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じゅんじん

新城城 (2018/10/06 訪問)

小学校になっています。陣屋跡でもあります。

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じゅんじん

本拠地 (2023/09/17 訪問)

静岡市民の本拠地。今川館になります。今回はライトアップ。

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じゅんじん

田中城 (2023/09/17 訪問)

家康さん鷹狩の地。鯛の天ぷらおいしいよってこの辺り天ぷら屋さんないじゃん!
土塁が残されています。

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小城小次郎

あの里見氏がいたのだそうだ (2023/02/11 訪問)

14世紀頃この地を領していたのはあの里見氏だったらしい。そして結城合戦で当主を討たれた後に安房に逃れた一族があの安房里見家になったとか。常陸でよく見る、集落全体を囲むような大きなお城だったようだ。

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シェル

空堀と土塁がたまらん!! (2023/09/03 訪問)

今回は車で登城
宇都宮から車で国道4号を北上し、上阿久津南の交差点から旧国道4号を道なりに進み到着。公園東側に駐車場、トイレがあります。 
鉄道を使う場合は、JR東北本線 氏家駅から、徒歩30分くらいです。
駐車場から坂を登り、少し行くと、早速二の丸北側の空堀が残っています。
そこから南に歩くと、最大の見どころである整備された本丸の空堀と土塁が!!
本当に素晴らしい土塁と空堀で、見応えたっぷりです!!
大手口から本丸へ 大手口には木橋も復元されています。
本丸を西に進み、本丸搦手を出ると、鬼怒川を眺めることができます!!
本丸搦手側からは空堀の堀底を周回し、二の丸南郭と二の丸東郭の間の辺りへ。こちらにも土塁が残存していました!!

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しんしんちゃん

古宮城のオマケじゃないよ・二の丸はキンモクセイの香り (2023/10/01 訪問)

亀山城は奥平氏の城です。奥平氏は武田信玄に従っていましたが、古宮城は武田氏が
奥平氏を監視するために築いたという説もあります。古宮城が有名になったので
亀山城は古宮城のついでみたいなイメージもあるかもしれませんが、本丸を中心に
周辺、特に南西側に多くの郭や腰郭を有しているなかなか規模の大きい城です。本丸の
周囲には土塁を良く残し周辺の郭にも土塁が一部残っています。本丸と二の丸の間は
北に竪堀が続き、本丸の南は大手が堀を兼ねた通路に繋がり、西側の虎口から本丸に
入ることが出来ます。またこの大手は二の丸にも続いているようです。実際に登城する
際には近くの道の駅に駐車し西側の登城道から直接登ることになります。
長篠城を守りぬいた奥平信昌は家康の長女亀姫を妻にもらい新城城に移ったそうです。
信昌の四男忠明は松平を名乗ることを許され上野国長根7000石→作手亀山17000石
→伊勢亀山5万石(中略)と栄転し寛永16年(1639)には播磨姫路18万石を預かる
までになりました。この地方で江戸時代初期まで城主が存在した城は珍しいそうです。
二の丸にはキンモクセイの木が植わっていて周囲に甘い香りを放っています。私の家でも
キンモクセイが大きくなりすぎて切った記憶があります。近所の家でも同様でしたが
ほおっておくとこんなに大きくなるんですね。

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ぴーかる

鯖江陣屋 (2023/08/19 訪問)

【鯖江陣屋】
<駐車場他>駐車場はなし。JR鯖江駅前駐車場に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>越前ちょこ城巡りの旅6城目。鯖江陣屋は1720年に越後村上藩から間部詮言が5万石で入封したのに始まる。それまでは鯖江は幕府の代官所が置かれている程度の場所でした。兄の間部詮房は6代将軍徳川家宣の側用人を務めて権勢をふるったが、8代将軍吉宗の時に老中職を解任され越後村上藩5万石に転封されます。間部詮言は兄の兄の間部詮房の養嗣子に入り家督を継いだあとに鯖江に左遷されます。現在でこそ、めがねの町として栄えていますが当時は寒村だったようです。
 上記コインPに駐車して、松阜神社に現存移築した受福堂御門に行って、次に万慶寺に移築現存した御用屋敷門に行って、説明板のある陣屋跡公園に行きました。南北に走るJRの路線から陣屋跡のある西側から高地になっていて坂を上がっていきます。陣屋の場所は高台にあったようです。

<満足度>◆◇◇

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しんしんちゃん

伝・信玄公狙撃着弾場所 愛知県新城市豊島竜谷1 (2023/10/01 訪問)

愛知県新城市の野田城の西にある法性寺の山門は野田城の門を移築したものと
伝わります。この法性寺の南西は小高い丘になっていて、野田城を攻めた
武田信玄の陣所があったものと推測されます。法性寺から案内板に沿って
階段を上がっていくと丘の上にたどり着き、そこに信玄公が撃たれた場所の
案内板があります。野田城から村松芳休の笛の根に聞きほれていた信玄を
鳥井半四郎という鉄砲の名手が狙撃して傷を負わせたと案内板には記載があります。

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しんしんちゃん

だいぶ涼しくなってきたが野田城は熱い。 (2023/10/01 訪問)

このたび久々に野田城に行ってきました。野田菅沼氏の城で、武田信玄が最後に
攻めた城として有名です。郭が南北に連結していて、本丸の北に二の丸、三の丸と
続きます。古図にはその先に馬出しがあるようですが現状は藪で遺構はみあたりません。
東と西に川が流れ弱点となる本丸の南側は土塁で防御していますが、古図では枡形を
備えていたように見受けられます。
本丸と二の丸の間は大きな堀切で阻まれ土橋がかかっています。本丸の周囲と二の丸の
南側には今でも土塁が残っています。本丸南側に大きな井戸が残り、武田方の手勢に
この井戸の水を抜かれ開城にいたったという伝説が残ります。もう一つの伝説である
信玄公狙撃の場所も本丸の西端に残っています。三の丸周辺は以前訪れた時より発掘が
進んでいるように見えます。野田城のもう一つの弱点である三の丸北側も土塁が西から
北東へ続いており西端には三日月堀が土塁と連結するように配されています。
ただこの三日月掘は西南側へ張り出すように付いていて用途がいささか不明です。
三の丸の東には土塁と切岸の間に武者走りがあって二の丸に続いています。三の丸の
北側の土塁は両側に堀があったようで、三の丸は二の丸より高所にあります。
想像していた以上に防御力が高そうな城ですが、まだまだ不明な点が多い城です。
300の手勢で数万の武田勢相手に20日間耐えた秘密はさらなる調査の進展によって
明らかにされるかもしれません。

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じゅんじん

よし吉 (2023/09/17 訪問)

部長なんですね。かわいい!

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じゅんじん

城主は? (2023/09/17 訪問)

2年ぶりです。今回は御城主様に会えませんでした。

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じゅんじん

改修後 (2023/09/17 訪問)

改修が終わり登城。まだ土塀は補修中でした。木のお城はいいですね。

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じゅんじん

掛川古城 (2023/09/17 訪問)

今川 徳川攻防の地です。西郷の局(どうする家康 於愛の方 広瀬アリス)の碑がありました。

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しんしんちゃん

門や土塁・池泉が再現され見ごたえがある。 (2019/12/30 訪問)

大内氏館は現在龍福寺の境内になっております。館は方形をしていますが斜めに45度傾いた
状態で、南西側に復元された西門が備わり石組溝が再現されています。館の周囲に土塁や堀が
再現されていて、東の隅部には池泉庭園が発掘・再現されています。案内板によると、
大内氏24代弘世が正平15年(1360)ごろに大内御堀より当地に館を移したとあります。
かつては京を凌ぐほどの富と文化を誇ったそうですが、天文20年(1551)31代大内義隆が
重臣陶晴賢の反乱によって滅び、その陶氏を討った毛利氏によって、大内氏の菩提を弔うため
かつて館のあった当地に龍福寺が建てられたとされています。

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しんしんちゃん

瑠璃光寺  山口市香山町 (2019/12/30 訪問)

瑠璃光寺は枕流亭のある香山公園を境内とし、全国でも九基しかない国宝の
五重塔があります。大内義弘が建立した香積寺が前身で、五重塔は義弘の弟の
大内26代盛見が築き始めましたが、盛見も永享3年(1431)に戦死し、五重塔は
嘉吉2年(1442)に完成したとあります。五重塔は日本三名塔にも数えられるほど
美しい形状をしており仏舎利の代わりに大内義弘の柩が収められているとの
言い伝えがあるそうです。

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しんしんちゃん

山口城ゆかりの史跡・枕流亭ほか (2019/12/30 訪問)

毛利敬親の山口移鎮に合わせて整備された山口城(屋形)の近くには、なかなか興味深い
史跡が多く存在します。枕流亭は旧家安部家の離れ屋敷で薩長同盟を結んだ西郷隆盛や
大久保利通、小松帯刀らが木戸孝允、品川弥二郎、伊藤博文らと密議をした場所と
されています。露山堂は毛利敬親が政事堂の一角に建てた茶室で、密議の場所としても
機能したとされます。廃藩後移築され朽ちるに任せていたのを、かつての敬親の重臣
品川弥二郎が買い取り、明治24年に当地に移したそうです。香山墓所は萩藩主毛利家の
墓所で、墓所の前の石畳みはうぐいす張りの石畳と呼ばれ、どういう仕組か墓所の前で
手をたたくと、すかさずカンカンと音が跳ね返ってきます。

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織田晃司

隈府城跡に建つ (2023/09/16 訪問)

菊池神社。参拝者駐車場から本殿に向かう参道には大きくて深い空堀があり、見ごたえあります。

隈府城最後の城主は菊池氏家老の隈部親永。
信長の野望で二階堂盛義と共にひょえ〜顔で有名な武将です。

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しんしんちゃん

毛利敬親の山口移鎮後の山口県の中心。 (2019/12/30 訪問)

山口城は幕末、毛利敬親らが維新(攘夷)を達成するための拠点として築き、背後に高嶺を
負い、水堀を要していました。藩内では山口屋形で通していましたが、藩外からは山口城と
呼ばれていたようです。この後、長州藩は下関戦争での敗戦と三条実美らの七卿落ちを経て、
元治元年7月、禁門の変を引き起こし、幕府による第一次長州征伐を受けることになります。
この一連の流れで、敬親父子は萩に退き山口城は一部破却を受けることになったとされます。
第二次長州征伐では長州側の拠点として機能し、明治維新後は山口藩庁と改称され、後に
県庁となり、その際に旧来の建造物はすべて解体され今では表門と堀の一部が残っています。

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織田晃司

前川水源に (2023/09/16 訪問)

車を停め、湧き水を汲んで飲み水確保して登城。
復元ながら備前堀は見事。

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イタさん

武士城(群馬県伊勢崎市境上武士) (2023/09/25 訪問)

 伊勢崎市境町関連のHPを見ると、岩松氏の陣僧・松蔭が残した文献[松蔭私語]の内容に多く拠るらしい。岩松明純(岩松家純の子)が拠った城である。文明9年(1477)長尾景春の乱の際、山内上杉勢の籠もる五十子陣は景春の軍勢に包囲され陣を撤退する。岩松明純は上杉勢として戦うが、金山城に退く時に一時武士城に入る。利根川を挟んだ南5㎞ほどに五十子陣はあり、乱の際に取り立てられた陣城であったものといわれる。北条氏時代は金山城主由良氏の家臣根岸三河守の居城だったが、豊臣秀吉の北条攻めにより、金山城は落城し武士城も廃城となる。保育所の西にある堀は堀跡で、元は北に延びており、水遊びや魚捕りをしたらしい。今も御嶽山の東に[舛形]という小字名が名残りである、と記されている。
 広瀬川と粕川の合流点にある高台。地元では御嶽山(オンタケサン)と呼ばれているらしい。福祉センター・特養ホームの間に、境御嶽山自然の森公園の駐車場が設けられている。公園内は2段程の段差があり、郭として機能していたのだろうか。遺構と分かる明確なものは見当たらない。南の斜面に虎口跡を思わせる地形があるが不明。保育所の西に堀跡・・云々とあったが、訪問時情報が無く確認していない。訪問時園内はほぼ全域に曼珠沙華が咲いており、見学者が多く散策していた。

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