みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:高屋城 (2024/09/29 訪問)

古市駅から徒歩10分くらいで、不動明王説明碑(34.547610、135.609288)に着き、その後、高屋城不動坂説明板(34.548562、135.610520)に向かいました。

1479年(文明11年)畠山義就によって築かれたと云われています。 以後、河内国守護職であった畠山氏の居城となりました。
畠山氏の家臣で飯盛山城主の安見直政は、守護職畠山高政を追放して守護代を称し高屋城主となりましたが、高政を支援した三好長慶によって追われました。
しかし、三好長慶の河内進出を懸念した高政は安見直政を呼び戻すと、これに怒った三好長慶は高屋城を取り囲み、後詰めの安見直政軍を撃退すると、高政と直政を河内より追放しました。
その後、織田信長が摂津・河内を平定すると北河内を与えられた畠山昭高が高屋城主となりましたが、昭高は重臣の遊佐信教によって討たれ、遊佐信教と三好長康が結んで織田信長と対抗しましたが、1575年(天正3年)織田軍により落城しました。

高屋城は安閑天皇陵を本丸とした平山城で、城山と呼ばれる台地の上に築かれていました。
安閑天皇稜(34.548815、135.608387)と堀は高屋城不動坂説明板に行く途中に確認しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=天保山台場を目指す為、古市駅から電車で大阪港駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:金胎寺城 (2024/09/29 訪問)

汐ノ宮駅から徒歩20分弱で、登山口(34.459689、135.581311)に着きました。

金胎寺城は、嶽山城のある嶽山の南方にある金胎寺山にあります。
元弘年間(1331年~1334年)に楠木正成が築城し、佐備正忠が入ったとされます。
あるいは、正平年間(1346年~1370年)に楠木正儀、和田正武が築城したともされるようです。
1447年頃から戦国時代にかけて、畠山氏の家督争いで、畠山義就が嶽山城に立て籠もり、金胎寺・寛弘寺・金剛寺・国見山などの支城を構え、3年近くの間、畠山政長と戦っています。
1360年(正平15年)畠山氏の持ち城であったようで、1463年(寛正4年)に畠山義就が寄ったが、筒井氏などに攻められ落城したとされます。
1466年(文正元年)復権を狙う義就が金胎寺城に陣をして烏帽子形城を攻撃したという史料もあるようです。
1493年(明応2年)畠山基家(義就の嫡男)の家臣の甲斐庄氏(隆成?)が在城したという記録もあるようです。
1524年には政長流の畠山稙長軍がこの金胎寺城に集結し、仁王山城にいた義就流の畠山義堯を攻撃しています。

登り口ゲートを開けて案内に従い山頂まで行きます。
金胎寺城跡本丸からの景観は素晴らしいです。 
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=高屋城へは、汐ノ宮駅から電車で古市駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:烏帽子形城 (2024/09/29 訪問)

三日市町駅から徒歩20分弱で、城跡公園駐車場付近(34.4436641、135.5637232)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1332年(正慶元年)に楠木正成が赤坂城の出城として築いたとの伝承があるそうです。
南北朝時代には楠正成の部将高向氏が籠もって北朝方と激しく争われました。
応仁の乱以後は守護畠山氏の持城となり、家臣も石川氏や甲斐庄氏などが務めました。甲斐庄氏は橘氏あるいは烏帽子形氏とも称し、甲斐庄正治はキリシタン大名でした。
元亀年間(1570年〜1573年)に甲斐庄正治は徳川家康に召しだされて遠江の浜松へ移り烏帽子形城は廃城となりましたが、その子甲斐庄正房が旗本となり、河内の地理に詳しいことから大坂の陣で活躍、2,000石を知行しています。
1584年(天正12年)羽柴秀吉の紀州攻めにあたり、古城となっていた烏帽子形城を普請するように中村一氏に命じています。

烏帽子形城は現在、烏帽子形公園として整備されており国指定史跡となっています。
狭い曲輪、堀、土塁、堀切などが確認できます。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=金胎寺城を目指す為、河内長野駅から電車で汐ノ宮駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:二見城 (2024/09/29 訪問)

五條代官所(城びと未登録 奈良県五条市)から徒歩15分ちょっとで、説明板前(34.342582、135.690729)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、二見氏によって築かれたと云われています。
筒井順慶の重臣松倉重政は関ヶ原合戦で徳川家康に味方したことから、五條に10,000石を与えられ二見城を居城とし五條藩となりました。
1616年(元和2年)大坂の陣の功により肥前国日野江43,000石で転封となり廃城となりました。

二見城は現在の妙住寺一帯に築かれていたようです。説明板と縄張図を確認しました
大和二見駅にはICカード読み取り機がなかったので、記念に三日市町駅までのキップを購入しました。(ワンマン電車にICカード読み取り機がついています)
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=烏帽子形城へは、大和二見駅から電車で三日市町駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

なんとか正解‥  ありがとうございます。。 (2024/10/13 訪問)

ぴーかるさんは赤い城さんのクイズと相性が良さそうなのでいいですね。私は赤い城さんの投稿を3時間くらい追いかけたぐらいで意識が遠のきかけて来ました。唐沢山城の古い方の投稿を見つけた時は帰雲城の財宝を見つけたような気分でした。

投稿記事を書いている間に赤い城さんの、お返事を頂きました。やはり初見で「マイッタ」はしたくないので。これで耐性が出来たので、次は早めにギブアップするかも(笑)。石垣と猫に目尻が下がっていた私には耳が痛い‥。いずれ再訪する際には「千騎が入」「二重堀切」「例の土橋(‥)」もぜひ訪問したいと思います。関東はコンプしやすいですか‥ さらっとすごいことおっしゃる。
私は東海道にこだわりがあるので、もちろんトライさせていただきます(まずは西の国から)。

一時期テレビで「幻の城」帰雲城を盛んに取り上げていたころが有りました。その比定地らしき場所にも寄ってきました。
工事現場から道が続いていますが休日は休みのようです。入って見ると、いつの頃のものやらわからない石積みがいっぱいある。藪がきつくて丘の上は見通しが悪いです。なかなかのカオスです。堀切かな~?と思う場所もありますが、草を刈って公開してくれないかな~。
※1

※1 おこられるといけないので削除しました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

しんちゃんさん、大正解😍

さすがしんちゃんさん、大当たりです。
負けず嫌い感、結構好きです。

唐沢山城は関東では5本の指に入る城だと思います。
(私の中ではNo.1かも)
ただどのサイトでも「関東では珍しい高石垣」「猫がお出迎え」が売りとなっているのに違和感ありなんです。
やはり関東の城の良さは土の造作や岩盤の加工だと思っています(個人の見解です、確かに石垣も素敵)。

唐沢山城に置いてあったパンフレットをみると石垣だけではないことがわかっていただけるでしょうか。
四ツ目掘から南東に降りる道沿い、NHKの最強の城で紹介された千騎が入、北城先の二重堀切など。
また北側の動線を兼ねた何条もの竪堀もあります。
北側の栃本公園は居館があったと思われ、ここにも土塁が残ります。
まだ全部見れてませんがじっくり時間をかけて歩きたいおすすめの城です。

関東は公共の交通機関で行きやすい城が多いのでコンプも比較的にしやすいですよ。
ぜひチャレンジしてください。

ぴーかるさん、故郷の城は未訪が多いので勉強させてください。
尼子十旗制覇、尊敬してます!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

丸山城 (2024/10/05 訪問)

【丸山城】
<駐車場他>駐車場はなし。多目的広場駐車場(重箱緑地公園)に駐車して歩いて登城しました。
<交通手段>車

<感想>初秋の鳥取縦断平山城攻め旅3城目。丸山城は1581年に鳥取城の出城として吉川経家が築城したとされます。また天正年間に築城したとする説もあります。秀吉の鳥取城攻めの際には賀露港から袋川を利用し鳥取城へ物資を運び入れる拠点の城として隠岐水軍の頭領である奈佐日本之介らが入城します。籠城当初は物資を運び入れていたそうですが、港が秀吉軍によって封鎖され、鳥取城とともに籠城しますが、鳥取城の落城とともに丸山城も開城します。奈佐日本之介、退避してきた雁金山城主の塩冶高清らは秀吉によって自刃させられました。
 重箱緑地公園の駐車場入り口の北側道路沿いに日本之介の慰霊碑があるのに痛恨の見落とし、登城口は<35.521624,134.224221>水道施設右手の山に入り込みます。コンクリート階段がありますがだいぶ崩落して登りにくいです。途中道もロストぎみになっていますが比高が低いので何となく登って行けばすぐ尾根上(石仏が2体)に出ます。位置情報の確認をしながらGoogleマップの丸山城跡まで行きました。尾根上曲輪になっていて少し狭いが削平地と土塁が見受けられました。城びとポイントは北の弘法寺になっていて気付かなかったので行かなかったのか、削平地奥に廃屋があり、中に弘法寺と書かれた木と仏像があったので、ここがそうなのかポイント合わせをしなかったのでちょっと消化不良で終わる。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

クイズむず(>_<)

 朝田辰兵衛さん、俺にとってはムズかった(>_<)。名古屋城は2017年に行ったきりで、まだ私も城知識がぺーぺーの時でした。写真も少なく埋門跡の写真はありました。答えを知って、確かに南蛮たたきって埋門跡の北側にあって、写真を撮らなかったのも今思い出しました。でもとてもいい問題でさすがです。
 しんちゃんさん、赤い城さんのクイズもムズそうですね。私は関東の攻略を始めたばかりなのでわかるはずもなく‥‥しかーし、もし赤い城さんから俺にクイズを出すとしたら、俺も大好きな地方、赤い城さんの故郷の島根県のいい山城から出題されるに決まってますから、答えられそう!(^^)!。

+ 続きを読む

しんちゃん

本丸周囲の石垣 (2024/06/15 訪問)

破城の痕跡が残るとはいえ、金山城の石垣は十分魅力的です。出丸の石垣は、奥手の方は、この城で最も古い石垣が残っているようです。
三の丸にも石垣が残り、石造りの大手枡形を経て、二の丸に至ります。本丸の南西端は天守台になっていますが、ここの石垣も崩されています。本丸南東部には石造りの本丸虎口があり、本丸東側の石垣は巨大なチャートの岩盤の上に乗っているようにも見えます。
また本丸虎口の良く見える部分に縞模様の入ったオシャレな石があります。いわゆる「見せる」ための石というやつでしょうか?
さすがは織田氏の重臣・森氏の城ですね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

こっちじゃなかった・南小弓城 (2023/05/06 訪問)

赤い城さんのクイズの場所は、唐沢山城の「南城から降りた先の馬出し状の堀と土橋」ですね。といっても私はそこへ行ってないので、写真見てもわかりませんでした(笑)。いろいろ調べて、進展が無いので赤い城さんの投稿を3時間半ほど、追っかけてました。
まるで赤い城さんの「ストーカー」みたいです‥(ドロロロロ‥)
いや、純粋にヒントを探していただけです(汗)。1都6県を攻略したということは関東八州を制覇したということですか?
凄いですね。私もコンプを広げていく刺激になります。

写真は南小弓城です。生実城は別名、北小弓城と言いますが、こちらは南の方ですね。原氏の城ですが、永正14年(1517)足利義明に奪われ、義明は小弓公方を名乗ったそうです。南小弓城は小弓御所と呼ばれますが、天文7年(1538)の第一次国府台合戦で義明が敗死すると、原氏により奪還され、城の北側に新城(生実城)を築いたとのことです。
近年の調査では二つの城が室町時代の同時期に存在していたとされ、二つの城を合わせて「小弓城 / 生実城」とする可能性もあるようです。南小弓城は現在は墓地となっており、背後に堀切が有るようです。墓地への道は狭く、近くに車を置いて歩いて行った方が良さそうです。とりあえず「いった」はお預けにしておきます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

本丸北側2条の堀切が必見…👀 (2024/07/09 訪問)

肥薩おれんじ鉄道線八代駅でレンタサイクル。春光寺の駐車場に停め,そこから徒歩で向かいました。登城口から先は,あまり整備されてるとは言えないと思いますので,気を引き締めて攻城ください。
本丸到着で終わったらもったいないです。北側2条の堀切がキレイに遺っています。
この日は夏場の盛りということもあり,草木の繫茂で眺望は開けていませんでした。眺望は叶わなくとも,天候に恵まれてようやく攻城できたという実感に包まれました。
2024年の九州攻めはこれにて終了。空路で越後へ…✈

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

熊本城見学 (2024/10/02 訪問)

天守と小天守が震災から復旧されたので見学。天守と小天守以外の復旧はまだまだで、全体が元の状態になるのは、2050年以降との説明であった。

+ 続きを読む

じゅんじん

表のみ (2024/09/08 訪問)

16年ぶりでしたが時間の都合ではいれませんでした。街並み散策やや櫻山八幡宮もよきです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

とことん岡山城(後楽園) (2024/09/14 訪問)

今年最初の遠征は岡山県です。岡山県はかろうじて日帰り圏内ですが、日帰りだと時間の制約により取りこぼしが多く出てしまうこともあり、前日から始まったニッポン城めぐりのイベントをポチ制覇しつつ、これまでの取りこぼしを回収してしまおう、ということで、まずは昨夏の取りこぼし、岡山城の後楽園から。

後楽園は江戸中期に池田綱政が津田永忠に命じて築いた回遊式の大名庭園で、日本三名園のひとつとして知られます。藩主の居間にあたる延養亭、中央に広がる沢の池、園内を見渡す唯心山、亭内に水路を通した流店、季節の花木など見どころは多々ありますが、城好きとしてはやはり岡山城天守を借景とした景観に目を惹かれます。正門から園内に入ると、芝生の中の園路の正面にどどんと天守が聳えていますし、沢の池と唯心山越しに望む天守も大名庭園ならではの景観です。五十三次腰掛茶屋の連子窓越しには額縁に入ったような天守を眺めることができました。

他にも、慈眼堂の前に据えられた烏帽子岩にはたくさんの矢穴が見られますが、石切場で36個に割って運んで組み直したものであり、花葉の池の大立石にいたっては90数個に割って運んだものを組み直したんだとか。さすがは大坂城天下普請で数多くの巨石を据えた岡山藩・池田氏だけあって、巨石を扱わせれば天下一品ですね。慈眼堂の裏手には馬場が東西にのび、観騎亭の藩主に家臣が馬術を披露する行事が行われていました。正門近くには弓場と観射亭もあったようです。最後に、発掘調査により確認された御舟入跡へ。藩主が岡山城から旭川を舟で渡って訪れる際の舟着場であり、舟溜まり跡と御成御門に続く雁木が公開されています。

純粋に庭園として見応えがあるのはもちろんながら、あちこちから天守が覗いていたり、巨石に岡山藩の石垣技術を感じたり、馬場や舟入があったり…と、随所にお城を感じさせるところもあって、なお一層楽しませていただきました。さて、後楽園をひとめぐりすると、月見橋を渡って岡山城天守に向かいます(続く)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:五條代官所(城びと未登録 奈良県五条市) (2024/09/29 訪問)

今井城から徒歩25分くらいで、民族資料館入口(34.350322、135.691139)に着きました。
民族資料館を見学した後、長屋門土塀石垣見学入口(34.350193、135.691442)に向かい、土塀や石垣を確認しました。

1864年(元治元年)江戸幕府によって築かれました。
五條代官所は1795年(寛政7年)に築かれたのが始まりで、吉野郡、宇陀郡などの天領50,000石余りを管轄していました。
しかし、1863年(文久3年)天誅組によって代官所は焼き払われ、翌1864年(元治元年)に現在の位置に再建されました。

現在は五條市史跡公園となっていて長屋門や土塀、石垣が現存しています。
民族資料館の開館は、10:00~16:00で無料で見学できます。天誅組のTシャツを購入しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=二見城へは、ここから徒歩で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:今井城 (2024/09/29 訪問)

五条駅から徒歩10分ちょっとで、石碑前(34.360097、135.702184)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、三箇氏によって築かれたと云われています。

西の道路に面した水田への入口脇に石碑が建てられています。
その両側に空堀はありますが、草に覆われ深さなどの堀の様子はよく分かりませんでした。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=五條代官所(城びと未登録 奈良県五条市)へは、ここから徒歩で向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:秋津城 (2024/09/29 訪問)

下市口駅から徒歩25分くらいで、説明板前(34.371915、135.791480)に着きました。

当地の看板によれば、秋津氏の居城で南北朝時代は南朝方として南朝を支えた一族でした。
1559年(永禄2年)に落城炎上したとのことですが、よく分かりません。

秋津城は八幡神社の裏山になり、城山と呼ばれています。
東側は墓地が広がっており改変もあるものと思われ、実際、郭の一部は墓地として現状利用されているようです。
石碑があるはずだと思い、ウロウロしてみましたが見つけられませんでしたが、堀切は確認しました。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=今井城を目指す為、下市口駅から電車で五条駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:越智城 (2024/09/29 訪問)

貝吹山城の登城口入口付近から徒歩15分くらいで、居館跡入口付近(34.464220、135.769534)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、越智氏によって築かれたと云われています。
越智氏の出自は詳らかではありませんが、南北朝時代には大和における南朝方の中心となり、北朝方の筒井氏と対立したようです。

越智城は南に向かって開口した谷間に築かれていました。
南へ向かって開口した谷間に居館を設け、南を除く三方を取り囲んだ尾根を要害としていたそうです。
また東側にある貝吹山城は詰城のようです。

居館があったとされる場所は畑などになっており、遺構なのか、よくわかりません。
雨が降りそうなので、駆け足で見学した為、攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=秋津城を目指す為、掖上駅から電車で下市口駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8目:貝吹山城 (2024/09/29 訪問)

今日は移動距離が長いので、ホテルでの朝食は抜きで出発しました。
新王寺駅から始発電車で飛鳥駅に到着しました。
飛鳥駅から徒歩25分弱で、登城口入口付近(34.464639、135.780722)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、越智氏によって築かれたと云われています。
1546年(天文15年)筒井順昭によって攻められて落城し、以後は筒井方の城となりました。
1549年(天文18年)と1557年(弘治3年)に二度に渡って越智方が貝吹山城の奪還を試みますが、いずれも失敗しました。
その後、大和に進出した松永久秀の城となったが、1566年(永禄9年)瓜田某の内通により越智氏の城となりました。
その後、1568年(永禄11年)から翌1569年(永禄12年)にかけて松永久秀や久通などが貝吹山城を攻め、1569年(永禄12年)に松永方へ明け渡されました。

主郭は山頂にあり、無数の平段が曲輪跡と思いますが、明瞭な遺構ではないようですが、石碑は確認できました。
手作りの説明図と縄張図がありました。
雨が降りそうなので、駆け足で見学した為、攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=越智城へは、ここから徒歩で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

赤い城さん ありがとございます‥‥ (2024/10/27 訪問)

赤い城さん ありがとうございます。初見、杉山城かなと思ったのですが、なんか背景が違う。
これ「唐沢山城」じゃないですか(涙目)確かにこの城は行ってますが、こんなマイナーなとこ行ってませんよ(滝涙)。

「参った」するのイヤなのでずーっと調べまくってました。こりゃ大変だ‥
ぴーかるさん、これは覚悟しておいた方が良いですよ。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ166