福島県の向羽黒山城を訪問しました。初めに本郷インフォメーションセンターに立ち寄り、パンフレットの入手とお勧め登城ポイントの説明を受けました。丁寧に説明していただき、登城の参考となりました。事前に立ち寄ることをお勧めです。
登城は、お茶屋場跡、二の丸跡、本丸跡、三の丸の順で巡りました。本丸跡への古城のみちで見える竪堀は圧巻ですね。そのほかにも見どころ一杯です。さすがに日本最大級の山城です。
当日は曇り空であり眺望は今一つでしたが、眺望のよさは山城ならはですね。
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2024/11/20 13:43
向羽黒山城探訪 (2024/10/16 訪問)
福島県の向羽黒山城を訪問しました。初めに本郷インフォメーションセンターに立ち寄り、パンフレットの入手とお勧め登城ポイントの説明を受けました。丁寧に説明していただき、登城の参考となりました。事前に立ち寄ることをお勧めです。
登城は、お茶屋場跡、二の丸跡、本丸跡、三の丸の順で巡りました。本丸跡への古城のみちで見える竪堀は圧巻ですね。そのほかにも見どころ一杯です。さすがに日本最大級の山城です。
当日は曇り空であり眺望は今一つでしたが、眺望のよさは山城ならはですね。
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2024/11/20 13:38
2024/11/20 13:26
三春城探訪 (2024/10/15 訪問)
三春城を訪問しました。三春城は戦国時代に田村氏が築城したとのことですが、現在の遺構は蒲生氏、松下氏のようです。
お城へは自動車によるアクセスにて、船引三春ICから向かいました。駐車場は本丸下にある三春城跡駐車場となります。
城跡には建物等はありませんが、石垣、堀切、土塁など遺構が残っており、山城らしさを感じることができます。特に現在は道路となっていますが、二の丸と本丸の堀切跡はなかなか見どころかと思います。
パンフレットが本丸の東屋にあります。縄張図の記載があり、参考になりますよ。
なお、三春城ではVRを活用した説明がなされており、当時の建物の姿を感じることができます。
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2024/11/20 12:08
大宰府政庁(紫式部ゆかりの地を訪ねて⑤) (2024/11/16 訪問)
紫式部(まひろ)がしばらく滞在したとされる大宰府政庁を訪れました。今では礎石が残るのみですが、ここが奈良・平安時代の九州の政治の中心地でした(写真①)。大宰府政庁内にある大宰府展示館(写真②)には、平安時代の様子を解説する資料が残っています。
亡き夫の宣孝は、かつてこの大宰府に赴任していました。紫式部が訪れた当時は、道長と敵対関係にいながら目を患って下向したあの藤原隆家が赴任していました。隆家は中宮彰子の女房であった紫式部の事を憶えていて、宴を開いてもてなしてくれたそうです(写真④⑤のような感じかな?)。隣の観世音寺には歌も残っていました(写真⑥)。紫式部が訪れた時(1018年頃)は、菅原道真が没してから約100年経っているので、道真を祀る大宰天満宮もおそらく建てられていたのではないかと思います。ならもしかして、紫式部も梅ケ枝餅も食べたのではないか? と想像し買って帰りました(写真⑩:やっぱりおいしい😊)。
しかし、紫式部(まひろ)はここで滞在中に、刀伊入寇(といにゅうこう)という事件に巻き込まれてしまいます。これは外国(満州の族)が日本を初めて襲って来たという、元寇よりまだ250年前の出来事です。対馬・壱岐・博多と攻めて来た彼らを隆家は果敢に戦って守り抜き、これらを撃退しました。そのため紫式部はなかなか京へ戻れず、2年後にようやく隆家とともに戻る事ができたようです。しかし隆家には援軍を送らなかったどころか、何の恩賞も与えられなかったようで、当時の関白藤原頼道(道長の子)やこの時代の公卿たちにいかに危機意識がなかったかが分かります。
その間に紫式部(まひろ)の娘の賢子(かたこ)は、大宰府へ旅に出た母の意志を継いで土御門第邸へ上がり、皇太后となった彰子の世話をしつつ、また彰子の孫(後一条天皇の子)の乳母となったそうです。そして従三位(女房の筆頭)にまで登りつめたとか。道長がこの時、賢子は自分と紫式部(まひろ)との間にできた子だと知り、取り立てたのではという説もありますが、実際の賢子は仕事のできるキャリアウーマンだったようです。紫式部(まひろ)は、低い身分の女性でも社会で認められて自立し、自分の成し得なかった夢を実現してくれた娘の姿を見て、とても喜んでいたのではないでしょうか。
一方では、天皇の後見職である摂政となった道長は、後一条天皇が幼くして亡くなると、また同じく自分の孫(敦良親王)を後の天皇(後朱雀天皇)に即位させ摂政関白となり、やりたい放題の栄華を極めます。しかし、あまりの独裁政治に他の公卿たちの反感を買い、またここで再び体調を崩したため、子の頼道に摂政関白の座を譲り出家する事にしました。そしてここで京へ帰ってきた紫式部(まひろ)と再会しますが、その後の1027年藤原道長はついにその生涯を閉じてしまいます(享年61)。
次は、紫式部が晩年を過ごした雲林院とその墓を訪れます。
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2024/11/20 10:30
2024/11/20 10:10
高土塁の角部分-3/4 (2024/11/09 訪問)
本郭内部と高土塁-2/4の続きです。
本郭内部をざらっと見学撮影して東虎口より北周りに遊歩道沿いに散策探訪し、東西南北角々の高土塁が聳えて見事でしたので別編にして投稿させて頂きます。
更に北東角、南東角は見事で櫓台を思させました、南東角には東屋が建てられていました、高土塁には東虎口、西虎口、南虎口から登る事が出来ます。
水堀と散策路-4/4に続く。
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2024/11/20 09:50
本郭内部と高土塁-2/4 (2024/11/09 訪問)
虎口の続きです。
南虎口から入り北西に大きな欅が夕陽で紅葉が輝いて居る、本郭内部規模は東西約50~60m、南北約60~70m程でしょうか?、周囲の堀を入れると東西約100m程、南北120m程あるようです。本郭に入り北の高土塁、東の高土塁、西の高土塁を眺めて、北高土塁上より南高土塁・南虎口を望み、東高土塁上より西高土塁を望む。
本郭内部南東に屋根掛けの井戸が有る「上三川七水・銀名水」と札が掛って居る。
再度帰り際に南虎口から東、西、北の高土塁を眺め記憶にとどめる。
高土塁の角部分-3/4に続く。
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2024/11/20 08:05
とことん津山城(本丸東辺~北端) (2024/09/16 訪問)
(続き)
八番門跡から天守曲輪を出ると、本丸東辺に長大な石垣が見えます。宮川の断崖になっている東辺への備えとして築かれた南北80mにも及ぶ石垣で、石垣上の月見櫓や矢切櫓、太鼓櫓へと続く合坂も設けられています(立入禁止ですが)。石垣南端の石段は上れるようなので行ってみると、太鼓櫓跡の下を通って包櫓跡に行くことができました。いったん表鉄門跡を出て、包櫓跡に東接する十四番門跡から東辺石垣の外側へ。左手には太鼓櫓の石垣が聳え、右手の瓦櫓跡からは眼下の宮川を越えて東方向の眺望が広がっています。東辺石垣を外側から見上げつつ北端まで進むと、石段を下った右手に十二番門跡がありました。
石段を戻り月見櫓の麓を回り込んで十一番門跡から再び本丸に入ると、本丸北端には東側に小天守とも呼ばれた粟積櫓、西側に大戸櫓と長屋櫓が建ち並び、各櫓跡からは北方向の眺望が開けていました。
さて、これで本丸をひとめぐりしたので、搦手側に下りていきます(続く)。
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2024/11/19 23:25
広大な城柵・官衙遺跡に感動! (2024/11/08 訪問)
横手市・大仙市の二城目は払田柵を訪問しました。この夏から始めた古代城柵・官衙遺跡探訪の7カ所目です。この柵は文献に記載が無く、地名を取り払田柵跡と呼ばれています。ここは外郭の柵木の年輪の年代測定から9世紀初めの創建と考えられており、横手盆地の南に有った第一次雄勝城が北に移転された第二次雄勝城の遺跡とする説が有力のようです。東西1,370m、南北780mという規模は東北の城柵・官衙遺跡では最大級と言われています。
東北各地に残る古代城柵・官衙遺跡は発掘調査後の埋め戻しや農地化、市街地化により、判りにくいケースが多いのですが、払田柵跡はほぼ全体が整備され、沖積地を外柵で、政庁が建つ丘陵部を外郭で囲む創建当時の広大な姿を判り易く観ることができました。
外柵南門の前に総合案内所があり、発掘された柵木列や復元模型などを展示、解説動画も観ることができます。
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2024/11/19 23:09
攻められる度に落城しているのかも (2024/03/02 訪問)
麓に複数の城郭建築風建物があるがそれは温浴施設と美術館で標高400mを超える山頂付近に残るのが真の岩石城。豊前筑前の国境近くの要衝だけに度重なる戦いに巻き込まれ、その度に落城している不運な城でもある。
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2024/11/19 20:25
2024/11/19 20:08
楠木十七支城 (2024/11/02 訪問)
平石城は地元の豪族の平岩茂直が楠木氏の赤坂挙兵に応じて築いたと現地案内板に記されています。元弘元年(1331)茂直はこの城で河内に侵入してくる北条の軍勢を防いだとされています。正平14年(1359)楠木正儀は17の城を整備し、平石城も楠木十七支城の一つとして河内に攻め入った足利勢を防いだとされています。
府道から北上して行くと集落の建物の間から城址に向かう道が有ります。付近には車を停めるスペースは無いので注意が必要です。
標柱の有る場所から城址に向かって入っていくと、堀切がかかっていてその上の丘が主郭になります。主郭はそれなりに広く、西側にも腰郭が有りました。周囲の山で平になっている場所に出丸もあったようです。
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2024/11/19 19:24
2024/11/19 19:16
2024/11/19 18:43
2024/11/19 14:26
宇治平等院(紫式部ゆかりの地を訪ねて④) (2024/11/12 訪問)
平等院鳳凰堂を訪れました。見た瞬間に美しく言葉も出ない程に感動してしまいました。
平等院はかつて藤原氏の別荘で宇治殿と呼ばれていたそうです。藤原道長が病気療養のためその別荘に滞在し、大河ドラマでは、そこに紫式部(まひろ)が見舞いに訪れるシーンは、何かちょっとドキドキしてしまいました。
その後、疫病などが流行ったため、当時関白だった藤原頼道(道長の子)が疫病退散の意味を込め、阿弥陀如来を中央に鶴が羽を広げたような形の、民のよりどころとなる寺院として建て替え、後に上に鳳凰を載せた事から鳳凰堂と呼ばれるようになったそうです。そしてその時の寺院が何と1000年経った今でも残っている世界遺産なので、永遠に残り続けてほしいと願います。(写真①②③④)。また平等院の前には、宇治川の清流が流れ、紫式部の像もありました(写真⑥⑦⑧)。宇治橋を渡った先には、源氏物語ミュージアムもありました(写真⑤)。
私も道長や紫式部(まひろ)と同じように、宇治川のほとりに立ってみました。川のせせらぎの音や秋の風がとても心地よかったです。そして紫式部(まひろ)は、源氏物語の最終章(宇治十帖:浮舟)を、この地で書き終えたそうです。
宇治橋の
ながき契りは
朽ちせじを
あやぶむかたに
心さわぐな
宇治橋は、洪水や地震や戦乱のたびに落ち、何度も架け替えられたとか。しかし私たちの長い契りは朽ちないので心配なさらぬように・・・
病から復帰した道長は、三条天皇を譲位させ、自分の孫(敦成親王)を天皇(後一条天皇)にしますがまだ幼く何もできないため、後見職の摂政となり、やりたい放題の栄華を極めていきます。
この世をば
我が世とぞ思ふ
望月の
欠けたることも
なしと思へば
源氏物語を書き終えた紫式部(まひろ)は、娘の賢子(かたこ)を代わりに宮中へ上げる事を条件に、女房の職を辞して宮中を下り実家へ戻ります。そして今までの手紙や和歌などの整理をしていく内に、ふと夫の宣孝とやりとりした手紙と歌を見つけ、そこで宣孝がかつて赴任していた地である大宰府へ行ってみようと思い立ち、旅に出る事にしました。道長との気持ちに区切りをつけたかったのかもしれませんね。
P.S 紫式部は、宇治で書き終えた後の1014年(42才)で亡くなったという説と、大宰府へ旅立った後の1031年に亡くなったという2説あり、どうやら大河ドラマは後者をとるようなので私も後者をとらせていただきます。あと宇治川を眺めながら食べた(お濃茶アイス)はおいしかったです😊(写真⑩)。
次は「大宰府政庁」へ続きます。
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2024/11/19 12:52
「出世の街 浜松 家康公祭り」に出店しました!
11月2日(土)・3日(日)に浜松城公園で開催された「出世の街 浜松 家康公祭り」に皆さま足を運ばれたでしょうか?
今年は徳川家康の次男・結城秀康生誕450周年をテーマに、歴史講演会やステージイベントが行われ、家康公ゆかりの自治体PRブースが出店しました。
静岡市も駿府城公園3施設・葵舟と共同で出店し、駿府城公園エリアのPRやノベルティ配布を行い、多くの方にお越しいただきました。ご来場いただいた皆さまありがとうございました。
次回は12月21日(土)・22日(日)にパシフィコ横浜ノースで開催される「お城EXPO」に出店予定です。歴史ファンの皆さまやお城好きの方に楽しんでいただけるようなブースを予定しておりますので、ぜひお越しください♪
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2024/11/19 11:47
虎口‐1/4 (2024/11/09 訪問)
宇都宮城に次いで陽も有り南に上三川街道を約14km程に在る上三川城へ平成28年4月以来8年振りの登城をしました。
駐車場:上三川城址公園駐車場南側約6~8台、トイレ完備
参考資料:グーグルマップに依る。
上三川城本郭は現在上三川城址公園として整備されて市民の憩いの場と成っています、整備に疑問を呈していらっしゃる方々もいらっしゃりますが私はこれはこれで良いので可と思っています。
歴史は案内板によると、建長元年(1249年)宇都宮氏の一族である横田越中守頼業が築いた以来慶長2年(1597年)に芳賀高武に攻められて落城、348年間続いた城です。
また規模は東西400~500m、南北1000mの範囲に群郭式の広大な構えで本郭が現存しています。
駐車場から案内板、トイレ横を通り南虎口、土橋、南虎口は左右模擬石垣で立派に構えています、南手前には水堀、東側には水堀上に周辺散策路の木橋が掛っています、周囲は高土塁が囲み外側には水堀が廻っており方形の郭です、虎口は、南側、東側、西側に三ヶ所、外周には散策路が廻らされています。周囲は北に幼稚園、住宅街に囲まれています、土塁上には樹木、桜が植栽されて春、夏、秋と木々の潤いが整備されています。
当日は子供たちが遊び、大人もスポーツ遊戯を楽しまれていました。
沢山撮りましたので4編に分けて投稿致します、第1編は虎口で纏めました。
本郭内部と高土塁-2/4に続く。
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2024/11/19 08:09
とことん津山城(本丸~天守曲輪) (2024/09/16 訪問)
(続き)
表鉄門は門扉を鉄板で覆い門内にコの字型に櫓をめぐらせた本丸の正門にあたる厳重な櫓門でしたが、門を抜けて石段を上った左手の櫓南西端が本丸御殿の玄関になっていて、櫓内を通り抜けて本丸御殿に入るという独特な造りだったようです。本丸御殿は本丸を埋め尽くすように建てられ、奥向へ続く箇所には台処門や十番門が設けられていましたが、本丸に建物は現存せず、表鉄門南西の使者櫓、さらに南辺を備中櫓まで続いていた到来櫓と長局も遺らず、長局跡に藤棚とベンチが設けられているのみです。
築城400年を記念して復元された備中櫓に入って100名城スタンプを押印。四足門から切手門へ至る大手道を見下ろす櫓だけに狭間があるのは当然としても、畳敷きに竿縁天井、壁に唐紙、柱に金漆塗の釘隠しというのは櫓というより御殿だよな…と思っていたら、長局を通じて本丸御殿と繋がっていて奥向きの御殿として活用されていたと考えられるとのこと。なるほど納得です。備中櫓から五番門跡を抜けて天守曲輪へ。五番門南側の石垣は変形に伴って積み直した際に土塀と雁木が復元されています。天守曲輪の西半分は多門櫓で囲まれていて、北西隅と南西隅は二階建てになっていましたが、現在は平面表示により櫓跡の位置を確認できるくらいです。
天守台南側の六番門跡(礎石あり)から東側に回り込んで、石段を上ると天守台の穴蔵に至ります。穴蔵には天守を支えた礎石列と「愛の奇石」と呼ばれるハート型の石垣石が見られ、廃城後に設けられた石段から天守台に上ると、城内と城下を360度見渡すことができます。往時はここに四重五階の壮大な層塔型天守が建っていましたが、廃城令により破却されています…。天守台の北側には、石段を下りて左に折れたところに七番門が設けられ、腰曲輪を経て搦手の二の丸に通じていました。門の外には高さ約3mの石垣がああるため、普段は木の階段を用いて通行(戦時には取り外す)していたようです。天守曲輪北東隅の長櫓に南接する八番門跡から天守曲輪を出て、今度は本丸の東辺に向かいます(続く)。
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