(続き)
明智光秀が安土城で徳川家康の饗応に務めていたところに備中高松城包囲中の羽柴秀吉から援軍要請があり、織田信長は自ら出陣することを決断するとともに、光秀の饗応役の任を解いて援軍の先陣を命じました。坂本城に戻って出陣の準備を整えた光秀は亀山城に入り、愛宕権現に参籠しておみくじを引き、里村紹巴らを招いて「ときは今 あめが下しる 五月かな」の発句で知られる連歌の会(愛宕百韻)を開催しました。この愛宕権現は通説では京都市右京区の総本宮 愛宕神社(未訪)を指しますが、京都府亀岡市の元愛宕とも呼ばれる愛宕神社だとする説もあるようです。また、本能寺の変に先立って谷性寺(亀岡市)本尊の不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願したとも伝わります。
そして光秀は1万3千の軍勢を率いて亀山城を出陣します。目指すは…信長の宿所・本能寺!! 足利高氏の旗挙げの地として知られる篠村八幡宮(亀岡市)で戦勝祈願し、山陰道の老ノ坂越で本能寺(京都市中京区)に向かったとされますが、1万を超える大軍でもあり、唐櫃越や明智越の3ルートに分かれて進軍したとも云われます。また、摂丹街道の法貴峠にある屏風岩は、摂津に向かうと見せかけて進軍してきた光秀が、この地で引き返して本能寺に向かったと伝わることから明智戻り岩と呼ばれています(丹波攻めの際、屏風岩に行く手を阻まれて(又はこの先に敵はいないと報告を受けて)引き返した、とも云われます)。
明けて天正10年6月2日、本能寺を包囲した明智軍に攻めかかられ、信長自身も弓に槍にと応戦するも炎に包まれる御殿の奥で自刃しました。本能寺跡は高校と福祉施設になっていて西側と北東隅に石碑が建てられているのみです。焼失した本能寺は秀吉により東北東1.4kmの位置に再建され、信長公廟や本能寺の変での戦没者の合祀墓が設けられています。また、本能寺近くの妙覚寺に逗留していた織田信忠は、本能寺の変の報を受けて二条御新造(二条御池城・京都市中京区)に籠城するも奮戦及ばず自刃。二条御池城も遺構は消滅していますが、室町通と両替町通に石碑が建てられています。
かくして光秀は信長・信忠ともに討ち果たし、天下を手中にするに至りました(続く)。
ところで本題からは外れますが、本能寺の変の動機や原因は日本史最大の謎とも云われ、研究者のみならず作家や歴史好きから様々な説が提唱されていますが、諸説ある 中で、私は「光秀単独犯」による「不安説」を採りたいと思います。
こうして麒麟がくる紀行をまとめ直す上で、改めて光秀の生涯を追いかけてみて一番驚いたのは、丹波攻めの最中もあちこちの合戦に駆り出されていること。そのせいでせっかく攻略した城を奪い返されたり、元上司(足利義昭)から妨害工作されたり、過労で倒れたり、不遇な頃から献身的に支えてくれた妻を亡くしたり、心身ともに大変な思いをして丹波平定を成し遂げても安息の日は訪れず、次は中国攻め、四国攻め、さらには九州攻め…と続いていくのだとしたら、決して若くはない光秀がこの先も信長の求める結果を出し続けられるか不安に駆られても無理からぬことだと思いますし、結果を出せなくなれば過去にどれほどの功績があろうと佐久間信盛らのように切り捨てられるのは明白とあっては心が休まるはずもありません。本能寺の変の直前の光秀がことさらに信長を称揚する言動をしているのも、「今の自分があるのは全て信長さまのおかげなんだから、余計なことは考えずひたすら信長さまのために働けばいいんだ」と自分に言い聞かせていないと不安に押しつぶされてしまいそうだからとしか思えません。さらに長宗我部への対応では秀吉に出し抜かれてメンツを失い、織田家中での地位にも不安を覚えるようになってきたところに降ってわいたような好機……! 各方面軍はそれぞれ京を遠く離れ、京には信長と信忠がわずかな供回りで滞在しているのみ。
「…ああそうか、この二人を討ち取ればもう不安に苛まれずに済むんだ…」
採るべき道が定まれば実行面においては水も漏らさぬ布陣で見事に二人を討ち取るも、そもそもが周到に計画された犯行ではなかったため、実行の後に様々な齟齬をきたして…というところじゃないでしょうか。光秀ほどの人物が周到に計画していればもっと違った展開になったはずだとも思いますし。何ら具体的な根拠に基づく考えではありませんが、自分が光秀の立場に置かれたらそんな感じになるかなぁ…ということで。もっとも私には光秀のような能力はないので、謀反を起こしても信長を取り逃がしてしまいそうですが(笑)
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