に肥田城跡と刻んだ石碑(H22.11、記)、整備されて14年経っていたのですねでも真新しく感じます、肥田城跡の案内解説板、小解説板も有り分かり易くなっています。
 県道204号線から駐車場へ入る時にチラッと見た城名碑と小案内板の確認探訪から開始、ここは県道204号線北側沿道沿いに肥田城跡石碑と小立案内板がある、ここは城びとの肥田城指示マーク地となります。
 そこから県道を西に戻り南西に約150m進み、住吉神社の斜め南にグーグルマップ史跡マーク地肥田城土塁豪跡が在り、土塁と改修されていますが堀跡を確認できます、後で案内板の肥田城跡地図を確認したら南西角の土塁と濠らしく、ここ辺りを起点として南側に環濠土塁が約480m東に伸びて北にクランクして約280m環濠土塁が続き宇曽川に繋がっていた様です。
 そこから戻り県道204号線へ、東へ進み城郭放浪記さんの肥田城マーク地である肥田町公民館へ駐車場も有ります、月曜日で休館、案内板に解説シートを置いてありますと有りましたがゲットできず、公民館隣の歴史資料館・崇徳寺へ山門が茅葺で趣がある、中に入って肥田町歴史ロマンロードめぐりMapが張って有り撮影、崇徳寺は歴代城主菩提寺の様です。西町大通りに出て宇曽川に架かる高橋より上流下流を眺める、高橋の南に豊穣の石碑、城下町肥田の立小看板、肥田町歴史ロマンロードめぐりマップ大案内板が有り、西町大通り東町大通り登町大通りの通りと町屋往来は昔のままだそうです。
 駐車場に戻って車で、北西に在るグーグル史跡マーク「肥田城水攻堤」聖泉大学の北側に在ります、そこには立派な自然石「史跡肥田城水攻堤」碑と小立看板がり堤も確認。秀吉の水攻めより早い段階で堤を築いて水攻め合戦が有った様で新知識を得ました。
 
 案内解説板によると
 肥田城は土着の豪族高野瀬隆重が六角氏の命により築いたと伝えられる平地城館です。以後長く六角氏の配下にあった高野瀬氏でしたが、秀隆の代に浅井長政と通じます。そのため、永禄2年(1556年)の「肥田城の水攻め」、翌年の「野良田表の合戦」と2度に渡り六角承禎の大規模な攻撃を受けましたが、浅井方の援軍により勝利。
 高野瀬秀隆亡き後、肥田城には織田信長・豊臣秀吉の下で蜂谷頼隆・長谷川秀一が城主となって活躍しますが、秀一の病死とともに廃城となる。
 江戸時代になり、肥田城の中心部は開墾されて「上新田」「下新田」の美田に生まれ変わります、その周辺の寺社、登町、西町、東町は城下町の町屋が整備された区域でした、今も名残があります。
  

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モト

秀吉が宿泊したんだそうです。 (2024/06/11 訪問)

黒田親子の城であり、秀吉の九州征伐の際には、秀吉が宿泊をしたんだそうです。
天下人が泊まった城と聞くと一気にすごい場所なんだと実感してしまうのは私だけでしょうか。
もちろん城跡としての遺構も土塁や横堀などを確認でき、見学しても満足を得られる城跡だと思います。
加えて秀吉が座った太閤岩、官兵衛岩と又兵衛岩もありました。
順に行くと二の丸に辿り着きそこからは素晴らしい眺望です。
二の丸より本丸へ向かいますが、その間にある水溜め跡は雰囲気があり、横堀跡は深い堀が続いているのが見れて素晴らしかったです。


駐車場から5分から10分ほど歩くと登城口です。
大河ドラマの影響でだいぶ整備されたという事で基本的には歩けるようになってます。

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にのまる

猪苗代城と鶴峰城 (2024/06/22 訪問)

新潟駅⇄新潟城往復のウォーミングアップののち、信越本線で新津へ。
新津から「SLばんえつ物語」で会津若松。
会津若松から郡山へ向かう途中、猪苗代駅で下車しました。

猪苗代城は、会津若松城訪問の際に毎度気になりながらも寄ることができずいたので、駅に降り立った時の嬉しさも一入でした。

この時期の訪問ですので草や葉に覆われていても当然のこととその点はあまり気にとめずにいたのですが、整備された散策路はとても歩きやすく、見どころやビューポイントは思わず感嘆の声をあげてしまうほどで、列車から見えたあの緑の山の中がこんなふうに造られていたのかと、感動とともに長年にわたる城の維持整備のありがたさを思いました。

この地から世界に羽ばたいた野口英世博士の胸像が見守る東側の近世の丘(猪苗代城)に残る石垣遺構。戊辰戦争から時が止まったままのようなその佇まいは城びとの心に刺さるものがありました。
西側の中世の丘の方は「鶴峰城」というのだそうです。こちらも散策路が続いており、標柱を頼りに現状から往時の姿を思い浮かべることができました。


朝田辰兵衛さん。
下関PRありがとうございます。
海の幸は新潟といい勝負ではないかと!
日頃からみなさまの投稿を拝見していて、地元のお城が登場するとドキドキします。
楽しんでもらえただろうか。あの石垣は見てもらえただろうか。どうかディスられませんように……と。逆に知らなかったことを教えていただけることもあり、たいへんありがたく思っています。
日本中どこでも、そこは誰かの大事なふるさとだということを心に留めて城めぐりを楽しんでいきたいと思います。

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城下町散歩 (2024/07/13 訪問)

 岐阜市へ行く機会がありましたので、市内を散策しました。このところ毎年続けて登城していることもあり山の上の城には今回は行っていません。

法華寺
 織田家ゆかりの寺で岐阜城の門が移築されています。

梶川堀
 斎藤道三や織田信長は城下町の整備を行いました。梶川堀は城下の堀で、この堀の東側に武家屋敷、西側に町屋が配されていたようです。現在は水路となっています。

立政寺
 東海地方の中世浄土宗の一大中心地として栄えた寺で、織田信長が戦国最後の将軍となった足利義昭を迎えた場所として知られています。

崇福寺
 織田家の菩提寺で、織田信長信忠親子の廟所があります。その昔は快川紹喜が住職を務めたり、稲葉一鉄が若い頃小僧として修行していたりと興味深い歴史を持つ寺です。関ヶ原の戦いで当時岐阜城主であった織田秀信は西軍についたため岐阜城は攻められ落城します。家来たちは、討死にや割腹自殺をし、その際に床板に 血痕が付着したものを本堂前周辺部に天井として残っていて、崇福寺の地天井と呼ばれています。内部は有料で興味深い展示物があるようですが、今回は時間の都合もあり外だけさらりと見学しました。

円徳寺
 織田信秀、織田信長、織田信秀ゆかりの寺です。天文16年(1547年)、織田信秀が当時は井ノ口といっていた岐阜に攻め入った際、斎藤道三に大敗し5,000人ともいわれる戦死者が出ました。この戦死者を弔うための織田塚が円徳寺境内に安置されています。関ケ原の戦いの後、敗れた織田秀信はこの寺で剃髪したといわれています。

 以前に総構えの土塁や川原町付近を散策したことを投稿しました。今回は以前散策した場所以外の所を歩いていますが、まだまだ岐阜市内には興味深いポイントがありそうです。機会があればボチボチ散策してみます。


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鏡島城 (2024/07/13 訪問)

 岐阜市鏡島にあったという城です。城びとには未登録の城址です。遺構はありませんが、石碑と説明板が立っていました。近くには城主であった石川駿河守光清によって祀られたといわれる稲荷神社がありますが、この神社から南側一帯が城域であったようです。由来は室町末期に斉藤帯刀左衛門が築城し石川駿河守が長く居城したが、岐阜稲葉城落城の折廃城になったように説明板には書かれていますが、諸説あるようです。

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シェル

柳堤の材料になったお城 (2024/03/27 訪問)

 JR水戸駅北口から水戸城の南側を通る国道51号を進み、常磐線と桜川を渡り、川に沿って東に進んだ路地に入ったところにある水戸市竹隈市民センターの東側に城址碑があります。
 慶安4年(1651)に千波湖に築かれた柳堤(りょうじょう)の築造の際に、武熊城跡から採土が行われ、城跡は消滅してしまい、遺構は残っていません。
 城に関する地名については一部残っていて、石碑から北東に少し行ったところに「搦手橋」という桜川にかかる橋が現在も存在しています。
 また国道51号近くの柵町児童公園には、柳堤の石碑があります。武熊城の土で築造された柳堤も、大正から昭和初期にかけての千波湖の東側の埋め立てで失われてしまったようです。ですが柳堤の名前は、こちらも桜川にかかる橋の名前としては現在も残っています。

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零汰

閑話:霧多布岬とモンキーパンチ

北の大地の海岸線は岬の宝庫です。一番行きたかったのは宗谷岬でも納沙布岬でもなく霧多布岬でした。

霧多布岬は浜中町にあります。浜中町といえばモンキーパンチと峰不二子の出身地です。そこ目当てなのでアニメファンの言うところの聖地巡礼見たいなものです。多くの我々年代の憧れの女性像は小学生時代に刻まれた峰不二子によって造られたと言っても過言ではないのでは無いでしょうか?

浜中町総合文化センター内にモンキーパンチコレクションがあるのですが改修工事の為に休館中でした。霧多布温泉ゆうゆには浜中町限定グッズがあるので二人の孫にルパン土産を買い、勢いで自分用に不二子ちゃんバスタオルを購入しましたが帰宅後にこっぱずかしくなり娘に渡す羽目になりました。

町内にはルパン三世通りがあり仮想店舗がありましたので撮影する事が出来ます。ルパン三世好きや不二子ちゃん推しの方、近くに行かれたら立ち寄ってみたら如何でしょう、総合文化センターは秋には再開されるようです。

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