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キンヤ

長大な登り石塁が圧巻の山城 (2024/10/12 訪問)

特異な石造りの城として有名な長岩城へ念願叶って行くことができました。

宇都宮氏一族の豪族 野仲氏の居城で、初代城主野仲重房が建久9年(1198)に築城したと伝えられます。
天正16年(1588)、城主の野仲鎮兼は黒田長政の大軍に攻められて落城し、廃城になったとされます。

谷を挟んだ東西の山に築かれ、東側の陣屋跡・石積櫓などのエリア、西側の各城戸・本丸などのエリアに分かれます。
見所が多いため2回に分け、まず西エリアを投稿させて頂きます。

一之城戸、二之城戸、三之城戸、東之台から本丸、西之台の至る所に石塁が張り巡らされています。
石塁は鉄平石と呼ばれる平べったい石が使われていて、長野県の山城で見た石積と似ていました。
三之城戸の長大な登り石塁が圧巻で、途中で折れもあります。
東之台から本丸までの登り石塁は更に長大で、両サイドに竪堀も並行しており圧倒されます。途中で砲座のような箇所、折れと横矢掛かりの箇所もあり巧妙です。
三之城戸、東之台から本丸の急な斜面の登り石塁は高く、斜面の横移動をさせない障壁です。
黒田軍が攻めて来る際に野仲氏が築いた石塁だとすれば、これ程の石を積むとは野仲氏や立て籠った人達は黒田軍に対してかなりの恐怖心や必死さを感じました。
本丸へ東之丸側から入る虎口は枡形状で、腰曲輪に入った後は左に折れ、更に右に折れて本丸へ上がるルートでテクニカルです。
本丸は割と小さめの曲輪で、西側以外の三方は腰曲輪が取り巻いてます。
本丸から西之台の間には、一文字堀虎口・一文字土居虎口と書かれた石塁の虎口があり、一旦右に入り、再度左に入るルートかもしれませんが、真っ直ぐに進むルートもあり構造はイマイチよく分からなかったです。
西之台の北側尾根は三重の堀切で守られており、堀切から竪堀となり下へ伸びています。
特に三重目は大きな堀切で竪堀も長大です。

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ぴーかる

鳴岩城 (2024/10/12 訪問)

【鳴岩城】
<駐車場他>東光寺駐車場あり。
<交通手段>車

<見所>主郭土塁(櫓台?)
<感想>日帰り丹波の黒枝豆購入と城攻めの旅2城目。初投稿いただきます。鳴岩城の詳細は定かではありませんが、城びとの城郭情報では主な城主に夜久氏がいます。見てきた城の規模や簡素な構造から戦国期以降の完全防御の籠城戦の感じではなく、麓居館から少人数で一時的に守れる詰め城という印象を受けました。
 登城口は東にある東光寺の裏の墓地から簡単に登っていけます。林道があるので迷う事はありません。墓地を抜けるとお寺に寄進された塔がある削平地に出ます。城跡の曲輪跡のようにも見えなくはない(理由は後述)と感じました。塔の奥から杉の植林整備された尾根道に入ります。土橋のような尾根道、右手(北側)に緩傾斜の扇状地を見つつ通ると切岸が立っているのでそこが主郭となります。
 主郭へは東から進入しますが虎口はなく、虎口は北側に1か所切通しの土塁虎口があります。主郭の西隅に土塁のような盛り上がりがあり、大きさから見て私は櫓台ではないかと思いました。主郭の北から西にかけて帯曲輪が走っていて主郭の西に薄い堀切になって帯曲輪と結んでいます。主郭から北・東・西と尾根が伸びて(南は崖)います。西方向の尾根は100m程水平に進み主郭と同じ高さの小さなピークがあります。3方向の尾根には堀切が全くないので、ここに私は防御性の薄さを感じました。
 戻って、前述の塔の削平地ですが、仮に東出曲輪とすると、主郭と東出曲輪の間の扇状地の防御の遺構(段曲輪や畝状竪堀)が無い事、主郭は北側に虎口があるので北からの外敵を東に追いやって主郭と東出曲輪間で駆逐するという造りにはなっていない事から「見えなくはない」という記述と考えに至りました。初投稿の登城ということで少し興奮しました。

<満足度>◆◆◇

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ハッスルオヤジ

片野城跡 (2024/11/03 訪問)

太田道灌の子孫、太田資正の居城だったそうです

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ハッスルオヤジ

小幡城 (2024/11/03 訪問)

噂通り土塁がすごかったです。迷路に迷う感じでした

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じゅんじん

八尾神社 (2024/10/18 訪問)

八尾神社に城趾碑がありました。近くのお寺には藤堂高虎が首見聞したと説明がありました。

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todo94

日帰り羽越ドライブでの攻城② (2024/10/20 訪問)

尾浦城からの転戦です。チェブさんがおっしゃる通り、いくつかある横山城の中では、ここが一番マイナーだと思います。朝田辰兵衛さんの情報も参考に、わずかに残された土塁だけ確認して北上を続けました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:陶器城 (2024/10/01 訪問)

小谷城から若竹大橋バス停へ歩き、そこから南海バス➡泉北高速鉄道➡南海バスを経由して福田中バス停へ着きました。
福田中バス停から徒歩10分ちょっとで、東陶器公園入口前(34.517110、135.525551)に着きました。

陶器城は北条氏の家臣である陶器左衛門尉の居城でした。
楠木正成の一族によって攻められ落城すると、陶器氏も滅亡しました。
江戸時代には小出秀政の四男である小出三尹が城址近くに陣屋を構えました。

現在城址は「東陶器公園」として整備されており、公園の南側フェンスに沿って土塁の遺構を確認しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=狭山陣屋を目指す為、北野田駅から電車で大阪狭山市駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:小谷城 (2024/10/01 訪問)

竹城台4丁バス停から徒歩2~3分で、阪和第一泉北病院入口(34.495107、135.499075)に着きました。

小谷城は平氏一族の小谷氏の居城でした。
戦国時代に入り1575年(天正3年)、大夫進種氾のときに織田信長による根来攻めがあり、この一帯も根来党であったために攻められ落城しました。

現在城址は阪和第一泉北病院の敷地となっており、本丸跡が公園化されていますが無断で立ち入ることはできません。
泉北病院の受付に声を掛け、小谷城見学希望の許可を頂いてから向かい、案内板と石碑を確認しました。
そこから、旧伯田陣屋裏門入口(34.492772、135.498513)に向かい、裏門を確認。小谷城郷土館は時間の都合で見学しませんでした。
小谷城郷土館への移動時間も含め、攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=陶器城を目指す為、若竹大橋バス停から南海バス➡泉北高速鉄道➡南海バスを経由して福田中バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:家原城 (2024/10/01 訪問)

津久野駅から徒歩10分弱で、石碑説明板前(34.537746、135.471284)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1566年(永禄9年)松永秀久と三好三人衆が対立したときには、松永方に組する泉州衆が家原城から出撃して畠山高政と合流し、三好勢と戦ったが敗れ岸和田へ退いています。

遺構はなく、石碑と説明板があるのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=小谷城を目指す為、堺市立総合医療センター前バス停から南海バスで竹城台4丁バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:伯太陣屋 (2024/10/01 訪問)

信太山駅から徒歩15分くらいで、伯太石碑前(34.496051、135.441490)に着き、その後、武家屋敷跡石碑前(34.495220、135.442240)に向かいました。

1727年(享保12年)渡辺基綱によって築かれました。 伯太藩渡辺氏は徳川家康に仕えて「槍の半蔵」の異名をとった渡辺守綱の五男吉綱を初代とします。
宗家は尾張藩家老の渡辺家で守綱没後、四男治綱が家督を継いで尾張国寺部に陣屋を構えています。
伯太藩渡辺氏は五男吉綱が、1624年(寛永元年)早世した兄忠綱の旧領3,000石と新田520石を合わせ、3,520石の旗本として始まりました。
1661年(寛文元年)渡辺吉綱は大坂定番となって10,000石を加増され、13,520石を領して諸侯に列しました。
当初、武蔵国比企郡野本に陣屋を構えていましたが、1698年(元禄11年)三代渡辺基綱の時、領地を近江国へ移されたので、和泉国大鳥郡大庭寺へ、さらに1727年(享保12年)陣屋を和泉国泉郡伯太へ移し伯太藩となりました。

現在は空き地に石碑が建っています。文字は見えません。
武家屋敷跡石碑は確認しました。
小谷城郷土館にある移築門は、小谷城攻城時に確認しました。
攻城時間は移築門確認時間も含めて10分くらいでした。次の攻城先=家原城を目指す為、信太山駅から電車で津久野駅に向かいました。

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ぴーかる

八田城 (2024/10/12 訪問)

【八田城】
<駐車場他>水道施設前のスペース<35.362792,135.323468>2台分あり。
<交通手段>車

<見所>堀切・切岸
<感想>日帰り丹波の黒枝豆購入と城攻めの旅1城目。投稿が2019年にトーダイさんお一人で、城びと5年ぶり2人目となりますので少し詳細に。城びと城郭情報によると築城年築城主ともに詳細不明で主な城主に上杉氏(上杉氏発祥の地とも)・籾井教業(波多野氏家臣籾井城主)となっています。
 上記水道施設の右側に階段がありますのでここが登城口になります。少し上がると左手に神社、真ん中に山斜面を行く道がありますので登ります。5分程度登ると貯水槽配水地の施設に到ります。施設の背後の尾根(荒れている)を木々を避けつつ登ると小さな尾根上削平地に登り着きここからが城跡だなと分かります。尾根曲輪の手前側に礫石が多く落ちています。尾根曲輪奥に深い堀切があり、その向こうに高い切岸がそびえています。切岸を登ると主郭跡に着きます。
 主郭は南北に50m程、南の幅が3m程、北の幅が20m程で南から見ると逆三角形状になっています。主郭に付随する堀切が丑寅・辰巳・未申・戌亥方向の4か所にあり、その先に尾根がそれぞれ伸びています。南方向にも土橋状の尾根があり、主郭からは合計5方向に尾根が伸びています。戌亥方向が登ってきた尾根で手前の尾根曲輪が付曲輪か副郭となっているようです。主郭の丑寅方向の堀切の横に人工に掘った竪堀が残り、主郭の東側に自然地形の谷を利用した大竪堀がみられます。主郭周囲の切岸は急斜面によく削られていて見応えと登り降りの攻略しがいがあります。しかし尾根筋が多く伸びている割には散策して、自分が城主なら、もっと深い堀切を2重3重設けるのに。と感じました。

<満足度>◆◆◇

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ぴーかる

ラーメン

しんちゃんさん、鳥取のラーメン鳥人は行ってないです。知らなかったので次鳥取行った冬場の山城攻めで(検索しました。美味しそう)行きます。貧乏旅行なので現地のグルメ紹介で鰻や牛肉は高級で行けないのでラーメンは少し行きます。城攻め旅行の中でのベスト2ラーメンは紹介したかもしれませんが、
・新潟県上越市の「上越家」
・広島県井原市の「ラーメン長州」のとんかつラーメンとチャーハンのセット(メニューに無いが頼めます)がとんかつとラーメンのミスマッチと思いきや、やみつきになる、2回行った。

ラーメン以外のベストは群馬で食べた 上州御用鳥めしの「登利平」を店舗で食べたのが最高でした。ご飯の旨さがベスト1でした。

ラーメンではないですが、城攻めの時グルメを調べて控えて行くのですが、行列ができていたら城攻め優先でよくパスする事も多いです。特に蕎麦屋なんかは。

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まさお

奈良 大和郡山城 (2024/10/30 訪問)

奈良・京都への観光旅行の一貫で登城しました。
近鉄大和郡山駅から徒歩でも10分くらいで、よく整備された城址公園になっています。
付近には薬師寺・唐招提寺などの寺院や天皇陵の前方後円墳もあり、探索には楽しいところでした。

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じゅんじん

神社と文学館 (2024/10/13 訪問)

文学館前に立派な門と堀がありますが関係ないみたいですね。烏山神社に説明がありました。

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トク

123【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (関ケ原の直政陣跡-直政の調略2) (2022/10/25 訪問)

(26人目)井伊直政の続き㉕です。
「井伊直政陣跡」です。JR関ケ原駅からすぐの線路脇にありました。またこの写真③の左側には関ケ原古戦場記念館と徳川家康陣跡があります。直政は現在の関ケ原駅と線路上のこの一帯に3,600の兵を率いて布陣していたようです。

話を布陣の前に戻し、調略の話を続けます。
最後に残ったのは毛利の調略でした。家康は、朝鮮帰国後に秀吉から越前北ノ庄12万石に減封左遷されていた小早川秀秋を、三成の反対を押し切って元の筑前35万石にもどす事で恩を売ります。直政は長政と親しい毛利の重臣吉川広家を調略にかかります。広家には毛利120万石の本領安堵を条件にしますが、なかなかうまく行きません。それもそのはず、大坂城にいる輝元が決断しないからです。また輝元と広家のやり取りの手紙が途中で奪われるなど、うまくコミュニケーションがとれなかったようです。

福島や池田らの先導による小山評定や岐阜城攻めで予想外の結果で清州城まで進軍した家康ですが、唯一の誤算が・・・主力の秀忠軍がまだ信濃の山の中、これでは間に合いません。ならば得意の野戦に持ち込もうと清州城から美濃赤坂へ陣を移しますが、島左近が牽制するのみ大垣城の三成らは出て来ません。西の南宮山にはやる気満々の毛利秀元と安国寺恵瓊がいます。

しかしここで「大津城が陥落! 立花宗茂ら15,000の軍勢が明後日には到着するもよう」との知らせが入ります。家康はこれが蔚山で明の大軍を破った部隊である事を知っており、三成がこの精鋭部隊の到着を待って攻めてくれば完全に不利です。もはや秀忠を待っている余裕はありません。

この時、吉川広家は独断で毛利は戦をしないで中立の立場をとると、毛利の総大将で南宮山に陣を敷く毛利秀元にも黙って、本領安堵の条件を受け入れる旨の起請文を直政と交わし、ここで直政はついに広家の調略に成功しました。この起請文には長政の連名もありこれも大きかったようです。

ここで家康は三成を大垣城からおびき出すため、関ケ原へ移動するという最大の賭けに出ます。そしてその夜、広家は家康ら東軍の軍勢を南宮山の下に陣を敷く自分の目の前を黙って通します。この動きに気づいた三成は、「このままでは吉継が危ない!」そして「玉城が奪われてしまう!」と思ったのかもしれません。急ぎ全軍を大垣城から関ケ原へ、雨の中を飲まず食わずで一晩中かけて走らせ、家康に気づかれぬよう伊勢街道に迂回しながら先回りし移動させます。

明朝8時、雨が止み霧が晴れると突然鉄砲の音と軍勢の声が・・・、いるはずのない東西両全軍が眼下にいる事に、松尾山で驚いた毛利の重臣小早川秀秋は、これでもはや輝元は大坂から来ず・・・そして広家や秀元はすでに・・・毛利はもはや東軍に寝返った!と悟り、自らも恩のある家康へ寝返り大谷吉継を攻めたのではないかと私は思います(ここは諸説あります)。そして広家は、弁当を食べているなどとはぐらかし、秀元と恵瓊が南宮山から下りられぬよう阻んだのでした。

関ケ原の戦いの2年前から始まり、前日ギリギリまで粘りに粘って成功したこの直政の調略が、関ケ原での東軍勝利をもたらした最大の功績ではないかと私は思いました。

ここまでの内容に異論や反論のある方は多いと思います。しかしここは、あくまで私の個人的な見解なので、そこは御容赦願いたいと思います。

では、次は直政が鉄砲を放ち火ぶたを切ったと言われる開戦地へ向かいます。
 

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赤い城

模擬天守は資料館 (2024/10/26 訪問)

この日は久しぶりのゴルフ、その前にサッと立ち寄れそうだったので近くの朝日山城へ。
麓の道路からも模擬天守がよく見えます。

朝日山森林公園の一部で伊勢朝日山本宮も建っています。
車で駐車場まで登り、模擬天守までは徒歩で行きました。
登城路には桜が植えられているので春の訪問がよさそうですね。

模擬天守は資料館になっていますが早朝の登城につき入れず。
周りを少し歩きましたが遺構は見当たりませんでした。

この後のゴルフですが・・・ここは城のサイトなので触れないでおきます😢

朝田さん、日蓮着目?東京コンプ最後の城の伏線ですかね?考えすぎかな。

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todo94

日帰り羽越ドライブでの攻城① (2024/10/20 訪問)

日帰りと言いつつ、家を出たのは日が変わる前の夜の11時過ぎ。土曜の勤務を終え、早めに就寝して3時間の睡眠をとってから自宅を出ました。一気に城びと登録の城の中で山形県最北の城を目指しましたが、ガソリンがとても持ちそうになかったので鶴岡市内で給油。ということでこの日の最初の攻城は尾浦城となりました。いくつもの郭があって一通り巡ってみましたが、本丸三吉神社後背の土塁とその後ろの空堀が一番の見どころになるのかと思います。天気が良ければ鶴岡市の眺望も楽しめるでしょう。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:貝吹山城 (2024/10/01 訪問)

久米田駅から徒歩10分ちょっとで、公園入口(34.458975、135.409983)に着きました。

1561年(永禄4年)三好実休(義賢)によって築かれました。
高屋城を三好に奪われて敗走していた畠山高政が再起をはかって岸和田城を攻めると、これの後詰として三好実休がきて久米田寺を本陣とし貝吹山城に陣を構えました。
翌1562年(永禄5年)に畠山高政に攻められ、三好実休が討ち取られ三好勢が敗れました。

貝吹山城は前方後円墳の古墳を利用した陣城であったようです。
現在は公園として整備されています。攻城した時、ゲートボール会場になっていました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=伯太陣屋を目指す為、久米田駅から電車で信太山駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:積善寺城 (2024/10/01 訪問)

畠中城から徒歩20分弱で、説明板前(34.429667、135.362944)に着きました。

1558年(永禄元年)頃に根来衆によって築かれました。 根来衆が岸和田の三好氏と戦ったとき、砦として築かれたのが始まりと云われ、その後、根来衆の拠点の一つとして整備されました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉が岸和田城に入って本格的な戦いとなりましたが、この頃には積善寺城は二重・三重の堀を巡らせた堅固な城になっており、出原右京を大将として九千五百名の根来衆が立て籠もっていたそうです。
秀吉方の攻撃にも落城せず、貝塚寺内の卜半斎了珍の仲介により開城となりました。

積善寺城は現在の橋本集落一帯に築かれていました。 本丸は明教寺付近であったそうですが、行っていません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=貝吹山城を目指す為、和泉橋本駅から電車で久米田駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:畠中城 (2024/10/01 訪問)

羽衣駅から電車で貝塚駅に着きました。そこから、徒歩20分くらいで、長屋門前(34.437105、135.353585)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、土豪神前氏の屋敷を城郭とし、天正年間(1573年〜1592年)には根来衆などが籠もっていたそうです。
江戸時代は庄屋を務めた要家の屋敷となりました。

畠中城は要家の庄屋屋敷が本丸のようで、ボロボロの土塀で囲まれた居館城郭です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=積善寺城へは、ここから徒歩で向かいました。

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