関東1都5県8名城巡り 佐倉城跡・水戸城跡・足利氏館・太田金山城跡・箕輪城跡・鉢形城跡・川越城跡・江戸城跡を二泊三日で巡ってきました。
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2024/04/14 10:27
2024/04/14 08:38
2024/04/13 22:24
国防最前線の城 (2024/03/10 訪問)
宿営先からレンタカーで出陣。県道から城址入口までの道は狭く対向困難。事前に把握していたとはいえ恐る恐る進軍。なんとか入口に到着も入口前には車3台、その少し先のスペースにもタクシーなど2台占拠中で着陣できず。「登城口まで100メート」を示す案内板のところにあったスペースまで後退してそこへ駐車し登城開始。
いくつかのパンフを参考に、眺望を楽しみながら攻城。入口→東南角石塁・南門→東屋分岐→城山砲台跡と進み、約90分で城山山頂へ到達。東南角石塁や登山道途中の石塁と交わる地点では、海をバックに蛇行する石塁が望める。山頂では浅芽湾とその先の水平線を一望。古代、国を守った防人も目にした風景と思うとなんとも感慨深い。
山頂から東屋分岐まで一気に下リ、分岐を左に折れビングシ門→ニノ城戸→一ノ城戸→大喜戸神社まで進む。整備が進む二ノ城戸や一ノ城戸は完全ではないものの見事な石積み城門が見られる。
Uターンしてビングシ門まで戻って沢ルートを進み、三ノ城戸→東南角石垣へ合流。入口まで戻り4時間15分の攻城。
下城後、車で1時間ほど烏帽子岳展望台から金田城全景を見て対馬を離れる。
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2024/04/13 20:44
桜の名所100選 (2024/04/07 訪問)
岡崎城は徳川家康公の祖父清康公が入城して以後、松平氏・徳川氏代々の本拠地であり家康公誕生の城でもあります。明治まで残存していた岡崎城の天守は、本多康紀公が築いた望楼型三重天守で、この古写真をもとに現在の鉄筋コンクリート造りの天守が再建されています。
また、岡崎公園の正門として1993年に復興された大手門、2010年に木造で復元された東隅櫓、青海堀と言われる空堀、本丸埋門跡横の高石垣等々見所の多い城跡ですが、この桜の季節ではこの城が最も賑わいます。
桜の名所100選に選定されているこの城は桜が本当によく似合います(*^_^*)毎年、お花見には欠かさず来ています。4月7日(日)岡崎公園花見祭り最終日に来訪(*^_^*)乙川の河川敷にキッチンカーが80台近く来ていたのではないでしょうか?催し物も開かれ大変な賑わいでした。
この桜が咲く時期に車で来られる方は、駐車場が満車で駐車場難民になる恐れがありますので、岡崎市役所に駐車されると良いと思います。1.5Kmほど歩きますが、乙川の堤防沿いに咲く桜を見ながら公園に向かうと良いと思います。
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2024/04/13 17:21
丸岡藩の「本気」がここにある (2023/10/08 訪問)
幕末に海沿いの各藩が自領に築いたお台場の一つだが丸岡藩は藩主自らが江川太郎左衛門に弟子入りするほど西洋軍学に入れ込んでいたそうだ。いわば丸岡藩の「本気」がここにあって、これがまたいい感じによく残っている。
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2024/04/13 16:45
豊橋公園 (2024/04/13 訪問)
近くへ来る機会があったので、ぶらりと立ち寄りました。何回も来ている城址で、近くでは昨年の夏にも来ているのでさらりと散策し退却しました。鉄櫓、石垣もいい感じですが、空堀が結構好きです。
余談ですが、昼飯に豊橋市の御当地グルメ豊橋カレーうどんを勢川本店さんでいただきました。豊橋カレーうどんはカレーうどんの下にとろろ御飯が存在するユニークなうどんです。
豊橋カレーうどん5箇条という決まりがあり
1.自家製麺を使用する。
2.器の底から、ごはん・とろろ・カレーうどんの順に入れる。
3.豊橋産ウズラ卵を使用する
4.福神漬又は壺漬・紅しょうがを添える。
5.愛情を持って作る
が条件となっているようです。余談の方が長くなってしまいました。
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2024/04/13 10:27
今年三度目桜の頃 (2024/04/07 訪問)
掛川城は天守閣木造復元30年目に成ります、令和6年初登城に掛川城を選び天守閣も登閣、3月1日には掛川桜満開の頃登城し、染井吉野桜満開に合わせて3度目の登城、掛川城は掛川桜と染井吉野桜で二度も美味しい所です。
掛川城天守閣開門30周年記念の祝30周年掛川城満開まつりが3月30日31日に30周年記念事業キックオフとして開催されて居ります、私は出かけませんでしたが掛川城天守閣プロジェクションマッピング、コンサート、ミュージアムマーケットなどが有りました。今後も30周年記念の企画行事があるものと思います。
今年も桜の満開に合わせて遠州路城廻、浜松城、遠江国分寺、久野城と廻って掛川城へ、車は有料大手門駐車場を利用して大手門、大手橋からの天守閣群の眺望、逆川沿い掛川桜は葉桜、染井吉野は満開、緑とピンクのコンビネーション、緑橋からの眺め、三の丸からの眺め、二の丸御殿のミツバツツジと染井吉野桜、二の丸御殿、本丸より桜と天守閣、太鼓櫓、四脚門と土塀を入れて撮影、桜と城の眺めはいつ見ても良いものです。
大勢の観光客でにぎわい昼食を城下で取りましたが満席の所が多く3度目に以前食事した老夫婦の店が1席空いたところでようやっと入る事が出来てゆっくりと昼食する事が出来ました。
この後は勝間田城、諏訪原城へと向かいました。
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2024/04/13 08:26
お約束のト〇ックが‥ (2024/03/10 訪問)
中島城はこの地域の豪族、中島氏の城だったと伝わります。中島氏の祖は嵯峨源氏の流れを汲むとされ、承久3年(1221)に当地に土着したそうです。戦国時代に織田信長らによって落城しますが、領地を与えられ羽柴秀吉の家臣となり、中島氏重(氏種)は大阪城に移って大阪七手頭に任じられたそうです。
石碑のバックに、ぴーかるさんの投稿や城郭放浪記さんの写真に写りこんでいたトラッ〇がいらしゃいます。すでにお約束になりつつあるので、そのまま投稿しちゃいます。
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2024/04/13 08:10
ワープ (2024/03/10 訪問)
下津城は織田敏広の居城でした。古くは応永7年(1400)尾張守護・斯波義重が守護所を置いていたとされます。今では石碑しか残っていませんが、かつては立派な城だったことでしょう。とういか石碑はどこ行った?wikiや城郭放浪記さんの写真だと県道沿いに建っているはずなんだが。この周辺の城は石碑や城址碑がないと載せる写真がないです。
と思ったら学校の片隅にありました。諸般の事情でこちらに移動してきたわけか。かつての石碑が建っていた場所が土塁あとであっているのかな?
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2024/04/13 06:11
2024/04/13 05:44
村上水軍の城跡 (2024/03/30 訪問)
土日祝のみ運行している能島上陸&潮流クルーズに参加!
限定御城印と説明ガイドの方がいて、大人1名あたり2500円。
岩に穴を開けて杭を打っていた跡である「岩礁ピット」や、平らに整地された曲輪跡くらいしか城の遺構はないけど、かつて敵を寄せ付けなかったであろう激しい潮流や島の頂上から見る景色は絶景!
大島にはきれいな砂浜や釣りができるポイントがたくさんあり、子供も一緒に楽しめる。
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2024/04/13 04:35
近江の城めぐり③ (2024/03/09 訪問)
青地城からの転戦です。草津市立武道館がその故地で、城門風の門が建っていてその脇に説明板がありました。そこにはイメージ図が載ってていて円形単郭の城であったことが記されています。
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2024/04/12 23:56
2024/04/12 23:26
関ヶ原ツイート 合戦前日に毛利輝元と徳川家康の間に和睦は成ったのか? (2024/03/31 訪問)
関ヶ原の合戦の疑問① 合戦の前日9月14日に毛利輝元と徳川家康の間に和睦は成ったのか?
可能性は有ると思います。でも100%そうかと言われると、そうとは言い切れないんですね。個人的にいくつか腑に落ちない点はあります。
総大将が敵に通じるというのが倫理的にアウトだというのも有りますが、合戦で西軍が壊滅状態になれば、毛利は無傷でも毛利領の周囲は東軍の武将たちに囲まれてしまいます。毛利包囲網が完成してしまったら、仮にも西軍の総大将だった輝元の身は危ないんじゃないでしょうか? 家康からすれば決戦に勝利して毛利を大阪城から退去させ、秀頼の身柄さえ確保すれば、あとは舌先三寸でどうにでもなると思います。(実際そうなった)
また秀元に知らせず、広家主体で講和を進めさせるというのも危険です。輝元の名代はあくまで秀元で、秀元の預かり知らぬところで広家が東軍と通じれば、秀元が広家の身柄を拘束するか、殺害するかもしれません。最悪の場合、同族の軍で同士討ちになる可能性もあると思います。この時代の若者は決して甘くはないと思います。
合戦の前日、井伊直政・本多忠勝の起請文が吉川広家・福原広俊に送られ、福島正則・黒田長政の起請文も提出されています。
輝元の同意なしに広家が独断で起請文を要求したとすれば、どのようなメリットがあったのか。これらの起請文を秀元に提示して、輝元の同意の上で和睦が成ったと説明すれば、秀元は東軍を攻撃できなくなると思います。早馬を出して輝元の真意を確認しようにも、その時間はありません。秀元の動きを封じたいのであれば、この方が確実だと思います。
であるとすれば南宮山の配置も、もっと自由に考察できるのではないでしょうか? 話がややこしくなるので専門家はあえてつっこまない所ですが、私は何のしがらみも無いので‥。関ヶ原の布陣図は江戸時代と明治に考察されたもので、その内容には否定的、肯定的なさまざまな意見が有るようです。
可能性は低いですが家康が窮地に陥った場合は、即座に東軍を攻撃する必要が出てくるので秀元・広家はその備えをしていた可能性もあると思います。南宮山にどれだけの兵を駐留できるのかの確認もしたかったので朝倉山から尾根伝いに南宮山に向かいました。
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2024/04/12 22:17
2024/04/12 21:44
新田義貞最後の攻城 (2023/10/07 訪問)
金ヶ崎城の死地を逃れて越前で勢力を整えた新田義貞が足利方の斯波高経とここで激戦を繰り広げ、ここから藤島城の督戦に赴いた義貞は弓矢に囲まれ落命した。つまり小黒丸城は義貞が最後に攻めたお城ということになるようだ。
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2024/04/12 21:18
2024/04/12 20:54
林秀貞との関係は? (2024/03/09 訪問)
田幡城は金城小学校の周辺に築かれていたようです。越智信高により築かれ、その子・林弥助の時代に城は拡充されています。林秀貞との関係は今一つ定かではありませんが、織田信長が家中を掌握した稲生原の戦いの後に廃城になったようです。
近くの公園の園名碑がそれっぽいので掲載します。小学校の写真はパスです。
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2024/04/12 20:05
織田伊勢守家の居城。 (2024/03/10 訪問)
岩倉城は文明11年(1479)に織田兵庫助敏広によって築かれたと現地案内板には記されています。織田伊勢守家はここを拠点とし尾張上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を支配しました。城域は東西約91m、南北約171mとされ二重に堀を巡らせていたようです。
弘治3年(1557)岩倉城主・織田信安は信長に反旗を翻した織田信行(信勝)と結び、信長に攻められ永禄元年(1558)浮野合戦で敗れ、翌年3月に岩倉城は落城したそうです。さすが時代の風雲児の信長公ですね。
信長公というと謀反(下剋上)で命を落としたイメージがありますが、彼も主筋を次々と蹴落としてのし上がっていったんですね。
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2024/04/12 19:06
太鼓や笛を打ち吹き鳴らしても天女は戻らず‥‥ (2024/02/17 訪問)
【打吹城】
<駐車場他>倉吉市役所第1観光駐車場を利用しました。
<交通手段>車
<見所>主郭・主郭櫓台
<感想>日帰り羽衣伝説の旅3城目。打吹城は南北朝時代に伯耆国守護の山名時氏の嫡男である山名師義が築城したと伝えられ、田内城から守護所を移しました。戦国時代には羽衣石城と共に南条氏の支配するところとなりますが、毛利氏に羽衣石城と共に落城します。南条氏は羽柴秀吉に味方したため、鳥取城攻めの和睦で再び支配下に戻ります。この後に打吹城は城郭の改修をして、現在残る櫓台や石垣遺構が見られます。城下町もこの時に整備され倉吉と呼ばれるようになります。城は一国一城令で廃城となり、1617年に池田氏が鳥取に入封したのち、倉吉に陣屋が置かれ明治まで続きます。
また打吹山は羽衣伝説のお話の中で、隙をみて羽衣を取り返した天女が天に帰った後、母を偲んだ天女の子供たちが、打吹山の山頂から太鼓や笛を打ち鳴らして母を呼び戻そうとしますが遂に天女は戻って来なかったと伝えられている山です。
登山道は打吹公園からと陸上競技場からの2つのルートがあります。大手道は陸上競技場からと思われますが、打吹公園から登りました。展望台・備前丸という曲輪があります。途中に深い切通しが1本竪に通っています。備前丸から山頂の主郭までちょっとした削平地が点々とあります。主郭は東西に広大で、東隅に石垣の残る櫓台、櫓台前に礎石が残ります。前述の織豊期城郭改修時の遺構と思います。櫓台のすぐ横に東虎口がありここにも石垣が僅かに残っています。主郭東下段に堀切土橋があり、副郭があります。副郭の曲輪壁には多く石垣が残っています。更に下って虎口、武者溜まりがあります。
山全体が公園化されて改変されているかと思いましたが、山頂の主要部は明瞭な遺構がそのまま残っており、なかなか見応えのある城跡でした。
<満足度>◆◆◇
<周辺観光・グルメ>下山後に倉吉伝建地区、山陰地方のラーメンは牛骨がメインらしくて、伝建地区にあるラーメン「縁(えにし)」で昼食をとりました。ちぢれ麵のあっさり塩牛骨スープラーメンでした。
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