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WEST

北畠氏館・霧山城探訪 (2025/01/24 訪問)

北畠氏館を訪問しました。三重県美杉町にあり、山麓に居館跡、その裏山に詰城跡で、山頂に霧山城跡があります。
登城の前に美杉ふるさと資料館に立ち寄りました。ここでは、霧山城跡までの登城案内及び関連情報を入手することができます。霧山城跡まで登城する場合はお勧めです。
山麓の居館跡は、現在北畠神社が建っています。遺構は少ないですが、館跡庭園があります。
北畠神社でお参りしてから、山城である霧山城跡を目指して登城します。登城道入口から霧山城跡までは約40分の道のりとなります。
10分程度登ると詰城跡です。そこから南曲輪跡(鐘突堂跡)まで登り、次が頂上にある米倉跡、本丸跡、矢倉跡となります。頂上までは迷うことなく進むことができました。
全行程2時間弱でしたが、山城登城の達成感を味わいました。

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WEST

田丸城探訪 (2025/01/24 訪問)

田丸城を訪問しました。田丸城は南北朝時代の北畠氏の砦から始まり、戦国時代に織田信雄が天守閣を含めたお城に改修したとのこと。その後城主が変わりながら紀州徳川家の家老久野氏が明治維新を迎えています。
玉城町役場に自動車を駐車し大手口門跡から登城しました。二の門跡を通り小学校敷地を迂回して本丸虎口から城内を散策しました。
建物の遺構はありませんが、二の門跡、本丸跡の石垣は見事です。石垣好きにはたまりませんね。なお、天守跡にはライトアップ用天守が建っています。
城内は遊歩道が整備され、石垣を眺めながら周ることができ、散策し易いお城だと思います。
なお、玉城町役場のロビーにパンフレットがありますので、散策の参考になりますので寄ってみるのをお勧めします。
伊勢神宮から近いですので、参拝の後に訪問するのも良いと思います。

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トト海

雨の中津城 (2025/02/01 訪問)

あいにくの雨、寒かった。

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Maturibaka

雪の高取城 (2025/01/11 訪問)

「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」 大和盆地から見た高取城威容を歌ったものですが、江戸期を通じ植村家の家禄は多くて僅か2万5千石程度の小藩であったにも拘わらず、よくこんな大規模な山城を維持していたと感心してしまいます。
 今回は久しぶりに、上土佐の街中から大手道を登り、最奥は弥勒堀切まで見てきました。
 最後はヘロヘロになったため、岡口門址へ行くのは諦め、真っ直ぐ大手道を引き返しました。
所在 奈良県高市郡高取町高取
登城 令和7年1月11日

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イオ

西山城(滋賀県高島市朽木市場・荒川・西山) (2024/11/09 訪問)

西山城(城びと未登録)は、文献資料に記載がなく詳細は不明ながら、朽木氏が朽木城に拠点を移した後に詰城として築いたと考えられています。

朽木陣屋から北に約200mの住宅地奥に西山城の登城口があります。登城口から少し行くと西山城遺跡の説明板があり、その先は軽トラが通るような未舗装道(愛宕神社の整備道?)をひたすら歩きます。登城口から約25分で尾根筋に出て、出曲輪の表示もあったのでやっと着いた…と思いきや、そこから主郭部までまだ10分ほどかかりました。

主郭西麓の愛宕神社にお参りしてから登って行き、主郭南下段の南曲輪に取りつきました。南曲輪は南裾の尾根筋を堀切で遮断し、東辺は主郭から続く土塁の外側に竪堀を落としています。南曲輪の北西部には主郭に通じる枡形虎口が設けられていました。

主郭は周囲に土塁をめぐらせていますが、北端のひと際分厚く高いコの字型の土塁は、西山が地元で烽台(ホウダイ)と呼ばれていることから烽火台の遺構と考えられるようです。現在は樹木で眺望はききませんが、東に安曇川、西に若狭街道を見下ろす位置にあり、なるほど烽火台や見張台には好適地ですね。

主郭北西部の虎口から北下段の北曲輪へ。北曲輪の北辺から東辺にかけて土塁がめぐり、東辺の土塁の食い違い部の石積みは溜桝の遺構と考えられています。北曲輪北裾の尾根筋は3条の堀切で断ち切り、その先には北出曲輪がある…らしいのですが、手持ちの縄張図には載ってなかったため、堀切までで引き返してしまいました(主郭にある説明板の周辺図には載っています)。

小規模な詰城ながら烽火台も堀切もなかなか見応えがありました。ただ、登城道もよく整備されていて歩きやすく傾斜も緩やかなのはいいんですが、そこそこ距離があるため、打下城と田中城で結構歩きまわった身には地味に堪えました…。
 

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トク

福岡城天守論争に進展(ついに天守台発掘調査へ)

福岡城の天守論争で新たな動きがありました。福岡商工会議所から、有識者と経済界で意見をまとめた、今後の福岡市のとるべき方向性を示す「提言書」が出され福岡市長に手渡されました。内容をまとめると
① 天守は江戸初期(慶長期)に建てられそして(元和期)に壊された。
② 構造は五重六階・地下一階で姫路城と同程度の大きさであった。
③ 外観は黒を基調にした下見板張りと白漆喰であった
④ 市民へのアンケート結果で59.1%が復元に賛成である。
よって完全な復元ではなく、資料などを多面的に検証した、実物に近い形の「復元的整備」で今後迅速に進めるよう市長へ提言する。といった内容でした。

これに対し、文化庁の見解は今までと変わらず慎重で、
① 城の設計図や写真などの直接的資料がない。
② 福岡城は国の史跡なので復元には国の許可が必要。
③ 今ある石垣の上に建てても地盤が耐えられない。
という事で、現時点では「復元的整備でも不可能」というスタンスを崩していません。

この提言を受けて福岡市長は、ならば文化庁と本格的に学術的な発掘調査を、まだ手付かずの天守台を中心に一緒に行いましょうと提案し、国の発掘許可も下りそうなので、その費用を来年度予算案に計上するという発表がありました(写真①②)。

提言の内容を見る限りでは、私には目新しいものは感じられず、復元ありきで観光の目玉にしたいという経済界の意向が強いような気もしますが、ならば市としてはまず天守が確かにあったという痕跡を探すため、掘ればまだ地中に壊した時の柱や瓦の一部がもしかして眠っているのではないか? そのような決定的な証拠を見つける事で、天守が建っていたかいなかったかの論争の部分からまず決着を図りたい考えのようです。また並行して文献資料の再調査も福岡市博物館で行なわれるとの事です。

関ケ原後の1602~1607年頃にかけて福岡城は黒田長政により築城されますが、1644年の正保の絵図には天守台には何も描かれておらず、この時期には間違えなく天守は無かったようです。1620年頃に、徳川秀忠に細川との騒動の弁明をするため江戸に行った黒田長政は、徳川に忠誠を誓うための証として福岡城の天守を自ら壊した旨を報告しています。同じ頃の細川忠興の手紙などからも、長政は自ら天守を壊してその部材を徳川大坂城の築城に差し出した旨が記録されています。家臣の手紙には、天守を御建てになったとか天守の欄干が腐ったので修理せよなどと欄干付き天守があった事を示す手紙も発見されています。しかし有識者の間では、それは小天守の事で大天守は最初から家康をはばかって築かれてはいなかったので復元する事自体がおかしいという意見と、いや大天守は最初から築かれていたので復元するべきであるという意見に分かれて今日まで論争が続いてきました。

さあ掘って本当に何か出てくるのでしょうか? もし万一大天守の存在を示すような決定的な証拠が出てくれば、市長と経済界の逆転ホームランになり復元への機運が一気に高まるかもしれませんね!(逆に出なければどうなるのだろう🤔?)。 長く続いているこの論争、1年後にはどのような進展が待っているのか? それを楽しみに見て行きたいと思います。

今年のさくらまつり期間中も、また幻の天守ライトアップが行われるようです。ただし終了後に発掘調査を始めるので、幻の天守期間中も天守台へは登れませんが、終了後も発掘調査のため天守台とその周辺は一部立ち入りが規制されそうなので、その際は御協力をお願いしますとの事でした。

これまでの提言内容に至った経緯の詳細を知りたい方は、以下にまとめられたHPがありますので、よければ御覧下さい。また地元テレビ局のニュース映像からわかりやすいよう要点を抜粋してみました。御参考まで(③~⑩)。
https://www.data-max.co.jp/article/71404
 

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藤堂高虎 (2025/02/01 訪問)

 久しぶりの津城です。天正年間に織田信長の弟、織田信包が築城し、慶長13年(1608年)の藤堂高虎が伊予から入国し大改修を行いました。お城公園として整備されています。
模擬三重櫓が目につきますが、石垣が魅力的な城址です。一部野面積みの石垣がありますが、織田信包や富田信高の時代に築かれた石垣で、藤堂高虎が改修した以後の石垣は打込みはぎもしくは切込みはぎのようです。
模擬三重櫓から徒歩5分くらいの百五銀行丸之内本部棟横で数年前発見された内堀の石垣が復元整備されていました。

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大多和監物 (2025/02/01 訪問)

 織田信長の伊勢侵攻に際して木下藤吉郎がこの城を攻めましたが、大多和監物が濃霧の助けもあり守り抜いたと伝わる城です。土塁に囲まれた主郭を中心にして、東と北に曲輪があります。また堀切を隔てて南東の尾根も曲輪であったと思われます。主郭の出入り口は東と南にありました。南の虎口から出ると堀切があり橋が架かっていましたが、ロープで遮られ通行できません。裏登城路と標識のある井戸跡から堀切付近を通って行くと南東の尾根に行くことができました。南東の尾根の西と東に堀切があります。東の堀切は浅くなっていますが、西側の堀切は見応えがあります。井戸のある場所は谷と思っていましたが、歩いて見ると空堀のようにも思えます。井戸は2カ所あると記載された情報もありましたが、一つしかわかりませんでした。
 城域は広くありませんが、堀切、土塁、曲輪などが明瞭で楽しく散策できる城址です。

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HKISD

御着城散策 (2025/01/31 訪問)

小寺氏の城、黒田官兵衛が小さい頃から支えた所、ここから官兵衛の策士が始まったと思います。

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HKISD

明石城散策 (2025/01/31 訪問)

姫路城より大きい敷地だったそうで櫓は素晴らしいのは当然ですが野球場含め色んな競技のフィールドがありました。

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HKISD

尼崎城散策 (2025/01/31 訪問)

尼崎城を散策しました。
スタッフの対応が素晴らしかったのが印象的でした。

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HKISD

有岡城散策 (2025/01/31 訪問)

荒木村重の城、黒田官兵衛が幽閉された所です。
良く耐え抜いたと思いました。

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HKISD

亀山城散策 (2025/01/25 訪問)

お墓の所から登りましたがどこも行く場所がなかった。
この地区は危険区域になって禁止になってました。

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チェブ

印旛沼はそのままで。 (2025/01/04 訪問)

千葉氏一族、臼井氏の居城の「臼井城」。
「臼井城址公園」として整備され、駐車場完備との情報。
東京の端っこから車で4時間かけて着陣。(高速道路を使えば2時間弱)しかし、ナビは駐車場を案内せず、近くのお寺で案内を終了しました。
ずーっと運転。いい加減、体を動かしたいので、お寺の駐車場をお借りして歩きました。
『臼井城址公園』の看板を見つけ上ると、本丸になるのでしょうか、開けた郭に到着しました。周りには土塁が残ってます。
上杉 謙信さんが落とそうとした「臼井城」。どちら辺りに着陣したのか眺めれば、印旛沼が見えます。

誰もいないので、ストレッチをして深呼吸。土塁の傾斜でふくらはぎを伸ばします。

「臼井城」の天然の要害になっていたであろう印旛沼。
2025年の大河ドラマ『べらぼう』に出演中の、田沼 意次さんが印旛沼を開拓して田んぼを増やす計画をしていたんだとか。
結局、後の洪水と失脚により頓挫してしまいました。

のんきに伸びをして、城址公園ではなく運動公園と勘違いしてしまった「臼井城」攻めでした。

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朝田 辰兵衛

上永谷駅から徒歩で…🐾 (2024/12/24 訪問)

上永谷駅から徒歩約20分で到着。野庭中央公園は団地に併設されており,憩いの場として人気があるカンジがしました。
公園内の最高所は主郭かな…ワキを走る舞岡上郷線は堀跡かな…と想像を巡らせました。そもそも,フラットなエリアは改変されたのだろうと考えるのが自然かな…❓

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イタさん

飯高砦跡 千葉県匝瑳市飯高 (2025/01/29 訪問)

天神砦同様に飯高城の支城(砦)として機能していたらしい。飯高檀林遊歩道利用者の南駐車場を利用。まず妙福寺山門をくぐり、右奥の鳥居を目指す。鳥居からは長い急石段が続く。途中に曲輪らしい平地を過ぎ、再度石段を上れば主郭にでる。社殿の左右には土塁が設けられ、北には妙福寺背後の尾根の道がある。東下には腰曲輪らしい平地も見られる。社殿は倒壊予防のためか、太い木材で支えている。本殿を囲む瑞垣の彫刻、拝殿の龍の彫刻があり、匝瑳市有形文化財に指定されている。 画像がピンぼけでした。

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とばつびしゃもん

黒い鉄板で装われた城 (2024/11/05 訪問)

城の北側にある有料の福山城駐車場に車を駐車し登城開始。13年ぶりの登城。
5重の復興天守の北面は鉄板が貼られ、その黒い姿に圧倒される。
二の丸東に進み、鬼門櫓跡、水野勝成之像、東坂三階櫓跡、鹿角菜櫓跡、東上り楯門跡を通り、湯殿と伏見櫓を見上げて筋鉄御門から本丸に入ると菊花展覧会が催されていた。天守内部の博物館は休館で入れないため本丸内あちこちを見学。
そうこうするうちに天守のライトアップがはじまる。ライトに映し出された白い巨大天守は美しい。
駐車場へ戻り1時間半の攻城を終え帰国。

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イタさん

飯高天神砦 千葉県匝瑳市飯高 (2025/01/29 訪問)

飯高城の支城(砦)として機能していたらしい。南に開かれた参道を上らず、法福寺から石段を上る。上は小さな曲輪らしいが、藪でよく分からない。先は虎口状で左右に土塁、主郭内には天神社が建ち、南にも虎口風で参道が来ている。東端には浅くなった堀があり、先は細い平地になり下って行く。南下に公民館のある広い曲輪があり、土塁があるらしいが、確認しなかった。 画像がピンぼけでした。

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イタさん

飯高城跡 千葉県匝瑳市飯高 (2025/01/29 訪問)

飯高城周辺は飯高檀林遊歩道として観光整備されている。檀林遊歩道利用者用の北駐車城を利用。匝瑳市観光協会さんのHPに拠れば、天正8年(1580)から明治7年(1874)まで名僧を輩出した飯高檀林は、日蓮宗最古・最大・最高の学問所でした。檀林とは栴檀林(せんだんりん)の略語で、僧侶の集まりを栴檀の林に例えた寺院の尊称であるとともに仏教の学問所を意味します。総門、鼓楼、鐘楼、講堂の4棟は国の重要文化財に指定されており、敷地全体は千葉県指定の史跡として保存されています。

城としては講堂の背後に曲輪・土塁が、講堂の前に鼓楼・鐘楼があり土塁が曲輪を仕切るように横たわる。先の西端には目立たないが土塁が見られ、総門側に行けば左に堀がある。総門の西にも曲輪があり、堀があるらしいが確認しなかった。画像がピンぼけでした。

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イタさん

多古藩陣屋跡 千葉県香取郡多古町 (2025/01/28 訪問)

説明板の概略は、敷地面積説明と、徳川家康の関東移封に伴い、保科氏・ひじかた氏・松平氏と続く。途中で廃藩時期もあるが多古藩として存続。多くは小学校の敷地になり、天神社の背後に石垣が残るのみである、と書いてある。

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