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朝田 辰兵衛

公園化されてることがこんなにありがたいとは… (2024/04/29 訪問)

2024年GW前半の攻城はクセ強なお城を巡りましたが,当たり前に公園化されてることがこんなにありがたいとは…と感謝しながらの散策でした。地元の方たちの散歩コースになっているようでした。

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しんちゃん

小沢城と枡形城の間に存在 (2024/01/27 訪問)

寺尾城は周囲を住宅地に囲まれた高台に築かれていたようです。周囲には竪堀と見られる遺構や、曲輪らしき扁平地が見られます。
城主は寺尾若狭守とされ、小田原北条氏に仕えてからは、諏訪氏を名乗ったとされています。不明な点が多いですが、小沢城と枡形城の間を繋ぐ「伝の城」の役割を担っていたともされています。

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しんちゃん

眺望よし (2024/01/27 訪問)

枡形山の山頂に枡形城は築かれていました。建久年間(1190~1199)に稲毛三郎重成によって築かれたとされ、永正元年(1504)伊勢宗瑞と今川氏親が枡形城に入り、ここから立河原の戦いに向かったとされています。
現在は展望台が建てられ、周囲を良く見渡すことが出来ます。付近には川崎市岡本太郎美術館など複数の施設が有り、一日は楽しむことができそうです。

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カズサン

妙徳寺裏に空堀・土塁が残ってる (2024/06/07 訪問)

 長者山城を終えて西に約5.5km程、多良埼城主目的常陸未踏の城探訪4城目加倉井館を初探訪。

 駐車場:妙徳寺東裏の参拝者駐車場利用(36°23'28"N 140°22'39"E h=40m)、通り沿いに妙徳寺参拝者第一駐車場有り。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 妙徳寺東裏の駐車場に入る時には北側に横空堀が伸びて居り、間を切られて車道に成っている、余湖図コレクションさんの俯瞰図には北東から南に折れて横堀が繋がってるが民家、屋敷が有り踏み込めず。妙徳寺本堂に参拝し、南へ日蓮上人像、山門南前堀川北前石橋横に加倉井館石碑が立っている。

 余湖図コレクションさんの説明文によると。
 加倉井館は鎌倉御家人の波木井実氏によって築かれ、彼は後に加倉井氏を名乗る事に成る。後に加倉井氏は江戸氏5家老の一人となった、天正年間に佐竹氏の勢力が強まり、江戸氏はやがて滅ぼされ、加倉井氏も運命を共にする。
  

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零汰

比石館:北海道檜山郡上ノ国町館野 (2024/05/23 訪問)

比石館はもともとアイヌのチャシだったものを館城として改修したものだそうです。遺構としては根元に薄っすらと堀切かと思える部分があります。端部に土塁と思えるところもありましたが確信はありません。こちらは遺構云々より断崖絶壁の景色を楽しむのに適しています。当日は風が強くくびれ部の歩行も恐ろしく先端に行くこともできませんでした。

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にのまる

何度でも!短時間でも!! (2024/06/21 訪問)

今回はは只見線と磐越西線完乗旅の途中での訪問でした。
地元駅を始発で出発し、最大限の滞在時間を確保したものの、次に控える只見線が座席争奪戦必至のため会津若松城見学時間は駅との往復を含めて2時間程度。そのため鶴ヶ城城址公園内のみの見学となりましたが、天守内も空いていてじっくり展示を見られたし、公園内のお気に入りのポイントをまわることもできました。また新たな気づきもあり、短時間でも行けてよかったです。

昨年大雨の中でしたが、一日かけて甲賀町口門や阿弥陀寺の移築櫓、天寧寺口土塁の方まで足を伸ばしていたのも今回の気持ちの余裕に繋がったかと思います。やはり“行ける時に行っておく”。これすごく大事なことだなぁと思いました。

会津若松城はこれで7回目。
100名城の中では江戸城(数えていない)、八王子城(8回)に次いで多く訪れています。食べはぐれたソースカツ丼は新潟に持ち越しとなりました。

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カズサン

那珂川北東に突出た崖城 (2024/06/07 訪問)

 多良埼城跡を終えて西に地道を約14km程の長者山城へ初登城。

 駐車場:無し、一盛長者伝説地石碑の奥の民有地砂利道横に路駐(36°24'38"N 140°26'03"E h=40m)
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 私有地内と言うことで、主郭まで北に伸びてる砂利道範囲内で遺構を観察見学、手前の石碑「一盛長者伝説地」側文も読み撮影、3郭、2郭の南切岸、2郭の西側の土塁跡、主郭の空堀と土塁、此処がよく残って居る、私有地である事、持ち主が現れたら声掛けして見学を頼もうと思っていましたが人影も無く、空堀の奥、土塁の奥には踏み込みませんでした。
 砂利道から西は太陽光発電のパネルが並び金網フェンスで囲まていて入り込めず、西側の点在してる土塁の撮影は金網フェンス越し。

 立地は那珂川に北東突出た丘陵崖に曲輪と堀、土塁で3郭連郭式、西に側郭4の構造の様です。主郭の土塁、堀は良く残って居ます。

 歴史的には石碑側文によると
 長者山は源義家によって滅ぼされたと言う一盛長者伝説地である。後三年の役の前後の豪勢な歓待に富豪の実力を恐れて後日の災いを恐れて滅ばしたとの伝説ですが、実際はどうなのか?義家も奥州の前九年、後三年の役で奥州豪族の実力に恐れていたのでしょう、その直後でしたから関東の豪族に恐れたのかも?

 ただ城郭の土木作業は平安末期ではなく、戦国期江戸氏の頃の遺構だそうです。
 
 良い空堀に土塁を観察見学させて頂きました。
 

 

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イタさん

背後の山を借景とする大名庭園 (2024/06/27 訪問)

織田氏により造られ、群馬県に唯一残るた大名庭園(楽山園)と載る。
中門横、武家屋敷跡近くに無料駐車場がある。高橋家の武家屋敷庭園、松平家大奥の庭園と見学可能だが、高橋家はお住まいされている。先で喰い違い郭の案内があり、開口部の先は石垣が折れている。中門内側は枡形になっている。先に空堀・土塁(復元)があり、左手が地泉回遊式庭園、土塁側に熊井戸があり、辺りは熊井戸氏の館跡があったと、標示されている。御殿跡などは平面表示されている。

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赤い城

駅近物件ではあるが (2024/06/16 訪問)

JR蔵本駅から徒歩数分、マンションの片隅に城主を祀った祠と説明板があります。
駅北西部一帯が城跡とのことですが遺構は残りません。
西側を流れる田宮川が外堀として利用されていました。

線路南側の八坂神社、地福寺も「城ノ内」と呼ばれていることからこの辺りも城域だったようです。

それにしてもここのマンション、住んだら城主気分を味わえるのかな?

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シェル

新幹線を途中下車し、いざ駿府城へ!! (2024/02/26 訪問)

 福井遠征からの帰り道。旅の締めくくりとして、静岡で新幹線を途中下車し、初登城!!
 JR静岡駅から徒歩15分。
 訪問日は月曜日で巽櫓・坤櫓は休館していたため、100名城のスタンプは、静岡市役所16階の歴史文化課で押印。エレベーターで16階まで行くと、目の前に貼り紙で設置場所の案内があり、それにしたがって歴史文化課の方に行くと、窓口向かいの棚のところにスタンプが設置されていました。
 スタンプ押印後、静岡市役所側から攻城。大手御門→東御門・巽櫓→本丸堀跡→徳川家康像(家康手植のミカン)→天守台発掘現場→坤櫓→二ノ丸橋→二ノ丸御門跡の順で見学。
 まず静岡県庁前に大手御門跡(桝形)があり、巨大な水堀と石垣が県庁前にも広がっています。駿府公園東側の東御門・巽櫓側から公園内へ入りました。 
 写真では何度も拝見していましたが、巽櫓を実際に見ると想像以上に巨大で驚きました!!
東御門は内桝形構造で規模も大きく見ごたえがありました。東御門から入るとすぐに本丸堀(内堀)の一部があります。本丸堀は明治に埋められてしまったようですが、平成の発掘調査で姿をあらわしたとのことです。本丸堀から北西寄りに進むと、徳川家康の銅像とそのそばには家康公御手植えのミカンの木があります。
 そして今話題の天守台の発掘現場へ
 家康像の裏手から、天守台に発掘現場への入り口があり、そこから入場。天正期の石垣、慶長期の石垣などが発掘されており、加えて今川氏時代の遺構も発見されているようで、とても驚きました!!
 それぞれの発掘地点にはカラーコーンが設置されていて、とても分かりやすかったです。 
 つづいて、天守台の発掘現場から南に進み、坤櫓へ。坤櫓も規模が大きく、見ごたえたっぷりです。坤櫓からは東に進み二ノ丸橋を渡り、堀沿いを西に進み、二ノ丸御門跡の対岸へ。
 二ノ丸御門跡は、かつての門の部分が埋められており、対岸からみると石垣の積み方が明らかに異なっているので、とても興味深かったです。

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イタさん

中大塚城・群馬県藤岡市中大塚 (2024/06/27 訪問)

案内板のように東西の郭があったようだが、西の郭に遺構が見られる。高山御厨を治めていた高山氏の分家、小林氏の城館であったと考えられる、と載っている。南・西・北に土塁・堀が見られる。東側の遺構は消滅してるが、千手寺境辺りに土塁・堀があったようだ。内部は民家が建つ私有地で遠慮をする。なお案内板に所有者が小林さんと記されており、御子孫が住んで居られるのだろうか。

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T-Shionoya

岩略寺城探検 (2024/03/03 訪問)

昨年の安城歴史博物館の企画展で興味を持ち、今年3月に訪れた愛知県豊川市の岩略寺城。

東三河と西三河の境界となる山地の東側。
東海道沿いの比高約100mの通称"城山"に、山頂から5筋の尾根の中腹に掛けて堀切や曲輪を配置した城。

築城時期や城主は定かでないが、今川氏や松平氏が戦略拠点としてきたというエリア。
現在残る遺構は県内最大級の広さで、桶狭間以降に家康が改修したものとも考えられています。

南曲輪の裏まで車道が通じており、麓の動物避けの柵を開け進入すると、道路の状況は意外と良好。
しかし山の斜面は急峻で、曲輪1段1段の高低差が大きい点は、西三河側の三河山中城と似た印象。
三河山中城と比べると堀切や竪堀が少ないが、三日月堀と武者隠しは特徴的。

西から順に各尾根をじっくり巡り、最後に土塁が残る本曲輪へ上がると2時間半。
更に、石碑が建つ麓の長沢城跡も含めると滞在時間は3時間越え。
先週投稿した大給城に続き探検気分を味わえた、私の城郭巡りの177城目でした。

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朝田 辰兵衛

中原支援学校と3つの古墳と… (2024/04/28 訪問)

東急東横線の元住吉駅から徒歩で攻城しました。団地内に入ったらとても急峻な登り坂となり,高齢になったらこの団地では生活しづらいだろうな…と思いました。
坂を登り切ったところに中原支援学校が鎮座。裏のグランド奥に神庭緑地があり,3つの古墳と立入禁止のいかにも怪しい竹林がありました。御殿エリアか馬溜りか…。発掘調査をして,その出土品で特定できるのではないかと思います。この竹林は,赤い城さんも怪しく思われていたようでした…。

余談ですが,チャキチャキの江戸っ子や越後人は「い」と「え」の発音が逆転します。道案内でそんな人に遭遇してしまうと,横浜の「荏田城」を紹介される可能性があります。また,その逆もあり得るでしょう。予備知識として頭の片隅にでも入れておいて損はないかと思います。

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コウマくん

混んでいても絶景 (2024/04/28 訪問)

GWに行きました。
混んでいても90分待ちだったので天守閣には登りませんでした。でも本丸庭園からの黒い優雅な天守閣が見れて混んでいても行く価値ある名城ですね

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しんちゃん

淵辺義博 (2024/01/27 訪問)

淵野辺城は南北朝時代に淵野辺村の地頭だった淵辺義博の館とされ、高台の住宅地に石碑が立っています。頂部は第2導水ずい道淵野辺接合井とされフェンスに囲まれており、そのあたりが城址だったのではないでしょうか。
淵辺義博は足利義直配下で義直の命で護良親王(大塔宮)を殺害した人物とされており、駿河の手越河原で新田軍と戦い戦死したとされています。

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しんちゃん

さざえ堂 会津若松市 (2015/05/02 訪問)

栄螺堂(さざえ堂)は白虎隊自刃の悲劇で有名な飯盛山の中腹に建っています。「旧正宗寺三匝堂」が正式名称ですが、たいがい「さざえ堂」の方で通ってます。六角形の特殊な構造の中に二重螺旋構造の斜路が続いています。斜路には和歌山城の御橋廊下のような滑りどめが付いています。
飯盛山の山頂には白虎隊の少年隊士の像があり、鶴ヶ城(会津若松城)の方を覗いています。麓にある戸ノ口堰洞穴は猪苗代湖北西岸の戸ノ口から会津盆地に水を引くための用水で全長31kmに及びます。慶応4年(1868)の戊辰戦争の時、戸ノ口で敗れた白虎隊中二番隊20名が潜った洞穴とされています。

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ひろ

七尾城 (2024/06/30 訪問)

七尾城

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零汰

トンネル貫通している岬上 (2024/05/23 訪問)

こちらもトンネル上の岬が目的地です。トンネル周囲には登る場所は見当たらず根元の旧道へ向かいましたが住民の方々がいて気まずくて通り抜けました。カムイチャシの様に階段などあると良かったですがそういう設備が無いと訪問は厳しい場所でした。

数日後、男鹿半島の双六館に訪れた際にもトンネル上の岬でしたが旧道には軒並み住宅が建っており登り口など見つかりません、九州でもトンネル付岬城郭は1か所見る事が出来ませんでした。たまたまかもしれませんがこのタイプの城跡訪問とは相性が悪いようです。

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カズサン

北に伸びる半島状丘陵に四連郭式城郭 (2024/06/07 訪問)

 昨年11月に甲斐武田氏発祥の地武田館を初登城し、パンフレットに近くの多良埼城跡も紹介されていましたがその時点では他の探訪計画が有り、認知しただけで終わりました、今回の城探訪企画で多良埼城と水戸周辺未踏の城と合わせて実施し、飯沼城から北東約25km程の多良埼城初登城。

 駐車場:多良埼城跡登城口前に路駐(36°25'50"N 140°34'24"E h=20m)
 参考資料:城郭放浪記さんさん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 北関東道の終点に近いひたちなかICより北に勝田ゴルフクラブを目指し県道31号線を西進、勝田ゴルフクラブを少し過ぎて北に伸びる舗装された道を登ると約800mで登城口に着きます。道は樹木が茂りトンネル状態、余り交通量は無い。
 登城口に解説板、石碑、石垣の入口、登ったり降りたりし途中に赤い看板で一の木戸、二の木戸が有る、一番高い所が本郭、閉鎖されてる駐車場から登って切る道と交差した処を本郭に入る、虎口大手門に成っている、方形の大きな郭、南東、南西に隅櫓跡と案内図に有ったが良く分からないが太い土塁です、周囲は土塁が囲み西側には内側に堀?溝?が南北に通ってる、北の虎口を通て二の郭へ北側は高土塁と堀が有る、二の郭も周囲は土塁、本郭より狭い、北の虎口から三の郭へ、北側は高い土塁と堀が有る、三の郭は三角型で北が細く狭い平坦地、狭い道を北の先端へ四の郭で細長い郭、北西に塚の様な土盛り案内板によるのろし台?か良く分からない。四の郭にはツツジが植栽されて刈り込み生垣の様になっているが周囲の樹木が高く見晴らしは良く無い、先端に多良埼城跡付近の城館跡解説板が立っている。本郭が高く逓減されて二の郭、三の郭、四の郭、四の郭から郭の東側に登城口までの道が繋がっている。

 6月初めで樹木は茂り見通しは悪いですが冬の葉が落ちた時期には土塁、堀、各郭が良く分かり素晴らしい城探訪に成るでしょう、県道31号線からの林道のような道が樹木が茂り薄暗いので樹木伐採をして頂けたらありがたい。

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しんちゃん

松坂城 きたい丸と天守台 (2024/02/17 訪問)

きたい丸は本丸とほぼ同じ高さにあって、城の周囲を良く見渡すことができます。ここから本丸上段を経由して本丸に向かいました。「きたい丸」の名前の由来ですが、城主である古田重勝の子・重恒の幼名「稀代丸」に由来するそうです。かつては曲輪の各隅部に櫓が建っていたそうです。本丸上段には天守台が接合し、かつては三層の天守が建っていたとのことです。三重三階であってますかね?

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