大三ヶ岳城はかつて地域一帯に勢力を誇った長野氏の城です。保元2年(1157)左大臣・平時盛の六男・平康盛が豊前国司として下向し、長野氏を称したのが始まりとされています。長野種盛の時代には大三ヶ岳城、小三岳城、下長野城、丸ヶ口福相寺城、稗畑城、上長野城らの緒城を一門で固め勢力を伸ばしますが応永6年(1399)中国の大内盛見の軍門に下ります。
大三ヶ岳城の周囲には永禄11年(1568)に長野氏を攻めた毛利氏の陣城である吉川城と三角城があり、いずれも多くの砦を有していて、その規模は周辺の山々一帯に及びます。吉川城・三角城には毛利方の吉川氏・小早川氏・益田氏が陣取り壮大な包囲戦を仕掛けていたようです。特筆すべきは大三ヶ岳城の郭を構成する西側の丘の目の前の丘に三角城の砦が築かれていることです。敵の城塞を包囲するために周囲に陣城を構築することは良くあるのですが、ここまで間近に肉薄しているのは見たことがないです。
今回は三角城本城と三角城E・D・Bも合わせて訪問していますが、これらの記号は城郭放浪記さんの呼称を参照にさせていただいています。三角城Eの南方にも支城が伸びていて南端の支城の東に長野方の小三岳城があります。
今回は吉川城と三角城の砦のいくつか、小三岳城は時間・体力の都合で未訪になりますが、実際の訪問時間だけでも3時間半のボリュームがあります。おそらく全て訪問しようとしたら8時間近くはかかるのではないかと思います。近場で有れば再度訪問して残りの部分も見てみたいとは思うのですが。
長丁場になりそうなので、周辺で長時間駐車出来そうな場所を探し、登城道に向かうと、入り口はゲートで閉じられていて施錠がされています。「不発弾」は回避したいので、南の民家を訪問して話を聞くと、脇から入っていいよと即答を頂きました。城址に理解のある方で長野城も訪問するといいよとアドバイスを受けました。
ゲートの脇が空いているので、そこから入って林道をしばらく登って行くと城域の入り口に突き当たります。右手(北)が吉川城に向かう尾根ですが、ここは南に向かって大三ヶ岳城を目指します。まっすぐ進んでいくと、右手(西)に敵方の陣城である三角城Eが迫って来ます。左手(東)はすでに大三ヶ岳城の城域になるので、そこへ取りつき主郭を目指します。堀切を二つ越えると主郭になりますが、この堀切の一つはなかなかの大きさです。大三ヶ岳城の構造そのものはシンプルで主郭の北西と西側に郭を配した構造になっているようです。
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