天神山城・裏天神山城
(2024/12/28 訪問)
【天神山城・裏天神山城】(岐阜県瑞浪市)
<駐車場他><35.390969, 137.270798>の場所が城跡駐車場になっています。そこから北の道を奥まで進むと登城口があります。
<交通手段>車
<見所>堀切・尾根曲輪
<感想>日帰り小里城攻め旅2城目。城びと未登録の天神山城・裏天神山城は瑞浪市観光協会のホームページによると、2012年に発見された城跡で1582年に鶴ヶ城に入城した織田軍が武田攻めの際、北東の守りを固める支城として築城されたと考えられているそうです。
天神山城のさらに北側背後の上方、山のピークに裏天神山城がありますが両城とも山のピークといった感じで主郭を含めて広い曲輪は備えていません。天神山城の主郭南西部の堀切は大きく、また切岸が急峻なので人の手が加わった事が良く分かります。天神山城の主郭背後の2重堀切もなかなかの見応え、裏天神山城の南側登城路の導入部も人手で削った感じが分かり、虎口曲輪であったろうと思われます。
鶴ヶ城からハイキングコースで迂回したから分かったのですが、裏天神山城の西側一帯が広い平坦地が広がっていて、武者だまりの表示版があります。もし大軍が詰めていたとすれば、この高原に詰めて東部から南にかけての尾根に防御の設備を構築していたと納得はできますが、信長は武田攻めの時は東にある岩村城で待機していて、瓦解した武田家臣団のバタバタで一気に侵攻したので自国領の山城にわざわざ駐屯するとは考えにくい。この城跡の次に行った小里城の現地説明板に「1572年に岩村城が武田方に属してしまい、1574年武田勝頼が明智城を攻撃すると、織田信長は小里城と神篦城(鶴ヶ城)の改修を命じ‥‥」とあります。私的な考えとしては鶴ヶ城は比較的小さな城跡なので、天神山城・裏天神山城を含めての、ここら一帯を構築して小里城とともに岩村城攻めの拠点城としたのではないかと思います。
登城口の東側に土岐頼兼公の墓碑があります。途中で柴犬にめちゃ吠えられます。
<満足度>◆◆◇
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