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ぴーかる

尼子十砦1城目 (2024/02/23 訪問)

【十神山城】
<駐車場他>十神山入口<35.431911, 133.262462>駐車場8台分程あり。トイレあり。
<交通手段>車

<まえがき>今回の旅は前回取りこぼした尼子十基の夕景城攻略と尼子十砦を攻める目的で来ました。朝一番に城びと未投稿の豊岡城に行きました。城郭放浪記さんのサイトを頼りに東側無線基地<35.357495,133.280618>から奥へ入り込もうとしましたが、現在は笹薮がひどくて進入出来ませんでした。南側の畑からも進入は厳しく断念しました。
 次に安田要害山城の登城口に行きました。雨が降ってきて、雨雲レーダーを見つつ1時間ちょっと待ちましたが雨やむ気配ないので雨雲レーダーで降っていない十神山城に移動してやっと1城目。

<感想>1泊2日尼子十砦の旅1城目。城びとの城郭情報では十神山城は室町時代に松田氏によって築城されたとあります。現地説明板によると1532年頃に尼子経久が月山富田城の守りを固め、中海の制海権を得るためにここに支城を築き松尾遠江守を配属したとあります。毛利氏の侵攻の時、家臣児玉就中の水軍によって中海が制圧され、1566年城も落城したとあります。十神山は山頂に十柱の神を祀ったことに由来するらしく、現在は陸続きだが当時は島だったそうです。
 十神山入口から山頂まで遊歩道階段が付けられていて登り易いです。登城途中も削平地は全く表面観察では見受けられず、山頂の主要部も小さな削平地が残るのみです。山頂から西方向に中十神山頂も小さな曲輪で手前70m手前の尾根曲輪も削平された遺構かとも見えました。中海の海岸の方には行きませんでした。

<満足度>◆◇◇

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sorato

石垣と雪 (2022/12/22 訪問)

2022年の12月の写真です
天守台の穴蔵、見ごたえあります!

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sorato

石垣と雪 (2022/12/22 訪問)

2022年の12月の写真です

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さといも

駅からすぐ (2024/03/13 訪問)

 駅の構内から天守台に登れます。駅の高架下にも石垣がありますし、駅前から徒歩でほどなく舟入櫓の石垣や舟入の跡があります。

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さといも

正午の鐘 (2024/03/13 訪問)

 鐘櫓の脇で、ちょうど正午の鐘が鳴り始めて、びっくりしました。

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小城小次郎

ホンモノは地中にあるらしい (2023/10/28 訪問)

加賀藩が越中に設置した四か所の台場のうちの一つで、ホンモノは地中にあって、今あるものは設計図に基づき覆土の上に復元したものらしい。レプリカながら臼砲がしっかり海を見ていて軍事施設っぽい(軍事施設だけどw)。

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うさ

高遠城 (2024/04/17 訪問)

こちらは桜散っていました。
堀が素晴らしい。

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うさ

高島城 (2024/04/17 訪問)

桜間に合いました

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うさ

犬山城 (2024/02/28 訪問)

御城印を頂きに2度目です

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うさ

岩倉城 (2024/02/28 訪問)

ひっそりとあります

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うさ

小口城 (2024/02/28 訪問)

最寄り駅から結構歩きました。

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トク

彦根城さくらまつり(昼編) (2024/04/10 訪問)

桜満開の彦根城を訪れました。彦根城は2回目で、前回は佐和口(表御門)から登城したので、今回は京橋口(大手門)から登城しました。彦根城は、特に内堀沿いに大変多くの桜が植えられていたのにはビックリしました。

堀の両側に咲く桜を楽しみながら京橋を渡ります。鉢巻石垣と腰巻石垣が桜に映えて美しいです。大手御門跡では堀の水面に花びらが浮かび、その横を遊覧船がゆっくりと通って行くという珍しい光景に出会えました。何だかのんびりとしていて、とても癒されます(写真①②③)。そこから大手道を登ると天秤櫓に出ます(写真④)。当時はこの京橋の向かい側に武家屋敷があったので、このルートが家臣の登城路だったわけですね。

そして屋根の向きも違えば石垣の積み方も左右で異なる天秤櫓の門を木橋を渡ってくぐり、さらに太鼓門(写真⑤)をくぐると・・・壮麗な天守が目の前に現われます!(写真⑥⑦)。桜とコラボすると本当に綺麗な天守でした。さすが国宝です。そして天守最上階からは、琵琶湖が見渡せて、とても気持ちがよかったです(写真⑧)。

その後は佐和口へ下り、彦根城博物館(藩主御殿跡)を見学し、表御門から登り石垣に咲く桜を眺めながら(写真⑨)、内堀沿いに玄宮園を通って帰りました(写真⑩)。彦根城はこの時期が最高だと思いました。

次は(夜編)に続きます。
 

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イオ

宇治川中州の城 (2024/02/11 訪問)

鎌倉前期に長瀬左衛門が宇治川の中州に築いた城で、後鳥羽上皇方の城として鎌倉方と対峙しました。室町期には畠山氏内紛の中で細川政元の居城となり、戦国期には足利将軍家に仕えた真木島氏の本拠として、織田信長に反旗を翻した足利義昭が籠城するも、織田方に攻められて開城。義昭は京を追われて室町幕府終焉の地となりました。その後、豊臣秀吉が伏見城を築き、宇治川の流路を付け替えたことにより廃城となったようです。

軍事上の要衝として様々な合戦の舞台となった地ですが、現在は宅地化していて遺構は消滅しており、城跡推定地の児童公園と児童公園から北に徒歩5分の槇島公園に、それぞれ石碑と説明板が立てられているのみです。駐車場はありませんが、石碑と説明板しか見るところもないので、両公園の脇に路駐してささっと写真を撮って退散しました。
 

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todo94

近江の城めぐり⑦ (2024/03/09 訪問)

永原御殿からの転戦です。先達の皆さんの投稿を拝見し、道の駅竜王かがみの里に駐車して攻城開始。登城口からすぐの西光寺跡の雰囲気もなかなか良かったです。そして先達の皆さんの投稿を拝見していなかったら主郭の石垣はおそらく見逃していたと思います。貴重な情報ありがとうございました。近くの源義経の元服の地はスルーしてしまいました。

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しんちゃん

各陣から見た松尾山城 関ヶ原はヤバい所です。 (2024/04/14 訪問)

いいかげんしつこいと思われるかもしれませんが、まだ関ヶ原の周辺をウロウロしています。以前、松尾山城で妄想全開で小早川戦記を掲載しましたが、あれはあくまでも妄想です。今回は真面目に城びと目線で関ヶ原を掘り下げていきたいと思います。
小早川秀秋の陣取った松尾山城は関ヶ原周辺でも戦国期に山城として使われ、周囲の陣所と比較しても明らかに造りが違います。山中(やまなか)の大谷吉継陣の松尾山眺望地や笹尾山からも確認することができます。南宮山の毛利秀元陣からは見ることはできませんが、△392地点の付近からは松尾山や大谷吉継の陣所があった場所を俯瞰することが可能です。

関ヶ原は歩けば歩くほど何かが出てくる非常にヤバい所で、じっくりと掲載をしていきたいと思っております。まず手始めに朝倉山から南宮山を経由して毛利秀元陣を確認してから下山したのですが、朝倉山を含めて南宮山そのものが城塞に似ていると感じました。尾根を利用して敵の動きを阻害する城塁の機能を持ちながら、各所に拠点を配置しています。南宮山の南北を通る街道を各所から見渡すことが出来、周囲の眺望も良く、南宮山の山頂の周囲には烽火台跡と思われる箇所が二つありました。
地理的に考えると気づきがあると思いますが、一度目の元寇のあとに鎌倉に向かう元軍を食い止めるために一定の整備を受けているものと思われます。ここを抜かれると元軍は東山道や東海道を経由して鎌倉を襲撃してしまいます。九州の元寇防塁は九州の御家人たちによって築かれているので、関ヶ原周辺の山城は近江や美濃の御家人たちによって整備されたのではないでしょうか。

実は‥大谷吉継の陣のある山にも似たような山城がありまして、勝手に山中の城山(仮)と呼ばせていただきます。その周辺にはかなりの大軍を配置することが可能で、白峰氏が指摘されたように西軍の陣が置かれていた可能性が有ります。私は竪堀が4箇所も配されている上の郭に宇喜多秀家の陣が有った可能性があると考えています。
松尾山、山中の城山、南宮山に大老格の大名を配置して黒血川、藤古川を天然の堀とし籠城戦の方式を取りながら東軍を迎え撃つつもりだったのかも知れません。

実は‥松尾山の手前にある小山にも陣跡の痕跡が有りました。土塁は大谷吉継の陣の方向を向いていて、ここにも小早川の軍勢が配されていたものと思います。松尾山城は構造的に毛利氏が陣取る予定でいた場所と思われ、そこに小早川が割り込んできたために、翻意が有るとして石田三成があわてて飛び出してきたのかもしれません。最も信頼のおける大老格の宇喜多陣の目の前に小早川が陣取れば三成が慌てるのも当然だと思います。
関ヶ原では逆手の陣立になってしまいましたが、関ヶ原周辺は本来、西から襲来する脅威に対して整備されていたと推測します。関ヶ原の手前で山中の城山と松尾山に配した軍で敵を挟撃し、さらに関ヶ原を抜けてきた敵を南宮山の南北、もしくは東側で迎撃、各陣山の尾根上に配された兵は背後を突こうとして迂回してくる敵を阻害する仕組みであったと想定します。

石田三成も明軍が襲来して京を占拠した場合、東山道を北上、もしくは東海道で関東に向かおうとする敵をここで迎撃するつもりだったと考えます。想定になりますが上杉氏を会津に加増転封した目的の一つに、明軍が襲来した場合の豊臣家、天皇家の避難先となってもらう予定だったというのが有ったと考えます。もしそうなった場合、会津が日本の中心となり、反撃の拠点になったのだろうと思います。
東山道を進み会津に進もうとする明軍を阻止するためにも関ヶ原、南宮山の守りは最重要です。

石田三成が関ヶ原周辺の山城を活用して早期に陣所を構築できたのは明軍の襲来に備えて関ヶ原周辺の地理や遺跡を熟知していたからなのではないかと私は推測します。

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朝田 辰兵衛

撮影に神経を使います…📷 (2024/02/24 訪問)

私有地撮影は通常でも神経を使いますが,この日は「プラス逆光」の洗礼を受けました…<泣>。佐野城のバーターで,効率よくウォーキング。移築門のほうを先に廻りました。

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しんちゃん

伝説の一夜城 (2024/04/14 訪問)

墨俣城は木下藤吉郎によって数日で築かれたという伝説の城で、一夜城の別名で有名な城です。当時は現在とは河川の流れが異なっていて、東から木曽川、西から犀川・五六川・糸貫川・天王寺川が合流しており「洲の又」のような状況であったようです。信長は斉藤竜興の時代に美濃に対する攻勢をより一層強め、当時適地である墨俣への築城を命じました。佐久間信盛、柴田勝家の失敗の後、三番手の藤吉郎が見事築城に成功し城将に任じられたとあります。
(とはいえ信長公記には記載が無く、「武功夜話」などに記されている御伽話の類かも知れません)
現在は大垣城を模した模擬天守が鎮座していますが、城址碑や案内板しかない城より、はるかに賑わっているのも事実であります。

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しんちゃん

鯉のぼりが宙を舞う。 (2024/04/14 訪問)

更木陣屋は江戸時代にこの地を治めていた徳山氏の陣屋です。戦国時代、徳山則秀は柴田勝家、前田利家に仕え、関ヶ原の合戦では東軍につき、その功績として徳山郷と各務郡を領したそうです。
陣屋跡はよさげな公園になっており、地元の人の憩いの場になっているようです。建物跡の区割りをうまく利用して花も植えられており、この日は鯉のぼりが舞っていました。もうそんな季節なんですね。

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さといも

下の石垣 (2024/03/13 訪問)

 岡山城の地下に宇喜多秀家時代の石垣があり、その上に幾層もの地層のように遺構が時代とともに積み重なっているのが表示されていました。また、天守下に行ったら、塩蔵下に積まれた石垣は、上の古い時代の石垣を支えるために作られたという説明もありました。初めて知る事ばかりでした。

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さといも

今は自動車学校 (2024/04/24 訪問)

 鎌倉初期から続いた新津氏の居城があったという標柱が、新津自動車学校の敷地に立っています。付近に駐車場はなく、車では行きにくいかもしれません。

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