(続き)
織田信長と信忠を討ち京を制圧した明智光秀は安土城に侵攻しましたが、山岡景隆は光秀の誘いを拒んで瀬田の唐橋(滋賀県大津市)を焼き落として抵抗し、頼みとしていた細川藤孝・忠興父子は信長の喪に服することを表明して嫁いでいた娘・玉を味土野(京都府京丹後市)に幽閉、筒井順慶の協力も得られず、光秀の目論見は次第に破綻していきます。
そして最大の誤算は毛利の大軍と対峙していたはずの羽柴秀吉がわずか9日間で尼崎まで引き返してきたこと(中国大返し)。織田信孝・丹羽長秀らと合流し、中川清秀、高山右近ら摂津衆を味方につけて兵力を増しつつ迫りくる羽柴軍を京への入口にあたる山崎で迎え撃つべく、光秀は勝龍寺城(京都府長岡京市)に入って恵解山古墳(長岡京市)または境野一号墳(京都府大山崎町)に本陣を置き、円明寺川(現 小泉川)をはさんで羽柴軍と激突しました。小泉川東岸の天王山夢ほたる公園には山崎合戦古戦場の石碑と説明板が建てられており、公園からは天王山がすぐ近くに見えます。「天下分け目の天王山」と云われるように、山崎の戦いは天王山をめぐって激しい争奪戦が展開されたようなイメージがあり、実際、天王山のハイキングコースには山崎合戦之地の石碑や説明板が建てられていたり、秀吉が馬印を掲げたと伝わる旗立松があったりしますが、天王山はせいぜい前哨戦の地であって、主戦場はあくまで東麓の湿地帯だったようです。とはいえ、旗立松展望台からは主戦場がよく見渡せ、やはり羽柴軍にとって天王山を確保する意味は大きかったんだろうとは思いますが。
3倍ともいわれる兵力差の中、奮戦するもついには総崩れとなった明智軍は勝龍寺城に撤退し、その夜、光秀は再起を期して北門から脱出して坂本城に向かう途中、小栗栖で落ち武者狩りにより討たれたとされます。光秀が討たれた地は明智薮(京都市伏見区)と呼ばれ、明智薮の北東約1.2kmには明智光秀胴塚の石碑と説明板があります。明智薮で負傷しながらも何とか逃れてきたが、坂本城まではたどり着けないと悟って胴塚の地で自刃した、といったところでしょうか。そして光秀の首は信孝のもとに届けられて、まず本能寺跡で、次いで粟田口(京都市東山区)で晒されたと伝わります。光秀が天下を手中にしたのはわずか12日間のことでした…(続く)。
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