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しんちゃん

美しい枡形が連続する (2024/01/26 訪問)

小田原城は明応4年(1495)には大森氏の城でしたが、伊勢新九郎盛時(北条早雲)がこれを奪い、以後北条氏の城になりました。二代目の北条氏綱の時に北条氏の本城となり、豊臣秀吉の北条征伐で戦国大名としての北条氏が滅んだ後は、大久保忠世が入り、以降近世城郭としての現代の小田原城に整備されました。
私は北条氏の系列の土の城が好きなので、かつての総構を備えた北条氏の小田原城を見てみたいとずっと思っていました。支城である山中城や八王子城でさえあの凄さなのだから、本城である小田原城はさぞや‥と思ってしまいます。詮方ないことですが。
でも久々に訪れてみると、近世城郭の小田原城も良いです。馬屋曲輪から二の丸を経由して本丸に向かっていくと次々と枡形に遭遇します。特に馬屋曲輪から眺める二の丸の枡形は得も言われぬ美しさです。良い‥実に良い。
家康家臣としては少し地味なイメージが有る大久保氏ですが、この小田原城の枡形にこだわった造りは実に良いです。

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イタさん

志摩城・千葉県多古町 (2024/06/17 訪問)

現地案内板に、栗山川流域に広がる低地のなかに島のように浮かぶ標高18mの独立台地に占地する。縄文時代から平安時代の包蔵遺物として塙台遺跡とも呼ばれ、・・・。また千葉氏宗家終焉の地の舞台ともなった・・・。千葉氏宗家16代胤直一族は、享徳4年(1455年)に起きた内紛により猪鼻城を追われ、胤直は志摩城に、子息・宣胤は多古城に籠もりが敗れ自害。多古にて千葉宗家が滅亡する。古代の発掘について・・・、と記載されている。

明確な遺構は分からないが、主要部と思われる場所には八幡大神が祀られ、神社の南から東に広がる平坦地は一面畑になっている。内部を区画する遺構らしきものは見当たらない。畑地(台地)の東端からは並木城が見える。神社の石段の南一帯には幾段かの削平地が見られるが、ベンチが所々に設置される公園なので、後の造成かも知れない。駐車場・道路を挟んだ西は台地で、二の台とあったようだが、こちらは行けなかった。

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零汰

立ちすくむ (2024/05/21 訪問)

忽然と現れる深い堀切やウネまくる地面、荒々しく不揃いで見栄えのない石積など予期せぬ遺構を見ると驚きで立ちすくむ事があります。こちらは土塁と空堀だけで美しさを作り出し、いい塩梅に劣化して嫌味の無い門や橋がそれに溶け込み、煩わしくない樹木が良いアクセントとなっていて思わず立ちすくんでしまう場所でした。

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カズサン

【出羽・沼館城】秋田県横手市 沼の柵 (2024/05/23 訪問)

 八森城を堪能し終えて、怖い県道32号線を通らない横手に抜ける道を総合支所の方に教わって国道107号線で横手市へ、東北城探訪4日目秋田県2城目の沼館城へ初登城。

 住所:秋田県横手市雄物川町沼館429(蔵光院)
 駐車場:沼館地区交流センターの駐車場利用、沼の柵本城址標柱の直北。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 北東角の土塁に「後三年の役 沼の柵本城址」の標柱が有り、出羽の戦い、清原氏と源義家の抗争がこの横手の地区で繰り広げられた900年前が広がってくる思い、北側に虎口に似た山門が有り、沼の柵趾碑、沼の柵跡・蔵光院の説明板、現在跡地には蔵光院が建っています。虎口山門を潜って寺院内へ、蔵光院を参拝して、内側の土塁を確認、南東角の内側は池越しに高土塁が見える、南西の土塁出入口を出て南側から土塁と堀跡を確認、南西から南、東に廻って周囲の土塁を確認、高く分厚い土塁が圧巻です。
 沼館地区交流センターの南には残存高土塁が確認出来て3郭南の土塁の残りかも? 本城1郭の北西側は2郭で元雄物川北小学校跡地、その北に3郭が広がっており住宅、北角に沼館八幡神社が有り3郭の北側土塁が残存。

 山門の説明文によると。
 平安後期後三年の役において、清原家衡が源義家・清原清衡を迎え撃ち勝利した古戦場跡と伝えられている、この後は金沢柵の籠城戦で清原家衡は攻め落とされて後三年の役は終結、その後清原清衡改め藤原清衡からの奥州藤原三代の栄華が始まります。
 時代は変って戦国期の初め稲庭城主小野寺氏が沼館城を築いて移り本拠地とした、今に残る高土塁、広い堀跡は戦国期の小野寺氏の築城遺構の様です。
 
 この後、沼館地区交流センターによって資料と情報を入手し、合わせて雄物川郷土資料館にも寄り見学と資料、情報を入手し両係員の方に感謝申し上げます。

 横手市には20代の頃から仕事で訪ね、城廻秋田県でも何度となく訪ねていたのですが沼館城は見落としていました、土塁、堀の遺構の素晴しい城郭です。
 
 

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イオ

まさかの電気柵… (2024/04/27 訪問)

室町中期に北畠氏一門の北畠雅俊が築城して坂内氏を名乗り、代々北畠三大将の一人として坂内御所を称しました。北畠信意(織田信雄)が北畠氏の家督を継ぐと、坂内氏六代・具信、七代・具義らは謀殺されて坂内氏は滅亡し、阪内城も廃城となりました。

阪内城は坂内御所(坂内館)と呼ばれる山麓の居館と山上の詰城からなり、坂内御所の遺構は消滅していて、跡地の子育て支援センターの入口脇に坂内城阯碑と坂内城跡・坂内御所跡の説明板が立てられているのみですが、子育て支援センターは土日祝は閉まっているため、金網越しに跡地や石碑と説明板の裏側を確認することしかできませんでした。

坂内御所を満足に見られなかったのは残念ですが本題は詰城のほうだから、と気を取り直して県道沿いに東に進み、「天守・ガイコツ峠」の案内表示から山手に入り、小川を渡って進むと前方に電気柵が張られているのが見えてきました。防獣柵もめぐらされているし、このあたりもシカやイノシシが出るんだろうな、などと考えながら歩いていると、「天守」の案内表示のすぐ先の登城道が電気柵で封鎖されています。…えっ!? いやいや、市指定史跡への道を電気柵で通れなくしてしまうなんてあり得る?? どこかに通行できるゲートなりがあるのでは? と考えて周囲を見渡すも見当たらず、ゴム軍手で電気柵を掴んで突破しようかという考えも頭をよぎりましたが、やはりその勇気は無く(そんな勇気は無くていい)、しばらく未練たらしく行きつ戻りつした挙げ句、断念して撤退しました。

…ということで、山麓の居館跡は満足に見られず、山上の詰城にはたどり着けずで何とも消化不良に終わってしまいましたが、さすがにこのままずっと山上の詰城には登城できません、ということにはならないんじゃないか、何らかの手立てが講じられるんじゃないかとも(多分に願望を込めて)思いますので、いつかまた登城できるようになったら再挑戦したいものです。
 

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しんちゃん

無印投稿  宇和島城 (2013/12/13 訪問)

宇和島城は元々は板島丸串城といったらしいのですが、文禄4年(1595)に藤堂高虎が7万石で入り現在の石垣が築かれたようです。こぶりな現存天守は宇和島伊達家の築造によるものらしいですが、この見事な石垣は藤堂氏によるものです。各地を転々とし、見事な石垣を築いて去っていく。実に漢前です。なんかアナグマに似てますね。穴を掘ったアナグマが去った後にタヌキやイタチなど他の動物が入ってくるといった構図になりますが、高虎さんが築いていった石垣の城に他の大名が「ごっつあん」といって入ってきて建物などを作っていく‥まさに偉大なさまよえるアナグマです。
伊達家の築いていった天守も素晴らしいです。たしかにちっちゃいですけど、天守があるだけで華やかさが増します。ショートケーキの上にのってるイチゴのようなもので、これを取られてしまうと凄く悲しい気分になりませんか?

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しんちゃん

無印投稿  大洲城 (2013/12/13 訪問)

大洲城は元々は宇都宮の分家(そのまた分家)の伊予宇都宮氏の城です。伊予国で毛利氏が勢いを増し、毛利氏の軍門に降るも長宗我部氏に通じた家臣の裏切りで国を追われ、その後大洲城は湯築城の支城になりました。
1595~97あたりで藤堂高虎が入場し、高虎と慶長14年(1609)に洲本城から転封になった脇坂安治らによって大洲城が近世城郭として整備されたようです。藤堂さんが石垣担当で脇坂さんが天守などの建物担当といったところでしょうか。
コンクリ造りの模擬天守が多い中、粘り腰で木造再建した意味は大きいと思います。レプリカなどと揶揄する人もいるでしょうが、それを言ったら首里城だってレプリカになってしまいます。いつの間にやら大量の国費が注入されることになっている首里城ですが、できるだけ当時と同じ工法で再建を志すことはアイデンティティの維持と地元の人達の心のよりどころになるという意味では有意義だと思います。
私は無謀で愚かな戦争で失われた城郭建造物についいては国が率先して再建を志す責任が少なからず有ると思います。
TVをつけると、やたら多様性を口にする人が多いですが、私は信用しません。まずは日本と日本人としてのアイデンティティをしっかりと持ったうえで多様性や寛容さについて議論するべきだと思います。多様性=アイデンティティの喪失になりつつある今の流れには少し違和感を感じます。

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赤い城

田中城 香川県木田郡三木町 (2024/05/26 訪問)

雷八幡神社の北東に位置します。
周囲は水田となっていて遺構は残りません。
この水田のあたりに堀があったようです。
道路を進んで行くと民家の脇に石碑が立っていました。
細川氏の家臣、三木高長が入った平城です。

讃岐にも遺構が残らない城は多いですが石碑があるだけでもありがたいです。

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しんちゃん

羽黒館と羽黒城 (2024/06/16 訪問)

犬山市の興禅寺の境内には土塁の一部と梶原景時夫妻の供養塔、梶原一族の五輪塔、梶原一族にまつわるレリーフや石碑が残されています。そこから北に少し歩くと右手(東)に土塁と石碑、羽黒城の案内板があります。
建仁元年(1201)梶原景時父子は滅ぼされますが、景時の孫・豊丸は梶原家の菩提寺興禅寺に逃げ延び、当地で景親と名を改め館を築いたとされています。十七代目の末裔・景義は織田信長に仕えるも、本能寺の変で討死し、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは秀吉は羽黒の館を修復して城塞とし、山内一豊・堀尾吉晴に守らせたとされています。

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ぴーかる

秋山虎繁が大改修した城跡 (2024/04/20 訪問)

【大島城】
<駐車場他>台城公園駐車場15台分程あり。
<交通手段>車

<見所>空堀・堀切・土塁・石積み跡
<感想>日帰り飯田・伊那地方河岸段丘平山城の旅6城目。現地説明板によると平安時代、片切氏の片切宗綱が大嶋郷を分地してもらい大嶋氏と称しました。宗綱は平氏に味方して源平合戦後は宗綱は野に下ります。孫の家綱は承久の乱で活躍し大嶋郷を復領し館と大嶋城を築城しました。戦国時代に武田氏の侵攻により、大嶋氏は武田氏に服し大嶋城は接収され秋山虎繁の配下となります。1571年に武田信玄が朱印状にて秋山虎繁に城の大改修を命じます。現在残る遺構はこの時の改修によるもので、それまでの城は主郭部分だけでしたが、二郭・三郭・馬出し・三日月堀と拡張します。1582年織田信長の侵攻により城は落城します。
 城跡は城跡公園になっていて駐車場にあるトイレに城の縄張り図と冊子が置いてあります。駐車場の横に2重三日月堀があり、深い堀で見応えあります。三日月堀の内側の馬出しと三郭櫓台は民家になっていて入れません。刑部さんが行かれて進入禁止の数日後でしたが、城跡内に入れました。曲輪は大きく三郭まであって、各曲輪を堀切で仕切っています。二郭の南斜面に周囲を竪堀、△状の土塁で囲んだ堡塁があり、ちょっと変わった遺構があります。主郭と二郭の堀切縁に櫓台が残っています。主郭の北側斜面にある井戸は石組で横に柱穴のある礎石が落ちています。井戸のある井戸曲輪周辺の曲輪壁には石積みの跡が多く見られます。井戸曲輪から三郭の堀切へ繋がる堀底道には多く礫石が落ちていて、土塁上にも溜まっています。何らかの石積みの遺構だったと思われます。
 主郭と二郭の間の大堀切にツツジが多く植えられていて二分咲き程度でした。主郭でツツジ祭りの準備をされていました。

<満足度>◆◆◇

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にのまる

銚子電鉄で。 (2024/06/01 訪問)

“動力はぬれ煎餅”の銚子電鉄に乗りに行く計画を立てた時に沿線に飯沼城があることを知り、合わせて訪問することにしました。

まずは銚子から終点の外川まで銚子電鉄を乗り通し、海岸沿いを散策したり景観を楽しんだりしました。
そのまま歩いて城址に寄りつつ銚子まで戻ってくる予定でいたのですが(6kmくらいなので歩けない距離ではありません)、足の向くまま気の向くままにぶらぶらしているとあっという間に時間が経ってしまったので、途中の君ヶ浜から飯沼城最寄りの観音駅まで電車に乗ることに。
 
現在の飯沼観音や圓福寺のあたりが城址とのことなので周辺を歩いてみました。歴史にも地理にも疎く城跡を感じるよすがとなるものを感じることはできませんでしたが、久しぶりの新規ポチで、城びと登録城650城目の区切りとなりました。(最近はお気に入りのお城や見逃し遺構の確認のための再訪が多く、訪城数は増えていません…。)
そのかわりものすごく興味(食欲)をそそられる今川焼き屋さんを発見!飯沼観音すぐそばの『さのや』さんです。出来上がりを待っているお客さんが多かったので見送ってしまったのがいまだに心残りです…。

観音駅から銚子駅までは歩いて戻ったので銚子電鉄さんへは運賃と入場券の計770円のお支払いでほとんど協力はできませんでしたが、千葉県の楽しさに気づいた一日となりました。

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しんちゃん

すっかりイケメンになりました。 (2024/04/13 訪問)

石垣も新調され、まるで新しいスーツを着こなしたように、小牧山城はすっかりイケメンになりました。あの微妙な模擬天守も石垣とセットになるとえらく恰好良く見えてくるのだから不思議なものです。ありがとう石垣。
入れ替え戦とかやったら、このまま百名城に入ってしまうかもしれません。じゃあどこの城が外れるのか?と聞かれるとはっきりは言えませんが‥。
模擬天守も例の赤じゅうたんが無くなって落ち着いた雰囲気になりました。展望台からは犬山城や岐阜城を見渡すことが出来ます。ちょうど桜の終わりの時期で、大手を下っていくと桜吹雪に遭遇しました。ヨッ 粋だねえ!

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零汰

土塁と空堀あります (2024/05/22 訪問)

鳥居前の石碑と案内板を眺めて南部陣屋線を少し進んで敷地内に到着しました。南側にかろうじて土塁が見えます。建物の東側には高さの低い土塁(写真2.3)を見る事が出来ました。建物北側は入って行くのに気が引けて西側に回ってみました。そこには立派な土塁が残っています(写真4~6)。人目を気にして土塁に登ったところ裏側にはしっかり空堀も残っていました(写真7)。北側には当時の裏門であったであろう両脇に空堀が当時のままに残っていました(写真8~10)。

こちらは到着した際の第一印象は多くの遺構は期待出来ない感じがしていました。ですが西側敷地周辺にはしっかりと当時を想像できるほどの遺構がありました。雑草が多いのも空堀の底の状態もご愛嬌、当時を想像するのには十分な遺構の量でした。

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朝田 辰兵衛

有名なほうでなくてスミマセンm(__)m (2024/04/28 訪問)

駿河にある有名なほうでなくてスミマセンm(__)m
完全に消滅して,日枝神社になっているほうです。住みやすい街ランキングで比較的上位に食い込んでくる武蔵小杉から徒歩圏内の物件になります。

さて,明日から6月25日まで遠征に出かけます✈
みなさんの投稿はチェックしますが,私の投稿はたぶん月末まで休みます。
遠征は,またもや雨男ぶりを発揮してしまいそうです…☂
昨年の雨をリベンジするところもあるのだが…。

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しんちゃん

平家の末裔の城! (2019/03/09 訪問)

愛知県のお城を中心に扱っているサイト「愛知の城」さんを参考にさせていただくと、中根氏の先祖は平忠正(清盛の叔父)の子、正持が尾張国中根郷にひそみ、中根氏を名乗ったのが始まりのようです。何気にアピールしてますからね平右衛門忠盛とか‥
もう室町時代だし時効じゃね?みたいな感じですかね。わかります、わかります。
みなさん麓の石垣の方を投稿してますよね。普通、そうですよね‥3回も来てるのにまっすぐ山の上に向かった私はなんでしょうか?
でも地形図見ると何かあるって思ったんですよ。戦国時代には地形図なんてないのに、どの武将も地形を熟慮して城を築いています。当時の人が国土地理院の地形図を見ると目を丸くして驚くでしょう。どこが城を築くのに適しているか一目瞭然ですから。
麓の石垣のエリアはおそらく居館だと思います。戦国時代にこの状態で攻められたらひとたまりも無いですね。
山上の城らしき場所は、藪で見えづらいですが北側に竪堀が幾つか配されているようにも見えます。なんとなくですけどね。
平家の末裔の謎の城なんて少しワクワクしませんか?

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カズサン

舌状台地東に生駒氏八森城 (2024/05/23 訪問)

 東北城探訪3日目を終えて、北上駅前に宿泊、4日目は午前中を秋田県由利本荘市八島、と横手市の登城へ、昨年8月ぎりょうさんの投稿で生駒氏の八森城、陣屋が存続してる事を認知し行ってみたいと城びと登録、中々訪ねるには遠距離なので、今回の東北城探訪の三内丸山遺跡、福島城はじめ安倍・安藤氏の城郭主目的企画に加え、交通の便利な北上から秋田道を走り地道を越えて初探訪しました。念願が叶って大変満足です。

 駐車場:八島総合支所駐車場を利用、トイレは支所を利用させて頂きました。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 八島総合支所から八森城大手門、大手門橋へ松が植わって居り遠くからも位置が分かります、投稿写真で見ていた、水堀、大手橋、手前には八森城址碑、八森城址解説板、八森城家中絵図(明治4年)が設置されてる、前には藩学日新堂跡の標柱、八島高校跡の石碑も立っている、大手橋からは関係者以外立ち入り禁止看板と工事用安馬がガードしてるので覗くだけ、水堀の北端の石垣を確認して、八島歴史交流館へ、開いていない外部周辺を見学し、生駒家重臣佐徳家の住宅で明治に成って再建、江戸期の武家屋敷基準で建築されているとの事。武家屋敷跡の丸石石垣が雰囲気を醸してる、途中に佐藤政忠家住宅が移築されて支所近くに建っている、周辺立退きか再開発か?建物が無く空き地が広がっている、元小学校も建物は有るが空きなのか?グーグルマップで確認すると東の子吉川沿いに小学校中学校高校と纏まっています。
 
 八森城の資料の入手の為、交流館がダメでしたので総合支所に寄り資料、情報を頂く、往路の県道32号線は峠が狭くひやひやでしたので帰路の情報もゲット。支所の方々にお世話に成りありがとうございました。
 総合支所の紹介で日新館・資料館を訪ねる、玄関先から鳥海山を2度目仰ぎ見る事が出来ました、丁度鳥海山ろく線終点八島駅が近く水色の可愛い1両電車、気動車が動き出発本荘市へ。

 讃岐の高松城、丸亀城の石垣構築をした生駒氏が家中の騒動で家禄を没収されて、1万石の堪忍料を許されて出羽の八森城に入り陣屋として幕末明治まで継承された、生駒家が八森城八島で家名存続だけでもありがたい事です。感激の探訪でした。

 10番目の写真は県道32号線ひやひやして走行した後の八島側の棚田と雪を被った鳥海山の写真で細道峠を越えたご褒美かも知れません。

 この後は横手市の沼館城・沼の柵を探訪します。
 

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chiroru

なかなか良かったよ (2024/06/15 訪問)

博多方面からの九州新幹線で久留米駅到着手前、久留米城だぁと見つけて久留米駅から徒歩にて城跡まで向かいました。

ブリジストン通りでは三ノ丸跡、二ノ丸跡の石碑を見つけることができ本丸までの道のりを十分に楽しめました。
縄張りとか距離感が体現できますよ。

本丸の石垣は石垣の教科書みたいで石垣用語に出てくる言葉の実物がたくさん発見できます。

櫓跡の石碑がとても親切で「なるほどここね!」みたいに、現存していたらすごい迫力だろなと感心しきりの城巡りでした。
櫓の復元ができたら新幹線からも見えるであろうし、見学に訪れる方も増えたりしないのかなぁと願望も添えて。

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トク

105【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政の初陣(2/2)-高天神城攻め) (2024/02/16 訪問)

(26人目)「井伊直政」の続き⑦です。
直政の初陣で、水の手を断った事で有名な高天神城を訪れました。

さすがに人気の山城です、確かに遺構も多く見ごたえがありました。城の詳細については、カズサンなど地元の方々が過去に多数投稿されてますので、私からはあえて井伊直政にこだわった内容にしたいと思います。

高天神城を武田から奪還すべく、家康は1579年に勝頼からの援軍が来ないと知ると、横須賀城を本陣とし、回りに六つの砦を築いて兵糧攻めにて落とそうと考えます。直政はその一環として、水の手を断つ策を発案して高天神城を陥落させ、この功績で大幅に加増されたというのが、訪問前の私の予備知識でしたが・・・

彼岸桜が咲く追手門(写真①②:訪れたのは2月です)から登り本丸に到着すると、なぜか(🤔?)飲み水用の水道がありました(写真③)。蛇口をひねってみると水が出ました。現在は水の手は断たれていないようです(笑:あたりまえ)。

どこかに穴を深く掘った形跡はないか探しました。すると大河内政局が幽閉されていたという牢(ほら穴)がありました。この奥ではないか?と思い中に入りたかったのですが、厳重で中へ入れそうにありません(写真④)。しかしよく考えると、ここは井戸の上なので、ここはありえない? 水を抜くためには、井戸の下から掘らなければ意味がないので、今度は井戸の下を探すことにします。

高天神城には井戸が二つあります。まずは「三日月井戸」の回りをぐるりと見渡しました。ここは今でも水が残っているので、水は断たれていないようです(写真⑤)。なぜだか考えました🤔。当時は井戸の回りに今のような杉の木はなく、するとここは下の搦手門から丸見えなので、ここで水を汲むは敵に姿をさらすようなもの。また小さな溜め井戸なので当時はもしかして枯渇していたかもしれません。よって籠城中に汲む井戸ならこの上の井戸曲輪にある「かな井戸」かなと思い今度はそちらに向かいました(写真⑥)。

この「かな井戸」を、まず上から恐る恐る覗いて見ました。とても大きくて深い井戸です(写真⑦)。そして何と水がありません(ここだ~😲!)。私は井戸曲輪の回りをぐるりと一周し、さらに曲輪の下を歩き、どこかに水抜き穴らしき跡がないか探しました。曲輪の下の崖を忍者のようにへばりついて探していると、「大丈夫? 何やってんの? 危ないよ!」と声をかけられました。大丈夫です、私は決して怪しい者ではありません(いやどう見ても怪しいと思うが・・🤔)。30分くらいへばりついて探したのですが、だんだんと体力に限界を感じ、滑り落ちそうになってきたので、そこで断念しました。よって結局はそれらしき穴を見つける事はできませんでした(残念です)。

よく考えたら、わずかな時間でそう簡単に見つかるわけないですよね。高天神城まで来て他には目もくれず、井戸曲輪の下の崖にへばりついて、水抜き穴を探していた怪しげな城びとは私だけでしょうか? 発案したのは直政ですが、実際に実行したのは伊賀衆だとか? その証拠に直政は家康の傍にずっといたのか敵首を上げた記録がありません。穴は埋められ今は残っていないのでしょうか? 疑問が残ったまま、ちょっとモヤモヤした気持ちで終わってしまいました(くやしいな~😩)。

最後に、高天神社の階段から西の丸に登り(写真⑧)、馬場平から見た景色は最高でした(写真⑨)。

「高天神を制する者は、遠江(とおとうみ)を制す」

この場所から遠州灘を眺めると、まさにこの意味が解かる気がしました。そしてここで、駅で買ってきたメロンパンを食べました(ああ~おいしい😊)(写真⑩)。

高天神城を落とした万千代は、どんな思いで家康とともにこの景色を眺めたのでしょうか? 初陣を無事果たし、そして自分の功績を喜んでくれた家康を見て、「家康様のために一生働こう」と固く心に誓ったのではないでしょうか?

この功績で万千代は3千石から井伊谷を含めた2万石へ加増されます。万千代この時20才。事実上の井伊家再興を果たした万千代の元へ、井伊谷に潜んでいた井伊家の旧臣達が、続々と集まってきたようです。

この後、武田滅亡を果たした家康をねぎらうため、信長は完成したばかりの安土城に家康を招待します。直政も家康とともに安土を訪れました。そこで直政は、いったい何を見たのでしょうか? 次は直政の気持ちになって(安土城)へ登城します。
 

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イオ

搦手側(本丸~西の丸~出丸) (2024/04/27 訪問)

(続き)

馬場を南に抜けて登城道西側の鳥居をくぐると南側に二の丸、御納戸と呼ばれる曲輪が続き、切岸に沿って南に回り込むと本丸に至ります。本丸は大河内神社の境内地になっていて、入口の鳥居の脇に大河内城阯碑、境内に大河内合戰四百年記念碑や大河内城跡の説明板が立てられています。本丸と西の丸の間にはマムシ谷と呼ばれる谷が入り込んでいて、その南端の堀切に架かる橋を渡って(その前に堀底にも下りて)西の丸に向かうと、西の丸にも社殿が建ち、周囲の切岸の下には腰曲輪が広がっています。西の丸から北と北西に派生する支尾根には堀切を設けて北からの侵攻に備えていました。

西の丸から登城道まで戻って搦手側へ。二の丸には表忠碑が建ち、その南側は切通道状の堀切になっています。切通道を西に少し行くと井戸跡がありますが、現状では井戸というより貯水池のようです。堀切から南東に続く道が搦手道で、搦手門跡の石碑が立てられていました。堀切を越えて南に続く尾根には出丸と呼ばれる曲輪があるようなので上って行ってみると、尾根沿いに小さな曲輪が連続し、幾条かの堀切が設けられていました。

「三重の山城ベスト50を歩く」の縄張図によれば、南尾根のさらに南西、高速道路を越えたところにも物見台的な曲輪群があるようなので向かってみましたが、アンダーパスで高速を抜けたところで道が途絶え、道の終端には巨大な獣のフン…。天花寺城でのクマ疑惑もあることだし、苦労して直登したところで、どうせ曲輪らしき平坦地があるだけで目立った遺構はないだろう、と自分を納得させて(すっぱいブドウ)、ここまでとしました。

よく整備された登城道や本丸周辺では城郭遺構はあまり見られない一方で、案内されている登城ルートを外れた先には堀切や竪堀などが見られますので、ぜひ山城シーズンに装備を整えて挑戦してみて下さい。あとは、火薬庫の笹藪をまた刈ってもらえると嬉しいんだけどなぁ…。
 

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しんちゃん

3回目でやっと入れた。 (2024/06/16 訪問)

小口城は長禄3年(1459)に織田広近によって築かれました。織田広近は尾張上四郡守護代である織田伊勢守家・織田敏広の弟になります。広近は後に、木ノ下城(後の犬山城)を築いてそこに移り、小口城は犬山城の支城となりました。
現在は小口城址公園として整備されており、高さ17m(!)の木造の物見櫓が公開されています。中に入る前に受付を行う必要がありますが、安全管理の目的もありますので、ぜひお願いしたいと思います。櫓の中は吹き抜けになっていますが、ハンモックが二か所設置されているので、どこから落ちてもとりあえず死なないようにはなっています。

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