みんなの投稿

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さといも

平地にも遺構が (2024/03/28 訪問)

 山の上の石垣はとても立派です。御鐘門も通れるようになり、本丸北側の石垣の下にも行けるようになりました。山の下にも空堀や石垣があり、かつては枡形や櫓門があったと初めて知りました。

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さといも

険をたのむ詰めの城 (2024/04/12 訪問)

 地元の方が設置したらしい看板では、登り口から本丸まで30分とありますが、ゆっくり登っても20分かからずに登れました。ただ、道は細く落ち葉が積もっていますし、本丸に登る坂は急で、土が崩れやすくて滑りやすいので、注意が必要です。ロープを使って慎重に上り下りしました。二の丸は四方が傾斜で独立しており、本丸の方が標高は高くさらに坂を上っていかなくてはなりません。小細工なしで険をたのむ初期の山城という印象です。平地の新津城の詰めの城として機能していたと山頂の看板に書いてありました。

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チェブ

桜咲く。 (2024/04/13 訪問)

芳賀氏の居城「真岡城」。桜満開の季節にお邪魔しました。
「真岡城」跡でもある真岡小学校近くの行屋川水辺公園に駐車場があります。
私は、城山公園の駐車場を利用しました。
城山公園には『真岡陣屋』の石碑と説明板があります。こちらは「真岡城」の四ノ丸になるそうで、土塁の上には小さなお社がお祀りされてました。
グラウンドになっていて、朝の9時、皆さんゲートボールしてます。
道路になってしまった堀を渡り、小学校へ。門の右手に説明板があります。
本丸、二ノ丸、三ノ丸が真岡小学校の敷地内です。
仕切りとなる堀でもあるのかと、右手に続く遊歩道を歩きました。
下には行屋川が流れ、桜並木が感動的でした。
桜に誘われて、行屋川水辺公園の遊歩道へ。
散歩されている方、桜の写真を写してる方に紛れて土塁の写真をパシャ。
公園入口には駐車待ちの車が早くも待機していました。こちらから、坂の上にある城山公園に続く道が堀のようです。

「真岡城」、冬に来る予定でしたが、雪予報や高速道の降り口を間違えて別城に予定変更と、伸び伸びの攻城になりました。
でも、桜の季節にお邪魔できて良かったです。
石碑や遺構の写真に、桜が入るように右へ左へ、はたまた、しゃがんで写したのは始めてではなかろーか?
と、桜ばかり見てた「真岡城」攻めでした。

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名城一人旅

紅葉の備中松山城 (2023/11/11 訪問)

現存天守12城の一つ、
日本100名城68番・備中松山城です。
3度目の登城で紅葉🍁真っ盛りの時期
に撮影出来ました。
高梁市が一望出来た城下町の空撮動画は
投稿出来ませんが、流石に国指定史跡
重要文化財は絶景でした。
猫🐈城主の「さんじゅうろう」にも
ご挨拶をして来ました。

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todo94

近江の城めぐり⑥ (2024/03/09 訪問)

浮気城からの転戦です。大きな横断幕が張られていて説明板も建っていますが、城内へは立入禁止となっています。少し離れた場所にある浄専寺の移築城門は何とか見つけることができました。イオさんの投稿にある、史跡公園としての整備を心より待ち望みます。

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トク

桜雲に浮かぶ佐和山 (2024/04/09 訪問)

安土城からの転戦です。安土駅からJRで10分程で彦根駅です。駅を降りて線路沿いを歩く事15分、龍潭寺が佐和山登山口になります。その歩いている最中にふと右手の佐和山を見ると、桜の木々の花がまるで雲のようになっていてその上に佐和山が浮かんでいるような、そんな美しい光景に見えてビックリしました。この時期でしか見られない佐和山と桜のコラボです。まるで珍百景を見ているようでした(写真①)。

清涼寺と井伊神社前の桜もきれいでした(写真②③)。そしてその間の龍潭寺にある石田三成像に拝礼(写真④)。三成様に「登城してもいいですか?」と聞いてから龍潭寺の山門をくぐり登城を開始します(写真⑤)。登城路は短いですが結構急坂です。しかし桜の花びらが落ちてじゅうたんのようになっていた所もあり、楽しんで登る事ができました(写真⑥⑦)。約20分の登りで山頂の本丸に着きます(写真⑧)。本丸にはあまり桜の木がなかったのがちょっと残念です。しかし・・・山頂に着いたとたん足にけいれんが・・・ さすがにこの日、安土・佐和山とたて続けに山城を2つ登ったので、ついに足にきたようです(もう若くないな~😩)。よって、だんだんと暮れ行く彦根城と琵琶湖の景色を30分間、本丸のベンチで横になり足が回復するまでボーっと眺めていました(写真⑨⑩)。よく考えたら、ここ佐和山でも龍潭寺から先は誰にも会っていません。佐和山も一人占めできたようです。今日は本当にラッキーな1日でした😊!

しかし17時に龍潭寺の山門が閉まると書いてあったのを突然思い出し、あと15分、出られなくなっては大変と急いで足を引きずり下山しました。
 

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しんちゃん

酒井忠次出生の地 (2024/04/13 訪問)

井田城は徳川(松平)譜代・酒井家の居城とされています。酒井忠次出生の城とされ、周囲より高台になっており、主郭跡とされる平地には城山稲荷が建てられています。歴史的に重要な城だとは思いますが賽銭ドロに対する剽軽なメッセージが妙に刺さり、頭の中が真白になりました。とりあえず賽銭ドロをするぐらいに追い詰められたら素直に周囲に助けを求めましょう。
あと‥酒井忠次出生の城であれば石碑ぐらいあってもいいのではないでしょうか。岡崎市さん‥‥お金ありますよね?(感じ悪い‥)

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名城一人旅

雪景色の丸岡城 (2014/02/08 訪問)

現存天守12城の中で一番目に攻城した
お城で雪景色がとても印象的でした。

現在、日本100名城は66城、続・100名城は
35城を制覇中。
ドローンでの空撮は7城で、すべて事前に
自治体管理部署及び管理団体に申請し承認を
頂いております。

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小城小次郎

若栗城を守った娘 (2023/10/28 訪問)

耕地整理にも遭わず田んぼの中に土塁が残されたのは、このお城に伝わる不悪糺斎右京輔とその娘が上杉謙信の大軍相手に繰り広げた、機転の利いた奮戦ぶりが影響しているのかもしれない。それにしても変わった名前の城将だ。

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しんちゃん

バイバイ桜 (2024/04/13 訪問)

井上城は不明な点が多い城です。案内板には、井上城に関わる最も古い文書「貴籍」には城主は有馬主殿正で応永から嘉吉年間にかけて城があったとされています。尾張古城志には城主未定とされ、張州府志には嘉吉年中の城主は重松主水正とされているようです。石碑には嘉吉3年(1443)のころの城主は有馬主殿正で尾張守護代・下津城主の織田郷広から帰順を命じられ、織田の宿老・伊藤源内からも重ね重ね帰順を進言されたが退けたため、攻められ落城したとのことです。
城跡は五条川に面した地に築かれていたとされ、散った桜の花びらが川面を漂っています。この時期はどこの桜もだいぶ葉桜になって来ています。また来年綺麗な花を咲かして下さいな。

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ぴーかる

良好な遺構が残る櫓台と建物跡 (2024/02/17 訪問)

【河口城】
<駐車場他>城跡説明板<35.509953,133.940156>の横、土手に車を縦に入れると2台程停めれる。
<交通手段>車

<見所>大堀切・主郭櫓台・石垣・扇状曲輪
<感想>日帰り羽衣伝説の旅ラスト5城目。現地説明板によると、室町時代に伯耆国守護の山名氏が伯耆・因幡国の国境の守りの城として河口城を築城し一族を城主に置いたとあります。1524年山名久氏の時に尼子氏の侵攻を受けて城は落城し城主は逃亡します。毛利氏が尼子氏を滅ぼした後は山名(河口)久氏が再び毛利氏の麾下で入城します。近隣の南条氏が毛利氏から織田氏の傘下になると1581年に羽柴秀吉の攻撃目標となり水軍によって港もろとも落城します。以降は南条氏領となり関ヶ原で南条氏が西軍に付いたため没落し城は廃城となったようです。
 上記の城跡説明板の横に、多目的保安林「河口城ふれあいの森」の地図板があり、一帯が整備区域となっています。軽トラ幅スロープを下って行くと地図板の果実の森に着きます。ここは城跡ではないようです。右手に進みます。地図板の針葉樹の森が谷の扇状曲輪になっており綺麗なアーチ状の2段構造の段曲輪になっています。ここから城跡のようです。進んで休憩小屋辺りが腰曲輪群、小屋背後も削平地になっていますが竹林がひどく散策は難しい。休憩小屋の北東側の窪地が主郭南側の大堀切から続く大空堀となっています。南側の大堀切には石垣が少し残されています。主郭虎口にも礫石が沢山あり石積みであったことが分かります。主郭虎口から登ると主郭腰曲輪があり、その奥から主郭の北側曲輪壁が見る事が出来ます。曲輪壁は石垣が全て崩れ落ちたような感じになっていました。主郭に入ると丸い穴のあいた柱立ての礎石が落ちています。主郭は南北に方形に長く、南端に見事な石積みの櫓台が残っています。添付写真の通り櫓台の残存状態は良好で階段も明瞭に残っています。櫓台手前に建物跡の石列があり、主郭建物とその背後に櫓があった事のイメージが出来ます。「おお、すごい!」と感嘆の声が出てしまった見応えある主郭櫓台でした。

 これにて日帰り羽衣伝説の旅終了、羽衣石の城や打吹山の散策登山が楽しかった。また知らなかった山名氏の伯耆国守護所があった事や山名氏没落後南条氏が勃興していた歴史変遷が勉強になった。走行距離482㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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サトシ城

桜満開の春日山城 (2024/04/12 訪問)

左回りで巡って、約1時間。すれ違う人々と「今日は最高ですね」と言葉をかわしていました。
地震の影響で一部侵入禁止の部分がありましたが、城廻には問題ありません。 帰りには林泉寺に寄って、謙信のお墓に手を合わせて来ました。

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天守無しがアツい

小机城址まつり (2024/04/14 訪問)

(URL)https://www.city.yokohama.lg.jp/kohoku/shokai/bunkakanko/jyoushimatsuri.html

小机城の御城印はすでに購入しており、実地見学をいつにしようかと考えていた頃、「小机城址まつり」というイベントが毎年4月に開催されていることを知り、ネットで検索したら(上記のURLに辿り着き)今年(2024年)は4/14に開催という情報を得た私

その日に現地(小机城)へ向かうことを決めました。小机駅の駅前広場にステージがあり、模擬店も。1枚目の和菓子(御城印焼)を土産として買いました🍪

空腹になったので赤飯も買い、付近にある城郷小机地区センターへ。そこは(落ちやすくはありましたが)Wi-Fiが使えたので赤飯を食べながらYouTube鑑賞をしました。一段落ついてから「小机城の歴史」を紹介したミニ展示を見学。その中にジオラマ(2枚目)があり、他の展示文を眺めた後に撮影しました

それから城址まで地図アプリを頼りにアプローチ🚶‍♂️アプリで終点となってる所が行き止まり…という計算外もありましたが、ガイドマップ(御城印を購入した際に一緒にいただく)の地図を見れば何なりと近づけました

途中に展示会があり、城址の歴史…過去のまつり開催時の様子…そして(3枚目の)城の模型が展示されており、リアリティをそこに感じたので(そばにいたスタッフに許可を得てから)撮影。あくまで製作者(スタッフの1人が造ったらしい)のイメージによるもので、風で少し倒れてしまったりもしたそうですが、実際の城はこんな感じだったのではないかとマジで思います

全部茶色…というか木の色で、絢爛豪華なお城とは程遠い存在ではありますが、あくまで戦闘時における、敵兵からの侵攻に対する防御に徹した建物ならびに空堀…としての姿がこれ…という事なのではないでしょうか?

城址に入るとキツい上り坂が入場者を待っていました…ここも山城。本丸広場に入ると風魔忍者ショーというイベントがおこなわれてました。まず剣(忍者の使用する忍者剣は普通の日本刀より少し刀身が短く、それが逆に屋内でも刀が壁に刺さりにくく、振り回すのに向いているとMCが語ってました)や苦無による演舞⚔️

それから見物客の中から希望者を募って演舞の体験…周りの様子を見てから手を上げようかなと最初は思っていたのですが、手を上げたのは全て子供…「1人だけ大人が手を上げて参加したら場違いだよな😅」という雰囲気を察したので今回は見物するだけにしました

参加者は全て子供…「子供限定」とは言ってなかったものの、場の空気からしてそれのようなものでした🧒👧 7歳の子もいれば4歳の子も…4歳の子は名前と「もうすぐ5歳になります」とは言っていたものの、その後のMCからの質問には無言…「忍者にとっては出身地を知られることはマズイので、黙ることも大事なんだよね〜」とポジティブなフォローを受けてました😅

上からの斬撃をしゃがんでかわし、下からの斬撃をジャンプでかわし、頭への斬撃を刀で受け止めてから、相手より早く斬る。刀で受け止める以外は相手に当たらない距離でおこなってました…子供の中には説明どおりに動けない子もいて、そばにいた忍者がその子の腕を動かして演舞を成立させてました

それから忍者同士の演舞…ある男性忍者がバック転…(回し蹴りに近いけど、相手に蹴りを当てるのではなく)脚を回して身体を斜めに回転させる技を見せており、「この動きは訓練しないとできないと思う…この人アクロバットの教室か何かで練習したんだろうな🥷」と思わず拍手しました

SNSへの投稿は大歓迎…とMCが語っていたので、最後の集合撮影にて私も1枚撮影(4枚目)。展示や上映中の撮影禁止というのは場所によりけりですが、逆に大歓迎というのはむしろ珍しいかも…です

余った時間を使って城址の中を散策。「中世の城について(5枚目)」の案内板を見てみると、横浜市内およびその近辺には数多くの城が建設されていたことが伺えます

その中で御城印を扱う城跡は横浜市内では四箇所(小机城、榎下城、寺尾城、茅ヶ崎城)ですが、つまり痕跡がしっかり残っており、歴史的史料にも記録があって整合性のとれるものはこれらだけ…ということなのでしょう。その他の城跡は痕跡が残っておらず(史料にその記載はあっても)どこにあるのかが正確に分からない(おそらく住宅地や商業施設と化してしまってるんじゃないでしょうか?

城址には幾つもの空堀が巡らされており、まず橋の上からそれを眺めて撮影してみました(6枚目)。ここからの位置が堀の深さが一番よく分かる場所に思えたので。深さは5mはあろうかというところ

階段を降りて堀の中に入ることもできました。他の城址だと入れないところばかりだったと思うので、こういう存在は珍しいと思います。堀の側にはタケノコが小さいながらも生えており「採取禁止、見かけたら警察に通報します」という注意書きが。畑泥棒する輩でもいるんでしょうかね…?タケノコの皮なら落ちていたけど

堀の底から撮影したのが7枚目。ここから上を見ると改めて深く掘られてるなというのが分かります。竹や木が生い茂っており、もしここに敵兵が落ちてしまったら上がってくるのは難しく、狙い撃ちにされたのではないでしょうか?

この城址が建設された室町時代…ここはあくまで戦争時における防御機能としてのみ使用された…それが今はお祭りの会場となったりレジャーシートを敷いてのんびり過ごしたり、チャンバラごっこをする子供がいるわけですね

富士仙元という場所が本丸から少し離れた場所にあることをガイドマップを読んで知ったので、「まだ時間あるから行ってみよう」と考えて歩きました。一度城址から麓に降りて高速道路の下にあるトンネルをくぐり、そこから民家を抜けて階段を上り、さらに坂を時計回りに登った先にそれがありました(8枚目)

「ここから先には無さそう…けれど念の為に行ってみるか…」と思いながら歩いた先にあったため、もしそこで引き返していたら目にする事ができないまま…でしたね

「富士仙元大菩薩」と石碑には書いてあり、お墓とは異なるけど、仏教関係のものと思われます。御賽銭が置かれていた…1円玉や5円玉が数多く散在しており、私はそこに10円玉をお供えしました🪦

自宅に帰り、小机城の訪問および見学を達成したので(予め購入しておいた)御城印を印帳に収めました…9枚目の左がそれ。ちなみに城址までの途中にも御城印の別バージョンが売られてましたが、私にはとりあえず…この1枚で十分でした

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イオ

楠木七城のひとつ (2024/01/28 訪問)

南北朝期に楠木正成が楠木七城のひとつとして築いた城で、室町中期には畠山義就が籠った嶽山城(龍泉寺城)の支城として嶽山城の戦いで落城していますが、その後も畠山氏の内紛の舞台として活用されたようです。

嬉町自治会館のチェーン前に駐車させてもらって登城開始。あちこちに案内表示があるので迷うことなく登城口に到着。防獣柵のゲートを開けて少し登ると、金胎寺跡が広がり説明板が立てられています。金胎寺跡から5分ほどで「馬廻し」の分岐の表示があり、登城道をそれて行ってみると、金胎寺城を攻めた北条軍が山の険しさに馬を廻して帰ったことから馬廻しと呼ばれるんだとか。馬廻しから3分ほど登った数段の削平地は楠木軍兵舎跡と伝わります。やはり地元では楠木正成の城なんですね。

中間展望台を過ぎたところで、右手(西側)の笹藪が道状に切り開かれていたので行ってみると、山頂から北西にのびる尾根の曲輪群が木々を伐採し藪を刈り払って整備されていました。曲輪群の奥からさらに続く笹藪を切り開いた道(?)を進んでいくと、南西尾根の堀切の堀底にたどり着きました。さらに南西にはもう一条の堀切があるようですが、藪に沈んでいてよくわかりません。堀底から上がったところの曲輪(桜公園)を抜けて、今度は北尾根の堀切に向かうも、こちらも藪が激しく近付くことさえできずに断念…。楠公さんの隠し井戸も(先達の投稿のとおり)笹藪の中に隠されていて見付けられませんでした。最後に山頂部の主郭に登ると、北西に大阪平野が広がり、東には赤坂城塞群が築かれた金剛山からのびる支脈が見渡せます。楠公さんが支城とし、戦国期に至るまで活用されたことが納得できる眺望でした。

隠し井戸も堀切も藪に沈んでいたのは残念ではありますが、笹は刈っても刈ってもすぐに伸び盛ることを思うと、主郭周辺だけでなく北西尾根の曲輪群も整備してくれているのは本当にありがたいことだなぁ、と頭の下がる思いでした。
 

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しんちゃん

かつては土岐氏の守護所  (2024/04/14 訪問)

長森城は美濃国守護・土岐頼貞の次男・頼遠により築かれたとされています。頼遠は南北朝時代に足利幕府方として北畠顕家と青野ヶ原で戦いますが、顕家軍6万余に対して、頼遠の軍は700余騎で一時間ほどで300騎が討たれてしまったそうです。残った頼遠の軍は顕家の弟で2万騎を預かる春日少将(北畠顕信)の軍に駆行って戦ったものの20騎ほどまで激減して長森城に退いたそうです。頼遠はこの戦いで左の目の下から口脇まで斬られてと、散々な目に合ったようです。
頼遠は後に光厳上皇に不敬を働き誅殺され、弟の頼康が美濃・尾張・伊勢の三カ国の守護として跡を継ぎます。頼康が革手城に移った後は頼康の甥・詮直(直詮?)が城主になります。応永6年(1399)大内義弘が起こした応永の乱に呼応した肥田満康らが大森城に入ると、美濃守護・土岐頼益は急ぎ和泉の陣から帰国し、詮直らと戦い詮直は敗死し、満康らもこの時に討たれたものと思われます。

現在は切通観音の脇に切通陣屋の碑と案内板が立っています。切通陣屋は宝暦5年に陸奥国磐城平に移封となった安藤氏が美濃国内に1万8千石の加増を受けた際に領地を支配するために築いたとされています。

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todo94

近江の城めぐり⑤ (2024/03/09 訪問)

金ヶ森城からの転戦です。なかなか記憶に残る城名です。字面も音も。住吉神社がその故地で、なだらかながらも美しい土塁が残っています。ただ、駐車場所には難渋しました。周辺を数回、行ったり来たりしてしまいました。

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トク

安土城の桜と天主台を堪能 (2024/04/09 訪問)

この日は朝から安土に着く直前まで、快速電車が運転を見合わせる程の大雨と強風だったのですが、遅れながらもゆっくりと走る各駅停車で何とか11時頃に安土駅に着き、駅前の安土城郭資料館で時間をつぶしていると、何と雨や強風が急にピタリと止み薄日も差してきたので、予定通り登城する事にしました。

桜満開の時期なので、さぞかし人が多いだろうと思いながら駅からタクシーで登城口へ、すると・・・あれ🤔? 天候の影響か全く人がいません(写真①②)。よって今から登るのは私一人だけ。このままだと桜咲く安土城を一人占めできそうです(ラッキー!)。

桜が綺麗な羽柴秀吉や前田利家の邸跡を見ながら大手道を登ります(写真③④⑤⑥)。途中で織田信長公に拝礼し(写真⑦)、最後の階段を登ると天主台に着きました(写真⑧)。

誰もいない天主台に立ってみました。きっとここには、麓の「信長の館」で再現されている、あの朱色と黄金に輝く壮麗な大天主が建っていたのでしょうね。その事を想像しながら信長公になったつもりで、ここから見える琵琶湖に向かって、「天下布武」と大声で叫んでみました(写真⑨)。いや~爽快です(笑)。欲を言えばもう少し木を伐採してほしいが・・・、でも下る途中の摠見寺からはもっとよく琵琶湖が見えたのでそれでよしとしました(写真⑩)。

結局1周90分、本当に誰にも会わずに、桜咲く安土城を一人で堪能できました。下山した頃にはさすがに何人もの人が登り始めていたので、とてもラッキーでした!!!😊
 

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しんちゃん

あたたた (2024/03/10 訪問)

苅安賀城は苅安賀自動車学校のあたりに築かれていたようです。現状は車校、城址碑がぽつんとたっていますが、気づかず素通りしてしまいました。この日は、こんな城址ばかり廻っていて、なんとなくお墓詣りのハシゴをしているような気になってきました。お墓かあ‥‥‥(このお城は〇んでいる?)  あたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたた! 苅安賀城 おまえはすでに〇んでいる! 失礼しました。いかんな、こういう悪いノリは。気を取り直して、
苅安賀城は近江浅井氏の一族・浅井高政がこの地に移って築いたとされています。東西約76m、南北約58mの平城だったようです。高政の子・田宮丸は織田信雄に仕え、三家老の一人として要職にありましたが小牧・長久手の戦いの際に伊勢長島城で羽柴秀吉に謀殺されたそうです。苅安賀城はその後、廃城になったそうです。

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しんちゃん

城址公園としても良好。 (2024/03/09 訪問)

沓掛城は本丸が芝生広場として整備されていて周囲に空堀(内堀)が残っています。城址公園としても良く整備されていて、西の諏訪曲輪との間は橋で行き来することが出来ます。南の二の丸は東側が駐車場になっており大手門跡を経て本丸と繋がっています。かつてはここに丸馬出があったようです。大規模な内堀跡は西側が紫陽花、東側が菖蒲/燕子花の畑として有効に活用されているようです。
沓掛城の始まりは14世紀ごろに近藤宗光が初代城主としてこの地に居住したことに始まります。後の近藤氏は今川義元に従い、桶狭間の合戦の2日前には義元が沓掛城に着陣したと「信長広記」には記されているようです。義元戦死の2日後、永禄3年(1560)5月21日には9代目城主の近藤九十郎景春が戦死したそうです。
後の城主、川口久助は関ヶ原の合戦の際に西軍に味方し、敗戦後は流罪とされ城は廃城になったそうです。

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三浦の晃ちゃん

熊注意❗ (2024/04/15 訪問)

高山祭りに高山市を訪れているので、早朝の散歩がてら、訪問しました。江戸時代の半ばには、廃城になっていますが、金森氏の居城です。途中に、熊よけの道具が、自然な形で、置いてあったのには、ドキッとしました。

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